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2017/05/31

「甘える」 ことと 「甘え」 の違い

「甘える」 ことと、「甘え」 は違う

 

「甘える」 ことと、「甘え」 は違う。これは、自分の言葉ではなくて、何方(どなた)からか聞いた言葉なんですが、まさしくそう。

 

「甘え」 とは、「依存欲求」 です。

 

「甘え」 の起源は、「乳児と母親」 の関係に遡(さかのぼ)ると言われています。

乳児のときに、母親が自分から離れていくという体験を通じて、母親とは自分とは別の存在であることを認識し、そして、母親との一体感を求める気持ちが 「甘え」 の起源となっているそうです。このため、「甘え」 と同時に、他者に対する 「人見知り」 も始まると言われています。

そして、「甘える」 ことが許される関係と、「甘え」 が許されない関係を学び、また、「甘える」 ことが出来る関係にあっても、そこに、「第三者の立場」 にある人が絡んだり、「第三者の視点」 が持ち込まれると、「甘え」 が通じなくなる、といったことを学んでいくそうです。

 

しかし単に、「甘える」 ことと、「甘え」 は違う、と言われても、良い意味で 「甘える」 ことが下手な人も少なくないので、実に誤解を与えやすく、かつ、難しい言葉です。

「甘え下手」 の反対語は 「甘え上手」。すなわち、「甘え上手」 な人は、きれいな甘え方ができるということで、きちんと 「甘える」 ことと、「甘え」 の違いを理解している人なわけです。
一方の 「甘え下手」 な人はと言うと、さきほど ”良い意味で” と修飾しましたが、良い意味での 「甘え下手」 な人と、悪い意味での 「甘え下手」 な人に分けられます。

良い意味での 「甘え下手」 な人とは、人に甘えられない人のことであり、悪い意味での 「甘え下手」 とは、人に甘えてばかりの 「依存体質」 の人のこと。

 

世間一般で 「問題視」 されるのは、悪い意味での 「甘え下手」 の人達の方ですが、しかし、良い意味での 「甘え下手」 の人達だからといって安心しないで下さい。

「甘え下手」 であるよりは、「甘え上手」 である方がずっと良いのです。

 

「甘え下手」 と言うからには、やはり、いずれにしても、感情のコントロールがあまり上手くないということです。人は十人十色、百人居れば百様です。「甘え下手も個性」 と言われてしまえば、それまで。

しかし、「甘え」 は、何(いず)れにしても 「他人との関わり」 に関連する問題であるだけに重要です。

 

SM を愛好する者の視点から感じること。それは、良い意味での 「甘え下手」 の人に、「感情の抑制傾向」 が多く見られるということです。

そして、どうもその感情の抑制が、女性が 「イク」 ことを阻害しているらしいということです。

 

自分でする分には 「イける」 のに、男女のセッ○スとなると 「イけない」 という女性は、少なくありません。

「イけない」 女性の場合、女性器の神経の発達度合いや感度も関係する場合もありますし、心がブロックしてしまっている人も少なくありません。

そういう女性は、自分でする分には 「イける」 ので、「いつか、イけるでしょ・・・」 と軽く考えるようですが、人間とは、自分の身に付いたクセを直すのにも一苦労しますが、それ以上に性格を変えるなんていうのは至難(しなん)の業(わざ)、なわけです。

まあ、女性がイけない理由には、他にもたくさんあって、割合的には、自分のパートナーの道具や技術力の問題、あるいは、お互いの気持ちの問題等、相方(あいかた)に問題がある場合も少なくありません。

 

最近流行(はや)りの 「ゲスの不倫」 ではありませんが、パートナーを変えてみた途端(とたん)、相手の道具が奥に届いていなかったことを実感する女性も少なくはありませんし、夜の営みが、「入れて、腰を振って、出しておわり」 みたいな、男性的?なセッ○スであれば、余程(よほど)秒速でイクことの出来る女性でない限りは、イケなくて当たり前なわけです。

 

お互いに愛し愛され 「結婚」 したのであれば、男だから女だから、あるいは、お父さんだからお母さんだからなどと、どちらか一方の型にはめるのではなく、お互いが相手を思いやり、そして、相手を気持ち良くしてあげようという気概(きがい)も大切ですが、それと併(あわ)せて、お互いに 「上手に甘えること」 が大事だと思います。

 

(つづく)

2017/05/30

日曜縄ゴト師(2)

煮てさ、焼いてさ、喰ってさ・・・ではありませんが、

切り出したあとは、煮ます(笑)

「煮なめし」 と言いますが、麻縄の多くは、鉱物油を使って縒(よ)られているので、石油臭いニオイがします。このため、お湯で煮ることによって鉱物油を煮出すのと同時に、縄を柔らかくします。

 

 

お湯を湯でこぼし、煮た縄は、新聞紙に包んで、洗濯機で脱水します。

やはり、洗濯機の脱水機で脱水するのが楽です。

そして陰干(かげぼ)しします。

 

2017/05/28

今を生きる -「後ろを振り返ってはならない」 の意味

過去に捉(とら)われてしまっている人が、結構います。

 

その過去が、自分の人生にとって大きなものであれば、あるほど。そして、その時間が長ければ長いほど、ブラックホールのように重力が働き続けます。

 

あの時は良かったと、過去の栄光や栄華あるいは幸せだった過去から離れられない人
あの時、こうしていればと、いつまでもクヨクヨしている人
そして今なら、まだ過去に戻れるかも知れないと、立ち止まってしまっている人

人生もそうですし、男女関係においても同じこと。

戻れない過去に、いつまでも執着している人は、道の半ばで立ち尽くし、背後を振り返りながら放心しているようなもの。
戻れたとしても、戻ってみて、そこで目にするものは、自分が居た当時の 「過去」 ではなく、自分がいなくなったあとの 「現在」 なのです。

大事なのは、過去に捉われている限りは、背後を振り返らずに、夢中で走るということです。
そして、過去を 「過去」 として完全に消化できたときに、自分の人生を振り返って、過去に感謝するもよし、いっときの甘美な 「戻らぬ時間」 に酔えばいいのです。

旧約聖書の 「創世記」 に 「ロトの妻」 という逸話(いつわ)があります。
SM には縁の深い? 「ソドムとゴモラ」 に住むロトは、妻と二人の娘を連れて、街を脱出しますが、

「命がけで逃げなさい。後ろを振り返ってはいけない。」

と 「主」 に言い付けられていたのにもかかわらず、ロトの妻は、街が破壊される轟音(ごうおん)に驚いたのか、後ろを振り返ってしまい、「塩の柱」 になったとされています。

この逸話が 「事実」 かどうかなんて、どうでもいいことです。

大事なことは、過去に捉われず、後ろを振り返らずに、とにかく、今を一生懸命に生きるということです。

2017/05/26

女性が新しく始めたいこと1位は 「浮気」 (2)

以前に書いた記事 「女性が新しく始めたいこと1位は 『浮気』」 では、渡辺謙や葉加瀬太郎の密会?ネタについて論じましたが、自分よりも、もっとサラリと上手く表現している記事があったので紹介します。

 

最近は、AV なんかはほとんど見ていませんので、この 「大島渚」 ではなかった 「大島薫」 という子の出演作品も、まったく存じませんが、この子は、男性なのに 「AV女優」 というヘンテコな子で、「性同一性障害」 的な要素があるわけでもないようなのですが、「若い男子」 であるのにもかかわらず、結構 「女性の心理」 については的確に把握しているので、この子のコラムは、どれをとっても、なかなか秀逸(しゅういつ)で、いつも驚かされています。

 

 

 

「有名人の浮気発覚が連発中。だが、それは本当に 『浮気』 なのか?【カリスマ男の娘・大島薫】」

 

この記事に書かれている内容も、正論です。

 

普通の人達は、あたかも、性的な行為の有無が 「不倫」 や 「浮気」 になる境界線と認識していますが、実際の裁判においては、枕営業をしていたクラブの女性を訴えた裁判では、当人同士の間で肉体関係があったのにもかかわらず、原告側は敗訴していますし、肉体関係にはなかったのにもかかわらず、原告側が勝訴した裁判もあるのです。

 

民事においては 「不貞行為」 としての認定も去ることながら、「慰謝料」 の算出においては、権利が侵害されたことによって、客観的に、既得権者がどれだけ傷付いたかが問題となるわけです。

不貞行為は、恥ずかしいことではあります。しかし、犯罪行為ではなく、民事上の権利侵害に過ぎません。従って、それを責めることが出来るのは、権利を侵害された相方に限定されるわけです。

 

それが自分の信念であるのであれば、古い価値観に従って、最後まで 「操(みさお)を立てる」 ことが悪いわけではありません。
しかし現代は、社会のステレオタイプ的な 「美徳」 や 「価値観」 にはもう、捉(とら)われない時代へと移り変わりつつあります。

そもそも、女性の貞操(ていそう)も、戦前までは比較的自由でした。
開戦後、結婚した女性に対してのみ適用された 「姦通罪」 は、戦争に動因された旦那の留守中に、残された女房が遊びまくるのを防止するのが、そもそもの目的です。
江戸時代に適用された 「姦通罪」 は、男女共に罪に問われますが、しかし、その適用は武家および武家の使用人に限定されたものです。

昔は、「性」 にも寛容だったはずの日本の 「村文化」 ですが、今も多くの日本人の心に眠り、日本社会に巣食っている 「村文化」 は、人に対する優しさや慈愛的な要素が薄れ、あるいは、他人の否を許容しないという意味において、まるで昔の、共産主義が色が濃かった中国の 「四人組」 を彷彿(ほうふつ)させる 「相互監視社会」 に変化してきているように思います。

ただ単に、お上やマスコミから垂れ流される一方的な情報に流されるのではなく、みんな、それぞれの事情で、それぞれ考えて、自分の道を選べば良いのです。
 

この子も、きっと若者ではありますが、「不倫だ浮気だ!」 と叫んでは、メディアでボコボコにして晒す・・・みたいな現在の風潮に、辟易(へきえき)としてきているのでしょう。

自分は、メディアに迎合し、メディアに文句を言えない多くの人達に比べれば、この若者の視点は、とても純粋で、かつ、素晴らしいと思っています。

同種のコラム記事の中でも、どうでもいい記事が多い中で、この子の記事は、光を放っています。

 

今現在は、文筆家とのことですが、これから、なんか大きく芽を伸ばしそうな、そういう期待感を持たせる子です。

2017/05/25

みんなでたのしくうんぱっぱのぶんぶん

自分は、薄汚れたオヤジなんで、「岡崎体育」 なんてまったく知らなかったとです。

ひろしです・・・・・・・・・。
でも発音は 「しろし」 です・・・・・・・・(嘘)

 

 

音楽的には、あまり目新しい感はありませんが、この 「詩のセンス」 はスゴイ。素晴らしいの一言です。贅沢(ぜいたく)を言うなら、最後の 「give a fxxk」 は、せめて 「give a shit」 くらいにしておいて貰うと最高でしたが。

 

 

どうぶつさんたち だいしゅうごうだ わいわい

おいでよ ぶたさん うさぎさん きつねさんに ぞうさん

みんなで たのしく うんぱっぱの ぶんぶん

おなか ぽんぽんぽんの やっほー

ちーたーさんは かけっこじゃ まけないぞ

 

どうぶつさんたち だいしゅうごうだ わいわい

おいでよ わにさん もなかまにいれてあげて

みんなで たのしく うんぱっぱの ぶんぶん

おなか ぽんぽんぽんの やっほー

わにさん もなかまにいれてあげて

 

 

なかなかのセンスです。(笑)

チーターさんは、自分アピールしたい 「ナルシスト」 か 「自己中」。これに対して、ワニさんは、本能剥(む)き出しの 「ナンパ厨」 と言ったところでしょうか。

 

その人のセンスや内面を垣間見ることが出来て、そして、そこにブレがないと言うか、筋が通ってたりすると、それが 「生き様(ざま)」 に見えてきて、格好良く見えてくるから不思議です。

 

彼自身、決して 「イケメン」 ではありませんが(ファンの人の美的センスを疑っているわけではないので怒らないで下さい。あくまでも一般論^^;)、しかし、凛々(りり)しく見える。

ワニさんと言われると、思わず爬虫類顔の大御所である 「布袋さん」 を連想してしまいますが、まあ彼も格好良い。

 

結局は、自分のコンプレックスを乗り越えて、開き直る。自分のコンプレックスを隠そうとして、たくさんの鎧(よろい)を着込むのではなくて、本来の自分を出せるようになる・・・ということなんじゃないんでしょうか。

 

ワニさんも、単純にいっしょになって 「うんぱっぱの ぶんぶん」 して、「おなか ぽんぽんぽんの やっほー」 をしたかったのでしょう。

でも、ワニさんには、オオカミさんに、コブラさん、そして、カメさんが付いてます。それに、ワニさんのお相手は、世界最強の 「カバさん」 ですから、これでいいんです。(笑)

 

こういう 「新しいセンス」 に触れる度に楽しくなります。

教えてくれた人達に感謝。

2017/05/23

女性が新しく始めたいこと1位は 「浮気」

40代から70代の性事情を書いた日本性科学会セクシュアリティ研究会が発行の 「セックスレス時代の中高年 『性』 白書」(2016年)によると、一般的にも、不倫に積極的な女性が飛躍的に増加していることが調査で明らかになっているそうです。

 

また、20代から30代向けの婚活サイト 「愛カツ」 が今年3月に行った調査では、女性がこの 「4月から新しく始めたいこと」 では、「浮気・不倫」 が31%で第1位に輝いたそうです。

 

 

 

「女性が新しく始めたいこと1位は浮気 非カップル文化が原因?」 女性セブン 2017年6月1日号

 

 

もう、多くの人達は、マスコミによって作りあげられた、なんでも 「不倫」 を 「ゲス扱い」 して叩けばいいみたいな、一方的に価値観を押し付ける論調(ろんちょう)には、もう 「うんざり」 しているのです。カップルが 100 あれば、人生模様も100通りあるわけです。

 

「下衆(げす)の勘(かん)ぐり」 ではありませんが、有名人の浮気や不倫を穿(ほじく)り出しては、正義面(せいぎづら)して、ヒステリックにボコボコ叩(たた)く。

 

渡辺謙さんの場合、お相手は、北新地の高級クラブの元ホステスです。自分は仕事に偏見はもっていませんが、以前であれば 「水商売の女」 と言われ、公(おおやけ)の場で男女の仲を口外(こうがい)するなど、もってのほか。ホステスとしての気概(きがい)もプライドすらもない、女性なわけです。

謙さんの脇が甘かったと言えば、否(いな)めませんが、しかし、当事者の女性がリークした写真を元に、その女性に加担し、そして、私生活を暴(あば)き、不要に家庭を混乱に陥(おとしい)れ、俳優としての仕事にも多大な損害を与えているわけです。

 

もう、「ゲス不倫」 してる 「ゲス」 にも劣る 「クズ」ってな感じです。
 

そして今度は、高田万由子の旦那であり、世界的なバイオリニストである葉加瀬太郎。こちらの方はと言えば、事情を知る者であれば、皆、知っていたことらしいじゃないですか。こちらなんかは、もう 「確信犯」。

野暮(やぼ)を通り越して、ここまで無粋(ぶすい)なマスコミのクズなんかに比べたら、ずっと 「格」 が上です。

 

「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ」

とでも言いたくなるもんです。(苦笑)

***
 

所詮(しょせん)、何処を探しても聖人なんかいやしません。

 

しれっとした顔で嘘を通そうとしたベッキーや、国会議員としての立場を利用して、チャラチャラと遊びまわる宮崎元議員、そして、友人の嫁とW不倫の末、子供を孕(はら)ませたファンキー加藤なんかは、ある意味 「ゲス」 かも知れませんが、しかし、不倫は犯罪ではなく、あくまでも、民事上の権利侵害のひとつに過ぎません。

 

最初は誰しも、心をときめかせて結婚するわけでありますが、長年連れ添(つれそ)っていれば、粗(あら)も見えてきますし、ときめきも色褪(いろあ)せてきます。

家族としての愛はあっても、もうそこにはドキドキとときめく、男女の恋心は既にありません。

夫婦のレスが続き、あるいは、夜の営(いとな)みはあったとしても、毎回女性が置いてけぼりを食らっていては、女性が性に積極的になるのも、ある意味、当たり前。

 

女性にだって、気持ちよくなる権利はあるわけです。(笑)

 

この世には、100%完璧な人なんて、いやしない.

嫌いな旦那とは別れればいい。しかし、家族として旦那を愛することができるのであれば、あとは、自分のことは、自分次第。

せめて満たされない部分を、穴埋めしてもらいたいと願うのが、人情というもの。ある意味、ほんの少しの穴埋めのために、離婚するなんていうのは、大人気(おとなげ)ありません。

我慢できる人は、我慢すればいい。しかし、我慢した挙句(あげく)、自分の我慢を旦那のせいにするようじゃ、身も蓋(ふた)もありません。

 

「不倫しても家庭に迷惑が掛からなければいい」 と考える女性は、40代~70代の全世代で増えているそうです。

 

自分は、不倫をしても、「不倫によって、家族を傷付けてはいけない」 と考えています。

 

不倫が発覚したことによる慰謝料(いしゃりょう)。これは、不倫によって ”相手が傷ついたこと” に対する損害賠償なのです。

自分が下手を打ったことによって、相手に与えた損害を賠償するのは、交通事故でも一緒。

車の運転に自信のない人は、運転免許なんて取らない方がいいし、不倫において、隠し通す自信のない人は、やめておいた方が無難です。

 

お家で、揚げ物を揚げるのを嫌がる奥さんに、いくら 「とんかつを食わせろ」 と言ったところで、相手の機嫌(きげん)を損(そこ)ねるだけです。

そういう場合は、自分で揚げるか、あるいは、奥さんが、そもそも台所での揚げ物自体を嫌っている場合は、さっさと外出して、「とんかつ屋」 で、美味しい 「とんかつ」 をこっそりと食べてくればいいのです。

 

旦那のセックスの 「未熟さ」 をいくら相手に説明したところで、相手の機嫌を損ねるだけ。

全てにおいて、自分の相方(あいかた)に完璧を求めて、お互いに傷付けあっても、実(みの)りは多くありません。

 

相手の不完全さを許容し、自分の不完全さをも許す。そして、小さなことに、いちいち目をつりあげないで、その分、お互いに思いやりを持つ。そんなやり方もあっていいように思います。

2017/05/22

「小股の切れ上がったいい女」 とは

 

小股の切れ上がったいい女。

 

「粋(いき)な女性」 をあらわす、江戸時代の代表的な言い回しですが、では具体的に 「小股が切れ上がる」 とはどういう状態を言うのでしょうか?

実は、とある女性との会話の中で、つい使ってしまい、思わず 「はっ」 となってしまいました。何故なら、その意味を細かく聞かれたら旨く説明できないからです。(苦笑)

 

自分は何処でこの言葉を聞いたのでしょう。

昔は、テレビ番組なんかで寄席(よせ)なんかも放送されていましたし、時代劇の台詞(せりふ)にあったのかも知れません。あるいは、年配(ねんぱい)の方々と、杯(さかづき)を傾けているときにでも教わったのでしょうか。記憶は定かではありません。

 

***

 

自分的には、「小股の切れ上がったいい女」 と言われると、多分、足元に目が言ってしまうと思います。そしてチェックしてしまうのは、踵(かかと)から足首そしてふくらはぎにかけてのアキレス腱(けん)の部分でしょうか。弛(たる)んでる印象のない、締まってる感。

そこの筋がピンと張っていたりすると、アソコの締(し)まりも良いのかな?などと、つい、妄想してしまいます。(苦笑)

しかし、そこには他人から見えてしまう部分であるからこそ、きちんと、お手入れや、立ち居振る舞いなどには気をつけている。そして、見られることは意識するけど、見られていることは意識しない。

 

なんか、現代のファッションにも通じるものがあると思っています。

 

要は、今風に言えば、着こなしを含めて 「セックスアピール」 が上手い女性であり、それを自然に着こなすことが出来て、かつ、そこに嫌味(いやみ)のない女性。

しつこいアピールは 「野暮(やぼ)」 ですし、完全防備やフル武装も野暮。着崩(きくず)して、隙(すき)を作ってナンボなわけです。

そして自然体であるのに、立ち居振る舞いが美しければ、これに勝るものはありません。

要は、自分の素養(そよう)や能力を、見せびらかし、アピールしているようでは、まだ、「粋(いき)」 とは言えません。

 

そして、その 「隙」 から漂(ただよ)う 「色気」 が、多くの男性に、その女性の 「上質の股」 を妄想させる女性のことを、「小股の切れ上がったいい女」 と呼ばせたのだと思います。

***

この記事を書く前に、実は、いろいろとネットで調べてみました。(^^;)
そこで分かったことは、「小股が切れ上がった論争」 は、文壇の作家でも、結論を付けることが出来ず、いろいろと、諸説(しょせつ)あるということ。

「世界で一番受けたい授業」 で説明があったとされる 「小股とは、足の親指と人差し指の間」 を指すという説。これは結構、ネット上では総スカンを喰っていますが、多分、これは 「小股」 を、特定の人の部位に確定しようとしたことの反対意見でしょう。

辞書を調べてみると、「小股が切れ上がったいい女」 とは、足がすらりと長いことを言うとか、書いてあります。しかし、ネットにある多くの意見や反論で、誰も言っていないこと。
それは、「それを言っちゃあ、お仕舞いよ」 ってことです。(苦笑)
日本人は、魚介を除く、動物性たんぱく質が禁じられており、植物性たんぱく質に偏(かたよ)っていたためか、腸が長く、そもそも短足な人種ですので、現代のように、裸体の状態で、脚の長い女性を求めているわけではありません。
その証拠に、江戸時代の春画には、足の長い女性は登場しません。ww
むしろ、現代の 「ヒール」 ではありませんが、当時の花魁(おいらん)は下駄(げた)を履(は)いていますし、着物は、帯(おび)の位置と仕草(しぐさ)によっては、足がスラッと長く見える見せ方があるわけです。

要は、「小股が切れ上がったいい女」 とは、着衣状態における 「いかす女性」 に対する 「褒(ほ)め言葉」 なわけです。

当時の浮世絵には、頻繁に 「見返り系美人」 が多数登場します。

この絵なんかは、足元の裾(すそ)の V字ゾーンが 「切れ上がってる」 だけですが、しかし、その中身を連想してしまうのが男の性(さが)(笑)

 


「小股」 に含まれるニュアンスには、「大股」 ではない 「女性の慎(つつ)ましやかさ」 と同時に、「女性を褒(ほ)める」 気持ちが含まれているのです。
褒めて嬉(うれ)しくない女性なんか、この世にいません。(笑)

 

なので、それを、物理的に 「脚が長い女性」 と規定すること自体が、野暮を通り越して、もう 「無粋(ぶすい)」。(苦笑)

現代よりも、庶民のセックス文化が発達していた江戸時代。
花魁(おいらん)の世界には、いろいろと作法がありましたが、江戸の庶民文化で 「粋(いき)」 と言われた女性の場合、無粋(ぶすい)でない限りは、”男の誘いを断らない女性” でした。

「小股」 の意味は 「チラリズム」。(笑)

追伸

確かに 「草履(ぞうり)」 や 「下駄(下駄)」 の鼻緒(はなお)が食い込んだ女性の足元は、女性の 「お股」 を連想させます。足の指が、長ければ長いほど。(笑)
緊縛派には、「股縄(またなわ)」 を連想させますwww

 

 

 

 

【参考】

 

「『小股ってどこか』 よりも大切なこと 『よくわからない』 まま置いておく美意識」
「素朴な疑問集」
「『小股の切れ上がった女』 とはどんな女か?」
「小股が切れ上がったイイ女」 中日新聞プラス
「そのことば、江戸っ子だってね!?」
「『小股』は『足指の股』だけじゃない」
「小股(こまた)とは?」

2017/05/21

ゲスから見た 「若者論」

今日は、久し振りに某 SNS で 「バトル」 を致しました(笑)

 

まあ、バトルと言っても、大人げなく、ちょっと自己中な 「がきんこ」 をあしらっただけですが、お相手は、「タル坊」 ♂、33歳の独身さん。本人はオトナのつもりのようですが、既婚者部屋に入って来るのは、100歩譲(ゆず)るとしても、ここは、あなたが 「したい放題」 する場所ではなく、”みんなで楽しくお話をする” 場所なのです。(笑)

一方的な女性への語りかけは、周囲の人にとっては迷惑です。まあ、初心者かとも思い、最初は温かい目で見守っていましたが、一向に理解出来ないご様子。

あなたの 「ヘルペス」 の話なんて、趣旨は違うし、誰も聞きたくはありません。(苦笑)

 

 

眼中には全くないオヤジを 「おっさん」 と呼ぶのは勝手ですし、女性を口説くのは自由ですが、デリカシーのない男は嫌われますよ。

そもそも、楽しい会話すら出来ない男には、実際に会っても 「ちっとも楽しくない」 ことを多くの女性は経験していますし、コミュニケーション能力がない男に、「気持ちの良いセックス」 は出来ません。セックスとは、惹かれる男女の 「心と身体のコミュニケーション」 なわけです。(笑)

 

最後は部屋に篭城(ろうじょう)を決め込んでいましたが、それもあまりにも幼稚。

自分も他人のことは言えたもんじゃありませんが、30代の若い男が、50過ぎの薄汚れた 「おっさん」 にも適(かな)わないなんて、あまりにもヘタレ過ぎです。(苦笑)

 

「急がば廻(まわ)れ」。

 

世の中の多くの女性は、自分ばかり、先に気持ち良くなって、相手の女性のことを振り返らない、そんな男にうんざりしているんです。

敏感な女性であればあるほど、自己中心的な会話は、そんな女性の恐怖心を無意識にではありますが、煽(あお)るんです。

もてるためには、まずは、自分が気持ち良くなることばかり考えないで、みんなで楽しくなることを考えましょう。

 

しかし、仮想空間でマスタベーションしてる男性は、情けないものの、しかし、社会的な害も仮想空間に限定されるので、まだ良い方。

実際に世の中で困るのは、それと同じことを現実で行動に起こしてしまう阿呆な連中です。

 

いよいよ本題です。

 

「クラブで睡眠薬飲ませ集団暴行」

 

この阿部太克容疑者も、同じ33歳ですね。(笑)

苗字(みょうじ)の 「阿部」 は、ひとつ前の記事 「愛のコリーダ」「愛のコリーダ(2)」 で取り上げた阿部定事件の阿部と同じですが、これは単なる偶然です。(苦笑)

 

他の容疑者は容疑を認めているので、まだ 「素直」 でいいですが、この阿部容疑者は、「同意の上だった」 と否認している模様。

同意の上なら、そもそも、薬なんかを盛る必要もないわけですし、睡眠薬の入った酒を飲ませるまでもなく、睡眠薬を渡して、本人に飲んで貰えばいいわけです。(苦笑)

この構図から見てとれるのは、実態は、阿部容疑者は、大山容疑者のおこぼれに与(あずか)っていたのかもしれませんが、この阿部容疑者が 「けしかけ役」 で、10歳も若い大山大地容疑者(23)は、実行役的な 「ぱしり」 だった可能性が高いってことです。


阿部容疑者の供述は、明らかに論理が破綻しているのですが、こういう痴漢あるいは集団暴行的な性犯罪者に多いのが実は、「自己中心的」 な性格。本人はどうやら本気で 「同意」 や 「好意」 があったと認識している場合が、多いようなのです。

 

まあ、究極のマスターベーションみたいなものかも知れませんが、そもそも、無抵抗というか、意識すらなく反応すらもない女性と交わって何が楽しいのか、自分には理解できません。

 

 

若い子を好む人の場合、自分と同年代の異性には相手にされなかったり、あるいは、適(かな)わないという精神的な重圧を抱えている人達がいます。

自分の性器にコンプレックスを感じていたり、セックスが下手だったり、あるいは、上手くコミュニケーションが取れない人達です。こういう人達は、自分が抱えるコンプレックスから、まだ経験不足で 「違いの分からない若い女性」 に食指(しょくし)を伸ばす傾向にありますが、それにもまして、意識を失わせてしまうなんてのは、もう最悪です。

 

しかし、これは最近の兆候なんでしょうか?

 

 

「千葉大医学部生による集団強姦事件」

「慶応義塾大学 『広告学研究会』 による集団強姦事件」

 

そして、

 

「東京大学大学院生による強制わいせつ事件」

 

もそうですが、薬までは盛らないものの、意図的に酒を飲ませて酩酊(めいてい)状態にして、やってしまえ的な事件が多すぎです。

 

こうでもしないと、自分の性の欲求を吐けないのか。

それ以前に、こういう姑息(こそく)な手段を使ってまで、ということに対して、何の 「プライド」 もなかったことに驚きを感じます。

 

こんな感じの 「ノリ」 や 「甘え」 で、阿部定も強姦されてしまったのでしょうか。

もしかしたら、阿部定を手篭(てご)めにした男の子孫が、この中に居たりするのかも知れませんが、結局は、こいつら一括(ひとくく)りにするとするならば、ひとりで 「風俗」 にも行けないばかりか、女性ひとり、まともに口説くことすら出来ない。そして、一人の女性に正面から対峙することも出来ない 「臆病者」 かつ、もてない輩(やから)なわけです。

 

自分よりも弱い者。そういう者に対してしか、自分の本性を表すことの出来ない人間は、本当に性根(しょうね)が腐ってます。

そういう自分を自覚していて、尚且(なおか)つ、自分をどうしたらいいのか悩んでる人がいるのなら、男女の区別はありません。破滅する前に、自分宛にメッセージを下さい。

 

***

 

某 SNS は、3D的なビジュアル効果も手伝ってか、ある意味、社会のあやゆる人達をひとつの空間に寄せ集めることに成功した 「実験的な場」 として、自分はその意義を認識しています。

そして、その場から感じることは、やはり、他人を尊重できない 「自己中」 な人の弊害です。

単に 「やりたい男」 の 「ナンパ厨」 も、結局は相手のことなど一切尊重していない 「自己中」 の一種に過ぎません。

 

なので、それを自覚している人は、「この環境」 を通じて、自分を 「この環境」 に適合させてみることをお薦めします。

最初に紹介したバトル相手の 「タル坊」 が叫んでいました。

 

「お前も、最初は、がきんこだっただろう」 と。

 

おっしゃるとおりです。

なので、あえて否定はしませんでした。(笑)

 

「タル坊」 からすれば、「おっさん」 ですし、薄汚れたオヤジなので、「敬語を使え!」 みたいな強要は一切致しません。ましてや、「自分は何社を経営してる!」 とか、「いくらの資産を持ってる!」 みたいな野暮なことも言いません。www

 

でも、攻撃されると、相手のことを研究するでしょ?

何を言ったら、相手が 「ダメージ」 を受けるとかwww

そうやって、ここで 「相手を見る」 と言う練習をしましょう。

 

そして、ここで養ったスキルを利用して、「自分が愛する相手」 を見つけたときには、それと同じように 「相手」 の人を見つめてあげて下さい。そうしたら、きっと今まで苦労していた 「ハードル」 をいとも簡単に乗り越えて、次のステージに移れることと思います。

 

女性は、男が自己中心的で、自分のことを見ていないと感じれば 「自分に対する愛」 ではないと感じて排除しますし、自分よりも自身を愛する男にも、付いていきません。

そして、何よりも、自分を満足させず、単に 「やりたいだけの男」 には、絶対に付いて行きません。

 

むかつくので晒しましたが、でも期待してるので、頑張って 「粋な男」 になって下さい (笑)

2017/05/20

日曜縄ゴト師

麻縄(ジュート 9mmΦ)入荷。

 

 

とりあえず、いつでも煮なめし出来るように、必要なだけ、計量して切り分けておきます。

長さは、7m とか、10m が一般的。

自分は、10m を好みます。

 

2017/05/19

愛のコリーダ (2)

「愛のコリーダ」 の続き

 

「阿部定(あべさだ)事件」。これは、首を締められて殺害された挙句(あげく)に陰部切断という、男性にしてみると大変ショッキングな事件です。事件が起きたのは、まだ昭和の初めの、昭和11年。まだ太平洋戦争に入る戦前の頃。

日本文化が色濃く残る時代とあってか、日本国内でもそうですが、海外でも、異常な性嗜好者による猟奇殺人的な、奇異(きい)の目で見られてしまうことの多い事件です。

 

しかし、定(さだ)の供述(きょうじゅつ)や、出所後の話を聞くと、これはやはり男女の逃避行(とうひこう)における純愛であり、痴情(ちじょう)のもつれ。そして男女のすれ違いと思えてなりません。

 

***

 

石田は果たして、定(さだ)と本気で 「駆(か)け落(お)ち」 する気があったのか。

 

実際、定(さだ)の供述を読む限りにおいては、石田は、逃避行の最中にも、家に戻ろうとする素振(そぶ)りも見せたりします。また、他の女性にも手を出していたようなことを定(さだ)に言ったりしてますが、しかし、これは本当だったのかどうか、定かではありません。単に定(さだ)の関心を引き、女心を煽(あお)るための方便(ほうべん)であったかも知れません。


しかし、石田は、良くも悪くも、まるで、ちょっと粋(いき)な駆け落ちゴッコでもしているような、お遊び感覚に見受けられます。定の気持ちを、まるで単なる余興(よきょう)であるかのように、全てにおいて定を許容しています。

 

この時代、法律で施行(せこう)されていた 「姦通罪」 とは、徴兵(ちょうへい)を受けて出兵している最中に不貞(ふてい)を働こうとする夫人を罰することが目的であったことから、夫のいる婦人に対してのみ適用されるものでした。

このため、定(さだ)と石田の場合は、法的には 「姦通罪」 に問われません。

男女の双方を罰する、江戸時代の武家に適用されたご法度(はっと)とは、大きく異なります。むしろ、経済的に余裕のある旦那衆は、妾(めかけ)や愛人を囲って 「一人前」 とされていた時代です。

しかし、そうは言っても、浮気がばれてしまっては、主人の浮気を喜ぶ奥方などは何処(どこ)にもいませんし、定(さだ)は奉公人(ほうこうにん)の身ですので、他の奉公人の手前、顔が立ちませんので、当然、そのまま居座(いすわ)るわけにもいきません。

 

このため、定(さだ)は慌(あわ)てて奉公(ほうこう)先を飛び出し、一方の石田はと言うと、ほとぼりが冷めるのを待つくらいの軽い気持ち、あるいは、その間に定(さだ)といっぱい楽しもう程度の魂胆(こんたん)だったのではないかと思われます。

 

 

しかし、その遊びが遊びではなくなり、そして、どんどん、のっぴきならない状況に陥(おちい)っていくわけです。

 

では、二人に、どんな 「すれ違い」 あるいは 「誤算」 があったのか?

 

それは、定(さだ)が本気で、石田を愛してしまったことでしょう。このことは前記事にも書きましたが、定(さだ)が、相思相愛(そうしそうあい)で愛し合った最初で最後の男性が、石田だったわけです。

芸妓で娼妓の定(さだ)は、ある意味、セックスにおいては百戦錬磨(ひゃくせんれんま)のプロの女性です。

 

定(さだ)は、14歳のときに大学生に強姦され、傷物(きずもの)になってしまったという思いから、放蕩(ほうとう)を繰り返し、17歳のときに 「芸妓(げいぎ)」 となるも、その後、どんどん身を持ち崩し 「娼妓(しょうぎ)」(現在の娼婦) に落ちぶれて行きます。

場所も、横浜市中区の住吉町から長野に富山そして大阪市西成区の飛田新地に移り、その後は大阪・兵庫・名古屋の娼館を転々とします。

そして、その名古屋で、定(さだ)は、その後定(さだ)を立ち直らせるキッカケを作ることとなる、大宮五郎に出会います。定(さだ)は、大宮五郎に真面目な職業に就(つ)くように諭(さと)され、そして、新宿の口入屋(くちいれや)(現在で言う職業斡旋業)で紹介されたのが、石田が経営する中野の料亭 「吉田屋」 となるわけです。

 

定(さだ)にとって、大宮は定(さだ)を救った恩師であり、吉田屋で 「新たな人生」 をスタートさせた先で出会ったのが、石田吉蔵(いしだ・きちぞう)だったのです。

 

遊び上手で、女性の扱いも上手く、戯(じゃ)れ付く石田に対して、定(さだ)は初めて、男性との楽しい時間を過ごす喜びを感じ、好意を寄せたのかも知れません。
定(さだ)は、ようやくそれまでのトラウマを乗り越え、男性に心を開いた相手が石田だったのでしょう。当然、定(さだ)の恋心は、14歳の頃の童心(どうしん)に戻っていた筈(はず)です。石田は定(さだ)にとっては、最初の相思相愛(そうしそうあい)の相手であり、そして事件を通して、最後の相思相愛の相手となったのです。

石田にしても、そんなに純粋な乙女心を持つ定(さだ)が楽しくないわけがありません。

しかし、14歳の頃から事実上、心を閉ざしてきた定(さだ)はここで、それまでに経験したことのない、「女」 としての強い 「業(ごう)」 とも言える 「嫉妬」 や 「独占欲」 といった 「負の洗礼」 を浴びることになるわけです。
そして、タチが悪かったことに、定(さだ)は、身体的には十分開発されており、既に女性としての喜びとも言える 「オーガズム」 を感じることが出来る身体になっていたことです。

石田との逃避行で、誰にも邪魔されない濃厚な情事を重ねることで、定(さだ)は、心と身体の両方で溶け合っていたわけです。
当時、定(さだ)は齢(よわい)30くらいですが、開発具合から言えば、それこそ30代後半から40代前半。それこそ、女性に強い性欲が表れる 「女盛り」 であったことは想像に難(かた)くありません。(若干妄想気味ですが・・・^^; )

心がガッツリと入って、身体でもガッツリと 「イク」 わけですから、定(さだ)の脳内は、これまでには経験したことのない脳内麻薬でいっぱいいっぱいに溢(あふ)れていた筈ですし、それは、定(さだ)が今まで肉体的に感じていた性欲や快感とは、比べ物にならない経験だった筈です。


女性は、最後に 「イク」 ときには、理性のスイッチを切ります。しかし、そこに至るまでには、扁桃帯(へんとうたい)が司(つかさど)る 「不安」 と対峙(たいじ)することになるのです。
定(さだ)の悲劇は、それまでのトラウマによって、女性の嫉妬や独占欲を経験したことがなかったこと。ゆえに自分の嫉妬や独占欲をコントロールすることを、一切学べなかったことなのです。

定(さだ)の不安が、嫉妬や独占欲を刺激し、石田と添(そ)い遂(と)げることは出来ない。だから、彼を独占したいがゆえに一緒に死にたい。そういった漠然(ばくぜん)とした思考が、定(さだ)に包丁を用意させたのでしょう。

しかし、そういうある意味、定(さだ)のストレートな情交が、多分、石田に取ってはまたとても魅力的だったのでしょう。14歳の恋とときめく純粋なハートと共に、プロの技巧と、そして熟れて身体を併(あわ)せ持つ、美味しい女性なわけです。

お互いが意図せず、しかし、最高速度で二人はぶつかってしまったわけです。
これを縁と言うのか、業というのか、あるいは、運命の悪戯(いたずら)とでも言うのか。それは解りません。

しかし、定(さだ)は、坂口安吾との対談で、「後悔していない」 と言っています。

気丈(きじょう)な定(さだ)が、唯一、気を許したのが石田であり、そして、これ以上は有り得ない濃厚な愛を交歓したわけです。
当時もあったでしょうし、今なら尚更(なおさら)、「人を殺(あや)めておいて、後悔していないとは何ごとか!」 とクレームがいっぱい来そうですが、それは、結果的には、自分が最(もっと)も愛する人を失ってしまったわけだけれども、それは、殺めようとして殺めたのではない。偶発的な事故であり、そして、それはお互いの愛の結末だった・・・

そう言っているような気がします。

自分の認識としては、これは、お互いの身体を高めあうことの出来る、セックスに長けた男女同士が、無防備にも、お互いに心を惹きつけ合った結果起きた正面衝突事故。

もうこうなると、「運命のいたずら」 としか表現のしようがありません。


法的には、定(さだ)は殺人罪で服役していますし、倫理や宗教的には、二人とも罪に問われるのかも知れません。

 

しかし、もし自分が 「誰が最も罪深いか?」 と問われれば、自分は迷わず 「14歳のときに定(さだ)を強姦した慶応大学生」 と答えるでしょう。

 

***

 

悲劇的ではあるけど、甘美で切ない不条理な世界。だからこそ、多くの小説家や映画監督がこの 「阿部定事件」 に」挑(いど)みたくなるのでしょう。

とは言え、首も締められたくなければ、アソコを切り取られたくもない。(苦笑)

自分は出来得(できう)れば、どんな形であれ、愛する女性とは、常に一緒でなくてもいい。しかし、出来るだけ長く一緒に寄り添える機会を維持したい、そんな風に思います。


「阿部定証言録」

「阿部定・坂口安吾対談」

「阿部定のこと」