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2016/04/30

30 させごろ、40は、しごろ (3)

女性とホルモン

 

女性は、女性ホルモンであるエストロゲンの影響を受けて、初潮を迎えたその日から、閉経を迎える日まで、ずっとホルモンの影響下にあります。
妊娠や出産も、そうですが、女性は、ホルモンの影響に翻弄されていると言っても、過言ではありません。
女性に ”常に同じ状態” はなく、まるで川の流れにでも乗っているかのようです。

 

妊娠出産し、授乳期になれば、女性は女性ホルモンの影響によって、「母性本能」 は最大になり、人間の基本的な三大欲求のひとつである 「性欲」 すらも、完璧に打ち消します。


女性にも、基本的な性欲はあります。男性同様、触れば気持ちいいです。それを言えば、女性の場合は、男性以上にバラエティー豊かです。耳たぶを弄っても気持ちいいですし、乳首を弄っても気持ちいい。

あそこを机の角っこに押し付けても気持ちいいですし、脚を広げたり閉じたりするだけでも、気持ちいい。

 

しかし、「女性の性」 の醍醐味は、個人差はあるにせよ、やはり30歳以降にあります。

 

「30させ頃、40は、し頃、50で茣蓙搔き、60禄に濡れずとも」


30代は、見た目にも熟してきて、オンナの魅力が身体から滲み出てくる時期。とにかく口説かれるチャンスには事欠かない。年齢的にも、お相手は、年上から同年代そして年下にまで至りますので、したがる相手には事欠きません。ゆえに 「させ頃」。


それが、30半ばを過ぎ、40代になると、男性ホルモンの比率が高まってきて、女性も男性と同じような強い性衝動を覚えるようになります。

30代になり、セックス本来の気持ち良さもだんだんと解かり始め、そして、自分からセックスをしたくなるのが、40代。ゆえに 「し頃」。

そして、50代ともなると、ゴザをかきむしるほどに善がると言うものです。


60代は、閉経を迎え、濡れづらくなりますが、それでも、一度覚えた味は忘れられないということでしょうか。


実際には、個人差がありますが、しかし、「女性の性」 をある意味適格に表現している語呂合わせの唄と言えます。

 

***

 

物事には旬というものがあります。


女性の旬は、35歳から55歳。これは、自説ではなく、以前別のコラムでもご紹介しましたが、既に還暦は優に超えた某料亭の女将の台詞。何故55歳なのか?細かい理由は聞いていませんが、苦痛なくセックスが楽しめる年齢なのでしょうか?それとも、女性が性欲を感じなくなる年齢なのでしょうか?

 

日本料理の世界では、物の出始めが 「走り」、物が多く出回るときを 「旬」、そして、もう終わりの時期を 「名残り」 と呼びます。

とすると、女性も 35歳までは、まだ 「走り」。55歳を過ぎると 「名残り」 のように認識されているのかも知れません。


男性の性欲のピークは、18歳前後。

ですので、若い頃は、彼氏とデートをしても、いつもラブホばっかり。まるで、自分の身体が目当てのようで悲しい思いをした女性も少なくないかも知れません。

 

一方の女性は、先にも書いたように、若くても当然 「性欲」 はありますが、性欲のピークは、ちょうど、この女将の言っている時期に被ります。


月経もそうですが女性は、ホルモンバランスによって支配されていると言っても、過言ではありません。

女性の性欲は、男性ホルモンである 「テストステロン」 と、女性ホルモンである 「エストロゲン」 の分泌比によって左右されるそうです。


個人差もあるでしょうし、現れ方も、人によってさまざまかも知れませんが、女性ホルモンである 「エストロゲン」 のピークが、20歳代後半から30歳代前半。そして、性衝動などに影響するといわれる男性ホルモンである 「テストステロン」 の分泌は、20歳代から40歳代までがピーク。

このとき、テストステロンの分泌は、エストロゲンほど急激には落ちないため、エストロゲンの急激な減少によって、相対的にテストステロンの比率が高まる。その結果、女性の性衝動が高まる・・・と言われてます。

ところが、この時期は、女性ホルモンの減少によって、頭痛をはじめ、自律神経の乱れで起きるイライラやめまい・吐き気にのぼせ等、「更年期障害」 特有の症状も出てきます。


身体の調子も良くなければ、気分も優れないわけですから、自分に自信がもてなくて当たり前です。

ましてや、「更年期」 なんて言葉を意識するだけで、もう、「自分はオンナじゃないんじゃないか?」 みたいなネガティブな気分になってしまいます。


自分が10代そして20歳のときと比べれば、それは、誰だって衰えを感じます。どんなに美人でスタイルが良かったとしても、老化による劣化は当たり前。

なので、昔の若かりし自分を振り返って、憂いてみたところで全く意味はありません。

 

女性の身体や心は、ホルモンによって常に揺れ動いています。

調子悪いときに無理をする必要はありません。しかし、100%完璧と言える状態なんか、そうそうありません。

もうちょっと様子を見たら、良くなるかと思ったら、逆に悪くなっちゃったみたいなのもある。なので、あまり考えすぎず、気分が乗るようなら動く・・・くらいの 「軽快さ」 があっても良いかも知れません。

 

自分で自分のことを 「おばさん」 と認識したときに、その人は 「おばさん」 に、自分のことを 「お婆さん」 と認識したときに、その人は 「お婆さん」 になります。

逆に、自分の 「オンナ」 を認識していれば、その人は 「オンナ」 になるわけです。

 

大事なのは、それぞれの年代の良さを楽しむこと。

「今を楽しむこと」 です。

2016/04/29

30 させごろ、40は、しごろ (2)

唄の意味

 

自分はと言えば、もう、今は、それを理解できる年齢にもなっていますし、その唄の中身が、如何に 「言いえて妙」 かを実体験として納得しています。

 

しかし、教わったばかりのときは、さっぱり意味が解かりません。(苦笑)

「祇園精舎の鐘の声・・・」 ではありませんが、まだ女心も理解出来ていない若造が、いきなり、飲み屋で復唱させられることになります。

 

三十の 「さ」、四十の 「し」、五十の 「ご」、を受けていることを教わり、でも、何故 「させ頃」 なのかも、「し頃」 なのかも、分からない。

ましてや 「茣蓙(ござ)」 と言われて、なんで茣蓙?

茣蓙は知ってますけど(苦笑)、なんで茣蓙をかきむしるのかも、良くわかりません。(><;)

 

自分が小さかった頃は、まだ、茣蓙(ござ)もありました。

茣蓙とは、畳(たたみ)の表面を覆(おお)ってるようなやつです。今は、ビニールシートとかにとって変わられていますが、昔は、運動会や海水浴なんかの敷き物として使われていたりしたもんです。

今の子供達は、下手をすると、家に畳のある和室すら無かったりしますので、畳の入れ替えや、畳の張替え作業なんかも見たことがないでしょう。

大きな針で、畳職人が、畳床(たたみどこ)と呼ばれる厚みのある板状のものに、畳表(たたみおもて)と呼ばれる茣蓙(ござ)を被せて、ぶっとい 「5寸」 くらいの針で縫っていく。

今は、張替え作業ですら、現場でするようなことはないかも知れませんから、そうなると、茣蓙(ござ)自体を見る機会がないかも知れません。

ちなみに、畳を張り替えるの使う茣蓙(ござ)は、まだ青々とした 「青表」 のイグサ(藺草)です。

 

話を戻しますが、しかし、畳に張ってしまった畳表の茣蓙は、畳床に縫いこむようにして合わせてありますので、手で掴めるような代物ではありません。

 

50 で、茣蓙(ござ)を搔きむしる。

今で言えば、ベッドのシーツをぎゅっと掴んでむしるような感覚でしょうか?

情景的には、手に掴むものがなくて、気持ち良いんだけども、ちょっとやる瀬ない、女性の切なさをひしひしと感じます。

 

しかし、当時の自分はと言えば、そんな女心なんざ、これっぽっちも理解しちゃあいません。

そんなガキにいくら女心を説明したところで、馬の耳に念仏。

お酒も入ってますんで、「なんでシーツではなくて、茣蓙(ござ)なの?」 みたいな野暮な受け答えをしたかも知れません。(苦笑)

 

(シーツだったら、50 に語呂合わせできないだろうかっ!)

 

今の自分であれば、思わず、突っ込みを入れてしまいそうです。(苦笑)

 

***

 

茣蓙(ござ)というのは、江戸時代の夜鷹(よたか)のシンボル。

夜鷹とは、江戸時代の売春婦、今で言う 「立ちんぼ」 です。

手に茣蓙を抱えており、顔は手ぬぐいで頬かむりして、その一端を口で咥えて、みたいなイメージです。

茣蓙は、どっかその辺で 「いたす」 ときに、地ベタの上にでも敷くためのものなのでしょう。

 

 

江戸時代には、吉原のような遊郭(ゆうかく)もありましたが、その中でも、「花魁(おいらん)」 と呼ばれる娼婦は、娼婦の中でも別格中の別格。筆頭格。今で言う 「アイドル的」 な存在です。

これ以外にも、湯屋(ゆや)と呼ばれる大衆浴場で性的なサービスをする湯女(ゆな)や、旅籠(はたご)で性的なサービスをする飯盛女(めしもりおんな)といった娼婦もいたようですが、夜鷹と言えばフリーランス。そういったフリーランスの遊女(あそびめ)の中でも最下層の娼婦と言われています。

 

夜鷹が現れるのは夜。ましてや顔を隠す手ぬぐいなんかもあったりするので、顔も良く分からないことから、一般には、廓(くるわ)の適齢を過ぎた女性であったり、梅毒に冒された女性などとも言われていますが、そもそも、顔も隠されてしまっているので、所在確認もできません。

 

江戸時代は、武家などの不義密通(ふぎみっつう)いわゆる 「不倫」 は 「切り捨て御免」 であり、死罪ですが、庶民のセックスはかなり奔放です。

しかも、病理学的に考えれば、梅毒の病理も解からず、予防法も存在しない江戸時代において、そんな夜鷹ばかりだったら、江戸中にパンデミックしてるはずです。

 

であるならば、そういう病人のケースもあるかも知れませんが、夜鷹の病人説は、「口裂け女」 的なデマと考える方が現実的。

だいたい即効性のある抗生物質も、痛み止めもない時代です。病状が進行してる状況では、そうそう稼ぎに出れるわけもありません。

 

そうすると、リアリティを重視するのであれば、顔を見られると、見られた方も、見たほうも双方が困る女性と考えるのが、現実的。

江戸時代に、一番 「性」 の抑圧を受けていたのは、武家の妻です。

町人なら、好き勝手にまぐわえるのに、自分はと言えば武士の妻だから出来ない。

武家には使用人もたくさんいます。旦那は女中にも手を出すし、側室ではないけども、女性をいくらでも囲うことは可能です。甲斐性っていうやつです。

しかし、女性の場合は、武家の奥方が使用人の男とでも密通したことがばれた暁(あかつき)には、その場で切り捨てられるか、市中連れまわしの上、打ち首獄門です。

だから、みんなばれる前に 「行方(ゆくえ)」 を眩(くら)ましたわけです。それが 「駆け落ち」。

 

「武士は食わねど高楊枝」。どうしても食えない下級武士の妻がお金目当てという説もあります。それもあったかも知れません。

しかし女性の性を理解すれば、現実は、もっと深い。もっと上流の武家の奥方が、男目当てに夜鷹になっていたとも考えられます。

 

夜鷹のお相手は、全く知らないひと。 二度と顔を合わせない人や、あるいは、近所に住んでても、顔や素性(すじょう)はお互いに知らないけれども、馴染みの相手。そのいずれかです。

場合によっては、顔や素性は知りつつも、夜鷹として近づくなんて場合もあったのでしょうか?

そんなことは、知る由(よし)もありませんが、リアルの女性を知ってるひとであれば、想像に難くありません。(笑)

 

しかし・・・

 

40代の 「したい盛り」 を通り越して、茣蓙ではなくとも、シーツを 「ぎゅっ」 と握ることで切なさを耐えようとする女性の身悶(みもだ)えるさまは、50代であるかどうかは別にして、果実はトロトロになって、皮がふやけている 「完熟した柿」 のように甘く瑞々(みずみず)しいもの。

 

たまりませんっ。(笑)

 

こんな話を読んでいて、「キモッ」 なんて思うのは、まだ若い子でしょう。(笑)

でも、それを否定はしません。

いいんです。(笑)

自分も、若い時分にこんな話を聞いて、何が良いのかさっぱりと理解できませんでしたから。(笑)

 

***

 

三十路(みそじ)も半ばを過ぎて、女の盛りに差掛かるくらいになり、四十路(よそじ)を迎えるようになると、女性も、だんだんその意味が理解できるようになってきます。

それが人間の歳相応の季節感です。

日本には四季があるおかげで、自然の移り変わりと同じように、人にも移り変わりがあることを、身体でそして心で感じ取ります。

 

三十路は、やはり女性は見た目にも美しい。エロい香りをかもし出し、果実がちょうど熟した食べ頃感があるのが 30代。とにかく、”エッチをしたい男” が群がるので、30代は、”させる” には最高の頃合い。ゆえに 「させ頃(ごろ)」。

それを過ぎ、四十路を迎えるようになると、女性の性欲はもっと強くなって、今度は、自分からセックスをしたくなる。40代は、女性もしたくてたまらない頃合い。自分から求めるから 「する頃」 → 「し頃(ころ)」 になる訳です。

そして、五十路ともなると、もう交わるのが、良くて良くてたまらない。

セックスで焦らされては ドキドキ し、切なくなっては ドキドキ する。

 

某女将は、「女性の花は、35歳から55歳」 と言いましたが、それはすなわち、女性と男性の性交(まぐわい)の話。

自分は、それを 「食べ頃」 と表現しています。

こってりした内容の話は、あっさりした方が 「粋」 というもの。

女の 「色」 が見えてくると、日本の文化に根付いている 「色」 もみえてきます。

 

「色」 は切なく、移り変わる。だからこそ美しく、味わいがある。

「色」 は確かに存在するものだけど、掴めるものでも、所有できるものでもありません。

だからこそ、「一期一会」 にもつながる。

掴もうとしても、掴めないのが、男心であり女心。

そこにみんな、永遠を求めながら、しかし、流れ移るところに、恋心のはかなさと、美しさを感じるわけです。

 

***

 

未だに何処の飲み屋だったか解かりません。

一代限りのお店なので、今はどこも、もうありません。地元の行き着けの店だったか、それとも新橋のママのお店だったか。

横浜中華街で日系2世のパパがやってた将校(オフィサー)専用のバーでもないし、いくつになっても、ずっとリーゼントスタイルを崩さず、江戸っ子バーテンを貫いてるお店でもありません。

 

頭では理解出来ても、その意味を身体で理解できていないこと。そんなことは人生、山のようにあります。しかし、この唄の場合は、頭で理解することさえも難しかった。

 

でも、ひとりの男として、知ることが出来て、とても幸運だと思っています。

「遅すぎる!」 と言われてしまうかも知れませんが、あのときに、一生懸命説明してくれた先輩に感謝しています。

 

つづく

2016/04/27

30 させごろ、40は、しごろ (1)

「30させ頃、40は、し頃。50で茣蓙搔(ござか)き、60禄に濡れずとも。」

 

誰が詠んだかは分かりませんが、「女性の性」 を詠んだ、実に妙味のある数え唄です。今の時代で言うところの 「サラリーマン川柳」 といったところでしょうか。

詠み人の為人(ひととなり)はわかりませんが、多くのひとに語り告がれるのは、やはり天性あってのもの。

目先の利益や名誉などを省(かえり)みず、その才覚を惜しみもなく発揮されているものは、先人が築き伝承してきた和食のレシピと同様、いつの時代までも愛されるもの。

先人の教えを受け継ぎ、それを昇華して後世に伝える。

辛抱と忍耐。そこで濃縮し、時代にあわせて昇華したものを後世に残す。これこそが、昔からの日本の職人根性。日本の良さが凝縮されているエッセンスです。

 

しかし、申し訳ありません。

わたくしごとで、大変失礼なのですが、偉そうなことを言ったものの、この唄を、いつ誰に教わったのかも、良く覚えていません。(苦笑)

 

自分が30代のときに、ちょうど40代に差掛かった先輩が、「30代の女性もいいけど、40代の女性はもっといいぞ」 と言っていましたが、その先輩からは、そんな洒落た話は聞いてないので、多分、教わったのは別のひと。

お酒の場ではあったと思います。復唱させられたのは覚えてますが、何処の店か宴会か全く覚えてない。

ママがいる店ではありますので、大衆居酒屋系ではなかったと思います。

きっと、カウンターでたまたま一緒に飲み交わした年配の方といったところでしょうか?笑

 

聞いたのは多分、アラサーの時分。30代になるちょっと手前ぐらいでしょうか?

正確なやりとりは、もう覚えてはいません。驚きのポイントも、もう、おぼろげですが、多分 「セックスの上限年齢」 だったように記憶しています。

 

***

 

「え~っ、50代や60代になってもするの?」

 

途方にくれて思わず、ママにそんなことを聞いたしまったように思います。そんなママは・・・と言えば、ニコニコと笑みをたたえ、

 

「ふふふっ」

 

と誤魔化すばかり。そのまま、とぼけられておわりだったように記憶しています。(笑)

 

歳の差を越えて、友達関係が成り立つのが、「夜の社交場」。

目上の人であれば当然 「礼」 はつくしますが、同じ 「客」 である以上、対等な関係です。

 

若いときは、素直に人の話をまず聞く。その謙虚さが大事です。

あとは、人を不快にさせず、楽しい会話を心がけること。

それは、会社などでも同じなのですが、可愛がられるようになると、店の大将に気に入られれば、美味いもんを味見させてくれるし、先輩客に気に入られれば、みなさんいろいろ教えてくれるようになる。「若さ」 ゆえの特権です。

 

自分も、いろいろと諸先輩方から教わりました。

この数え歌も、そんな中で教わったもののひとつ。

 

しかし、普段であれば、こちらが聞きたいと思わなくても、強制的に解説付きで教えてくれるもんですが、このときばかりは、誰も説明してくれない。苦笑

教わったときは完全なる 「消化不良」 状態でした。そのときの 「違和感」 たるや、かなりのもの。今思い返せば、無意識に忘れようとしてきた感さえもあるほどです。

 

しかし、まだ、60代の経験はないものの、ようやく、この唄の意味が理解できるような年齢になりました。

 

つづく

2016/04/16

SM とはなにか?(2)

しかし、「催眠」 という言葉で SM を捉えてみると、どうでしょう?

 

SM を心理学的に考えてみる

 

自分を含め、子供の時分に見てしまった SM 雑誌の挿絵や写真が衝撃的だった・・・と言うひとは、少なくありません。

某 SNS で仲良くしてくれている R子ちゃんに至っては、子供心ながらに、「大人になったら、みんなああいうことをするんだ・・・」 と認識していたご様子。カワユス(笑)

しかし、これは、心理学的に言えば、潜在意識に対する一種の 「刷り込み」 のようなもの。

 

また、自分は、これまで、「S のスイッチ」 とか、「M のスイッチ」 という表現を使ってきていますが、「性的な感じやすさ」 を利用して、視覚的には勿論、言葉その他で 「暗示」 を掛けていると言われても否定できない。

そればかりか、もしかしたら、自分自身も 「自己催眠」 ではないけれども、ある種の催眠に掛かっている可能性を自分では否定できなかったりします。

 

SM と暗示

 

そもそも、SM のお相手は、自分の意志で自分と繋がることを求めているパートナーです。

そのお相手を騙(だま)して連れてきているわけでも、お相手の意思に反して、拐(かどわ)かしてるわけでもありません。

なので、「緊縛」 にしても、お相手に逃げられるのを怖れて 「縛っている」 わけではありません。

 

ロウソクも熱いことは熱いし、鞭は痛いです。(笑)

 

しかし・・・・

 

ロウソクは、はっきり言って、可愛いバースデーケーキにぶっさすような、細身のロウソクの方が断然熱い!

SM で使うロウソクは、「低温ロウソク」 と呼ばれるもの。自分で実際に温度を計測したわけではありませんが、融点は 58℃~60℃。

お風呂のお湯の温度を考えれば、これでも熱いことは熱いのですが、仏壇のロウソクをはじめ、普通のロウソクの融点は、80℃ですので、それと比べれば格段に低い。

ですので、SM のロウソクを垂らして 「熱いっ!!」 となっても、使い方を誤らない限りは、ケーキのロウソクのように、「水膨(ぶく)れ」 ができるようなことはありません。

 

鞭にしてもそう。バラ鞭なんかは、音は大きいものの、痛くはありません。

昔、自分が親から叩かれた、籐(とう)で出来た 「布団叩き」 の方が、ずっと痛い。(苦笑)

竹製の 「物差し」 で、手の甲を 「ぺしん」 と叩かれた記憶もあります。3歩あるくと忘れるくらいの阿呆なので、何故叩かれたのかは、もう覚えていませんが、あれも痛い。(笑)

 

だからと言って SM が 「子供騙(だま)し」 だと言っているわけではありません。

言いたいことは、それだけ、SM は、心理的な要素が大きいということ。

 

ロウソクを使う場合もそう。

 

自分で温度確認をする・・・という名目で、自分の手の甲に垂らして、わざと 「熱っ!」 とやってから、「受け手」 の子の手の甲にも垂らします。

 

「ほらっ!」

 

手の甲は、温度に敏感な上に、自分で垂らしたときの反応を耳にしているので、当然、身体は 「熱さ」 に対して身構えており、シャープに熱さを感じます。

 

「あああっ、熱い!」

 

「言葉責め」 のところでも書きましたが、「言葉責め」 は ”心理戦”。 しかし、SM プレイ自体が、そもそも 「心理戦」 なのです。

 

SM と脳の錯覚

 

恐怖感はないまでも、「責められる・・・」 という状況は、無意識下に働いて 「緊張」 をもたらします。当然、アドレナリンは出まくるし、身体はいつも以上に敏感になっています。

特に、ロウソクなどは、そのロウソクが垂れた先に、否応(いやおう)なく神経が集中します。

アドレナリンが放出されているので、痛みや熱さは、思ったほどは感じていない筈ですが、神経が研ぎ澄まされている分、刺激自体は大きいでしょう。

皮膚には、触圧覚に温痛覚があります。これらの神経系統は、前者と後者で大きく異なります。しかし、敏感なところの触圧感と温痛感を合算して最後に総合的に認識するのは脳です。

ところが、実際は・・・と言うと、アドレナリンが分泌されていることもありますが、実際の刺激に比べて、SM の責めは心理的な要素が大きいので、脳が混乱するわけです。

こういうときの脳は得てして 「いい加減」 です。脳の錯覚と言ってもいいでしょう。

温痛覚の信号自体は大したことないので、もう一方の方だろう・・・みたいな 「お役所仕事」 的な処理を平気でします。(苦笑)

それで、触圧感覚的にも、不快ではなかったりすると、「愛撫的な刺激」 と勘違いしてしまうわけです。

脳がそのような錯覚を起こした途端(とたん)、脳からは、ドーパミンやエンドルフィンといった脳内の 「快楽物質」 が放出されます。

そして、それが繰り返されることによって、同じ刺激が与えられると、これらの 「快楽物質」 が反射的に放出されるようになってくるわけです。「パブロフの犬」 ではありませんが、「学習効果」 と呼ばれているやつです。

 

SM をやってるひとが、みなさん、このような理屈を認識しているわけではないでしょう。

事実、ネットに情報があふれている今日ではありますが、検索したところで、まずこのような 「SM の薀蓄(うんちく)」 は出て来ません。

そもそも、理屈を理解したからといって、実践できる代物ではありません。(笑)

ほとんど全ての人達が、実体験を通じた経験則で、こういった 「現象らしきもの」 があることを認識しているに過ぎません。

そして、SM を正しく認識できているひとは、温痛覚の刺激が大きくすればするほど、そのひとを快感が最大化するわけではなく、むしろ、最大化すべきは、「快楽物質」 の放出量であること。そして、そのために、同種の錯覚を繰り返すことによって 「快楽物質」 の放出を安定化させること、並びに、より反応の良い 「刺激量」 あるいは 「新たな錯覚ポイント」 を探求が重要であることを知っています。

 

こういうことを書くと、また、いつまでたってもお相手の見つからない 「自己中」 な 「自称ドS 君」 は妄想を始めます。

ドM を調教して、脳内麻薬漬けにして、いっぱいエッチしてやろう!と。(苦笑)

 

あらかじめ、催眠術に対抗あるいは防御している人に対しては、催眠術が掛からないのと同じことで、信用できておらず信頼もない相手に対しては、恐怖心のほうが勝ってしまい、ドーパミンはおろか、エンドルフィンさえも放出されません。

何故なら、自分を守るために、あらゆる刺激を遮断し、貝になろうとするためです。

マッサージを受けるときに、不安があると身体に力が入りますが、信頼しきっているマッサージ師の前だと完全にリラックスできるのと、近い感覚です。

 

SM と催眠術。随所に共通点が見え隠れします。

 

SM と女性のオーガズム

 

SM の世界でも、クリイキ、膣イキ、アナルイキという言葉があり、女性のオーガズムを区別していますが、自分であれ他人であれ、いじって簡単にイけるのが、クリ。

膣には、通称 「G スポット」 と呼ばれる膣全部上壁部や、「ボルチオ」 を呼ばれる子宮口上部などもあるものの、これらは、自分が完全に受動的であっても、いけちゃう 「クリ」 とは全く違います。

パートナーである男性に、女性のオーガズムに合わせるテクニックと素養がある必要である上に、女性自らに 「イキタイ」 という思う強い欲求があり、神経を結合部に集中し、筋肉の緊張や攣縮(れんしゅく)に耐え、それを一気に解放することが出来たときに、はじめて得られる快感が 「膣イキ」 です。

 

男性の場合は、約 95% の人間が、射精を通じて何らかのオーガズムを感じているのに対して、同種の調査では、女性の場合、性行為でオーガズムに達っしている人は 50% 以下。

但し、これには 「クリイキ」 も含まれています。「膣イキ」 の快感を経験している女性は、20~30% と言われています(イギリスの調査では、中でイけない女性の割合は、成人女性の 74% と言われています)。

 

このデータを信用すれば、半数の女性は、「いけてない」 ことになります。

そういう意味では、通常の家庭での 「夜の営み」 においては、「ボルチオ」 までは望みませんから、まずは 「クリイキ」 でも良いので、奥さんを往かせてあげてください、と言いたくなってしまいます。

 

しかし、SM の世界では、女性はイって当たり前ですし、「膣イキ」 などは日常です。

「当たり前」 の世界であるがゆえに、「何故、普通だと ”イケナイ” 人が多いのか・・・」 については、今まで考えてみたこともありませんでした。

 

SM だと何故いけるのか?

 

まず、SM のお相手は、既に M 性が開発された 「ドM ちゃん」 ばかりではありません。「ノーマル」 のセックスしか経験しておらず、また、本人は特に SM に興味があるわけでもないのにもかかわらず、この世界に引き込まれてしまう人も、少なからずいます。

SM を志向する人達の全員が、健全な心の持ち主だとは思いません。SM によって心と身体のバランスを取っている人も少なくないかも知れません。しかし、その性向を除けば、健全なひとばかりです。

セックスを嫌悪している人は確かにいないと思います。しかし、SM だからと言って、特に感度の高い女性ばかりが集まっているわけでもありませんし、多淫なわけでもありません。

M 性は誰に対してでも開放されるものではなく、その人が信用し、愛する人だけに開くものだからです。

特に SM をしているから、一般の人達と大きく乖離(かいり)する特徴が見られるわけではありません。

逆に、自分は性格的に 「絶対 ”S” だ!」 と思い込んでいた女性が、たまたまお付き合いした 「SM 好きの男性」 に開発されたことで、自分の M 性を認識した・・・なんてことはザラにある話です。

人によって、経験に長い短いなどの違いは当然ありますが、経験するまでは、特殊な人を除けば、ほとんどの人はノーマルなわけですし、また、SM を経験しているからといって、ノーマルのセックスが出来ないわけでもありません。

ですので、SM をやってる人達が特殊で、”いきやすい人達” ばかりだから、クリでもボルチオでもイク・・・わけではないということです。

やはり、やってる当人としては、「SM に隠されている方法論的なもの」 による効果としか、言いようがありません。

 

次回は、SM に隠されている 「女性をイカセル要素」 について、書いてみたいと思っています。

 

(つづく)

2016/04/14

SM とはなにか?(1)

実を言うと、前回のコラムで、「SM は催眠術ではない」 と書いた後で、ふと考え込んでしまいました。本当にそうなのかな?と。

 

心理学では、フロイト・・・というよりは、ユングに傾倒したことはありますので、催眠療法的なものを否定はしません。

しかし、「催眠術」 というものは、自分自身、学んだこともなければ、SM において、今まで意識したこともなかったというのが本音。

 

でも、よくよく考えてみると、SM には暗示的な要素が満載です。

「言葉責め」 もそうだし、「緊縛」 もそう。

実は、Wikipedia などで、SM のことを 「加虐性向者と被虐性向者のロールプレイ」 などと言われているのを読むにつけ、内心はむかついていました。

何故かと言われれば、自分自身、「役」 を演じているつもりは全くないから。

自分のやってる SM をロールプレイと言うのなら、それこそ 「夫婦」 だって、家族という枠組みの中での 「ロールプレイ」 と言いたくなってしまう。

 

事実、オンナであることを、いつの間にか忘れ去られ、妻であり、嫁であり、母であることに翻弄されている女性は少なくありません。

まあ、それは女性限った話でもない。それは男性も一緒です。

役割に振り回され、自分自身が見えなくなってしまう。

 

後者は、現実に社会的に求められていることであるのだから、「役割(ロール)」 であるのに対し、前者は個人の精神的なものだから、社会的に求められている 「役割(ロール)」 ではない。だから 「ロールプレイ」 という・・・と言うのであれば、まだ納得できるかも知れません。

しかし、「しっくり」 とこない。(苦笑)

 

もしかしたら、自分の、この 「ロールプレイ」 という用語の捉え方が間違ってるのかも知れません。あるいは、Wikipedia の編集にあたってる専門家?がそこを認識できていないのかも知れません。

 

動物のもつ 「本能」 から説明するのであれば、「攻撃本能」 は簡単に説明できます。

しかし、「加虐性向」 あるいは 「被虐性向」 といったものは、その動物の 「社会性」 に絡んだ 「心の変性」 としか説明のしようがない。

加虐行為を 「マウンティング」 に例えて説明する人もいますが、それだと被虐性向の説明がつかないわけです。

 

しかし、自傷行為などの 「被虐(自虐)行為」 は、ストレスの溜まった犬でも起こります。

何がしらの 「個人的な素養」 に 「社会的なストレス」 が加わったことで 「出現」 する、「精神的なバランス」 を取るための 「行為」 が、「快楽」 あるいは 「快感」 と結びついた 「特殊な形態」 と考えるほうが自然です。

 

自分がストレスを溜め込んだ結果、これを直接晴らそうとする人達。

趣味のスポーツであったり、ジョギングなどを上手く結びつけることが出来れば良いのですが、世の中、ストレスの発散が下手なひとも多いもの。

まあ、スポーツでストレス発散と言っても、現代のストレスはそんなに単純じゃありません。(苦笑)

 

ストレスを直接的に晴らそうとする人達の場合は、モノに当たったり、他人に当たる人も居れば、自分に当たる人もいます。前者は苛めやDVといった加虐、後者は自傷などの自虐です。

その方向性が、「食欲」 に偏向した人達の場合は、「過食」 や 「拒食」 といった症状になって現れます。

これが、「食欲」 ではなく、「性欲」 に偏向したものが、「多淫症(ニンフォマニア)」 や 「性依存症」 あるいは、その逆の 「冷感症」 や 「潔癖症」。そこに被加虐性が入り込むと、「加虐性向」 や 「被虐性向」 になります。

 

これはあくまでも仮説です。しかし、この 「仮説」 が正しいとしたら、もしかしたら、人間の 「3大欲求」 と言われる 「食欲」 と 「性欲」 そして、もうひとつの 「睡眠欲」 に現れる人も居るのかも知れません。もしかしたら、「閉じこもり」 や 「引きこもり」 と言われる人達は、その部類に入るのかも知れない。

 

これらの症状は、ストレスによる過不足を埋め合わせる方向に、行動を取ることで生じたりします。

あるひとは、まだ潜在意識下で眠っている場合もありますし、顕在化している場合もあります。

食事の場合は、寂しさを紛らわせたり、手っ取り早く満足感を得たい場合に取られます。

性欲の場合は、「性的な快感」 を求めている場合もあれば、モノでは飽き足らず、人からの愛情といった充足感を求めている場合もあります。

これに被加虐性が加味されると、現実の自分からの解放的要素が強くなってきます。

 

自虐性のある M の場合は、自分に成り代わって虐めて貰いたいという意識があります。

また、世間で多くの采配を求められているひとの場合は、現実から逃避し、自分を全て委ねたいという願望に取り付かれている人もいます。

几帳面で、仕事を全部こなす人ほど、この傾向は強いと言えます。夫は頼りにならず、真面目に仕事をこなす 「主婦」 も、この部類かも知れません。

自分は価値のない人間だ・・・と認識しているひともそうでしょう。しかし、それは M にかかわらず S も同様です。

 

SM の究極とは、いったい何なんでしょう?

極論を言えば、「死」 をも厭(いと)わず、「生」 を享受する(楽しむ)ことでしょうか?

最後に自分が生まれた川を遡上(そじょう)し、最後の余力を振り絞って交尾にたどり着き、朽ち果てる 「鮭」 に近いかも知れません。

死に対する恐怖と怖れ、そして快楽と性欲そして愛が複雑に入り混じった世界。

現実に、そんなことを希望するひとは稀にしかいません。しかし、伊藤晴雨ではありませんが、SM も アートとなると、そんな 「狂気」 も見え隠れします。

浮世のことは、もう何もかもが自分と 「関わりのないもの」 となり、意味をなさなくなる。社会的なものも一切が無意味になる。一見絶望に近い光景です。

しかし、SM のそれは、かなり逆説的に近い。むしろ社会的な呪縛から逃れることで、その瞬間だけでも解放されることで、みなさん自分を取り戻そうとしている。

その絶望の境地に 「活路」 を見出そうとしている部分が見え隠れするから不思議です。

「人の狂気」 に対する畏怖と憧れ。そして警鐘のような気がします。

 

(つづく)

2016/04/07

言葉責め(3)

では、「言葉責め」 は具体的に、どうやるのか。

 

良くある例としては、オラオラ系の有名な台詞。「おらおらぁ、この牝豚がぁ~」 みたいなのがあることはありますが、これは、どうなんでしょう?

まあ、「オラオラ系」 大好きっ子なんかだと、”陵辱” でもされている気分にでも、なっちゃうのかも知れませんが、まあ、こういうのが好きな人達は、それはそれで構いません。苦笑

 

しかし、SM を実践している人達から見ると、どうしても違和感を覚えずにはいられません。

どうして、違和感を感じるのか? 何が問題なのか?

実を言うと今迄、そんな理由を考えてみたことは、一度もなかったのですが、自分なりに至った結論としては、オラオラ系は、そのスタイルが 「威圧系」 に限定されてしまってるということ。要は、「押し」 のスタイル以外にしっくりとくるものが見当たらないのです。

これでは、単調になり、飽きられやすいばかりでなく、「揺さぶり」 すらかけづらい。

 

「言葉責め」 は、何も ”威圧的” なものばかりではありません。

「言葉責め」 で大事なのは、「飴」 と 「鞭」 の使い分けによる 「ギャップ」 と、「揺さぶり」 です。

 

囲い込んで、逃げ場を無くして、追い詰めて 「おらおらっ」 も ”悪い” とは言いませんが、しかし、そればっかりでは、あまりにも芸がありません。(苦笑)

 

「言葉責め」 は、SM プレイにおける 「二人の世界」 の BGM のようなもの。

 

「責め手」 のキャラクタは、当然 「言葉」 にも表れます。と言うよりは、言葉にこそ、最も色濃く表れると言っても過言ではありません。

 

では、実際のところ、「言葉」 でどうやって責めるのか?

今回のコラムでは、その辺を説明していきたいと思います。

 

 

言葉での責め方

 

(1) 「受け手」 の感情に直接働きかける

 

「言葉責め」 では、人間の五感である 視覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚、そのうちのひとつである聴覚を介して、耳から 「受け手」 の感情に訴えかけます。感情とは、喜怒哀楽の類のもの。

あくまでも感情や情動に訴えかける。理性を眠らせるのも言葉。

SM に使われる道具の類に、視覚的な効果もあるのだとしたら、バラ鞭の 「パシ~ン」 って音もそうかも知れないけど、「言葉責め」 は SM には不可欠な BGM 。

 

「言葉責め」 は、”言葉” とは言うものの、言葉にならない類のもの。例えば、嘲笑の笑い声や、息遣いなどから、声の高さや声の質、抑揚など、言葉ではないノンバーバル(非言語的)な要素も多々入ってきます。

言葉も大事ですが、それ以上に大事なのは 「気迫」 とか 「雰囲気」 です。

 

(2) 「責め」 の方向性を意識する

 

SM における主従関係もそうですが、一般の恋愛関係でもある意味同じ。

主従愛であれ、一般の恋愛であれ、「愛」 を育(はぐく)むためには、まずは最低限、以下の条件が満たされてなければなりません。

 

① 相手が、自分を 「信用」 し、「信頼」 ていること。

② 自分に対して、何らかの 「敬意」 を持っている、あるいは、自分を 「尊重」 してくれていること。

③ そして、自分に対して、相手が 「好意」 を持っていること。

 

これが双方向で成立して、始めて 「恋愛」 となるわけです。

程度問題はありますが、多分、どれが欠落していても、十分な 「満足」 とは程遠い。

もし、そこに不足が見られるのであれば、それを補わせるのは 「言葉」 。

そして相手に 「感謝」 の気持ちを伝えるのも 「言葉」 です。

 

① の 「信用」 や 「信頼」 も ② の 「敬意」 や 「尊重」 も、そして ③ の 「好意」 も、どれも一方的なものです。

しかし、① や ② は、「愛」 を支える基本的な構成要素であるのに対して、③ の 「好意」 は、その裏に 「期待」 や 「欲」 を孕(はら)んでる場合もあるので要注意。場合によっては、かなり ”扱い” が 「厄介」 な代物(しろもの)です。

 

「期待」 にも 「良い期待」 と 「悪い期待」 があります。「期待はゼロ」 でもいけませんが、「過剰な期待」 もいけません。

それは、一般の恋愛や結婚生活に限らず、”通常の人間関係” においてもそう。

トラブルを引き起こすのは、必ずと言っていいほど、この 「好意」 の陰に隠れた 「期待」 の部分です。

 

これは SM においても当て嵌(は)まります。SM では基本、① と ② は不足しないように補いつつ、③ については、責め手である 「S」 が 受け手である 「M」 をコントロールします。

それは 「言葉責め」 でも同じ。

この 「方向性」 を間違えると、「頓珍漢(とんちんかん)」 なプレイになってしまいます。白けてしまう程度なら良いのですが、しかし、あまり度を重なると、お互いの関係を壊してしまい兼ねませんので注意が必要です。

 

(3) 「受け手」 の 「性向」 を意識する

 

「言葉責め」 で相手を責めるとは言っても、ただ 「やみ雲」 に暴言を吐いて、罵(ののし)れば良いというわけではありません。

まずは、本人の特性を意識する必要があります。特に SM においては、「相手の性向を意識する」 ことは大変重要です。

相手がマゾヒスト(被虐的性向者)であるならば、「どのような責めにに反応するのか?」 もっと言えば、「どのような責めに対して、性的な興奮を覚えるのか?」 ということです。

屈辱に耐える状態、あるいは、羞恥をくすぐられる状況が居た堪れない(いたたまれない)のか。

「言葉責め」 も、その後、”スパンキング” や ”鞭打ち”、”ロウソク責め” といったプレイに繋げるためのものなのか、それとも 「躾け」 の一環なのか、あるいは、単に焦らしているのか、によっても変わって来ます。

痛い責めの好きな ドM にとっては、「スパンキング」 は ”ご褒美(飴)” ですが、そうでない ドM にとっては、「スパンキング」 は ”お仕置き(鞭)” なわけです。

 

”羞恥心” の塊みたいな子であるからと言って、”屈辱” のスイッチも耐性もない子に対して、そこを直球で責めたりしたら、性的に高まるどころか、逆効果以外のナニモノでもありません。

そういう場合は、例えば、その女性の ”見栄っぱり” なところを叩きたいみたいな 「躾けの一環」 なのか、むしろ、コンプレックスの核心部分を直接弄(いじ)ることによって、自分の優位性を確保し、相手の信用なり敬意を得ようとしたり、あるいは、コンプレックスを解消する方向に誘導しようとしているのか、何かしらの 「思惑」 が必要となります。

そういう場合は、必ず、「鞭」 の後の 「飴」 を用意しなければならない。

 

罵るからには、それを相手にきちんと理解させることも重要です。

子供ではありませんが、今どういう状況にあるかを本人にきちんと認識させ、本人にそれを自覚させ、納得させる。

 

自分の場合は、

 

「この、メス豚がぁぁ~」

 

みたいに相手を罵(ののし)ったりはしませんが(笑)、しかし、そう罵る以上は、相手の容姿を責めている(問題視している)のか、食欲を責めているのか、はたまた貪欲なところを責めているのか。要は、「何故、メス豚なのか」 を、相手に解かりやすい形で、説明出来ないといけません。

 

相手の持つ 「知性」 に対してではなくて、「感情」 にアプローチする以上、理屈っぽすぎてもいけません。

しかし、敬意を払うに足る最低限の 「論理性」 や 「説得性」 は必要ですし、「詭弁(きべん)」、あるいは、「レトリック」 といった 「論理の飛躍」 が必要になる場合があります。

 

責めるだけ、責めてあとどうするのか?

やりっぱなしではダメなわけです。

必要とされているのは、「話術」 であり、「コミュニケーション能力」 。

 

言葉責めが 「馬鹿では出来ない」 と言われる所以(ゆえん)は、相手によって反応が違うということもありますが、少なくとも、相手の反論や反応に対して、適格に答えを返すことも重要です。

 

「言葉責め」 で重要なのは、相手を 「尊重」 し 「期待」 こ答えること。最低でも相手の自分に対する 「信用」 や 「期待」 は裏切らないようにすること。

「言葉責め」 をする前と後で、自分に対する 「信用」・「信頼」 や 「敬意」 は高まり、「好意」 については自分が望んでいる方向に誘導出来ていなければ、意味がありません。

 

(4) 「受け手」 の五感に訴え、相手の五感を制する

 

言葉は、「受け手」 の耳から入って、相手の 「脳」 に直接訴えかけます。以前のコラムにも書きましたが、口は 「諸刃の剣」 であり、「両刃の刃」。人を活かしも殺しもします。

しかし、そればかりではありません。SM のように相手の自由を束縛し、「受け手」 の自由が 「責め手」 によって完全に掌握されている状況下においては、相手の五感に訴えかけることも可能です。

五感のスイッチ。これも、オン・オフの切り替えは、言葉です。

 

① 聴覚に集中させる

 

「何、この音?すごいね。もう、こんなにいやらしい音をたてちゃって・・・」

 

そう囁(ささや)くだけで、神経は聴覚に集中します。

特に、アイマスクを付けて、視覚が遮(さえぎ)られていたりすると、「触覚」 もそうですが、「聴覚」 などは逆に、鋭敏に研ぎ澄まされるもの。

耳元で、耳にわざと吐息をあてながら、「ぼそっ」 と囁(ささや)く言葉も、効果は絶大です。

 

「ほらっ、聞こえる? この音。ほらっ!」

 

独り言を言っているような呟(つぶや)きでもいい。嘲笑でもいい。相手の反応を引き出すような会話を投げかけて、追い込んでみるのも楽しいものです。

 

② 視覚に集中させる

 

アイマスクを付けておらず、視覚が遮られていなかったとしても、「見えてる」 のと、「見る」 のは違います。

 

「うわぁ~、こんなになってる。ほらっ、見てごらん!」

 

この一言で、「見えてる」 という状態から、「見る」 という行為に変わります。こんな具合に言葉を使って、相手の視覚スイッチを操作することも出来るのです。

 

 

大切なこと

 

ここまで書いて多分、十分に納得してくれている人と、全然理解してくれていない人がいると思います。

SM を経験していない人にとっては、実感できない世界。「心理学」 が解からなければ、一般の人には納得できない世界かも知れません。

 

SM は 「催眠術」 ではありません。しかし、女性が気持ち良くなるための 「技術」 や 「仕掛け」 そして、心理学的要素が満載の世界です。

それゆえに、本来は、それを悪用してはいけない世界。

 

そもそも、SM なんて、「真っ当な人」 のやることではありません。

「緊縛師(縄師)」 にしても、「彫師」 にしても、アンダーグラウンドなもの。

サブカルチャーの世界では、名が馳せていようと、世間的には、所詮 「日陰者」 に過ぎません。

しかし、そういう 「酸(す)いも甘い」 も解かってる人だからこそ、心の底には、「人の移(うつ)ろいやすさ」 や 「人の弱さ」 を包み込む 「愛」 がある。 はず・・・。

 

自分は、そう認識しています。

 

とは言うものの、いろいろな人が、それぞれの認識で、SM に関わっているのも事実。

 

大切なのは、SM の 「技術」 でも、そこに隠れる 「心理学」 でもなく、ハートです。

SM は 「愛の表現」 であるということ。

そこがあっての 「方法論」 です。

「相手の気持ち」 を察する能力がない人には、”無理な世界” です。

 

つい最近、朝霞市在住の少女が、2年間もの間、千葉大生に拉致監禁されていた事件。

今の時点では容疑者ですが、しかし自白内容その他を鑑(かんが)みて、この犯人が責められるのは至極当然の成り行きです。

しかし、その裏に居る ”予備軍の多さ” には辟易(へきえい)するところがあります。

ひとつを ”例” にとるならば、「少女は何故逃げなかったか?」 という ”某マスコミの問い” に「違和感」 を全く感じていない人達。

 

某 SNS でも 「残念な人達」 は山のように居ますが、その 「鈍(にぶ)さ」 には呆(あき)れるばかり。(><)

 

そういう人には、「受け手」 の 「責め手」 に対する 「信用」 と 「信頼」。そして、「受け手」 の 「責め手」 に対する 「敬意」 の必要性がわからない筈です。

口では、

 

「お前に人格はない!」

 

と言いつつ、「受け手」 の 「人となり」 を十分と意識し、「尊重」 しているのが SM なのです。