SM とはなにか?(1)
実を言うと、前回のコラムで、「SM は催眠術ではない」 と書いた後で、ふと考え込んでしまいました。本当にそうなのかな?と。
心理学では、フロイト・・・というよりは、ユングに傾倒したことはありますので、催眠療法的なものを否定はしません。
しかし、「催眠術」 というものは、自分自身、学んだこともなければ、SM において、今まで意識したこともなかったというのが本音。
でも、よくよく考えてみると、SM には暗示的な要素が満載です。
「言葉責め」 もそうだし、「緊縛」 もそう。
実は、Wikipedia などで、SM のことを 「加虐性向者と被虐性向者のロールプレイ」 などと言われているのを読むにつけ、内心はむかついていました。
何故かと言われれば、自分自身、「役」 を演じているつもりは全くないから。
自分のやってる SM をロールプレイと言うのなら、それこそ 「夫婦」 だって、家族という枠組みの中での 「ロールプレイ」 と言いたくなってしまう。
事実、オンナであることを、いつの間にか忘れ去られ、妻であり、嫁であり、母であることに翻弄されている女性は少なくありません。
まあ、それは女性限った話でもない。それは男性も一緒です。
役割に振り回され、自分自身が見えなくなってしまう。
後者は、現実に社会的に求められていることであるのだから、「役割(ロール)」 であるのに対し、前者は個人の精神的なものだから、社会的に求められている 「役割(ロール)」 ではない。だから 「ロールプレイ」 という・・・と言うのであれば、まだ納得できるかも知れません。
しかし、「しっくり」 とこない。(苦笑)
もしかしたら、自分の、この 「ロールプレイ」 という用語の捉え方が間違ってるのかも知れません。あるいは、Wikipedia の編集にあたってる専門家?がそこを認識できていないのかも知れません。
動物のもつ 「本能」 から説明するのであれば、「攻撃本能」 は簡単に説明できます。
しかし、「加虐性向」 あるいは 「被虐性向」 といったものは、その動物の 「社会性」 に絡んだ 「心の変性」 としか説明のしようがない。
加虐行為を 「マウンティング」 に例えて説明する人もいますが、それだと被虐性向の説明がつかないわけです。
しかし、自傷行為などの 「被虐(自虐)行為」 は、ストレスの溜まった犬でも起こります。
何がしらの 「個人的な素養」 に 「社会的なストレス」 が加わったことで 「出現」 する、「精神的なバランス」 を取るための 「行為」 が、「快楽」 あるいは 「快感」 と結びついた 「特殊な形態」 と考えるほうが自然です。
自分がストレスを溜め込んだ結果、これを直接晴らそうとする人達。
趣味のスポーツであったり、ジョギングなどを上手く結びつけることが出来れば良いのですが、世の中、ストレスの発散が下手なひとも多いもの。
まあ、スポーツでストレス発散と言っても、現代のストレスはそんなに単純じゃありません。(苦笑)
ストレスを直接的に晴らそうとする人達の場合は、モノに当たったり、他人に当たる人も居れば、自分に当たる人もいます。前者は苛めやDVといった加虐、後者は自傷などの自虐です。
その方向性が、「食欲」 に偏向した人達の場合は、「過食」 や 「拒食」 といった症状になって現れます。
これが、「食欲」 ではなく、「性欲」 に偏向したものが、「多淫症(ニンフォマニア)」 や 「性依存症」 あるいは、その逆の 「冷感症」 や 「潔癖症」。そこに被加虐性が入り込むと、「加虐性向」 や 「被虐性向」 になります。
これはあくまでも仮説です。しかし、この 「仮説」 が正しいとしたら、もしかしたら、人間の 「3大欲求」 と言われる 「食欲」 と 「性欲」 そして、もうひとつの 「睡眠欲」 に現れる人も居るのかも知れません。もしかしたら、「閉じこもり」 や 「引きこもり」 と言われる人達は、その部類に入るのかも知れない。
これらの症状は、ストレスによる過不足を埋め合わせる方向に、行動を取ることで生じたりします。
あるひとは、まだ潜在意識下で眠っている場合もありますし、顕在化している場合もあります。
食事の場合は、寂しさを紛らわせたり、手っ取り早く満足感を得たい場合に取られます。
性欲の場合は、「性的な快感」 を求めている場合もあれば、モノでは飽き足らず、人からの愛情といった充足感を求めている場合もあります。
これに被加虐性が加味されると、現実の自分からの解放的要素が強くなってきます。
自虐性のある M の場合は、自分に成り代わって虐めて貰いたいという意識があります。
また、世間で多くの采配を求められているひとの場合は、現実から逃避し、自分を全て委ねたいという願望に取り付かれている人もいます。
几帳面で、仕事を全部こなす人ほど、この傾向は強いと言えます。夫は頼りにならず、真面目に仕事をこなす 「主婦」 も、この部類かも知れません。
自分は価値のない人間だ・・・と認識しているひともそうでしょう。しかし、それは M にかかわらず S も同様です。
SM の究極とは、いったい何なんでしょう?
極論を言えば、「死」 をも厭(いと)わず、「生」 を享受する(楽しむ)ことでしょうか?
最後に自分が生まれた川を遡上(そじょう)し、最後の余力を振り絞って交尾にたどり着き、朽ち果てる 「鮭」 に近いかも知れません。
死に対する恐怖と怖れ、そして快楽と性欲そして愛が複雑に入り混じった世界。
現実に、そんなことを希望するひとは稀にしかいません。しかし、伊藤晴雨ではありませんが、SM も アートとなると、そんな 「狂気」 も見え隠れします。
浮世のことは、もう何もかもが自分と 「関わりのないもの」 となり、意味をなさなくなる。社会的なものも一切が無意味になる。一見絶望に近い光景です。
しかし、SM のそれは、かなり逆説的に近い。むしろ社会的な呪縛から逃れることで、その瞬間だけでも解放されることで、みなさん自分を取り戻そうとしている。
その絶望の境地に 「活路」 を見出そうとしている部分が見え隠れするから不思議です。
「人の狂気」 に対する畏怖と憧れ。そして警鐘のような気がします。
(つづく)
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