2ntブログ
2016/04/07

言葉責め(3)

では、「言葉責め」 は具体的に、どうやるのか。

 

良くある例としては、オラオラ系の有名な台詞。「おらおらぁ、この牝豚がぁ~」 みたいなのがあることはありますが、これは、どうなんでしょう?

まあ、「オラオラ系」 大好きっ子なんかだと、”陵辱” でもされている気分にでも、なっちゃうのかも知れませんが、まあ、こういうのが好きな人達は、それはそれで構いません。苦笑

 

しかし、SM を実践している人達から見ると、どうしても違和感を覚えずにはいられません。

どうして、違和感を感じるのか? 何が問題なのか?

実を言うと今迄、そんな理由を考えてみたことは、一度もなかったのですが、自分なりに至った結論としては、オラオラ系は、そのスタイルが 「威圧系」 に限定されてしまってるということ。要は、「押し」 のスタイル以外にしっくりとくるものが見当たらないのです。

これでは、単調になり、飽きられやすいばかりでなく、「揺さぶり」 すらかけづらい。

 

「言葉責め」 は、何も ”威圧的” なものばかりではありません。

「言葉責め」 で大事なのは、「飴」 と 「鞭」 の使い分けによる 「ギャップ」 と、「揺さぶり」 です。

 

囲い込んで、逃げ場を無くして、追い詰めて 「おらおらっ」 も ”悪い” とは言いませんが、しかし、そればっかりでは、あまりにも芸がありません。(苦笑)

 

「言葉責め」 は、SM プレイにおける 「二人の世界」 の BGM のようなもの。

 

「責め手」 のキャラクタは、当然 「言葉」 にも表れます。と言うよりは、言葉にこそ、最も色濃く表れると言っても過言ではありません。

 

では、実際のところ、「言葉」 でどうやって責めるのか?

今回のコラムでは、その辺を説明していきたいと思います。

 

 

言葉での責め方

 

(1) 「受け手」 の感情に直接働きかける

 

「言葉責め」 では、人間の五感である 視覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚、そのうちのひとつである聴覚を介して、耳から 「受け手」 の感情に訴えかけます。感情とは、喜怒哀楽の類のもの。

あくまでも感情や情動に訴えかける。理性を眠らせるのも言葉。

SM に使われる道具の類に、視覚的な効果もあるのだとしたら、バラ鞭の 「パシ~ン」 って音もそうかも知れないけど、「言葉責め」 は SM には不可欠な BGM 。

 

「言葉責め」 は、”言葉” とは言うものの、言葉にならない類のもの。例えば、嘲笑の笑い声や、息遣いなどから、声の高さや声の質、抑揚など、言葉ではないノンバーバル(非言語的)な要素も多々入ってきます。

言葉も大事ですが、それ以上に大事なのは 「気迫」 とか 「雰囲気」 です。

 

(2) 「責め」 の方向性を意識する

 

SM における主従関係もそうですが、一般の恋愛関係でもある意味同じ。

主従愛であれ、一般の恋愛であれ、「愛」 を育(はぐく)むためには、まずは最低限、以下の条件が満たされてなければなりません。

 

① 相手が、自分を 「信用」 し、「信頼」 ていること。

② 自分に対して、何らかの 「敬意」 を持っている、あるいは、自分を 「尊重」 してくれていること。

③ そして、自分に対して、相手が 「好意」 を持っていること。

 

これが双方向で成立して、始めて 「恋愛」 となるわけです。

程度問題はありますが、多分、どれが欠落していても、十分な 「満足」 とは程遠い。

もし、そこに不足が見られるのであれば、それを補わせるのは 「言葉」 。

そして相手に 「感謝」 の気持ちを伝えるのも 「言葉」 です。

 

① の 「信用」 や 「信頼」 も ② の 「敬意」 や 「尊重」 も、そして ③ の 「好意」 も、どれも一方的なものです。

しかし、① や ② は、「愛」 を支える基本的な構成要素であるのに対して、③ の 「好意」 は、その裏に 「期待」 や 「欲」 を孕(はら)んでる場合もあるので要注意。場合によっては、かなり ”扱い” が 「厄介」 な代物(しろもの)です。

 

「期待」 にも 「良い期待」 と 「悪い期待」 があります。「期待はゼロ」 でもいけませんが、「過剰な期待」 もいけません。

それは、一般の恋愛や結婚生活に限らず、”通常の人間関係” においてもそう。

トラブルを引き起こすのは、必ずと言っていいほど、この 「好意」 の陰に隠れた 「期待」 の部分です。

 

これは SM においても当て嵌(は)まります。SM では基本、① と ② は不足しないように補いつつ、③ については、責め手である 「S」 が 受け手である 「M」 をコントロールします。

それは 「言葉責め」 でも同じ。

この 「方向性」 を間違えると、「頓珍漢(とんちんかん)」 なプレイになってしまいます。白けてしまう程度なら良いのですが、しかし、あまり度を重なると、お互いの関係を壊してしまい兼ねませんので注意が必要です。

 

(3) 「受け手」 の 「性向」 を意識する

 

「言葉責め」 で相手を責めるとは言っても、ただ 「やみ雲」 に暴言を吐いて、罵(ののし)れば良いというわけではありません。

まずは、本人の特性を意識する必要があります。特に SM においては、「相手の性向を意識する」 ことは大変重要です。

相手がマゾヒスト(被虐的性向者)であるならば、「どのような責めにに反応するのか?」 もっと言えば、「どのような責めに対して、性的な興奮を覚えるのか?」 ということです。

屈辱に耐える状態、あるいは、羞恥をくすぐられる状況が居た堪れない(いたたまれない)のか。

「言葉責め」 も、その後、”スパンキング” や ”鞭打ち”、”ロウソク責め” といったプレイに繋げるためのものなのか、それとも 「躾け」 の一環なのか、あるいは、単に焦らしているのか、によっても変わって来ます。

痛い責めの好きな ドM にとっては、「スパンキング」 は ”ご褒美(飴)” ですが、そうでない ドM にとっては、「スパンキング」 は ”お仕置き(鞭)” なわけです。

 

”羞恥心” の塊みたいな子であるからと言って、”屈辱” のスイッチも耐性もない子に対して、そこを直球で責めたりしたら、性的に高まるどころか、逆効果以外のナニモノでもありません。

そういう場合は、例えば、その女性の ”見栄っぱり” なところを叩きたいみたいな 「躾けの一環」 なのか、むしろ、コンプレックスの核心部分を直接弄(いじ)ることによって、自分の優位性を確保し、相手の信用なり敬意を得ようとしたり、あるいは、コンプレックスを解消する方向に誘導しようとしているのか、何かしらの 「思惑」 が必要となります。

そういう場合は、必ず、「鞭」 の後の 「飴」 を用意しなければならない。

 

罵るからには、それを相手にきちんと理解させることも重要です。

子供ではありませんが、今どういう状況にあるかを本人にきちんと認識させ、本人にそれを自覚させ、納得させる。

 

自分の場合は、

 

「この、メス豚がぁぁ~」

 

みたいに相手を罵(ののし)ったりはしませんが(笑)、しかし、そう罵る以上は、相手の容姿を責めている(問題視している)のか、食欲を責めているのか、はたまた貪欲なところを責めているのか。要は、「何故、メス豚なのか」 を、相手に解かりやすい形で、説明出来ないといけません。

 

相手の持つ 「知性」 に対してではなくて、「感情」 にアプローチする以上、理屈っぽすぎてもいけません。

しかし、敬意を払うに足る最低限の 「論理性」 や 「説得性」 は必要ですし、「詭弁(きべん)」、あるいは、「レトリック」 といった 「論理の飛躍」 が必要になる場合があります。

 

責めるだけ、責めてあとどうするのか?

やりっぱなしではダメなわけです。

必要とされているのは、「話術」 であり、「コミュニケーション能力」 。

 

言葉責めが 「馬鹿では出来ない」 と言われる所以(ゆえん)は、相手によって反応が違うということもありますが、少なくとも、相手の反論や反応に対して、適格に答えを返すことも重要です。

 

「言葉責め」 で重要なのは、相手を 「尊重」 し 「期待」 こ答えること。最低でも相手の自分に対する 「信用」 や 「期待」 は裏切らないようにすること。

「言葉責め」 をする前と後で、自分に対する 「信用」・「信頼」 や 「敬意」 は高まり、「好意」 については自分が望んでいる方向に誘導出来ていなければ、意味がありません。

 

(4) 「受け手」 の五感に訴え、相手の五感を制する

 

言葉は、「受け手」 の耳から入って、相手の 「脳」 に直接訴えかけます。以前のコラムにも書きましたが、口は 「諸刃の剣」 であり、「両刃の刃」。人を活かしも殺しもします。

しかし、そればかりではありません。SM のように相手の自由を束縛し、「受け手」 の自由が 「責め手」 によって完全に掌握されている状況下においては、相手の五感に訴えかけることも可能です。

五感のスイッチ。これも、オン・オフの切り替えは、言葉です。

 

① 聴覚に集中させる

 

「何、この音?すごいね。もう、こんなにいやらしい音をたてちゃって・・・」

 

そう囁(ささや)くだけで、神経は聴覚に集中します。

特に、アイマスクを付けて、視覚が遮(さえぎ)られていたりすると、「触覚」 もそうですが、「聴覚」 などは逆に、鋭敏に研ぎ澄まされるもの。

耳元で、耳にわざと吐息をあてながら、「ぼそっ」 と囁(ささや)く言葉も、効果は絶大です。

 

「ほらっ、聞こえる? この音。ほらっ!」

 

独り言を言っているような呟(つぶや)きでもいい。嘲笑でもいい。相手の反応を引き出すような会話を投げかけて、追い込んでみるのも楽しいものです。

 

② 視覚に集中させる

 

アイマスクを付けておらず、視覚が遮られていなかったとしても、「見えてる」 のと、「見る」 のは違います。

 

「うわぁ~、こんなになってる。ほらっ、見てごらん!」

 

この一言で、「見えてる」 という状態から、「見る」 という行為に変わります。こんな具合に言葉を使って、相手の視覚スイッチを操作することも出来るのです。

 

 

大切なこと

 

ここまで書いて多分、十分に納得してくれている人と、全然理解してくれていない人がいると思います。

SM を経験していない人にとっては、実感できない世界。「心理学」 が解からなければ、一般の人には納得できない世界かも知れません。

 

SM は 「催眠術」 ではありません。しかし、女性が気持ち良くなるための 「技術」 や 「仕掛け」 そして、心理学的要素が満載の世界です。

それゆえに、本来は、それを悪用してはいけない世界。

 

そもそも、SM なんて、「真っ当な人」 のやることではありません。

「緊縛師(縄師)」 にしても、「彫師」 にしても、アンダーグラウンドなもの。

サブカルチャーの世界では、名が馳せていようと、世間的には、所詮 「日陰者」 に過ぎません。

しかし、そういう 「酸(す)いも甘い」 も解かってる人だからこそ、心の底には、「人の移(うつ)ろいやすさ」 や 「人の弱さ」 を包み込む 「愛」 がある。 はず・・・。

 

自分は、そう認識しています。

 

とは言うものの、いろいろな人が、それぞれの認識で、SM に関わっているのも事実。

 

大切なのは、SM の 「技術」 でも、そこに隠れる 「心理学」 でもなく、ハートです。

SM は 「愛の表現」 であるということ。

そこがあっての 「方法論」 です。

「相手の気持ち」 を察する能力がない人には、”無理な世界” です。

 

つい最近、朝霞市在住の少女が、2年間もの間、千葉大生に拉致監禁されていた事件。

今の時点では容疑者ですが、しかし自白内容その他を鑑(かんが)みて、この犯人が責められるのは至極当然の成り行きです。

しかし、その裏に居る ”予備軍の多さ” には辟易(へきえい)するところがあります。

ひとつを ”例” にとるならば、「少女は何故逃げなかったか?」 という ”某マスコミの問い” に「違和感」 を全く感じていない人達。

 

某 SNS でも 「残念な人達」 は山のように居ますが、その 「鈍(にぶ)さ」 には呆(あき)れるばかり。(><)

 

そういう人には、「受け手」 の 「責め手」 に対する 「信用」 と 「信頼」。そして、「受け手」 の 「責め手」 に対する 「敬意」 の必要性がわからない筈です。

口では、

 

「お前に人格はない!」

 

と言いつつ、「受け手」 の 「人となり」 を十分と意識し、「尊重」 しているのが SM なのです。

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