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2016/01/30

「緊縛キューピー」 はじめてみませんか?

 

今、塩化ビニール製のミニキューピーを使った緊縛が、静かなブームになっています ♪

塩化ビニールのミニキューピーは、手芸用品店等で売っている高さ 5 cm くらいのものを使用します。今回使用した写真のものは、ユザワヤで購入したもの。
糸は手芸糸がいいでしょう。写真のものは、3本寄りの 「6号のタコ糸」 の1本の抜いたものを使用していますが、縛りに使える胴体の部分は 1.5 cm あるかないかですので、これでも太い。(> <)
縄目感のある 「絹飾り糸」 を緊縛さながらに二つ折りにして使用してもいいでしょう。

ミニキューピーの緊縛に適した糸選びは、今後の課題です(笑)

ちなみに、この写真にある緊縛例では、一切接着剤を使用していません。
また、結び目をつくるとコブがおおきくなるので、このときに作った結び目は、最後に結わいた部分だけ。
接着剤での仮留めも出来ず、楊枝1本の手作業ともなると、締め過ぎすぎると、糸が通らなくなりますし、糸の弾力もあって、なかなか厄介。糸のテンションの調整だけでも一苦労です。(苦笑)
はっきり言って、人を縛る方が全然楽です (笑)

作業は、手術の縫合さながらです(笑)
道具はピンセットに針は必須。鋏(はさみ)は、小型の 「化粧ハサミ」 のような先の鋭いものが良いかも知れません。返しのない釣り針も糸を通すには、便利かも知れません。

どのような道具を用意するかも、これからの課題です(笑)


 

亀甲の場合は良いのですが、後ろ手に縛り上げようとすると、腕がまっすぐなので、なかなか困難。しかし、手はぴったりと合わないまでも、ミニキューピーの腕を後ろに回して強く縛りあげれば、それらしく縛ることは出来ます。
一番の難点は、ミニキューピーの肩が撫で肩なので、どうしても肩がすべって胸縄がすっぽ抜け易くなってしまうこと。
出来れば、ミニキューピーにも、手は加えたくないところですが、緊縛を愛好する者からすると、最初から最後まで、出きれば、縄に接着剤は使いたくありません。
ミニキューピーの身体に熱した金属パイプかコテでもあてて、肩の部分にくぼみを作るしか、方法はなさそうです。

ミニキューピーの胴体の加工方法も、これからの課題と言えます(笑)

よろしかったら、みなさんも挑戦してみませんか?笑

今後、「緊縛キューピー」 愛好者同士での品評会や勉強会なども開催する予定です。
面識のない方で、参加ご希望の方、興味がお有りになる方は、コメント欄にメッセージをお願い致します ☆

2016/01/29

ぬしもなかなかのワルよの~っ(笑)

【ピグ限定】1月の振り返りブログを書こう! ブログネタ:【ピグ限定】1月の振り返りブログを書こう! 参加中


 

いあいあ、ワルぶってる格好してますが、ぜんぜんワルやないですぅ~
ちょびっとだけですぅ~

でも .... 誰かにもらった 「贈賄饅頭」。
まさか、このシーン ・・・
こっそり録音されてたり、盗み撮りされてたりしないよな?苦笑
ラインは、してないから平気ね www

甘利さんには、一度、何かのセレモニーでお目に掛かったことあるけど、
しかし、秘書ちゃん甘々やなっ (> <)
ベッキーも甘々で二人共オワタけど、

そこは謙虚に、自分も気をつけよう!!

センテンススプリングぅ~、
チョビみたいな小物は載せても、紙面の無駄やで~
何のスクープにもならへんで~

2016/01/29

【縄04】 亀甲縛り(菱縄縛り)


 

SM に明るくない方でも、何故か知っているのが、この 「亀甲縛り(きっこうしばり)」。

亀甲縛りの菱縄縛りも、身体を編むように縛っていきますが、腕や足を拘束しません。
「菱縄縛り(ひしなわしばり)」 も感じが似てるためか 「亀甲縛り」 と混同されやすいのですが、
菱縄縛りは、縄目が菱形になるように縛るのに対して、亀甲縛りは、縄目が亀の甲羅(こうら)の紋様のように六角形になるように縛るので、厳密には区別します。
但し、実際には、受け手の体系がきれいに見えるように、菱形と亀甲を織り交ぜたりしますので、分類が微妙な場合も少なくありません(笑)

もともとは、江戸時代の捕縄術(とりなわじゅつ)で、縄抜けされないよう、腹部などに大きな亀甲紋様が描かれるように縛り、麻縄が伸縮することで弛(ゆる)みが生じないようにしていた結び方を取り入れた縛り方です。

股縄の通し方や、背中側からの縄の通し方には、いろいろとバリエーションがありますが、自分で自分を縛る自縛(じばく)にも適しています。

女性は下着に対して特殊な思い入れがあったりしますが、亀甲縛りの良さは、受け手の女性が縄で縛られてる自分を見て、美しいと感じるところ。
全体に伸縮が利くようになりますので、縛りは一見緩やかですが、一方を引っ張ると全体的に絞まりますので、もしかしたら、そういった感じも、縄に抱かれているような感覚があって、良いのかも知れません。

一本の縄を編みこむようにして縛りあげるので、柔軟性のある縛り方ではありますが、但し、肩に当たる部分と股の部分の縄には、かなりの、力が掛かります。
また、身体の正面真ん中を通る正中線上には、たくさんの経絡(つぼ)がありますが、亀甲縛りは、その正中線上に縄の結び目がきますので、強く圧迫しすぎると、痛みが残る場合があるので、無理な扱いは禁物です。

股縄は、結び目を作り、結び目が丁度陰核にあたるように、股間前方から後方に通す縄を言います。身体を動かすと、当然、この股縄も擦れ合いますので、陰核を刺激することになります。
また、この股縄に、ローターや電マをはさんで固定しやすいという特徴もありますが、この場合の欠点は、股を通した縄が邪魔になるので、合体して挿入するのには適していないということ。
その場合には、同じ股縄であっても、結び目を作らず、横縄を編みこむ際に、股縄に横縄を通して、足の付け根の鼠径部(そけいぶ)の方に股縄を通すようにします。


個人的に思う、この縛りが利点。それは、やはり受け手である女性のウケがいいことと、その伸縮性にあります。
高手小手が、受け手を観念させる 「従属の縛り」 であるとしたら、亀甲は、女性を縄で抱きしめる 「愛の縛り」 と言えます。

自分の場合、個人的に拘(こだわ)っているのは、ここに開脚状態で縛った脚縄を繋ぎ込んで、股を閉じようとすると、亀甲が締まるような縛りです。(笑)

亀甲に胸縄を巻いて後ろ手で縛る人も居ますが、折角の伸縮が台無しだし、美しくありません。捕り縄的にも、高手を固定するなら、うまく亀甲に絡めて貰いたいところ。
普段は、後ろ手が多くなりがちなこともあり、亀甲の場合は敢えて、前手で小手を縛って、諸手をあげさせたりしています。(笑)

2016/01/28

「主」 と 「奴隷」 の世界

前回のコラムでは、SM における 「奴隷」 の意味を説明しました。しかし、SM において何故、「主従関係」 は必須か? という問いについては、十分に書き切れませんでした。
この辺りは、人によってもまちまちでしょうし、だいたい、普段そこまで深く考え SM に興じてるひとなんか、自分を含めても皆無でしょう (苦笑)
それならば、自分のことを書けばいいわけですが、それでも自分自身、十分に整理しきれているわけではありません。
しかし、このまま放置するのも癪(しゃく)ですし、折角の機会なので、うまくまとめ切れるかはどうかは分かりませんが、リベンジの意味で、もう少し、自分を振り返って書き下ろしてみたいと思います。


まず断言できるのは、SMとは、サディストとマゾヒストの ”恋愛のようなもの” であり、かつ、”共生関係みたいなもの” であるということ。
しかし、通常の恋愛と同じかというと、やはり違います。

S は、相手を虐(いじ)めて性的に興奮し、M は、逆に相手に虐められて性的な快感を得る。
M にとっては、相手が誰でもいいのではなく、自分が認めた相手。自分が許容できる相手でなければなりません。そこが最低ラインです。そこに、信用と信頼が求められることは、以前、別のコラムにも書きました。
しかし、この状況だけでは、M は S に自分の身体を委ねてはいるものの、S に責めさせて、自分が気持ち良くなっているという見方も出来ないわけではありません。

良い例が、「エゴマゾ」 と呼ばれている人達です。もし実際に自分に対して、そんな尊大な態度をとる 「勘違いの M」 がいたとしたら、果たして自制できるかどうか?
どんなプレイになってしまうのか若干不安もありますが、徹底的に躾(しつ)け直すか、それすら諦(あきら)めて、野に放すか(苦笑)

「SM ごっこ」 や 「金銭の授受を伴うサービス」 であるならまだ割り切りもしますが、そもそも、「ホンモノの S」  が、そんな都合の良い状況を許容できる筈もありません。

そんな絶対的な服従もなしの相手には、「愛」 など与えません。そんな子に対して、わざわざ自分の体力を消耗するのはもったいない。電マでも、突っ込んでおけばいい(笑)
あとは、名実共に肉便器にするくらいしか使い道ありません(苦笑)
下手にプライドが高く虚栄心の強い女性であれば、緊縛したまま浣腸でもして、そのまま、空の浴槽に放置するのも良いかも知れない(笑)


幸か不幸か、まだ実際のプレイでは、そのような人には巡り合っていません。

自分にとって 「主従関係」 は、S が M と戯(たわむ)れる際の手綱(たづな)のようなもの。そして、相手を 「愛」 するために必要不可欠なもの。愛の根拠みたいなもの。
ですので、「主従関係」 が強まってくれば愛も強まりますし、その逆に 「主従関係」 が薄まれば、それだけ愛も冷めます。どうでも良くなってきます。

愛は愛でも、一般の 「恋愛」 のように対等なものではありません。やっぱり 「主従愛」 です。
ペットを人間の感覚で飼うひとは多くなってきてると思いますが、その感覚に近い(笑)

複数のわんこを飼ってるひとは、一方のわんこが可愛がられているときに、もう一方のわんこが、自分も構ってもらいたくて大声で 「わんわん」 吠えたら、ペシンと頭を叩くでしょう(笑)
それが、正しい飼い方かどうかは解かりませんが、どんなにペットを人のように愛していたとしても、飼い主は、犬には人権は認めませんし、絶対的な服従を求めます。

しかし、これは勿論、S のスイッチが入ってるときの話 (苦笑)
スイッチが入っていないときは、普通の恋人同士とさほど変わりなく、甘えたり甘えられたり、バカ話もすれば、真面目な話もします。
もともと、自己中でも鬼畜でもなければ、オラオラ系の人間であるわけでもありません。人並みの良識とデリカシーは持ち合わせているつもりです。(苦笑)
しかし、S のスイッチが切れても、主従愛が通常の恋愛に変わることはありません。
むしろ、一般の恋愛のときよりも、相手に対するいたわりの気持ちは強いかも知れません。


そもそも、S は何に感じているのか?

加虐行為そのもの。例えば相手を叩いたり、痛めつける行為そのものに快感を感じているわけではありません。それならば、カラテの組み手でもいいし、柔道の乱捕りでもして発散させてればいい(笑)
M を責めることで S が感じるというよりは、責めたあとの M の反応をみて、感じているわけです。
この辺は、S が全部が全部そうなのか、聞いて回ったわけではありませんので、あくまでも、自分の個人的な見解です。

S は、自分の支配欲・征服欲を満たして、どうのこうの・・・みたいな説明もありますが、実際のところ、自分が何処(どこ)で支配欲や征服欲を満たしているかというと微妙で良く解かりません(苦笑)

ギャーギャー、ヒーヒー、すすり泣きは、BGM としては最高です。自分の S のボルテージを高めてくれます。

自分の手の平の上で、相手を転がしてる感覚というとあまりにも抽象的ですが、例えば、相手が本能的に見せる反応を、言葉で制して、相手にその逆のことをさせたりするのは、そのこと自体も快感ではありますが、どちらかというと場をコントロールしていく上で、必要不可欠な感じがしています。

やはり一番は、自分の命令によってではなく、自分の愛奴自らが、心の奥底から自発的に吐露する反応です。言わせたわけでもない言葉を自ら吐くときなどは、官能的で、時には思わず、自分が逝きそうになってしまいそうになる場合もあります。

多分、自分の手の平の上で、ピクピクと痙攣(けいれん)するのを見るのが好きなのかも知れない。


SM における 「主従関係」 は、自分にとっては、SM のプレイを自分の思い通りに操(あやつ)る手綱であると同時に、SM における 「主従愛」 を表わすバロメータでもあります。

「主従関係」 を伴わない、ある意味 「敬意」 や 「尊敬」 が伴わない、肉体だけの SM プレイは、自分にとっては 「愛のないセックス」 みたいなもの。
それならば、恋人同士の 「SM ごっこ」 の方が、まだそこには 「恋愛」 があるので、マシと言うもの(苦笑)
そんな思いが、ひとつ前のコラムで、「SM で ”主従関係” は必須」 みたいな答えを導いたのかも知れません。


SM は、一見、肉体に物理的な刺激を与えては喜びあってるように見えますが、その真骨頂であり醍醐味は、心の世界での交わりです。
浮世のしがらみを忘れ、社会の常識やらしがらみから解放され・・・交わる。

M は、自分の防衛本能を脱ぎ捨て、恐怖心を克服し、そして、虚栄心とかプライドといった 「心の鎧(よろい)」 や 「欲」 を脱ぎ捨てて、愛し合うわけです。
S は、身体を縛りますが、実際のところは心をも縛り、そして、M の見せる ”至極のピクピク” を見て、そして同時に逝くのです(笑)

二人が一体になろうとするのに、自由も人格も不要です。S が統制する以上、M は信用し信頼して、身も心も委ねればいい。主の命令は絶対で、M には人としての尊厳もないのです。
神が、アダムとイブを造る前の状態に戻るわけです。


しかし、当然ではありますが、そんな簡単に ”至極” に到達できるはずもありません。(笑)

だからこそ、一歩一歩、S は M に課題を与え、それを乗り越えられたときに、S は M に 「たくさんの愛」 を与える。
M はそこで 「愛」 を確認し、不安が解消され、次の新たな目標に向かって二人で進む。
そういう愛の積み重ねがあって、はじめて到達できる。

それが自分の理解する SM の 「主」 と 「奴隷」 の世界です。
2016/01/24

「奴隷」 の意味

SM では良く、「主従関係」 にある従属者や、あるいは、その従属関係を 「奴隷」 に例えます。
「奴隷」 以外にも、「愛奴」 とか 「性奴隷」 あるいは 「家畜」 とか 「ペット(愛玩動物)」 みたいな表現が使われたりしますが、これらは、いずれも、人としての尊厳を認められておらず 「所有物」 として扱われる存在であることを示しています。

これらはいずれも、主従関係にある二人の 「より具体的な関係性」 や、従属者を表す 「メタファー(metaphor)」 です。
メタファーとは、日本語では 「暗喩(あんゆ)」 とか 「隠喩(いんゆ)」 と言いますが、要は、違うものではある (それそのものではない)けれども、イメージを捉(とら)えるのに適当な例・・・みたいなもの。

ですので、ここで、古代ローマ帝国の奴隷制の話や、旧約聖書にあるアブラハムが奴隷ハガルとの間に子供をもうけた話。あるいは、南北戦争以前のアメリカでの奴隷売買の話をして、表面的な類似性を細々と説明したところで、「奴隷」 の理解には役立ちますが、あまり本質的ではありません。


SM は 「愛」 です。一般社会における婚姻や恋愛が、対等な関係であるとするならば、SM の関係は対等ではありません。「主従関係」 が基本。
主従関係とは即(すなわ)ち、基本、主の命令には絶対的に服従します・・・ということです。

相互に対等な関係ではありませんので、二者の関係を 「恋愛」 とは呼びませんし、特定の相手のことを指して、恋人とか彼氏彼女とは呼び合いません。
二人の関係が、主と奴隷のような隷属関係をイメージしているのであれば、従属者を 「奴隷」 と呼び、人間と家畜の関係に近いと認識しているのであれば 「家畜」 と呼んでいるだけです。
しかし、あくまでも、二人の世界観によるものであり、それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。

では、SM に 「主従関係」 は必須なのか?

主従関係の形式性については、いろいろと議論の余地がありますが、個人的には、当事者間で相互に、「主従関係」 にあるという認識は必要だと思っています。
その認識が薄れるとどうなるか?確実に、”SM の精神性みたいなもの” が薄れていきますから、当然 「SM ごっこ」 的性格が強くなってくるように感じます。
愛のあるセックスと愛のないセックスの違いに似ています。

しかし、「主従関係」 は、「信用」 や 「信頼」 と同じ側面もあります。ですので、「信用」 や 「信頼」 が一朝一夕で得られないのと同様、「主従関係」 も、いきなり築きあげれるものでもありません。少しずつ、お互いの時を重ねて、積み重ねられていくに従って、確固たるものになっていくものだと思っています。

人によっては、「奴隷契約書」 の類(たぐい)を作成して、そこに詳細を規定する人もいます。実際に作成した人によると、契約としての重みを実感している人も少なくないようですが、そもそも公序良俗に反しますので、当前ではありますが、法的拘束力を持つものではありません。

法的な効力を期待する、民法や商法でいう 「契約」 というよりは、どちらかというと、宗教などにおける 「(神との)契約」 に、より近いものと言えば、解かりやすいでしょう。
ここで言う 「契約」 は、当事者である 「主」 と 「奴隷」 のみが知る二人だけの約束事であり、二人の間の 「誓い」 なのです。


では、SM における 「主従関係」 には何が求められるのか?

主従関係を築き、奴隷となることは、身も心も、主に捧げるという意味です。
そこで奴隷に求められるのは、基本的には、「人としての尊厳・人格を捨て去ること」、そして、「主の命令には、絶対的に服従すること」 の2点です。
これを日常的に持ち続けることを要求するか、プレイの間だけに限定するか。その辺は、人によります。
また、程度の差はありますが、信用と信頼による裏打ちに加えて、「愛情」 と 「尊敬」 の心がなければ、そうそう簡単に出来るものではありません。

以上は、基本です。


とは言え、主を主とも思わず、「主従関係」 もへったくれもなく、自分の都合の良い要求ばかりを並び立てる、エゴ丸出しの ドM ちゃんも、少なからずいます。
こういう人は、「エゴマゾ」 とか呼ばれていますけど、大抵の場合、躾けもなってないので、多少可愛かったりして飼われても、面倒で飼いきれなくなって放されたり、あるいは、自分から耐え切れなくなって逃げ出しちゃったり。
いずれにしても辛抱が出来ないので、すぐに野良になる運命にあります。

結局、自分のプライドとか心が傷付かないように、守りに入っているので、SM で、ストレス発散は出来ても、心が解放されませんので、満たされません。
結果、相手に不平不満を覚えこそすれ、感謝の気持ちなんて、これっぽっちも沸きませんから、悪循環を起こし始めます(苦笑)

「自称ドS くん」 も困ったもんですが、M でタチの悪いのが、この 「エゴマゾ」 タイプです。

単に M のスイッチを入れてくれて、性感マッサージを受けたいだけなのであれば、「主従関係」 は不要ですが、この場合、それこそ、M はマグロの M、S はサービスの S になってしまいます。(苦笑)
金銭的対価のある SM クラブなら、まだしもですが、通常の SM カップルの場合は、余程、相性が良かったり、あるいは、相手に旨味がない限りは有り得ません(苦笑)


SM において 「主従関係」 は基本です。
2016/01/23

とある出会いと別れ - B子の場合 3

※ この小説は、フィクションであり、実在する個人・会社・組織団体とは、
※ 一切関係ありません。

(前回からのつづき)

逢瀬(おうせ)を繰り返す毎に、次第と B子 の家庭像が見えてくる。

B子の旦那は、自分で家庭の物事を全て決定し、指図をして、その通りにすることを望む 「自己中心的」 な男性。しかも、好みとか事の仔細に至るまで指示されることにあるようで、自分の考えが常に正しく、他人の価値感や意見を受け入れられない気質のようである。
そして、他人に自分の価値感を受け入れ、従うことを強(し)いるものの、指図に従わなかったり、無視したりすると、モノに当り散らす。

直接手を出さないだけ、まだマシではあるが、しかし、家族にとってみれば、モノに当り散らす行為も、度々繰り返されると、恐怖心を植えつけられ、萎縮(いしゅく)してしまうものである。
そのためか、B 子や B子の息子にとって 「家庭」 はもはや、外から帰って来て 「ほっ」 と一息を付く憩(いこ)いの場ではなく、父親の顔色を伺う場と化してしまっているようだった。

そして、そんな息子も反抗期に差し掛かり、外で問題を起こすようになってきていることが、母親の B子にとっては、一番の悩みになっていた。

そうこうしているうちに夏休み。

夏休みは、不倫カップルにとっては最大の鬼門。それは、家に子供が居て、主婦は、なかなか家を空けれないからである。

子供との時間が増える一方で、子供がだんだん手を付けられなくなっていく。そんな状況下で、不倫という行為に対しては、良心の呵責(かしゃく)など一切感じない B子ではあったが、息子が自分以上に家庭問題で苦しんでいる中、さすがに、子供に対する呵責の意識からは逃れられなかったようである。

最後まで、自分の抱えている問題を口にせず、しかし、会うことを先延ばしにする B子。しかし、最後に出た言葉は、

「息子が苦しんでいるのに、自分だけ気持ち良くなるなんて出来ない・・・」

という言葉だった。親にとって子供という存在。特に、母親にとって息子という存在は、どんな状況にあったとしても、決して割り切れることのない存在である。

夏の終わり。 まだ残暑も残る中、一足早く秋風が通り抜けた。


【あとがき】

こういう話は、どちらか一方の言い分だけでは、正確な状況は把握できないものである。両方の言い分を聞けば、双方に問題があることは多いので、あくまでも、これは B子の言い分として割り引いて考える必要はある。

「他人の話を聞けない」 男も確かに多い。一時期、脳生理学的な側面から男女の行動差を説明した 「人の話を聞かない男、地図を読めない女」 なんて本がベストセラーになったくらいである。B 子の旦那に限った話ではない。
それに、自分で家庭の物事を全て決定し、指図をして、その通りにすることを望むという、リーダーシップが、家庭内で何か大きな問題が生じたときに発揮されるのであれば、家長としての役割をきちんと果たしている立派な旦那・・・ということになりそうなものである。
しかし、そうならないのは、どうも、好みといった 「人の価値感」 の領域にまで踏み込んでいるからのようである。

自分の考えが常に正しく、他人の価値感や意見を受け入れられないのは、「自己中心性」 の強い現れである。
そして、他人に自分の価値感を受け入れ、従うことを強(し)いるものの、指図に従わなかったり、無視したりすると、モノに当り散らす。
自分の思いを上手く表現できるのであれば、モノに当たらずとも、説得できる筈であるし、もし正論であるならば、家族もそれなりに感化されていく筈である。
これは、自分の思いを説明できないため、自分の思う通りにならないと、癇癪(かんしゃく)を起こす子供に近いが、そもそも、価値感の優劣を論理的に説明できるひとは誰もいない。
要は、常に、自分の思い込みや価値感を押し付けてくるところに問題がある。

特徴的だったのは、B 子の旦那は、「家族とは、常に行動を共にするもの」 という思いが強い・・・と B 子が言っていたこと。

自己中の旦那が、自己の思い込みや価値感を家族に強要し、かつ、旦那が仕事で不在の場合を除き、”そこに居ない” という選択肢が取れないのである。
ここまでくると、完全なる DV である。


そんな DV を DV と思わず耐えてきた息子も、反抗期に差し掛かることになる。

男性に強く現れる反抗期。これは、今までは女性と同列で保護の対象となっていた 「(男の)子供」 から、自立した 「男」 に変わることを意味している。
ボス猿が牛耳る猿山の群れの中では、もはや保護の対象ではなく、一人前の男として、序列が付けられて、その序列に応じた生き方が求められる、その準備段階なわけである。
そこで大事なのは、男性の手本たる父親から、一人前として認められること。「承認欲求」 が強く働いてきているのである。
しかし、そんな父親からは、押し付けにダメ出しばかりか、自分の価値感すら認めてくれない始末。当然、父親を尊敬している筈もないので、無意識下で、父親を自分の理想として結び付けようとする本能との乖離(かいり)も生じる。

家庭で生じた心の歪(ゆが)みが、家庭内では解消できず、その結果が、外で出てしまっているだけのこと。
父親が、息子を価値感を認め、対等な 「男」 として息子を認めない以上、息子の反抗は留まることを知らない。取っ組み合いや、殴(なぐ)り合いも、その承認が得られないときの最終手段である。
むしろ、息子は空手を習っているので、本来であれば、取っ組み合いをするのが、一番手っ取り早いのである。しかし、それが出来ないのは、幼少の頃から、ずっと子供心に擦(す)り込まれてきた 「豹変する父親」 に対する怖れの気持ちである。


苦しむ息子を見てて、何も思わない母親はいない。B 子はもう、これっぽっちも旦那のことは、愛していない。だからと言って、B 子を縛った自分のことを愛してるわけでもない。
B 子が愛してるのは、自分の子供。ましてや息子である。母親である B子にとっては、これ以上ない掛け替えのない存在である。
もがき苦しむ最愛の息子の姿を見て、自分は快楽に浸るなんてことが出来る器用な女性は、まあ、まず居ないと考えて間違いない。

毎日の生活からくるストレスによって生じた、彼女の心の中の歪(ゆが)み。もしかしたら、それが性的欲求と結びついて、彼女の SM 願望を肥大化させていったのかも知れない。

離婚を勧めるのは簡単である。男と女は分かれてしまえば赤の他人である。しかし、子供はそうはいかない。ましてや、子供が思春期に受ける傷としては決して軽くない。
B 子も馬鹿ではない。そんなことくらいは重々承知である。
結局、母親は、息子と父親が対峙する日を見守ることしか出来ない。

B 子を通して、世の中のお母さん達の大変さを垣間見たような気がする。
B 子とは、つかの間の縁だったけれども、大事に至らないように、この時期をうまく乗り越えていって貰いたいと切に願っている。

(完)
2016/01/20

とある出会いと別れ - B子の場合 1

※ この小説は、フィクションであり、実在する個人・会社・組織団体とは、
※ 一切関係ありません。

【本文】

B子は、某ソーシャルで出会って SM 調教をした、一番最初の主婦。
旦那と中学一年生のひとり息子の3人家族。
ナチュラルなテイストを好むお洒落さん。小柄で口下手なせいもあってか、ちょっとコケティッシュで、かわいらしい印象を受ける子。
昼間は週の何日か、近所のスーパーでパート勤めをしているものの、料理好きもあってか、夕食も手抜きをせず、きちんと毎食手料理で、家事もしっかりとしている。
あまり口数の多くない清楚(せいそ)でおとなしめの、普通の主婦さんである。

当然、不倫や浮気の経験も今まで一度もない。

自分と出会うまでは・・・。

彼女が SM に興味を持ち始めたのは、学校を卒業して印刷系だったか出版系の会社に勤めていた時分のこと。仔細(しさい)は聞かなかったものの、彼女が担当した仕事の中に、SM の書籍に関係したものがあったようで、そのときに強い衝撃を受けたらしい。
とは言っても、そういった興味や願望は、恋人や配偶者に対して、そう簡単に告白できるものではない。
当然ながら、その願望は、それから20年以上、B子の心の中に封印されたままになる。

B子と始めての待ち合わせの日。

それまで、実際に写メを交換したり、電話で声を聞いたりしていても、誰しも、いざ実際に会うとなると、期待もある半面、それぞれ不安もあるのが普通である。
実際に会ってみると、思ったよりも小柄な印象。B子も目があった瞬間、若干ではあるものの、緊張している様子。
ホテルは事前にある程度は調べておいてはいるものの、おおよその位置しか確認していない。ホテルを探しつつ、いろいろと雑談しながらのお散歩タイム。

初めてのときは、どちらも緊張してて当たり前。相手が戸惑っていたり、躊躇していたりする場合は、若い時分であれば、半ば強引にでも連れ込んでいたかも知れない。
しかし、これぐらいの年齢にもなると、前戯は、ホテルに入る前から始まっていることに気付く。
相手の緊張感を解き、むしろ、恥ずかしさと期待で、相手がじれったくなるくらいにまで持って行くくらいが丁度いい。

彼女をしばらく観察してみる。躊躇(ちゅうちょ)している素振りは見られない。覚悟は自分なりに決めてきているようである。
少し迷ったが、予定していたホテルをようやく見つけ、こそこそと二人で入る。
入口にあった段差には気がついたものの、B子に注意を促してるうちに、もうひとつ先にある段差を見落とし、思わず蹴躓(けつまづ)きそうになる。
女性に対する気配りは、女性を安心させ、笑いは、緊張をほぐす。

ホテルの部屋に入って、まずはビールで乾杯する。B子は大のビール党。自分はサッポロの黒生派、B子はアサヒのスーパードライ派である。
女性のスイッチは、徐々に雰囲気を高めていく必要があるので、2回目の逢瀬(おうせ)を期待するなら、最初にホテルに入る場合は、あまりガツガツしないほうがいい。
当然、相手に SM の経験がない場合は、いきなり縛ったりはせず、初回は、ただ普通に身体を重ね、相手を安心させ、満足させることに注力する。
だいたい、普通のセックスすら満足にできない相手、普通のセックスに求められる信用も信頼もない相手に対しては、どんな M 女であっても、誰も SM なんて許容できない・・・ということである。

自分の場合、当然 SM 調教を前提としているので、そもそも 2回目がないなら会う意味もない。なので、このときも最悪の場合は、ビールを飲んで、ひと風呂浴びて、昼寝して帰るくらいのつもりでいた。
しかし、それが功を奏したのか、お酒の力も手伝ったのか、あるいは、長い間封印していた願望が強かったのか、初回から縛ることに。

SM 調教と言っても、初回は、その女性のスイッチを探し出すのがメインなので、SM 自体は、軽く縛って目隠しをする程度の軽い SM 留(ど)まり。

まずは、キスをして、軽く前戯をした後、上半身を後ろ手(高手小手)で縛る。

(つづく)
2016/01/20

SM に見る男と女の心理

SM は、異常性欲者による変態的な性行為と認識しているひとは多いと思います。
確かに鞭(むち)で叩かれたり、ロウソクを垂らしたり、はたまた、お尻に異物を挿入したり。こういう部分だけをクローズアップされると、そのような偏見をもたれても仕方ないかも知れません。

子供を妊娠させるのに必要最小限の生殖行為をセックスと認識している人達、あるいは、その程度にしか経験のない人達からは、そのように受け止められても仕方ありません。
口で性器を刺激する 「口淫」 や、後背位は獣(けもの)のする体位として受け入れない 「性に保守的」 な思考の人達からすれば、口淫や後背位も、SM 同様 ”はしたない” 「変態行為」 な訳です(笑)

しかし、実際に SM を愛好してる当事者から言わせると、「バラ鞭は音だけで痛くないし、ロウソクも熱くない」 (笑)
全く痛くない、全く熱くないわけではありませんが、少なくとも、未経験なひとが想像するよりは、全然痛くないし、熱くない(笑)
ケーキのロウソクなんかは、経験したひともいると思いますが、あれは結構熱い(笑)
しかし、SM で多様される赤いロウソクは、「低温ロウソク」 と呼ばれるもので、融点は 60℃ 程度。お湯の温度からすると 60℃ も熱い部類に入りますが、普通のロウソクは融点が 80℃ くらいですから、それに比べると全然低い。

SM には、このように、「人の錯覚」 を利用している 「マジック的要素」 が結構ふんだんに隠されています。

縄を使った緊縛や、欧米系のボンデージと言われる拘束も、ある意味その一種。

縄で女性を縛れるひとは、多分、縄を使わずとも、女性を縛れるはずです。

例えば、柔道の寝技は、自分の身体自体を縄にして相手を縛り、相手が抵抗できなくする技ですが、そんな技を知らなくても、正上位であれば、女性の足を自分の足でからめとり、両手を押さえてしまうだけで、女性は股を開いた状態で、全く身動きすら取れなくなります。

腕を頭の上で押さえつけられれば、女性が真っ先に隠す胸ばかりではなく、脇などの人体の急所もがら空きの状態になります。
女性の方は、自分の自由が利かなくなったことで、一瞬動揺はしますが、通常は、次第にその状況を受け入れます。
経験者であれば、そのとき、女性の方のスイッチがさらに強く入っていることを実感した覚えがあると思います。

女性には、常に防衛本能や羞恥心が働いています。

無意識ではあるものの、女性の防衛本能や羞恥心に対して、自分の自由が奪われているこのような体勢の維持は、心理的には、防衛を諦(あきら)めさせることにつながります。
屈服させることで、反射的に出てくる 「女性の防衛本能」 を無力化し、その状況を受け入れさせることで、女性の心を抑制しているものが取り払われ、女性は、より高い快感に導かれ易い状況になる訳です。

一方の男性は、女性の自由を奪い、屈服する女性の反応を見て、その支配欲が満たされることになります。

緊縛は、その状態を、より目に見える状態として、作り出しているだけ。
なので心理的には、縄がなくても、縄で縛らてるのと同じ状態にすることはできるわけです。


SM もそうですし、緊縛もそうですが、こういった 「女性の心理」 を解かってやっている人と、解からずに単に形から入ってやっている人がいると思います。

何事もそうですが、はじまりは誰にでもあります。なので、形から入ろうが、精神論から入ろうが、構いません。


SM を実際に楽しんでいたり、SM に興味があるひとには、SM には、そういった心理的な側面が色濃くあるんだな・・・ということを理解してくれればいいですし、SM に対して嫌悪感を覚える人の場合は、そもそも、このブログさえ読むことはないと思いますが、せめて、SM を誤解しているひとに対しては、少しでもその誤解が解かれ、SM に対する理解が深まってくれれば嬉しいです。
2016/01/19

【縄03】 後手縛り(高手小手縛り)


 

個人の好みと偏見ではありますが、緊縛で一番オーソドックスであり、ポピュラーなのが、この 「後手縛り(ごてしばり)」 です。「後ろ手縛り(うしろでしばり)」 もしくは 「高手小手(たかてこて)縛り」 とも言います。

手首を身体の前方で縛る 「前手縛り」 に対し狭義の意味で、腕を身体の背後に廻し、背中側で、手首を縛ることを 「後手縛り」 と呼ぶ場合もありますが、「後手縛り」 と言えば通常はこの 「高手小手縛り」 のことを言います。

高手(たかて)とは、腕の肘から肩までの部分を、小手(こて)は、剣道などで有名な呼び名ですが、手首から肘までの部分をさします。
料理人風に説明すれば、手羽先の部分が 「小手」 で、手羽元の部分が 「高手」 ということになります(笑)

「後ろ手縛り」 も、いろいろな縛り方がありますし、ひとによってもさまざまです。
後ろ手で手首(小手)を縛ると同時に、腕の部分(高手)の自由が利かないように身体に固定しているものは基本全て、高手小手。
「高手小手」 というと、「高手小手に縛り上げる」 みたいな表現は古くからありますが、SM の縛りはそもそもそんな由緒を求めるような 「高尚なもの」 ではありません。
縛り方自体は、捕縄術(とりなわじゅつ) 的な要素も多く取り入れられてはいますが、人の捕獲を目的とした早縄や、護送時の拘束や監禁等を目的とした本縄などとは、そもそも目的からして違います。

とは言え、皆さんそれぞれが 「こだわり」 をお持ちです。
縄師に師事して教えを乞い、そして、自ら盗んだものを大切にするような方もいれば、受け手の感覚や安全性など実践的なものを重視する方もいます。また、緊縛写真など緊縛の芸術性を追求されている方など、さまざまです。
緊縛は、和彫りの刺青(いれずみ)同様、奥行きと深みそしてエロティシズム漂う、日本の代表的なサブカルチャーのひとつ。

この 「後手縛り」 は、その代表と言えるものです。
時代モノの番組で、刑罰に処せられる罪人が、市中引き廻しにあったり、処刑されたり、あるいは、盗賊に捕らえられてみたいなシーンでは、お馴染みの縛りでもあります。


縛り方はいろいろですが、まずは後ろ手にして小手(手首)を縛り、残りを胸縄にして、胸と高手(腕)を一緒に巻きます。
胸縄は、胸を挟(はさ)み込むように、乳房の上と下に巻き、下の胸縄の部分は、縄が抜けないように、腕と胸の間に 「閂(かんぬき)」 を通すのが一般的ですが、下の胸縄ではあえて腕を縛らないひともいます。

自分の場合は、雰囲気を高めながら、縛っていく場合は、小手から順に縛っていきますが、手っ取り早く巻きたいときや、途中で休憩をはさんで、長い時間楽しみたい場合には、途中で手首の部分を解(ほど)いてあげれるように、胸縄から巻いたりしています。

首縄もバリエーションのひとつ。背後から、首の付け根を介して、胸縄の下縄に通し、V字に折り返して、逆の首から戻すようにして、乳房の挟み具合を調整し、胸縄を固定します。
これも、乳房を挟み込むことによる刺激を重視する場合と、乳房がきれいに見えるようにする場合とで変わって来ますが、そもそも、乳房の大きさや質感はひとそれぞれ違います。

この辺の縛り方は本人の趣向にもよりますが、胸がひしゃげるほど挟みたいひともいれば、ブラではありませんが、それこそ一番見栄えのする状態にキープできるように、いろいろと縛り方をアレンジするひとなどさまざま。


この縛りは、一番の負荷は手首に、続いて、胸縄に掛かります。手首の痺(しび)れやうっ血には注意する必要があります。
ホムンクルスのマップ は有名ですが、手や指の神経は、特に繊細です。後ろ手に縛って、仰向(あおむ)けにするような場合には、手首に負担がかからないように、座布団や枕などで、腕に負荷が掛かりすぎたりしないような配慮も必要です。
高手をかける場合も、腕の外側や裏側には、神経が集中しているので、強く縛り過ぎないこと。

そもそも、胸部は、呼吸で伸縮する部分なので、きちんとした姿勢で縛らない限り、いくら力任せに縛ったところで所詮(しょせん)ゆるみます。

今でこそ、ロープの織り込み自体に伸縮性を持たせた 「綿ロープ」 などもありますが、そもそもは、伸縮がほとんどない麻縄中心の世界です。
そんな 「緊縛」 の真骨頂は、縛る際に縄を編(あ)み込むようにすることで、全体の縛りに伸縮性を持たせ、結果として、部分的に弛(ゆる)みが生じないようにすること。

力任せに縛って、縛るほうは、それで満足できるのかも知れませんが、折角(せっかく)自分に信頼を寄せてくれているパートナーを傷付けた上に、恐怖感を植えつけるようでは、本末転倒。どんなに強がってみたところで、未熟以外のナニモノでもありません。


「後ろ手縛り」 の良さは何か?

何で自分がこれが好きなのか・・・ 実は、まだ良く解かってません (苦笑)
でも、自分の心を問えば、やっぱり 「たまらない」 のは、縛られたときに受け手がそれなりに、その人なりに 「観念する表情」 を見せること。それに尽きます(笑)

観念すること。

それは、ある意味、その受け手が、この世のしがらみや、社会的な常識そして倫理や道徳と言った 「社会的束縛」 から逃れる瞬間であります。


以前紹介した、海老縛り(胡坐縛り)や蟹縛りが、受け手の羞恥心を煽(あお)る縛りであるとするならば、高手小手縛りは、受け手に従属と服従を求める縛りと言えます。

そして、自分が愛し、そして尊敬する者として許容している 「主」 に対する 「従属」 そして 「服従」 の瞬間こそ、本来は、受け手である M にとっては至極の時間である筈です。
だからこそ、縛り手にとっても、受け手にとっても価値のある 「縛り」 として、多くのひとに認識されているのでしょう。

そういう意味では、やはり、SM そして 「緊縛」 を代表する 「縛り」 と言っても、過言ではありません。