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2016/01/16

とある出会いと別れ - A子の場合

※ この小説は、フィクション(実在しない A子 と、同じく実在しない
※ 「奴隷ちゃん」 へのラブレター)であり、実在する個人・会社・組織団体とは、
※ 一切関係ありません。

【本文】

その女性とは、実際に会うことなく別れることになった。
仮にその子の名前を 「A子」 としておく。
A子は、上品な話しっぷりで、常に人に対して配慮のできる女性だった。
しかし、これはネット上での話。彼女とは、とあるソーシャルの広場で出会った。

出会いも、はじまりは単なる 「普通の会話」。
ガツガツと 「やらせろ~!」 とばかりに、ぶっきらぼうに口説く、その辺の直球系のナンパ野郎とは訳が違う。
チャットで、いろいろと話をしたものの、しばらくは、普通のお友達。
他の仲の良い友達を交えて話をしているうちに、だんだんと次第に仲良くなった。
とあるラジオイベントに一緒に出掛けて、聴いたりしているうちに、次第にお互いのテンションは高まり、心も繋がってくる。

しかし、ある日の朝、予想だにしない連絡を目にする。

「旦那に見つかってしまい、これ以上ソーシャルを続けることができなくなりました。申し訳ございません。短い間でしたけど、ありがとうございました。」

ほんのつかの間の 「恋愛」 だった。

旦那が勝手にスマホをチェックするということは、事前に聞いていた。彼女も、それを前提でスマホを使用していた筈である。
そのときは、短絡的に 「ひどい旦那だ!」 と感じた。
しかし、今思い起こせば、もしかしたら、彼女に前科があったのかも知れない。
そもそも、旦那は被害者なのである。「大人の恋愛」 に家族を巻き込んではいけないし、巻き込んだ時点で、その恋愛はもう 「終わり」 なのである。

***

その日の前の晩、彼女から、スマホ経由で連絡が届いた。

自分: 「こんばんは。」
A子: 「こんばんは~♪ 今、湯船から打ってます♪」

そのシチュエーションに驚いて、思わず戯(たわむ)れてしまった。
もしかしたら、普段になく長湯をし、ちょっとテンションの高い 「妻」 に対して、旦那が 「ちょっとした異変」 を感じてもおかしくない状況である。

そしてその後、家族が寝静まった後に、彼女と再びソーシャルで密会した。
彼女は淡々と、そのときの自身の肉体的そして精神的な状況を説明する。
A子 は、盛んに 「鳥肌がたった!」 と連発する。
何処に鳥肌がたったのかも説明してくる。
彼女自身は無意識だろうけど、自分の S のスイッチを容赦なくガンガン入れてくる。

自分の S 性が抑(おさ)えられなくなってくる。
SM の経験はあるものの、緊縛経験のない彼女。
彼女が鳥肌を立てたところを聞けば、大筋で、どの辺が感じやすい子なのか想像に難くない。
頭の中に、A子 をガッツリと高手小手の後ろ手で縛り、目隠しをし、彼女をいたぶっている自分のイメージが思い浮かぶ。

そのイメージを彼女に伝えると、彼女はまた反応する。

A子: 「なんで、わたしがそうすると感じるって知ってるの?」

文字だけではあるけれども、そんな会話を通して、お互いのイメージが交換され、イメージプレイはエスカレート。
そして、最後に彼女が屈服(くっぷく)する。

A 子: 「どうか、わたしの身体を好きなようにお使いください!」

自分からは言わせた覚えは全くないのに、女性の口から自然に漏れ出る言葉。
S にとっては最高に 「心地よい言葉」 を耳にして、思わず、自分の S 性が心の中で雄叫(おたけ)びをあげる。

自分: 「A子、おめでとう! たった今から A子 は 正式な奴隷ちゃんだよ。」

彼女は、その場に平伏(ひれふ)した。新しい奴隷ちゃんの誕生である。


・・・はずだった。

翌朝、起床したときには既に、彼女のソーシャルのアカウントは、友達も含めて全て整理されていた。自分宛には、冒頭のメッセージが送られて来ている。

自分の心に残ってるのは 「傷心感」 であり 「無力感」。
彼女と肉体的に交わる機会が失われたことなんかは、自分にとっては、はっきり言ってどうでもいい。彼女を実際に自分の手で縛って、自分の腕で抱きしめることが出来なかった残念感も、S のスイッチが入っていない今は、少ししか感じられない。

一瞬ではあっても、そこに、自分に身と心を委ね、屈服した 「ひとりの女性」 が居て、しかし、状況的にその彼女を受け止めてあげれなかったこと。「無力感」。ただその一言である。

***

「部屋に来る人達が楽しめれば・・・」

そう言って、”部屋” にお土産(みやげ)を置いてく彼女に感謝し、

「この ”部屋” をずっとみんなに使ってもらって、そして、彼女にとってもずっと楽しめる場にしよう!」

そう自分の心の中で決意したのは、つい先日のことである。

今も ”部屋” に残る A子の置き土産。

「こけし」 や 「手錠」 そして 「撮影器材用カメラ」 を見る度に、自分の無力感がこみあげてくる。
雪が溶け、田畑に土筆が顔を出し、スギナが色付く春。その頃には、また戻ってきてくれるだろうか?思いは尽きない。



【あとがき】

こういう機会にしか、自分の心を振り返れない自分がいる。
自分自身、何が S 性なのか良く判っていない。
SM のプレイで M 女を縛っているとき、ふと我に返って自分の心の中で、

「いったいどっちが、奉仕してるんだ?」

と複雑な気分になるときがある。相手の M のスイッチは入っているのに、自分の S のスイッチの入りが悪いような場合は特にである。
逆に、相手が心地よく自分の S 性をくすぐってくれるときは、予想だにしない相手の反応に、思わず、遅漏中の遅漏である筈の自分が、発射してしまいそうになるときもある。
A子 は、そんな自分の S 性をくすぐるのが上手いタイプの女性だった。

今の気持ちを振り返ってみると、例えば昔、エッチを期待して、女性と待ち合わせをし、デートをすっぽかされたり、あるいは、エッチできなかった 「期待はずれ感」 みたいな感覚とはまったく違う。
「大人の恋愛」 であるから、当然、気分も高まればエッチもする。しかし、今回の件で自分を振り返ってみると、その機会を失った・・・という悔しさや残念な気持ちというのは、これっぽっちも残ってない。

S のスイッチを入れれば、鳥肌を立てて、悶(もだ)え狂う A子 のイメージが頭をよぎる。
しかし、冷静な自分の中に残ってるのは、彼女に対しての 「情」 である。

実を言うと、お互いの心が通じたことで、自分の心の中に 「情」 が生まれている・・・と気付いたのは、今回が初めてである。
実際の 「奴隷ちゃん」 と心が繋がっているのは感じている。たまらなく愛(いと)おしい。それは分かっている。自分が驚いたのは、こんなに早く 「情」 が芽生えていたことである。
今までの現実の世界では、出会いから別れまで、こんなに急な展開を経験したことがない。だから、そのように感じるのか、それとも、ソーシャルというネット空間の話で、まだ現実化していない 「ソーシャルな恋愛」 だから、このように感じるのか。その辺はまだ良くわからない。

自分自身の新たな発見もあり、ちょうど今、SM ネタでブログも書いているので、今の自分の気持ちを整理する意味も含めて丁度いいと思い、「気付き」 をしたためてみた。

SM である以上 「性的」 な行為に関わるのは、至極当然なことである。
しかし、そこには 「心」 や 「情」 が介在し、直接的な性欲よりも、なにかもっと違う何か。情動みたいなものに、動かされている自分を見たのは、ある意味、意外な発見だった。

A子 を失って、A子 を受け止めることが出来なかった自分に無力感を感じている。しかし、これだけ A子に心が入ったからと言って、他の奴隷ちゃんに対する 「愛」 や 「情」 が薄れたかと言うと、決してそんなことはない。
自分は全員を愛している。その中から誰か一人を選べという問いは、家族で 「父親」 か 「母親」 のどちらか一方を選べ・・・と問われているのと同じようなもの。
自分が最後まで愛する子。それは自分では決めないし、決めれない。何故なら、自分が最後まで愛するのは、自分の元を去らなかった子だから。

A子 の件を通して今回、自分が他の 「奴隷ちゃん」 を思う気持ちの 「片鱗」 を垣間見ることも出来た。
ありがとう。自分の心を振り返るキッカケを与えてくれた A子、そして、自分の傍(そば)に留まってくれている奴隷ちゃんに感謝したい。
2016/01/13

「割り切り」 の大切さ

会話の中では、こと恋愛話になると、日常的に使っている 「割り切り」 という言葉。自分も今まで至極平然と使っていましたが、では 「”割り切り” って何?」 と考え出すと、なかなか適当な言葉が見つかりません。

自分なりに考えてみると、「心が暴走するのを抑(おさ)える何か」 であるような気がします。
心のスイッチをきちんと切り替えられる状態。
スイッチが、「カチッ!カチッ!」 ときちんと切り替わって、接触不良なんかを起こしていない状態です。

「一度心が入ってしまうと止まらなくなってしまう・・・。」
「寝ても冷めても、そのひとのことが思い浮かんでしまって、頭から離れない・・・。」
「心の持って行き場が分からず、心がどうしようもなく苦しい・・・。」

まあ、それは女性の 「恋心」 です。
相手に恋人が居ようと居まいと、結婚して居ようと居まいと、あるいは、相手は自分のことを全く知らない人であっても、はたまた芸能人であっても、そんなことは関係ありません。
自分の思いが 「片思い」 であろうと 「両思い」 であろうと、そんなことはお構いなし。火がついたら終わりです(笑)

心は、現状よりも高い位置を目指そうと思いあぐね、葛藤(かっとう)します。
ある意味、辛(つら)い時間ではありますが、燃え盛っている恋心の火は、女性の象徴のようなもの。多くの女性はこの 「トキメキ」 を求めます。
この 「トキメキ」 という言葉も、日常的に何気なく使ってるせいか、解かった気になっていますが、自分の言葉で説明しようとすると、なかなか難しい(笑)
「好き!」 というハートのスイッチが既に入ってしまっていて、心に燈(とも)る火がチリチリと燃えあがる状態・・・と言ったら良いのでしょうか?

この 「トキメキ」 という名の 「火」 も、「ロウソクの火」 のように制御できているうちは、安定しているので、切なくも美しく甘美なのですが、カーテンなどに引火してしまうと、もう、そんなに悠長(ゆうちょう)な思いに浸っているわけにもいきません。火事です(苦笑)


「割り切り」 とは、ある意味 「諦(あきら)め」 に近い感覚です。
感情や欲望をそのまま解き放てば、止め処もなく、相手を欲したくなります。
現実問題として、その関係を出来るだけ維持しようと、心を整理すること。そしてその葛藤が 「割り切り」 です。

「大人の恋愛」 であっても、「トキメキ」 を求める女性は少なくありません。
しかし、一途な恋愛しか経験したことのない多くの人達、特に女性は、ここで苦悩します。
心の暴走は、家庭の生活に影響を及ぼします。家事や仕事も手につかなくなりますので、最悪露見します。これは肉体関係のある・なしは、関係ありません。
既に旦那に 「トキメキ」 を感じなくなった家庭の主婦などは、「プラトニックなら、浮気じゃないよね!」 みたいな軽いノリで、手を出したりしますが、そういう場合も含めて、最初に現れる難関であり、ボスキャラが、この 「割り切り」 の壁です。


ここで多くのひとに認識して貰いたいこと。大事なのは、「大人の恋愛」 に対する ”恋愛感” です。

自分を含めて、家庭がある人との場合、やはり重要なのは、「家庭が一番、恋愛は二番」 であり、「大人の恋愛」 は、家庭に不足している分を補うものであるということ。
当然、その事実は、家族には秘密にし、絶対にばれないようにする必要があります。昔から言われていますが、「自分の墓場まで持って行く・・・」 くらいの覚悟が前提。
何回も言いますが、
「ばれるくらいなら、はじめからするな。」
「ばれるようなドジや無神経なやつとか、問い詰められると、簡単に非を認めてしまうようなヘタレとは、付き合うな!」
ということです。

そして、もうひとつ大切なのが 「割り切り」 です。

不倫などの 「大人の恋愛」 は、そもそもが、大人の理由・大人の諸事情による恋愛。堂々と大勢の前で威張れる恋愛ではないのです。人目を気にして隠れてする恋であり、忍びあう恋。
「トキメキ」 に火を付けて、大爆発を起こして終わるような 「太く短い」 若者的な恋は、20代ならまだしも、「大人」 を自称するなら、ちょっと幼稚ですし、そもそも、粋(いき)じゃありません(笑)

お互いに時間を割(さ)いて、限られた時間の中で、愛し合うわけですから、忍び逢い偲(しの)びあう気持ちが大切です。
お互いを大切に思いあうからこそ、長く付き添いたい。
自分も、長寿記録達成が人生の目標ではありませんので、人生は 「太く短く派」 です。しかし、こと 「大人の恋愛」 にかけては、「細く長く派」 です。

「割り切り」 とは、相手のことを思い、そして、二人の関係を大切に思い、相手に感謝し、自分の心を制すること。「腹八分目」 であり、「足(た)るを知る」 ということです。

「割り切り」 という調整弁が付けば、もう、「トキメキ」 に引火して大爆発を起こすようなことはありません。あとは 「弁」 を調整して、普段は弱火でトロトロ煮込むもよし。お互いが出会えるときは、強火にすればいいだけです。
「割り切り」 の如何(いかん)によって、「大人の恋愛」 は、家庭に惨事(さんじ)を招く原因にもなれば、家庭を明るくする 「灯火(ともしび)」 にもなるのです。


家族には、明かせない関係ではあるものの、自分の人生においては、長い期間一緒に寄り添い、支えあい、家族同様、欠かすことのできない 「掛け替え」 のない存在となること。

それが 「大人の恋愛」 の理想です。


「割り切り」 は、物事にそれほど執着しないさまのことを言います。
本来は、「仕事上の関係だと割り切りが肝心」 のように使いますが、「割り切ったお付き合い」 という場合は、特に出会い系などで使われる場合は、”(お金で)割り切ったお付き合い(=援助交際・売春)” という意味で使われていますので、間違って、誤解されるようなことのないように。。。
2016/01/11

「多頭飼い」 について [改訂]

犬などのペットの場合もそうですが、本来 「多頭飼い」 は、複数の M を同時に調教する 「複数プレイ」 のことを指してしたように思います。しかし最近は、一人のパートナーしか持たない 「一頭飼い」 に対して、同時期に複数人の M を、それぞれ個別に並行して調教しているような場合も含めて使ったりしています。

多頭飼いは、M 同士を引き合わせる場合もありますし、他にも M がいることを伝えるだけの場合もあります。また、その存在を明確には言わないで、示唆するだけの場合もあります。

自分は、単独さんを招いての複数プレイは経験あるものの、M 同士を引き合わせての多頭プレイは、経験がありません。
M 同士を仲良く取り持ち、お互いの 「わだかまり」 をなくして、全員で楽しむ。M 同士の嫉妬や荒立つ感情。それぞれの手綱(たづな)を操(あやつ)りながら、全員を満足させる必要がありますので、多頭で個別に調教しているのとはわけが違います。
S の懐(ふところ)の深さが求められるという点で、「新たな境地」 であることは明らか。

いずれの場合も、多頭飼いに ”つきもの” なのは、女性の 「独占欲」 であり 「嫉妬」 です。
実際に引き合わせることで、これらに正面から対峙して、独占欲や嫉妬までも、手懐けようとするひともいれば、単に、独占欲や嫉妬を利用しようとするひともいます。
独占欲や嫉妬の利用も、これを意識させることで、常に自分に関心を集めるように利用するひともいれば、一定の距離感を確保するために利用するひともいたりと、さまざまです。


自分にとっての 「多頭飼い」 は後者。消極的な意味での 「多頭」 です。

実際に 「多頭飼い」 状態になると、時間もそれに要する金額も頭数に比例して倍にも3倍にもなりますし、体力もその分消耗します。当然、増やすには自(おの)ずと限界というものもありますが、しかし、「多頭飼い」 と称していても、檻(おり)の中には一頭しかいない場合もあれば、空っぽの場合も多々あります。(苦笑)

そういう意味では、あえて 「多頭飼い」 と言わなくても良いときも少なくありませんが、何故公言しているかと言えば、それは、「複数の女性」 を調教することで ”男性のばら撒き欲求” を満足させたいからというよりは、女性の 「独占欲」 を満足させるための 「縛り」 は一切受け付けないよ・・・的なスタンスの表明みたいなもの。それがひとつ。
そして、もう一つの理由は、こちらの方が重要ですが、他の女性の存在が自分にとって、一人の相手にのめり込むことを防止するための 「ストッパー」 になるということ。当然、他の女性の影は、相手に対しても 「ストッパー」 となり得ます。

自分自身、いくら格好を付けたり、偉そうなことを言ってみたところで、所詮(しょせん)は、SM に呆(ほう)けている ”禄(ろく)でもない” 単なる 「おっさん」 です。当然、若い女性の未来や家庭を犠牲にするほどの価値はありません。
「ストッパー」 と言うよりは、そのための予防線と言ったほうが正しいかも知れない。

しかし、そんな男でも、何かを求めて来てくれる人がいるのは嬉しいことです。
だからこそ、自分はそれぞれの相手を誠心誠意愛し、与えてあげれるものは分け与え、一緒に楽しい時間を過ごす。一期一会だからこそ緊張感があっていい。
こんなおっさんを独占したところで、何もいいことはひとつもありませんよと・・・。自分の場合は、そんな感じです。


一方、女性の方はと言えば、「独占欲」 がもとから備わっているので、女性にとっては 「一頭飼い」 が一番であることに変わりはありません。「多頭飼い」 を意識すると、もうそれだけで苛々(いらいら)するという人も少なくないかも知れません。
実際問題 「多頭飼い」 を敬遠(けいえん)する女性は少なからずいます。

女性の 「独占欲」 は、女性の持つ生存本能です。人間は他の動物と比べると出産や子育ての負荷も高く、発情期もありません。人間の長い進化の歴史の中で、男性を独占できなかった女性は、食に飢えたり外敵に襲われる危険も多く、妊娠し出産に至る確率も低かったであろうことは、想像に難(かた)くありません。

しかし、人間の種の保存には、重要な役割を果たしたかも知れない 「女性の独占欲」 ですが、婚姻の 「一夫一婦制」 は、そもそも、宗教的にも制度的にも、女性の独占欲を満たすために存在するものではありません。
なので、まるで既得権益とばかりに、結婚の例を持ち出して、SM の世界にまで 「一夫一婦制」 すなわち 「一頭飼い」 を求める女性も居たりしますが、それはまったくのナンセンス(笑)

本能の話をするのであれば、女性の 「独占欲」 に対し、もう一方の男性側に備わる本能とも言える 「ばら撒き欲」 の方も尊重しなさいみたいな話になります (笑)
こちらはと言えば、人間がまだ植物だった頃にまで遡(さかのぼ)ります。多くの皆さんが毎年悩まされる杉花粉もそうですが、自らの種を残すために、より広範囲に種をばら撒こうとするわけです。起源は植物の時代まで遡るわけですから、こっちのほうが、より深刻なわけです(苦笑)

まあ半分冗談ではありますが、そういうわけで、「一頭飼い」 も 「多頭飼い」 のどちらも、それは当事者のポリシーであって、尊重されるべきもの。
好き・嫌いは勝手ですし、当然、M にも 「主」 の選択権はありますので、「一頭飼い」 や 「多頭飼い」 といった主従形態は、最後は、あくまでも本人達次第の話。
言いたいことは、どう理屈をこねたところで、結局は趣向の問題。いずれも正当化できるものではないということです。


自分の心の中の 「独占欲」 や 「嫉妬心」 が抑えられないから・・・という女性の苦悩が生じているのは本心であり、確かだと思います。
「多頭飼い」 を許容している、あるいは、許容せざるを得ないひとは少なからず居ますが、その中で、「多頭飼い」 が好きだと言う M は、まず居ないでしょう。
「多頭問題」 は、そういう意味では、M にとっては、とても重要でセンシティブな問題であることは、十分認識しています。
なので、適切にコントロールできている M に対しては、不必要に刺激するようなことはしません。もし、日常の生活の中で、ふと、そういう気持ちが沸き起こったときには、むしろ、”本来の自分” のあるべき姿に戻ってもらいたい・・・という思いがあります。

これは、自分の場合は、相手同士を引き合わす予定がないということに他なりません。ですので敢(あ)えて 「相手が誰であるか」 を、お互いに知らせることはしていませんし、当然その序列も明らかにしていません。

相手が敢えて、その問題に触れてこない限りは、一緒にいる時間は、実際の調教のときはもとより、電話であろうと、メールや SNS であろうと、それは100%その相手のための時間と認識しています。
”多頭の自分” を相手が独占できる時間なのです。なので、それを認識している子達は、本音では気になっていたとしても、その話には触れてきません。


大事であり至福であるのは、お互いが向き合っている 「今」 であるということを、相手が解かってくれているかどうか、そこまでは分かりません。
聞かれれば自分は、包み隠さず全てを話しますので、折角の大事な時間を 「修羅場」 にしたくないという思いが、相手にあるのかも知れません。
自分自身に威厳があるとも思いませんが、もしかしたら相手は 「尊敬」 あるいは 「畏怖(いふ)」 的な感覚を少なからず抱いてるのかも知れません。
いずれにしても、主従関係は、それ自体が既に ”対等な関係でない” ではないということ。

馬鹿もしますし、ボケもします。オヤジギャグなのでウケているかどうかは別ですが 冗談も言います。(苦笑)
でも、琴線(きんせん)に触れれば、冷徹にすぐ切られることを、彼女達は知っています。
しかし、そうでない限りは、深い懐で受け止められ、たくさんの愛を与えてくれることも知っています。

なので、「多頭」 を公言してはいますが、彼女達の琴線に触れる 「多頭問題」 については、その存在の有無からして、自分からは一切言及していません。
それが彼女達に対する 「デリカシー」 であり 「思いやり」 だと思っています。

SM も恋愛の一種である以上、始まりがあれば、おわりもあります。永遠はありません。
しかし、だからこそ、桜の花とおなじように、果敢(はか)なく、美しいのです。

常に相手が自分と同じ思いである筈もありませんから、これらの思いは、単なる自分の 「思いあがり」 かも知れません。

プレイでは冷徹を装(よそお)っていたとしても、自分は相手の女性に感謝しています。そして出来れば、相手もそうであって欲しいと願っています。感謝の気持ちは、充足をもたらします。
自分が 「主」 であって、相手が 「従」 であろうとも、その ”感謝する気持ち” に変わりはありません。
この関係は、経営者と労働者の関係でも同じです。搾取する使役(しえき)か、共に苦労し人生を生きる使役かの違いで、会社は、天国にも地獄にもなります。
そこには、築かれる 「信用」 と 「信頼」 に大きな違いが出てきます。

SM はサディズム(性的加虐性向者)とマゾヒズム(性的被虐性向者)のロールプレイと言われてます。しかし、そのプレイが表面上あるいは肉体的なプレイに留まっている場合、心の充足感・満足感は得られません。
自分も、心が繋がり切れていない相手の場合などは、幾度となく同様の経験をしています。
SM においても、最終的に、その女性を 「従」 たらしめるのは、心が入り、愛があってこそです。


しかし、M の人間が必ずしも従順(submissive)であるとは限りませんし、「嫉妬」 や 「独占欲」 をコントロールできるわけではありません。そのような場合は、逆に 「多頭関係」 を表面に出し、「嫉妬」 や 「独占欲」 を剥(む)き出しにした上で、調教し、躾けていく必要があります。
SM 調教には当然、肉体的な限界や精神的な限界はあります。しかし、女性の心の中で渦巻く嫉妬心や高慢な虚栄心は、例外です。徹底的に痛めつけたとしても、誰も文句は言いません。
SM は、盆栽(ぼんさい)にも似ています。主従関係を利用して、不必要な部分は徹底的に責め、厳しく躾(しつ)け直し、逆に不足してる部分はは、誉めて喜びを与えることで伸ばしていく。

こうなると、実際はかなりハードなものになってきます。しかし、お互いが性愛を貪(むさぼ)りあうばかりでなく、そこに愛を以って、人としての成長を手助け出来たりするのも、SM 調教のし甲斐(がい)のひとつと言えます。

当然、途中で挫折する M も出てきます。「こんなに辛(つら)いなら、他のひとの方がマシ!」 と思うのであれば、その時点で、その主 は、もう 「主」 ではないのです。
M にとっては、もう、その主より与えられる 「性的快感」 や 「充足感」 よりも、嫉妬や独占欲から来る 「苦しみ」 の方が、強いということでしょう。
多くの場合、実際の主従関係の認識が甘い場合もありますし、精神的な調教・躾けが甘い場合もあります。
自分の経験で言えば、まだ調教も入口の段階で、それが表面化してしまう場合もありますし、M の家庭に深刻な影響が出かねないような精神状況になってしまう場合もあります。
しかし、そのような状況になってしまったとしたら、後で言い訳をしても始まりません。要は、自分の S の能力が未熟であると言う一言につきます。

相手に迷いがあり、かつ、そこに甘えや余裕があるのなら、「奴隷契約」 をもとに説得を試みてもいいでしょうし、情で引き止めるアプローチをとっても構わないと思います。
しかし、自分では手に負えない。飼い切れない場合を含め、状況が深刻である場合は、リリースする潔(いさぎよ)さが必要です。

このような状況下で、女々しい態度を取る 「主」 とやらの話を聞くと、「本当に S か?」 と疑ってしまいますが、それを言い出せば、「多頭飼い」 も、単に喰い散らかすだけの 「多頭飼い」 もいれば、S としての責任を以って、それぞれの M に対峙し、きちんと飼い慣らしている 「多頭飼い」 もいます。
 

「多頭飼い」 というと SM の世界では兎角、風当たりが強くなるのですが、「多頭飼い」 にもいろいろとバリエーションや趣向があるということ。そして、「良い多頭飼い」 と 「悪い多頭飼い」 ではありませんが、要は、その 「主」 たる S の懐や度量によって、中身の質はまったく異なるということを理解して貰えると、SM もまた、違った見方が出来るようになってくると思います。
2016/01/10

ドMちゃんは、いませんか?

【ピグ限定♪】書き初めは何を書いた? ブログネタ:【ピグ限定♪】書き初めは何を書いた? 参加中

 

関東では 「松の内」 も過ぎてしまいましたが、明けましておめでとうございます♪

ピグの広場なとで、「ドMちゃんは、いませんか?」 と声を出しながら駆けずり廻っていると、いろいろな方々から、さまざまな反応があります。
その代表的な 「反応」 を皆様にご紹介いたします♪
ちなみに、ひとは 「それぞれ」 ですので、リアクションについても正解・正答があるわけではありませんが、この 「変態オヤジ」 の問い掛け自体が、実はあなた方自身を選別するフィルターになっているのです(笑)

題して 「『ドMちゃん、いませんか?』 から読み解く社会学」 (笑)

① 「は~い!なんていうやつ、居るわけないだろ?」

こういう方は、頭(机上)で考えて、自分の常識や理解を超えるものを受け入れられないタイプ。自分は頭がいいとか、自分は常に正しいと思っている方に多く見受けられます(笑)

事実は小説より奇なり。
冗談で 「は~い!」 と言うひともいますし、稀(まれ)ではありますけど、実際に ドM ちゃんであるにもかかわらず、大勢のピグの面前であることを臆(おく)せずに 「は~い!」 と答える方もいます。
また、「は~い!」 と答えないまでも、 何らかの言葉の反応で返したり、アクションでリアクションを取ったり、トークでコンタクトをとって来たり・・・。なんとか接触を試みる方は、少なからず居ります(笑)
もちろん、その中には、ボケやツッコミの場合もあります。
でも、それはそれで楽しいもの (^O^)/
そこで 「絡み」 が出来て、そこから、いろいろな会話がスタートします!
そもそも、そういう対応ができるひとは、自分と異質のモノを許容する能力の備わった大人。偏見もありませんので、楽しい会話が楽しめます♪

そういうわけなので、事実誤認も甚(はなは)だしいわけです(笑)
こういう反応を返すひとの多くはまず、洞察力が欠如してます。そればかりでなく、レスポンスは 「はい」 だけだという凝り固まった先入観の持ち主であることや、その認識が正しいと自負していることが、良くわかります。
人間として面白くないばかりでなく、頭が硬く、自分の価値感や認識は常に正しいと思ってる可能性が高いので、自分と異なる意見は軽視します。この傾向が強くなってくると、会話も、当たり障りのない会話以外は成り立たなくなってくるひとです。
多様性のない田舎の堅物おやじや、会社などであまり好かれていない偏屈おやじに多いタイプです。
他人の価値感を尊重しないので、家族に対しては、モラハラ的傾向も見られる筈。
ピグの場合はスルーすればいいだけですが、実際にリアルで周囲にいる人の場合は、さぞかし大変なことでしょう(苦笑)

② 「キモッ!」
③ 「通報しましたっ!」

何が 「キモイ」 のか、聞きたいくらいの拒絶反応です(苦笑)
性的なものに拒絶反応があるのか、はたまた、S とか M といったことに、強い嫌悪感をもっているのか?
こういう方には、ピグのプロフ(プロフィール)作成時の基本的な質問にある 「あなたは S ですか? M ですか?」 という質問をどのように理解されたのかをお聞きしたいところですが、そもそも、いずれのタイプも、嫌悪感剥(む)き出しなので 「会話」 は成立しません。
基本、こういった方たちは、人の話を聞くだけの余裕もなく、常に自己中心の自意識過剰(笑)
そもそも、不特定多数に対する呼びかけを、”自分に対する呼びかけ” と受け止めてしまっている証拠でもあります w
とは言え、おかしなピグキャラは実在しますので、「キモッ!」 と意思表示をすること自体は悪くありません。
通報は、運営の業務を妨げるので、お控(ひか)えください。あなた自身が不快に感じる・感じないが通報の基準ではありません。
特に後者のような方の行動は、一見正当なアプローチのようにも見受けられますが、被害者意識が強すぎませんか?
こういう方に対しては、リアルな世界で 「冤罪(えんざい)」 をうまないように行動されることを切(せつ)に望んでおります。
ちなみに、自分的には、無言で黙々とグッピグしあっている場の空気こそ異様に感じ、違和感を覚えております(笑)

④ 「は~い、ここに居ます!→」

矢印の先が、自分が他人かによって、若干微妙なところはありますが、基本はオープンマインドでプラス志向。上記の2つが関東人に良くあるパターンとすれば、これは関西人に良くありそうなパターン(笑)
古くから商業文化が発達してるだけに、気質もオープン。自分は関東人ですが、関西人(特に大阪人)の 「コミュニケーション能力」 は高いと言えます。
難があるとしたら、それは 「誠意」。矢印で指したひとが、突っ込めればいいのですが、その振り方が微妙だと、相方も対応できない場合がありますので、そのときはきちんと助け舟を出してあげてください(笑)
でも、基本的には、会話を楽しめる気さくなひとが多く、好感がもてます!

⑤ 「○○○ なひとは、いませんか~?」

こういう人は稀(まれ)ではありますが、行動力は大したものです♪
例え 「ノリ」 ではあっても、咄嗟(とっさ)に、その場におけるインパクトを分析し、良かったらすぐ取り入れる柔軟性はすごいです。
F1 で言えば、スリップストリームに乗って、自分に掛かる風力抵抗を回避し、何かの機会に自分が躍(おど)り出る・・・みたいな芸当がリアルでもできるひとです!

⑥ 「わたし、ドS だしっ!!」

まあ確実に言えるのは、あなたは ドS ではありません(笑)
誰かに矢印を刺されたときの答えなら兎も角(ともかく)、自ら発言してる場合は、「呼びかけ」 を意識してますので、ドMちゃん率は高かったりします www


人は常に警戒しているわけではないので、自らを防御する意識がない場合、突然の 「呼びかけ」 に対しては 「反応」 しやすい傾向にあります。
関心があるひとは、無意識ではありますが、その 「呼びかけ」 に集中してしまいます。
特に ドM や M のように自分の 「M性」 を意識している子の場合は、唐突である呼びかけに混乱してか、一種の脅迫観念が働いて咄嗟(とっさ)に、「答えないといけない!」 という心理的状態に追い込まれてしまうようです。

自分の発言を 「不快」 と感じる一部の人達の存在は認識しています。リアルの社会では有り得ない発言であるのも事実です。しかし、ピグは匿名(とくめい)性のあるネット社会です。
日本人の個々のコミュニティにあるような社会的通念や ”常識” とは必ずしも一致しません。
自分自身が、ピグを始めた当時もそうですし、今もそうですが、自分の常識が現実とは違うことを、ピグでまざまざと思い知らされています。


もし、「むかついた」 ひとがいたら、公開ディスカッションを承(うけたまわ)ります。
どうぞご自由にコメント下さい♪
2016/01/07

SM に入るキッカケ

SM に入るキッカケ。それは人によってさまざまです。

ひとつは、本や雑誌などの書籍の類(たぐい)。

学校の図書室や図書館にも、落とし穴は待ち受けてます。江戸川乱歩の 「怪人二十面相」 シリーズは良いのですが、調子に乗って読み進めていくと、SM ではありませんが、「人間椅子」 とか 「芋虫」 といったフェチズムやエロとグロが入り混じった倒錯(とうさく)した世界に足を踏み入れてしまいます(笑)

小さい頃、親の 「オトナの本」 をこっそり盗み見て、裸の女性を縛ってる男性の写真や挿絵などを発見して、強烈なまでに衝撃を受けたというひとは、少なからず居ます。
自分も、本屋で立ち読みした際に、自分の履(は)いていた半ズボンが、はち切れんばかりになるほどの衝撃を経験しましたが(笑)、とある女性も、小さい時分に、お父さんが隠し持っていた 「オトナの本」 を発見してしまったそうで、彼女の場合はそれからずっと、「男と女は結婚すると、こういうことをするんだ・・・」 と思っていたそうです。
まさしく禁断のニオイ漂う大人の世界。伊藤晴雨などが書く緊縛の春画は、鬼畜や幽霊に鬼などが出てくる中で、人の生と死と、性と欲望が、渾然(こんぜん)となって、その 「鬼気迫る」 感覚は、日本の昔話とも相まって、衝撃的です。

「あんな風にされたら、わたしだったら、どんなになってしまうんだろう?」

女性なら、そう頭をめぐらし、恐怖とは別に、沸(わ)きでてくる 「性のドロドロしたもの」 に、頭が白くなるような 「恥ずかしさ」 を覚えドキドキした経験は、一度や二度は、あるはずです。
男性であれば、例え性交の知識や経験がなくても、強い衝動に襲われ、「同じようなことをしてみたい!」 という願望にとらわれたかも知れません。
若(も)しかしたら、ここで男性・女性で区別するのは、不適切かも知れません。男性でも、「もし自分がされたら?」 という恐怖に捉われるひともいるかも知れませんし、女性でも、その逆のひとがいるかも知れないからです。

最近は忽然(こつぜん)と 「テレビ番組」 から時代劇が消えうせてしましたが、以前は、時代劇なんかでも、盗賊に襲われて縛り上げられたり、女性が襲われるシーンなんかがあったりしました。
着物で縛られて、さるぐつわをはめられるシーンなんかもありましたし、女性が拷問で責められてるシーンなんかも見た記憶があります。
そういった刷(す)り込みもあるかも知れませんし、幼心(おさなごころ)に興奮していたかも知れません。

もうひとつの入口は、躾(しつけ)や折檻(せっかん)の類。

最近は、こういうことをすると 「子供の虐待」 になってしまいますが、昔は、躾や折檻の一環として、お尻を出して、ものさしのようなものでお尻を叩かれるのは、良くあることで、酷(ひど)い場合になると、裸で縛られて、木に吊るされた・・・みたいな話があるほどです。
今でこそ、「縛って木に吊るす」 なんて、狂気の沙汰(さた)と受け止められるような時代になってきてはいますが、当時は、宮本武蔵が悪さをして、沢庵和尚に縛られて木に吊るされる逸話なんかもあるくらいなので、そんなことで騒ぐひとはだれひとり居ませんでした。
学校などでも、忘れ物をしたりすると、パンツを下ろして、お尻を叩く先生などもいたくらいです。
保守的なイメージの強い某地方出身の40代初頭の主婦さんは、実際にそういう体罰を経験しており、その時の 「恥ずかしかった」 記憶が、今でも甦(よみがえ)ったりするそうです。

しかし、これらは通常は、SM 的な快楽の存在。その認知に留まります。

幼少期や思春期の時期に、性にまつわる原体験的なものが形成されているひとが、多いように思います。
また、幼少期や思春期の時期に受けた男性からの痴漢や 「いたずら」 あるいは言動などによって、性に否定的になってしまったり、あるいは、「自分は価値がない」 みたいに、自分の存在価値を否定する傾向が強いひとも少なくないように思います。
しかし、そうやって、それまでブロックしていたものも、急に何かの拍子にスイッチが入ってしまうことがあります。

学校を卒業して就職し、通勤電車の中で痴漢にあって、それがキッカケで、それまで抑圧してきた 「性」 が突然目覚めてしまった女性もいます。

40代後半の女性の場合は、学校を卒業して、印刷出版関係の会社に勤めたときに、そのような雑誌を見たときの強い衝撃が忘れられないと言っていました。
しかし、その女性に限りませんが、そんな 「願望」 は、そう簡単に彼氏彼女や結婚相手に言えるものではありません。あるいは、その当時は、それほど 「願望」 は強くなかったかも知れません。
25年もの長きに渡り、心の奥にしまっておいたはずの 「願望」 とも言えますが、その間に、積(つ)もり積もったストレスが育(はぐく)んできた 「願望」 とも言えるかも知れません。
いずれにせよ、それは、SM を愛好する自分との出会いによって、その女性に火が付くことになります。

「もしかしたら、これが実際に経験できる最初で最後のチャンスかも知れない。」

その女性が行動に移したのは、言うまでもありません。
ちなみに、この女性は、旦那さんに中1の息子さんが一人の三人家族。昼間は週に何回か近くのスーパーにパート勤めに出ていますが、それこそ今までに、浮気も不倫の経験も全くない 「普通の主婦」 さんです。


SM に入るキッカケはさまざまです。

心の中で性をブロックしてる何かを乗り越えるだけの強い 「外圧」 を必要とする人もいます。
そういう人の場合は、自らの心をブロックしてる ”自分” が拘束されることで、普段は抑圧されている、あるいは、それまで抑圧されてきた心や性が 「解放」 され、その結果、普段本人が通常のセックスでは得ることの出来ない 「快感」 や 「満足感」 を得ているようなところがあります。
SM で与えられる苦痛などの刺激が直接、性的な快感に結びついていない人なんかの場合は、そう見受けられるひとが少なからず存在します。

バツイチの女性ですけど、自分は気が強くて、男勝(まさ)りで、自分では S だとばかり思っていたけど、今のカレシに出会って縛られて、アナルの快感に目覚めたことで、初めて、自分が M であることが判ったのと同時に、M であることの喜びを知った・・・という女性もいます。
この女性の場合は、明らかな M のスイッチが存在しますが、当然そこに至るまでには、主(ぬし)であるカレシに対する尊敬と信頼があり、SM を通して、素(す)の自分を曝(さら)け出すことが出来たからと言っても過言ではありません。

SM という手段の是非や好き嫌いをいくら議論したところで意味ありません。大事なのは、「心の解放」 そして 「性の解放」 が出来ているかどうかです。
社会の鎧(よろい)を着たままの状態で、格好つけても、気取っても、強がっていても、意地を張っていても仕方ありませんし、屁理屈を言ってても、愚痴を吐いていても、何も意味もありません。
社会の鎧を脱いで、素(す)の自分と向かい合って、はじめて答えらしきものが見えてくるのです。


女性の場合は、30代後半から40代そして50代に掛けて、更年期を迎えます。ホルモンバランスの変調もあるでしょうが、「見た目」 的には衰えていく容姿や身体も手伝ってか、自分の 「オンナとしての賞味期限」 を次第に強く意識するようになります。
男性ホルモンも、比率的には高まってきますから、性欲も男性的になってきます。
オンナとして機能してるうちに 「種を残したい」 という 「種の保存本能」・「生存本能」 が無意識のうちに働くのかも知れません。

既に70歳は超えている某料亭の艶やかな女将(おかみ)曰(いわ)く、「女性の花は35歳から55歳」 とのこと(笑)
肌も容姿も身体も、歳と共に衰えていくのは仕方ありません。
ダイエットにエステに励(はげ)むのも、自分に自信を付ける上では有効だと思いますが、しかし、その衰えを言い訳にして嘆(なげ)いてみても、肌も容姿も身体も、衰えは一向に止まりません。
むしろ、内面からにじみ出る 「情」 や 「色気」 は、20代そこそこの小娘に出せるものではありません。

人を傷つけることは、良いことではありません。「大人」 であるならば、それには最大限の配慮をすべきですし、それが出来ないなら、「大人の恋愛」 をする資格はありません。
でも、人を傷つけることがないならば、あとは自分の人生です。
自分が変われば、周囲も変わります。
2016/01/07

【縄02】 蟹縛り

緊縛の代表と言えば、普通の方であれば 「亀甲(きっこう)縛り」 と答えそうなところですが、実際に緊縛を愛好してる人達の間で最もポピュラーなのは、何と言っても 「後ろ手縛り(高手小手縛り)」。
出来れば解説も、そういう順番でしたかったのですが、最初に 「海老縛り」 を紹介してしまったので、今回は 「蟹(かに)縛り」 を紹介します(笑)

蟹縛りも、海老縛りと同様、古くからある縛り方のひとつ。
手を股の下から通して、足の外側のほうから手で踵(かかと)を抱(かか)えるように持たせ、腕と脛(すね)を、それぞれ左右別々に縛っていく縛り方です。

蟹は、お湯の中で暴れたりして、足がバラバラになってしまうため、茹でる際に前以(も)って結んでおきますが、左右別々に手足を縛るところが似てることから、このような名前が付いたのかも知れません。

この縛りも、海老縛りと同様、陰部が露(あらわ)になるのが特徴ですが、海老縛りのように、背骨や腰に掛かる負担は強くありません。

この縛り方は、股を閉じようとしても、肘(ひじ)の関節が極(き)まっているために、腕が閊(つか)えて閉じることが出来ません。また、手を引っ張ったり、腕に力を入れると逆に、股が開いてしまうので、羞恥心の強い女性には、大変いたたまれない縛り方と言えます。

ただし、この縛り方も、強く股を閉じようとした場合は、肘に強い負荷が掛かりますので、そういう責めをする場合には、別途、足を閉じられないように固定する必要があります。

最近は、開脚の度合いも大きいためか、M字開脚での縛りの方が主流のようです。しかし、海老縛りもそうですが、スイングチェアとか、開脚で縛るのに便利な椅子がなくても出来るのが、蟹縛りの便利なところでもあります。

言葉責めで、じっくりと羞恥心を弄(いじ)るのには、適した縛りと言えますし、場所を選ばないので、覚えておいて損のない縛りと言えます。
2016/01/06

【縄01】 海老縛り

海老縛りは、上半身を後ろ手で縛り、足を胡坐(あぐら)で縛ったものを、お互いに近づけるような感じで、丁度、お節(せち)に入っている 「海老のつや煮」 のように、海老が丸々ような感じに縛る縛り方です。
胡坐縛りは、足をあぐらに組んで、足首の辺りを縛る縛り方の総称ですが、海老縛りを、胡坐縛りと呼んでいる人達も少なからず居るようです。

この縛り方の醍醐味は、やはり、胡坐(あぐら)の部分にあります。

胡坐の足を、持ち上げるような感じで、きちんと手前に引き込まないと、いけないのですが、これがきまると陰部が大きく露出します。
あとは、上半身と下半身が共に、ガッツリと固定されるために、身体を動かす余地がほとんどないこと。このため、拘束した感・拘束された感満点ではあるのですが、ただし、難点は、不自然な体勢で固定するために、身体への負担が大きく、長時間の緊縛には向かないこと。

身体の硬い人はもとより、身体の柔らかい人に対しても、限界まで曲げようとしたりしますが、特に身体に力が強く入る動作を伴う場合は、腰や股関節に負担を掛けますので、要注意です。

海老縛りは、仰向けであそこを開帳させても楽しめますし、うつ伏せに倒して、四十八手にもある 「座禅転(ころ)がし」 [*1] のようにしても、どちらも楽しめる縛りですが、やはり体勢が不自然であるだけに、無理な力が掛からないような配慮が必要です。


先日、偶然にも最近、この 「海老縛り」 をされた女性と話をする機会があったのですが、彼女曰く(いわく)、「あぐらで縛って、それを首にくくりつけるような・・・」 みたいな説明をしていましたが、どうやら、そのときに、首の筋を痛めてしまったみたいな様子。
彼女は、話の中で必死に 「主(ぬし)」 のことを庇(かば)い、「受け手である自分のほうが悪かった」 みたいな発言を繰り返すのですが、そのときにその女性に言ったのは

「その主、経験は大丈夫か?」

の一言です。

緊縛では、手首などもそうですが、神経や筋が集まってる部分は、極力、圧迫しないようにします。
当然それは 「首」 も同じです。って言うか、「首」 に縄を掛けるなんて厳禁です。
縄には当然 「力」 が掛かりますから、首に縄を掛けると、その力は首の骨に掛かります。
そればかりか、何かの拍子(ひょうし)に縄が抜けてしまい、バランスが崩れたときに、首を絞(し)める要因にもなりかねません。

海老縛りでは、胡坐を縛った残りの縄を、上半身を引き寄せるために使います。しかし、この縄は首を通しますが、引っ掛けるのは、首ではなく、後手縛りの胸縄の背中の部分です。
首が後傾しないで、前屈(かぎ)みに首を固定しやすいように、縄で首を支える場合はありますが、当然、そのときは 「縄の力」 が入らないように縛るのが普通です。

海老縛りは、写真などを見る限りでは一見、胡坐(あぐら)をしばった縄を首に巻いて、これを寄せるように縛っているように見えますが、実際は、首ではなく、上半身を後ろ手に縛った胸縄などに通しているはずです。

そもそも、海老縛りは、江戸時代の拷問である 「海老責め」 が原型です。
その格好を維持するだけでも、苦痛が伴うものですし、長時間の緊縛は、全身のうっ血を引き起こし、生命の危険が生じる場合もあるので、いつも以上に注意が必要です。


[*1]  座禅転がし
上半身を後ろ手にして座禅を組ませ、そのまま前に押し倒した状態でする体位を、四十八手では、「座禅転がし」 と言います。
上半身は、後ろ手だけでも、高手小手でもどちらでも構いませんが、座禅を組ませると、手が使えない状態では、一人ではほどけないためか、座禅転がしの場合は、特に足は縛らないのが普通です。
自分も身体が硬く、座禅が出来ませんので、他人のことを言えた義理ではないのですが、最近は、身体が硬く、座禅の出来ない女性が多いので、「座禅転がし」 は、もう、かなりご無沙汰してます (><)

2016/01/04

「大人のおもちゃ」 の話

SM 調教は調教である以上、「パブロフの犬」 ではありませんが、「飴と鞭(むち)」 を多用します。
飴はもちろん 「快楽」、鞭は当然 「責め」 ですが、M 女の場合は、責めも 「快楽」 ですし、快楽も度を越すと 「責め」 になるので、その辺のさじ加減は微妙です(笑)

SM では、責め具として、大人のおもちゃ系を良く使用します。

ひと昔前までは、「こけし」 や 「芋茎(ずいき)」 が使われていました。ずいきは随喜(ずいき)とも書きますが、こちらは 「芋茎」 を使用した 「張り形(はりがた)」 のこと。
「芋茎(ずいき)」 は、「ずいき芋」と称する 「里芋」 や 「八ツ頭(やつがしら)」 などの茎を干したものを言います。もともと、これらは食用ですが、この茎を男根状に束たり編んだものを 「肥後(ひご)ずいき」 と言い、水やお湯で戻したものを 「張り形」 (今で言うとディルド) として使います。
これらは、江戸時代より使用されていた日本の伝統的な 「大人のおもちゃ」 。
ずいきは、そう長くはもたない(使えない)らしいのですが、その良さは、芋茎のネバネバから得られる 「かゆみ」 がたまらないらしく、今でも生産されていると聞いています。

昭和の高度成長期以降の代表的な大人のおもちゃは、何と言っても、「電動バイブ」。
男根状をしたバイブレータのことですが、これは、男根状のものが、振動するだけのものもあれば、振動しつつ複雑に旋回したり、ベアリングのようなものが回転したり、クリを刺激する専用の当て口が付いてるハイブリッドなものまでさまざまです。
この頃に補助具的なものとして開発されたのが 「ロータ」 です。「電動マッサージ器(電マ)」 も本来はその名の通り、身体のコリやシビレを和(やわ)らげる器具ですが、最近では、大人のおもちゃとして専用のものもいろいろ開発されているようです。

大人のおもちゃ系は、使う相手によっても、使う目的によっても、好みや加減が違うので、いつも悩みます。

まず理解しておく必要があるのは、例えば 「電マ」 ひとつを取ってみても、おもちゃで与えられる ”気持ち良さ” と、生身の身体から得られる ”気もち良さ” は違う種類の ”気持ち良さ” であるということ。
男性であれば、風俗店へ行って、すらりと延びた細い指でおざなりではなく丁寧に 「竿」 をしごかれるのと、それこそ、テンガをはめ込まれて、電マを押し当てられるのを想像すれば、女性が言っている 刺激の違いや ”気持ち良さ” の違いを理解できるでしょう。

次に大切なのは、強ければ強いほど良いというものではないということ。
強い刺激は、いきなり与えると 「痛み」 に感じます。「責め」 に使うのであれば、それでも良いのですが、それでも長時間与え続けるには適していません。

女性の場合は、当たる(当てる)場所や、当て方も重要です。
人によって、クリでの感じ方と膣(ちつ)での感じ方 (場合によっては 「後ろの穴」 での感じ方は) はそれぞれ違います。
また、オナなんかで自分で使う場合と、他の誰かに使われる場合とでは、使われる状況にもよりますが、人が介在する分、感覚は大きく異なります。
自分が好きな相手、気の許した相手であれば、「人に見られてる」 あるいは 「人に弄(いじ)られている」 みたいな 「羞恥(しゅうち)心」 の高まりも相(あい)まって、自分で使うときよりも、より刺激的に感じるはずです。


SM では、いろいろと道具を多用します。縄や拘束具(目隠しやギャグボール、手かせ、足かせ等)といったものから、ロウソクやシリンジなど趣向によって多岐に渡ります。
電マやローター、バイブといった電動おもちゃも、そういった 「道具のひとつ」 に過ぎません。

自分が女性を逝かせられないから、「おもちゃ」 を使ってるのではありません (笑)

女性を逝かせるだけなら、指一本でも十分です。
ほとんどの女性は、あおむけの状態で弄(いじ)ってあげれば、次第に脚を大きく開き、ブリッジするように腰を浮かせて、アソコを押し付けるようにして逝きます。
ひとによって 「逝き方」 はさまざまですが、股を 「ギュッ」 と閉じるようにして逝く女性も居れば、最後まで強くアソコを押し付けてくる女性も居ますし、「ピュッ ピュッ」 と潮を噴く女性もいます。
彼氏や旦那さんの前では一度も見せたことないであろう 「痴態」 を味わえるのは、男冥利の一言に尽きます。

「AV の見すぎ~!笑」

と嘲笑されそうですが、女性であれば、それは、単にそういう経験をしていないだけ。男性ならば、AV に感化され、見よう見まねで、やってはみたものの、うまく出来なかっただけです。

AV はもちろん演技ですから、単に動きを真似ても無理です。
肉体的物理的な刺激だけで逝かせてるのではありません。お互いの心がしっかりと入っていて、女性の気持ちの入れ方・追い込み方を解かってるひとなら、多分、誰にでもできます。

この辺は SM でも、ひとによって違いが出る部分かも知れませんが、普通に逝かせたあと、それで終わらずに、「これでもかっ!」 と責めて、ギャーギャー言わせたいから、「おもちゃ」 を使ってるだけです(笑)
自分の場合は、 「責め」 では 「おもちゃ」 を使っていますが、「ご褒美」 には、心を込めて 「自分の息子」 を使用しています。

心を込めて、愛することで、相手の心を満たしてあげて、最後に心を縛るんです (笑)

その辺は誤解のなきよう (笑)

2016/01/03

男の 「賢者タイム」 の扱い方

男性は、射精をした途端、急に 「我に返る」 ような状態になります。
巷(ちまた)では、「賢者タイム」 などと呼ばれていますが、それまでは、エロで頭の中がいっぱいだったものが一瞬で晴れ渡るような、「頭がさえわたる」 感覚です。
人によっては、急に眠気を催(もよお)したり、脱力感に襲われたりと、いろいろあるようですが、特徴は、エロいものを見ても反応しなくなるということ。
瞬間的に性欲がなくなり、エロに興味を失う感覚です。

確かに自分自身を振り返って見ても、精通初期の頃の 「賢者タイム」 のインパクトには、振り回された記憶があります。
それまで欲情を搔き立てられていた 「エロ本」 も、途端に 「薄汚い存在」 になります。ひどい場合は、隣で寝ている女性に対しても、「不潔な存在」 に感じたりすることもあります。
もちろん、そういった場合は、性的行為に没頭していた自分に対しても、自己嫌悪的な感覚に襲われます。

この男性の厄介な 「賢者タイム」 の存在も、太古の昔は、自分達の生命を守る上で、とても重要な役割を果たしていたものと思われます。
木から降りて、地で二足歩行していた人間は、外敵に襲われやすい状況にあります。
道具を駆使して、外敵から身を守る能力を身につけていたとしても、性行為の最中は、自由を奪われます。
男性としては、女性をその気にして交尾をし、射精をしたら、真っ先に我に戻って、外敵と対峙し、必要に応じて反撃をしないと、いけないわけです。
というよりは、むしろ、外敵に即応できなかった人類の祖先は、外敵の餌食となり、子孫そのものを増やせなかった可能性の方が大きいわけです。

そんな煩(わずら)わしそうな 「賢者タイム」。
しかし、この 「賢者タイム」 の存在は如何ともし難いものなのでしょうか?
自分の経験に照らし合わせるなら、男性に対しては 「努力次第で乗り越えられる」 と答えます。

精通を経験したばかりの少年とか、初体験間もない若者であれば、経験も浅いので、まだ解からなくもありません。しかし普通は、成長して経験を積んでいくにつれて、女性に対する扱いも洗練されていくもの。
どんな女性であれ、縁があって一夜を共にする、あるいは、裸になってお互いに触れ合うわけですから、その時間を 「楽しいひととき」 にするためにも、女性とイチャイチャして、楽しむのが普通。
要は、ちょっとした女性に対する 「配慮」 であり 「思いやり」。
そう認識していました。
それが当たり前と考えていましたし、今でも、それは変わりありません。

しかし今まで 「常識」 みたいに考えていたことが、そうではないと認識したのは、何人かの女性から相談を受けたのがキッカケでした。

ある女性は、いい大人の男性であるにもかかわらず 「賢者タイムだから仕方がない」 みたいに開き直られた後、パソコンをいじり出したり、入りたくないシャワーを浴びろと強要されたり。
別の女性に至っては、事を済ました後、爆睡してしまった男性を待って椅子に座っていたところ、急に目を覚ました男性に 「何をしている?何で帰らないのか?」 みたいなことを言われて当惑した・・・みたな話を聞くに連れ、「今時、こんなに ”デリカシー” のない男がいるんだ」 と、正直驚きを隠せませんでした。

「賢者タイム」 の存在は、言わば 「本能」 の一種みたいなものですから、それは理性でカバーすればいいだけです。
本能だけで、女性を抱いていると 「賢者タイム」 のパラドックスにはまってしまいます。
だから、女性はハートで 「愛おしい」 と思って抱く必要があるのです。
そうすれば、脱力感に襲われたとしても、女性を抱き寄せ、動かせれる範囲で、頭を撫でたり、背中をさすったり、あるいは、背後から包み込むように抱いてあげて、乳首をいじったり、背中や首筋にキスをしたり、脚を絡めあったりすることも出来ます。
眠気に襲われていたとしても、ギュッ と抱きしめて、耳元で甘い言葉をささやくことは出来るわけです。
こういう風に書くと、なんか大袈裟ですが、要は、ちょっとした女性に対する 「配慮」 であり 「思いやり」。
「何でそんな簡単なことが出来ないんだ?」 というのが、率直な感想です。

まあ、それを言い出すとキリがなくて、いろいろな人の話を聞いていると、自分では常識と思っていたことが、そうでもなかったりすることは、良くあること。
世の中には、いろいろなひとがいます。
しかし、そんな調子だと、このひとたちは 「抜かず何発」 みたいなことすら経験したことないのかな・・・などと、逆に可哀相に思えてきたりします。

などと偉そうに言ってはいますが・・・・

かなり昔の話ですが、仕事も逼迫(ひっぱく)している中、何とか時間を捻出して、女性と会う時間を作ったときのこと。
コトが終わって一服しているときに、仕事のことが山のように、頭に浮かんで来た経験があります。
気になって、女性がシャワーを浴びている最中に職場に電話してみると、とんでもない対処が成されていたことが解かって、電話口でいろいろと状況を確認して指示するはめに。

しかし、それに気付いた女性の口からポロッと出た一言に 「はっ」 とした記憶があります。

「わたしといるときは、わたしだけを見てほしい・・・」

今でも鮮明に覚えています。

仕事の割り込みは、全く気に留めない女性もいます。でも、怒りや不快な感情を顔に出すわけでもなく、ただただ 「願い」 を切実に告げるその女性の一言に、「女ごころの深遠」 を見たような気がしています。

大事なのは、女性に対する 「配慮」 と 「思いやり」 そして 「心遣い(こころづかい)」 です。

2016/01/02

SM は 「虐待」 ではなく 「愛」

前のコラムに、SM は DV (ドメスティックバイオレンス) とは似て非なるものであると書きました。SM は 「愛」 です。
SM は、「虐待行為」 ではなく 「恋愛行為」 なのです。

もしそこに、病的なほどのサディスト(加虐性欲者)がいたとしたら、その行為は、SM ではなく、DV に過ぎません。
その病気ゆえに、「真性」 と呼ばれようが、「真のサディスト」 を自称しようが、SM のコミュニティでは、受け入れられない存在ですから、本人の 「自制」 なくしては、犯罪行為に走る 「変質者」 か、あるいは、妄想に明け暮れるだけの 「単なるオナニスト」 に過ぎません。
これは、国内であっても海外であっても同様です。

SM では、S は M に気持ち良くなって欲しくて M を苛め(いじめ)ます。
M を憎くて苛めているわけでも、癇癪(かんしゃく)を起こして M を責めているわけでもありません。
SM は、自分の思い通りにいかないからと、当り散らす DV とは全く異なるものです。

DV は暴力的なものであり、自ら進んで DV を受けようなどと思うひとは誰一人いませんが、M は、自ら進んで S にその身を委ね、その責め苦を味わいます。

M が性的な被虐嗜好だからといっても、それは苦痛や精神的な屈辱によって引き起こされる快楽を求めているわけであって、自分が受け入れられない責め苦や、自分の望まない苦痛を求めているわけではありません、ましてや 「恐怖」 や 「絶望」 といった類のものは求めてはいません。


M は S である主に 「犯してください!」 と懇願します。
「わたしの身体を好きにしてください!好きにお使いください!」 と懇願します。
女性には、人によって程度の差はあるかも知れませんが、「めちゃくちゃにされたい!」 という 「レイプ願望」 あるいは 「被虐願望」 みたいなものが少なからずあります。
しかし、相手が誰でもいい訳ではありません。
主であると認めた特定の相手にのみ、屈服したいのです。

これは、もしかしたら、太古の昔の記憶。「より強いものを自分の生殖相手に選び、強いものに屈服することこそが喜びである」 ・・・ みたいな記憶が残っているのかも知れません。
動物の世界では、発情期である限られた期間の間、メスをめぐってオスが取り合いをします。
取り合いは、一方が死ぬか退散するまで続けられます。
メスが生殖を許すのは、その勝ち残ったオスのみです。そのメスにとっては、そのオスが主と認識されてるわけです。

大勢に 「自分の痴態」 を見られたいと思う 「露出願望」 を持つ M もいます。
ただし、このスイッチを入れられるは 「主」 だけです。
自分が信用し、自分が信頼を寄せる 「主」 が見守ってくれており、自分には危険が及ばないという安心があって、そして不安と恐怖心に打ち勝って、M が自らを 「主」 に委ねて、はじめて可能になるものです。
誰でもいいわけではないのです。

「痴漢願望」 も同じことです。
主に対しては、「痴漢されたいです!」 と言っても、それはやはり、誰でもいいわけではありませんし、現実で、全く知らない人からの 「痴漢行為」 を望んでいるわけではありません。
実際に M の女性に、痴漢経験を聞いてみると、性的な欲求を感じてしまった子や、恐怖で動けなくなってしまう子も居なくはありませんが、平然と睨み返したり、声をあげたりしたのが、ハードな ドM の子だったりなど、反応はさまざまです。

ドM の子は、普段のプレイがハードなだけに、M のスイッチが入っていない場合は逆に、肝が据(す)わっているようです (笑)

恐怖感や違和感を感じると女性は拒絶します。受け入れられる者と、受け入れられない者の存在は、M であろうがなかろうが、女性に共通の感覚と言っても良さそうです。


一昔前の緊縛師として有名な 「志摩紫光」 氏も、今でいうところの DV と SM を区別しているところでは、全く同じ考え方と言えます。
SM については多少誤解しているようにも見受けられますが、昭和初期から高度成長期にかけては、躾(しつけ)と称して、縛って木に吊るしたり、あるいは、お尻を露出させて叩いたりする行為が平然と行われてきた時代でもあります。
志摩氏の知る当時の SM の世界は、それこそ戦前派・戦中派と呼ばれる世代も多い時代です。玉石混合ではありませんが、DV という概念すらない時代ですので、SM も現在とはまた違ったニュアンスでとらえらていれたものと思われます。

現在の DV 的な要素も含まれていたであろう 「当時の SM」 とは一線を画した点で、現代の SM に大きな影響を与えた人であると認識しています。