2ntブログ
2016/01/07

SM に入るキッカケ

SM に入るキッカケ。それは人によってさまざまです。

ひとつは、本や雑誌などの書籍の類(たぐい)。

学校の図書室や図書館にも、落とし穴は待ち受けてます。江戸川乱歩の 「怪人二十面相」 シリーズは良いのですが、調子に乗って読み進めていくと、SM ではありませんが、「人間椅子」 とか 「芋虫」 といったフェチズムやエロとグロが入り混じった倒錯(とうさく)した世界に足を踏み入れてしまいます(笑)

小さい頃、親の 「オトナの本」 をこっそり盗み見て、裸の女性を縛ってる男性の写真や挿絵などを発見して、強烈なまでに衝撃を受けたというひとは、少なからず居ます。
自分も、本屋で立ち読みした際に、自分の履(は)いていた半ズボンが、はち切れんばかりになるほどの衝撃を経験しましたが(笑)、とある女性も、小さい時分に、お父さんが隠し持っていた 「オトナの本」 を発見してしまったそうで、彼女の場合はそれからずっと、「男と女は結婚すると、こういうことをするんだ・・・」 と思っていたそうです。
まさしく禁断のニオイ漂う大人の世界。伊藤晴雨などが書く緊縛の春画は、鬼畜や幽霊に鬼などが出てくる中で、人の生と死と、性と欲望が、渾然(こんぜん)となって、その 「鬼気迫る」 感覚は、日本の昔話とも相まって、衝撃的です。

「あんな風にされたら、わたしだったら、どんなになってしまうんだろう?」

女性なら、そう頭をめぐらし、恐怖とは別に、沸(わ)きでてくる 「性のドロドロしたもの」 に、頭が白くなるような 「恥ずかしさ」 を覚えドキドキした経験は、一度や二度は、あるはずです。
男性であれば、例え性交の知識や経験がなくても、強い衝動に襲われ、「同じようなことをしてみたい!」 という願望にとらわれたかも知れません。
若(も)しかしたら、ここで男性・女性で区別するのは、不適切かも知れません。男性でも、「もし自分がされたら?」 という恐怖に捉われるひともいるかも知れませんし、女性でも、その逆のひとがいるかも知れないからです。

最近は忽然(こつぜん)と 「テレビ番組」 から時代劇が消えうせてしましたが、以前は、時代劇なんかでも、盗賊に襲われて縛り上げられたり、女性が襲われるシーンなんかがあったりしました。
着物で縛られて、さるぐつわをはめられるシーンなんかもありましたし、女性が拷問で責められてるシーンなんかも見た記憶があります。
そういった刷(す)り込みもあるかも知れませんし、幼心(おさなごころ)に興奮していたかも知れません。

もうひとつの入口は、躾(しつけ)や折檻(せっかん)の類。

最近は、こういうことをすると 「子供の虐待」 になってしまいますが、昔は、躾や折檻の一環として、お尻を出して、ものさしのようなものでお尻を叩かれるのは、良くあることで、酷(ひど)い場合になると、裸で縛られて、木に吊るされた・・・みたいな話があるほどです。
今でこそ、「縛って木に吊るす」 なんて、狂気の沙汰(さた)と受け止められるような時代になってきてはいますが、当時は、宮本武蔵が悪さをして、沢庵和尚に縛られて木に吊るされる逸話なんかもあるくらいなので、そんなことで騒ぐひとはだれひとり居ませんでした。
学校などでも、忘れ物をしたりすると、パンツを下ろして、お尻を叩く先生などもいたくらいです。
保守的なイメージの強い某地方出身の40代初頭の主婦さんは、実際にそういう体罰を経験しており、その時の 「恥ずかしかった」 記憶が、今でも甦(よみがえ)ったりするそうです。

しかし、これらは通常は、SM 的な快楽の存在。その認知に留まります。

幼少期や思春期の時期に、性にまつわる原体験的なものが形成されているひとが、多いように思います。
また、幼少期や思春期の時期に受けた男性からの痴漢や 「いたずら」 あるいは言動などによって、性に否定的になってしまったり、あるいは、「自分は価値がない」 みたいに、自分の存在価値を否定する傾向が強いひとも少なくないように思います。
しかし、そうやって、それまでブロックしていたものも、急に何かの拍子にスイッチが入ってしまうことがあります。

学校を卒業して就職し、通勤電車の中で痴漢にあって、それがキッカケで、それまで抑圧してきた 「性」 が突然目覚めてしまった女性もいます。

40代後半の女性の場合は、学校を卒業して、印刷出版関係の会社に勤めたときに、そのような雑誌を見たときの強い衝撃が忘れられないと言っていました。
しかし、その女性に限りませんが、そんな 「願望」 は、そう簡単に彼氏彼女や結婚相手に言えるものではありません。あるいは、その当時は、それほど 「願望」 は強くなかったかも知れません。
25年もの長きに渡り、心の奥にしまっておいたはずの 「願望」 とも言えますが、その間に、積(つ)もり積もったストレスが育(はぐく)んできた 「願望」 とも言えるかも知れません。
いずれにせよ、それは、SM を愛好する自分との出会いによって、その女性に火が付くことになります。

「もしかしたら、これが実際に経験できる最初で最後のチャンスかも知れない。」

その女性が行動に移したのは、言うまでもありません。
ちなみに、この女性は、旦那さんに中1の息子さんが一人の三人家族。昼間は週に何回か近くのスーパーにパート勤めに出ていますが、それこそ今までに、浮気も不倫の経験も全くない 「普通の主婦」 さんです。


SM に入るキッカケはさまざまです。

心の中で性をブロックしてる何かを乗り越えるだけの強い 「外圧」 を必要とする人もいます。
そういう人の場合は、自らの心をブロックしてる ”自分” が拘束されることで、普段は抑圧されている、あるいは、それまで抑圧されてきた心や性が 「解放」 され、その結果、普段本人が通常のセックスでは得ることの出来ない 「快感」 や 「満足感」 を得ているようなところがあります。
SM で与えられる苦痛などの刺激が直接、性的な快感に結びついていない人なんかの場合は、そう見受けられるひとが少なからず存在します。

バツイチの女性ですけど、自分は気が強くて、男勝(まさ)りで、自分では S だとばかり思っていたけど、今のカレシに出会って縛られて、アナルの快感に目覚めたことで、初めて、自分が M であることが判ったのと同時に、M であることの喜びを知った・・・という女性もいます。
この女性の場合は、明らかな M のスイッチが存在しますが、当然そこに至るまでには、主(ぬし)であるカレシに対する尊敬と信頼があり、SM を通して、素(す)の自分を曝(さら)け出すことが出来たからと言っても過言ではありません。

SM という手段の是非や好き嫌いをいくら議論したところで意味ありません。大事なのは、「心の解放」 そして 「性の解放」 が出来ているかどうかです。
社会の鎧(よろい)を着たままの状態で、格好つけても、気取っても、強がっていても、意地を張っていても仕方ありませんし、屁理屈を言ってても、愚痴を吐いていても、何も意味もありません。
社会の鎧を脱いで、素(す)の自分と向かい合って、はじめて答えらしきものが見えてくるのです。


女性の場合は、30代後半から40代そして50代に掛けて、更年期を迎えます。ホルモンバランスの変調もあるでしょうが、「見た目」 的には衰えていく容姿や身体も手伝ってか、自分の 「オンナとしての賞味期限」 を次第に強く意識するようになります。
男性ホルモンも、比率的には高まってきますから、性欲も男性的になってきます。
オンナとして機能してるうちに 「種を残したい」 という 「種の保存本能」・「生存本能」 が無意識のうちに働くのかも知れません。

既に70歳は超えている某料亭の艶やかな女将(おかみ)曰(いわ)く、「女性の花は35歳から55歳」 とのこと(笑)
肌も容姿も身体も、歳と共に衰えていくのは仕方ありません。
ダイエットにエステに励(はげ)むのも、自分に自信を付ける上では有効だと思いますが、しかし、その衰えを言い訳にして嘆(なげ)いてみても、肌も容姿も身体も、衰えは一向に止まりません。
むしろ、内面からにじみ出る 「情」 や 「色気」 は、20代そこそこの小娘に出せるものではありません。

人を傷つけることは、良いことではありません。「大人」 であるならば、それには最大限の配慮をすべきですし、それが出来ないなら、「大人の恋愛」 をする資格はありません。
でも、人を傷つけることがないならば、あとは自分の人生です。
自分が変われば、周囲も変わります。

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