2ntブログ
2017/04/29

男心と女心(1) 男の「好き」と女の「好き」の違い

そもそも、このブログは、若者、特に若い男性の参考になればと思って書き始めました。
しかし、寄せられるメッセージを読むと 「おんなゴコロって、そうよねっ」 みたいな、女性からの共感ベースの応援メッセージ。
それは、それでとても有り難いのですが、しかし、自分は女性のスタンスを100%支持しているわけではありません。

大事なことは、男女の歩み寄り。

女性は男性の特徴を理解し、男性は女性の特徴を理解し、接点を出来るだけ広く確保しなさいということ。

 

自分がガキの頃の性教育は、こんな感じでした。

まずは、男女の肉体的な変化。子供のときは 「付属物」 を除いて、男女共そんなに大きな違いはない。しかし、それが思春期(第二次性徴期)を迎える頃になると、肉体的には、男はゴツゴツと男らしく、女はまるまると女らしくなるみたいな、外形的な変化が始まり、そして、心も男は男らしく、女は女らしくなるみたいな 「おまけ」 がついて終わり。

続いて、子供ができるに至るまでの物理的肉体的な性行為の話。最後は、避妊(ひにん)や病気のお話です。

 

確かに子供の素朴(そぼく)な疑問には答えているかもしれない。

 

しかし、決定的に 「心の話」 が欠落しているのです。

 

第二次性徴によって、「ホルモン分泌」 が変化し、その結果起こる 「心」 の変化は、学校教育では教えてくれないのです。なので異性の口説き方もアプローチの仕方も、習っていない。

それなら、家で教えてくれるかというと、教えてもくれない。

まあ、性の問題は、極めて個人的な問題なので、「教えろ!」 と言われたとしても、パターンで教えて済むもんでもなければ、その通りに行くものでもありません。

 

「心の話」 で重要なことは、男女は 「心も身体も全く違う存在」 同士であるということ。しかし、違いばかりを強調していては、乖離(かいり)するばかりで、そこに融和は生まれません。

LGBT の話を加味するともっと複雑になるので、あくまでも一般論で説明しています。

 

前置きが長くなりましたが、さっそく第一話。

 

男の 「好き」 と、女の 「好き」 の違い

 

例えば、「男は誰とでも寝れるけど、女は好きな人としか寝れない」 みたいな言葉があります。これは一見正しくもあるのですが、正しくもないのです。男女の行動だけを見ているだけなら、正しく見えます。

しかし、細かく見ていくと、男は寝ようとしている時点で既にスイッチ入ってる状態なわけですが、一方の女性はと言うと、単にスイッチの掛かりが遅いだけの話。そこで 「好き」 という感情が重要となってくるわけですが、女性の 「好き」 という感情は男の 「好き」 と比べると、実に幅が広い。

 

男性の 「好き」 は、恋愛表現であるのに対して、女性の 「好き」 は、単に 「好意」 をもっているということ。そこには、尊敬や憧れ(あこがれ)の感情も含まれるのです。

なので 「友達として好き」 みたいな表現になるわけです。

 

では、女性が寝る基準は何か?

極端に言えば、「ドキドキ」 があるかどうか。男であれば、それは 「勃つか勃たないか」 の次元の話なのです。(笑)

なので、女性の言葉で言うならば、男は勃ってる時点で既に 「好き」 なのです。(笑)

 

要は、友達であれ憧れであれ尊敬であれ、「好き!好き!」 とさえずり、その気になって、近付いてきた男性に自分が 「ドキドキ」 するか、あるいは、ときめかせてくれるか。そこが、女性の合格基準なわけです。
そこの違いを理解できるようになると、何故、「女性が男性のリードを必要としているのか」 というところも理解できると思います。

 

結局のところ、男も女も、その気にならないと寝れないんです。

 

これは、動物として人間を見た場合の、基本的な交尾のパターンに過ぎません。

しかし、女性の 「好き」 は、必ずしも男性の 「好き」 と感覚的に一致しない理由や、何故、女性が男性に対して受身であり、男性のリードを期待するのか。あるいは、好きな素振(そぶ)りをするのに、何故最後の行為にまでたどり着けないのか。

そういったものが、動物としての 「人の本質」 を理解すれば、全て理解できるのです。


もし、目から鱗(うろこ)だと思った方は、ポチッとしてくれると助かります。(笑)

2017/04/28

インナーマザー

今まで自分が相手にしてきた愛奴の中には、「インナーマザー気質」 の人が少なからず、居たように思います。

 

インナーマザーとは?

 

「インナーマザー(Inner Mother)」 は、「インナーペアレント(Inner Parent)」 とも言われます。

 

 

「インナーマザー」 とは、自分の頭の中にある、自分が幼い頃の母親(親)の残像やイメージのこと。

しかし、これは、あくまでも実際の母親とは別の存在で、母親に対する罪悪感が子供の内心に取り込まれて、「~してはならない」 「~ねばならない」 的に、自分を批判したり束縛する過酷な批判者となっている負の残像やイメージを指して言うようです。

 

インナーマザーは、自分の無能や怠惰(たいだ)あるいは醜(みにく)さを責め立てます。
母親が無意識に言った、自分に対する評価、あるいは、兄弟姉妹同士の比較や期待。そういったものが、徐々(じょじょ)に

 

「他人に迷惑を掛けてはいけない。」

「どこに出しても恥ずかしくないように、しないといけない。」

「いつも、お行儀(ぎょうぎ)良くしていないといけない。」

 

といった 「暗黙のプレッシャー」 となって自分に圧(の)し掛かってくる。そしてその結果、常に自分に自信がなく、罪悪感や不安に苛(さいな)まれたり、自分や他人に完璧を求めたり、あるいは、他人の目を常に意識してしまったりする。拒食や過食に走ったりする場合も、あるといいます。

 

「いいママでなければならない。」

 

みたいなものも、もしかしたら、その延長かも知れません。

 

インナーマザーのメカニズム

 

「インナーマザー」 は、フロイトが、人の欲求や衝動を抑えて、自我を抑える働きをしているとする 「超自我(スーパーエゴ)」 と同一であるとする説もあります。


動物の中には、生まれたときに最初に見たものを 「親」 と認識する種も少なくありませんが、動物も、その後は、餌を取ったり、生き延びるための知恵を教え込みます。

生物学的に 「不完全な状態」 で生まれてくる人間の場合は、刷(す)り込みに掛かる時間も長く、また、情報量も多大ゆえに、重要な意味をもっているのかも知れません。


特に、「インナーマザー」 の影響を強く受ける女性の場合は、母親像や子育てといった母性にも強く関係している可能性もあります。
ネグレクト(児童虐待)を受けた女性が、本人はそのことに嫌悪(けんお)感を抱いているにもかかわらず、自分が母親になったときに、自分の子供に対しても同様の行為をしてしまう・・・と言ったことも聞きますし、また、拒食や過食といった摂食(せっしょく)障害も、格段に女性比率が高い。

 

母親(あるいは親)の期待に添い、あるいは褒(ほ)めて貰いたいという願望がエスカレートし過ぎた結果、欲求を必要以上に抑圧し過ぎてしまったり、あるいは、親のはめた枠に閉塞(へいそく)感を感じつつも、抵抗できない自分に対する憤(いきどお)りを感じたりとか、いろいろな理由が考えられますが、いずれにしても、そのストレスが許容量を超えたときに、逆方向への揺(ゆ)り戻しが起こる。


「インナーマザー」 が、フロイトのいう超自我と同一もしくはその一部であるとするならば、それは生物学的に 「不完全な状態」 で生まれてくる人間にとっては、避けることが出来ないものであり、また、必要不可欠なものと言えるのかも知れませんし、特に、女性にとっては、母性に絡む部分もあるだけに比重も高く、影響も大きいのかも知れません。

 

最近の研究で、女性がイク場合、理性をつかさどる前頭前野(ぜんとうぜんや)と、不安をつかさどる扁桃帯(へんとうたい)が機能停止を起こしていることが知られています。これは他の記事で以前にも何度かご紹介していますが、「インナーマザー」 は、まさしく、この理性と不安の双方に高圧的に訴えかけ、欲求を抑制しようとする心理です。

本来、これらは 「女性の防衛本能」 として機能している部分ですが、「インナーマザー」 による抑制が耐えられないほど高圧的なのか、あるいは、内なる自分である 「インナーチャイルド」 に決定的に満たされない部分があるのか、いずれにせよ、食欲や性欲といった欲求を含めて、スムーズなコントロールが出来なくなっているんだと思います。

個人のブログ記事ではありますが、「インナーマザーとは(NHK社会福祉ネットワーク)」 に、NHK で放送された特集番組の内容が、紹介されています。そこには、

「インナーマザーに悩む人はアラフォー世代に多いそうです。

とあります。この記事によると、NHK番組では、アラフォーに多く見られる理由を、「高度成長期」という時代背景に結び付けているようですが、自分はそう思いません。

単なる時代背景に結び着けるのであれば、それは一過性の社会現象と見ていることになるからです。

自分はもっと普遍的な現象であると認識しており、原因のひとつには、アラフォーの時期に起こる 「女性ホルモンの低下」 によるものと推測しています。

そして、女性ホルモンの低下に伴って、相対的に男性ホルモンの分泌比率が高くなる結果、女性は強い性の衝動を覚えることとなり、今まで自分を支配していたインターマザーとの直接対峙が起こり、緊張が高まってくるわけです。

インナーマザーとの葛藤(かっとう)

 

「インナーマザー」 は 「ダウナー」 に作用します。常に自分の欲求を抑え込もうとする存在です。

その束縛に違和感や反感を覚え、思春期に 「反抗」 して、簡単に脱皮してしまう女子もいます。簡単と言うと語弊(ごへい)があるかも知れません。既にその時点でストレスがいっぱいいっぱいになってるということです。

若者の場合、それを過ぎると、拒食や過食といった摂食障害あるいは自傷に走ったり、そうでなければ、毎日相手を 取っ替え引っ替えする 「場当たり的なセックス」 に走ったりしますが、そういった行動は、自分の中の 「インナーマザー」 への抵抗です。なので、どうしても 「自己破壊」 的側面が行動に現れてしまう。

しかし、これらの行為は、いっときの 「凌(しの)ぎ」 に過ぎません。なので、繰り返してしまう。

 

これらの苦しみは、ある意味 「産みの苦しみ」。

 

必要とされているのは、「インナーマザー」 の呪縛から逃れ、自立し自律できるだけの 「自分自身(アイデンティティ)」の確立なんです。

後天的ではあるけれども、しかし、簡単とは決して言えない自分の深層心理を自分で修正しようと苦しんでいるからなわけです。

インナーマザーの乗り越え方

では、「インナーマザー」 による苦しみを、どう乗り越えたらいいのか?
その中身は、最終的には、自分自身でしか修正できません。だから、それぞれ各自 「苦しんで下さい」 としか言えません。
そもそも多くの女性は 「理屈」 を嫌いますから、「理屈」 で説明すれば拒絶し、自分の経験則で説明すれば 「そんなの教科書にない」 と生意気を言い、最終的には、感覚と情で包んであげて、最後は力で押してあげないと、乗り越えられないのです。
ある意味、精神的な 「分娩(ぶんべん)」 です。(苦笑)
しかし、そこには、「最終的にこの人の言うことを信じて、自分でも頑張ろう」 という気概(きがい)がないことには始まらないのです。
頭では分かっていても、身体は動かないのです。不安があるから保証が欲しい。(苦笑)

簡単に書き換えさせてくれるのであれば、実に簡単。

① 人は弱い存在であり、人は誰しも完璧な人はいないものと認識すること。そして、自分もそうだし他人も含めて、不完全であることを許容すること。
② 社会と自分は、表と裏。それをきちんと認識して、自分だけ良ければ良いのではなく、また、自分が犠牲になれば良いわけでもない。周囲の人を気遣(きづか)いながら、お互いに相手の気持ちを尊重して、自分の欲求を満たすこと。他人にも優しく、自分にも優しく接しなさいということ。
③ 自分の行動を他人のせいにしないこと。

要は、自分の意思で、自己の責任で、美味しそうだと思ったのなら、その 「とんかつ」 を食べなさいということ。(笑)
自分の人生は、自分が決める。でも、家族がいるなら、家族のことも尊重するし、相手がいるなら、相手のことも尊重する。
他人を愛することが出来るなら、他人を愛するように、自分も愛しなさいということであり、自分を一番に愛しているヤツであるならば、自分を愛するように他人を愛しなさいということ。
自分が完璧と思ってるヤツは、自分が 「如何に不完全な存在」 であるかを認識し、自分が不完全と嘆(なげ)くヤツは、自分が出来ている部分を認識すること。

今現在、籠(かご)の中に居る人は、籠のドアが常に開いてることから目を背(そむ)けず、自分が籠の中にいることを籠のせいにしないこと。どういう意味かと言うと、自分の生きる方向は、自分で決められることを認識しなさい。そして、自分が決断出来ないことを、他人のせいにしてはいけないということ。

けれども、外の世界は案外 「過酷」 であり 「甘くはない」 ことを認識すること。

「インナーマザー」 の重圧に耐え切れないのであれば、その正しさを自分で検証して確認し、自分に不要だと判断したのであれば、自己責任で、そこを自分でぶち破りなさいということです。

でも、頭では理解してるようで、どうにも出来ない。それで、本能的に行き着いたと言うよりも、辿(たど)り着いた先が SM だったという人は少なくありません。

SM の世界へようこそ

ここで書いている話は、「インナーマザー」 という言葉が存在するから、その言葉を使って表現しているだけです。
「SM (サドマゾ)」 と言う言葉もそう。サディストの語源は、作家である 「サド侯爵(マルキ・ド・サド)」 が語源になっており、マゾヒストは、同じく作家であった 「マゾッホ」 が語源。
「SM」 という言葉が存在するから、その言葉を使って表現しているだけであって、SM 自体は欧州発祥のものではなく、人類にとって普遍的な行為です。

「SM する人には、病んでる人が多い」

そんな批評をもらうと、反論できないところもあります。拒食や過食といった摂食障害や自傷癖(へき)もあるし、欝(うつ)や双極性障害である場合も、なくはありません。比率は確かに少なくありません。
しかし、自分は、そういうのは、あくまでも医学的な治療を必要としている症状としか認識していません。ビタミンやミネラルが欠乏してるから、医療行為として、点滴で補充することが必要と認められるだけのこと。

逆に、いわゆるノーマルの人でも、突付(つつ)いた途端(とたん)、のめり込む人は少なくありません。

SM は、そういう意味では、民間療法的な側面もあります。しかし、民間療法であるがゆえに、藪医者(やぶいしゃ)が多いのも事実ですwww

きちんと、相手のことを尊重して、期待に応えてくれる 「SM バー」 もあれば、「赤頭巾(ずきん)ちゃん」 ではありませんが、「お婆ちゃん」 を装ってマネタイズ可能な獲物(えもの)を虎視眈々(こしたんたん)と狙ってる輩(やから)もいるようです。
SM は、そもそもは究極の 「秘め事」 であり、そして、浮世(うきよ)を捨てたゲスのやること。アンダーグラウンドな世界なのです。
なので、「お店」 はそのまま 「コミュニティ」 を意味します。金を使う客は好まれますが、しかし、金さえ払えば 「神様扱い」 するほど温(ぬる)くはありませんし、フェアでもありません。

しかし、縄でなく藁(わら)をも掴(つか)みたい人には、地域にも寄りますが、信頼できる方を紹介します。
服の上からですが、いろいろな色に染めた縄で若い子を縛って、みんなで楽しんでる信頼できるエロ縄師さんなんかもいます。
逆に、名前は有名ではあるものの 「裏事情」 を聞いてると、情けなくなるような緊縛師もいます。
きちんと鎮痛作用があって、副作用の少ないお薬を処方いたします。(笑)

2017/04/22

出会いと縁

男女の仲だけでなく、同性同士もそう。縁(えん)とは、不思議なもの。

縁には、縁を繋(つな)げる役割の人達 「コネクタ」 と、縁によって繋がる 「当人」 になる人達 「ターミナル」 になる人達がいます。

 

若い頃は、「自分が利用されている」 と勘違いしていました。

 

しかし、自分も稀(まれ)に、繋がる側である 「ターミナル」 を経験したりすると、やはり、繋げる役割である 「コネクタ」 の存在の重要さを、意識せざるを得ません。

 

そうやって見えてくる 「目に見えない人間像」。

 

「良縁」 を単なる 「グッドラック(幸運)」 だと思って、良縁を繋いでくれた 「コネクタ」 の存在をいい加減に扱う人、「邪険(じゃけん)に扱う人」 は、良い結果に恵まれません。

 

今、自分が 「損しているか」 あるいは 「徳しているか」。あるいは今後、その人との関係で、自分が 「損するか」 あるいは 「徳するか」 で 「人間関係」 を測(はか)るのではないと言うこと。

人間関係は、「今のうちに、この人に恩(おん)を着せて、後でいろいろ返して貰おう」 みたいな打算でなりたっているものではないということ。

 

「一期一会(いちごいちえ)」 とは、純粋にその人そしてその時間を自ら楽しみ、そして、その人との時間の共有に感謝し、共感することです。その時間とその人を尊重するということ。

 

自分の体調が悪くても、そのときのベストを尽くすのです。

「自己ベストを出せ!」 と言っているわけではなく、「その人」 と 「その時」 を最大限楽しみなさいということ。

 

あくまでも、「奉仕」 する側、場を仕切る側である 「茶道の心得」 なのです。

 

画一的・機械的な 「マニュアルベース」 のサービスではありません。

 

SM と一緒なのです。

 

人と人との関係は、その組み合わせ毎(ごと)に異なるのです。

 

人の組み合わせが異なれば、干渉しあう色も違う。干渉しあうことによって生まれる 「和音」 も 「不協和音」 もそれぞれ異なるのです。

 

桜の花のように、パッと咲いて、パッと散る関係もあります。しかし、その時間は短くても、人の心、人の記憶にずっと残る 「開花」 もあるんです。

 

花見で、大騒ぎをするのは、悪くありません。

みんなで楽しく騒いで、いいんです。

そして、楽しさをお隣さんにも分けてあげればいい。
食べ物をシェアし、飲み物を注ぎあい、そして、喜びのシェアを伝播させること。
でも、強制はいけません。相手の受け入れ具合をきちんと測りながら・・・です。

「袖(そで)摺(す)り合うも多生(たしょう)の縁」

袖を摺り合う・・・という意味は、それだけ物理的に近くに居たということですが、多生の縁の 「多生」 は、仏教用語で輪廻(りんね)を表す言葉であって、「多少の縁」 = 取るに足らない縁 という意味ではありません。

ましてや、ネットなどの情報科学の発達によって、今や、物理的に離れていても、袖が触れ合う世界です。

縁には、良縁もあれば、悪縁もあります。
しかし、絶対的な良縁もなければ、絶対的な悪縁もない。
縁を大事にする人には、良縁が集まり、縁を利用する人には、悪縁が集まる。

見える人には、見えて、見えない人には全く見えないのが、「縁」 です。

あなたは、「縁」 を大事にしていますか?

2017/04/20

SM とは解放と休息の場 - とあるSM 相談 (1)

以前、元カレとの SM で耐え切れなくなったという女性の相談に乗りました。

お話を聞いてみると、プレイにおいては、言葉責めと称して、「お前は駄目なんだ」 的な自己否定的な批難を常に浴びせられ、束縛されていたとのこと。

本人曰(いわ)く、「洗脳されている気がした」 とのことでしたが、ここまでくると 「呪縛」 という表現のほうが近い。(苦笑)

 

しかし、元カレについて話を聞いてみると、常に 「イライラ」 としているタイプではありますが、きちんと社会生活は送っているし、特段、サイコ・・・というわけでもない。

 

社会の一線で全力を尽くしていると、全く自分に余裕がなくなってしまう場合があります。

政治やニュースなどを通して、世の中を見回して見ても、「そうじゃない!」 と感じる現実は山積しています。

問題意識を持つことは、悪くはありません。しかし、評論化を気取って、自分を除く他の人達に 「駄目出し」 をして 「優越感」 に浸ってるだけなら、それは単なる 「自己満足」 の世界。

自分が優れているのであれば、少なくとも、労(ろう)を惜(お)しまず、「自分の愛する女性」 を 「良い方向」 に導いてあげればいいんです。

 

結局のところ、こういうタイプは、自己中心。そして、自分の思い通りにはならない他人に 「イライラ」 し、他人を批難することで自己を正当化し、安心しているタイプ。根源にあるのは、自信のない弱い自分であり、他人を恐れ、常にその露見を恐れているわけです。

 

そのカレが、愛しているのは常に 「自分」。 「他人の粗探(あらさが)し」 は、「自己防衛」 の表れに過ぎません。実は 「弱い」 から、実質的に脅威のない人間に対しても、鎧(よろい)を身に付け、あるいは、自分に危害が及ばない、自分より弱い相手に対して 「挑発行為」 を楽しんでいるわけです。

 

そんな元カレと、物理的な行為自体は SM に類似していたとしていたかも知れません。

 

しかし、その行為の本質は、自分の弱い気持ちを隠そうとして、あるいは、常に見下されている不安を解放しようとする 「弱い者虐(いじ)め」 に過ぎません。

 

自分にも、そういう余裕のない時期がなかったわけではありません。しかし、本質的な方向性が違うと、どうしても違和感を感じざるを得ません。

 

プレイにおいては、本人を言葉で罵(ののし)る場合もあります。過剰に罵られることで、本人の感情が後押しされて涙が出る。逆に言うと、そこまで追い詰められないと、自分の感情を解放できない人もいるのです。

しかし、その場合は、自分がストレスを発散したくて罵っているわけではないということ。

 

罵いることで、ストレスを発散したい人が、たまたまそういった、過剰に追い詰められないと、感情を表に表すことが出来ない人と出会えれば、まだいいのですが、人生はそんなに甘くはありません。

自分の思い描いている SM のイメージに固執する人の場合は、相手が自分の趣向とあっている人かどうかを見極め、「コレジャナイ!」 と思ったら、未練なく次に流れるタイプの人もいます。

 

大事なことは、主たる者が、きちんと 「受け手」 を見て、きちんと受け止めているかということです。

その 「受け手」 の心や内面にある傷。そういったものをきちんと理解しているか。そして、その現実から目を逸(そ)らそうとせず、きちんと正面から、その 「受け手」 に対峙できるかどうか。

 

「受け手」 にとっても、主との時間は、例え一睡(いっすい)も取れなかったにしても、満足感と充実感に浸れる、いっときの 「休息の場」 でなければいけないのです。

2017/04/18

アンタが主役?

いつまでたっても、なかなか難しいのは、やはり、「責め手」 と 「受け手」 の距離感の保ち方です。

自分も昔、若い時分に、波乗り(サーフィン)に興じたことがあります。

SM も、実に波乗りの感覚に似ています。

 

スポーツとしては、ベストの波を選んで、波に乗ろうとする他のひとに競(せ)り勝って、波に乗れた者勝ちの世界。競(せ)りに勝っても、乗れなければ全員敗者です。

しかし、波に乗れたとしても、きちんと 「良い波乗り」 が出来なければ、意味がありません。

 

波をきちんと読めず、自分勝手に動こうとしても、板は失速するだけ。

ギャラリーの視線を浴(あ)びて、「目立ってやろう」 とパフォーマンスを意識すればするほど、失速する。

 

大事なのは、波と自分の一体感。

無意識となり、波に自分を委(ゆだ)ねられないといけない。

 

ギャラリーから見たら、波に乗ってる時間なんて、せいぜい、数秒から十数秒、長くても数十秒の世界。

しかし、波に乗ってる人間の時間は、止まっているのです。

記憶に残っているのは、スローモーション。

コマ送り再生の世界です。

その数秒から数十秒が、とても長い時間に感じる。

 

きちんとしたワザを繰り出せるかどうかは、波の状態と、あとは自分の精進次第。

波に後押しされる感覚に、しっかりと身を委ねる。

波の前では、大自然の前では、人は 「受け手」 以外の何者でもありません。

受け間違えば、事故も起こします。

ときにはつまづいて、海の底まで連れていかれて、石などにしこたま押し付けられたりします。

さぼって 「ボーッ」 といていると、流されたり、もします。

 

波が巻いて出来る空洞(チューブと言います)にうまく入ることが出来ると、視界は急に暗くなります。水しぶきは目に入るし、明るい出口はずっと先。

おもいっきり叫んでも、波のうねるような音や、水しぶきの音に掻(か)き消されて、自分の声は聞こえません。

板をもっていかれないように、ただひたすら耐える。板を押さえて堪(こら)えていると、次第に出口は近づいてきて、急に視界が広くなる。そして、目の前の前面に、明るい世界が広がるのです。

 

「ちょびさん、チューブに入ってましたよ・・・」

 

ちょうどそのときゲッティングアウトしていた仲間が、目撃します。

うまくパーフォマンス出来たという 「喜び」 が、一挙にこみあげます。

 

パフォーマンスがうまく出来た・・・と言うのは、人の評価であり、仲間の評価。

主役となった快感はありますが、しかし、それは波に自分を委ね、波に転がされる快感。大自然と自分が調和する快感に比べれば、ほんの微々(びび)たるものに過ぎません。

 

波は、大自然の 「愛」 を感じさせてくれたりします。しかし、自分は愛されているから大丈夫などと舐(な)めてかかったり、調子に乗っていると、とても怖い存在です。

大自然の主は、愛するか怒るかです。憎(にく)みませんが、人の驕(おご)りや慢心そして甘えにはとても厳しい存在です。

 

***

 

自分に自信のない人や、自分は価値がない。自分は誰にも求められていないと感じる人。そういう人には、「自分の人生における主役は、自分なんだよ」 と教えます。

 

人はみんな、完璧になるために生まれてきたわけでも、誰かを楽しませるために生まれてきた訳でもない。人は、自分が幸せになるために生まれてきたんです。

自分の人生において、主役は自分なんです。だから、自分を大切にしなきゃいけない。自分らしさを大事にしなさいと、教えます。

 

しかし、主の愛に触れたからといって、調子に乗って甘えていると、主は怒ります。

 

男と女の関係においてもそうです。

 

SM というロールプレイにおいては、文字通り 「主役」 は、「責め手」 である S です。

しかし、二人の関係においては、S は主(ヌシ)ではあっても、ヒロインとしての主役は M なのです。S は指揮者やプロデューサーであり黒子なわけです。

 

輝かしいヒロインは、本人の才能によるところもあれば、努力によるところもあるでしょう。しかし、自分一人の力ではなく、プロデューサーやその他大勢の黒子の存在があって、出来上がっているものなのです。脇役(わきやく)や端役(はやく)が居るからこその、主役なんです。

 

主役は、自分の思い通りに出来る存在ではないんです。

許されるのは、その役柄に沿って、自分の台詞(せりふ)や感情を表現することだけです。

 

だから、自分に自信のない子には、あなたの 「人生の主役はあなた」 だと言ってるわけです。では、主たるプロデューサーは誰かと言ったら、それはその子自身だと言ってるわけです。

一方で、主役なんだから、何でも自分の好き勝手が出来ると勘違いしている子に対しては、厳しく接します。

 

ドラマには、ドラマの調和が、撮影現場には撮影現場の調和があるように、SM にも調和が求められるのです。SM は手段であり方法論であり、道のようなもの。

SM の根底には 「愛」 があります。しかし、その愛を絶対的なものと勘違いし、あの 「愛」 に甘え、調子に乗っていると、調和は脆(もろ)く崩れるのです。

 

SM においては、「受け手」 である M が主役なのです。

そして、主役であるからこそ、自由が効かないのです。許されていることは、ただひとつ。

主を信じ、主の命令に従い、その中で、自分や自分らしさを表現するということだけなんです。

主の前では、嫉妬や独占欲あるいはプライドや不安に駆(か)られて、そのときの自分の感情に耳を傾けては駄目なんです。

 

自分の迷う心を全て捨て去り、主の命令に耳を傾け、そして主に自分の心も身体も委ねる。

自分は 「自分の人生の主役」 であるからこそ、自分の役を放り出すことが許されないのです。

 

SM においては、M が主役。

 

身体中の産毛を逆立てて、自分に触れる主の指を感じ、命令を聞き逃すまいと、主の声に集中しなさい。そして、主の命令を否定しようとする邪念を打ち払い、自分の身体の奥から込み上げてくる熱いものから逃げようとしないで、ただただ耐え続けなさい。

そして、自分は楽器にでもなったつもりで、主が奏(かな)でる振動を全身に響(ひび)かせて、心地良い音色で鳴きなさい。

2017/04/16

SM とはなにか?(4)

「SM とはなにか?(3)」 からのつづき

 

多分、若いということは、気力がみなぎっていることなのでしょう。

親切な先輩は、突き進むしか知らない余裕(よゆう)のないガキを諭(さと)そうとしますが、言葉は一向に伝わりません。

余裕がなく、自分の方を振り返って、きちんと受け止めてもくれないような男性に、女性は心を許しません。多少のテクニックがあろうが、心を縛れない男には、惹(ひ)かれないわけです。(苦笑)


どれだけ、自分の知識やテクニックを誇(ほこ)ったところで、役に立たなければ自画自賛(じがじさん)。単なる自己満足に過ぎません。
自分に身体を預ける 「受け手」 の心をも、しっかりと受け止めてあげる。
そして、かすかな反応も見逃さない。
自分の逸(はや)る気持ちをどれだけ抑えて、どれだけ相手の気持ちを汲(く)むことができるか。それができるようになると、受け手は、それに応えてたくさんの反応を返してくれます。
例えるなら、蟻(アリ)とアリマキ(アブラムシ)のようなもの。アリが突付(つつ)くと、アリマキはお尻から甘い蜜を出すんだそうです。(笑)

自分の狂気に浸(ひた)るのも構いませんが、相手の反応を無視してしまったら、それはその場に二人居たとしても、単なるマスタベーションに過ぎません。

4.サディストだから、SM プレイが上手いわけではない

S (サディスト・加虐的性向者)としての趣向や性癖(せいへき)といったその人固有の要因も確かにあります。しかし、SM を通したプレイでは、お互いの相性や熟練度という要素も強いということ。
セックスにも、自分本位なセックスがあるように、SM プレイも、自分本位なプレイがあるということ。そして、それは、回数をこなせば、良いというものでもありません。
回数をこなせば、縛る技術はうまくなると思います。しかし、受け手が、「下手な縛りであることを縛り手に気付かせまい」 と必死に耐えてくれていることすらも気付かないようでは、上手くなりようもないということ。

セックスが、心と身体のコミュニケーションであるならば、SM はもっとそれより高次元のコミュニケーション。
であるとするならば、言葉で、まともにコミュニケーションすら出来ない人には無理なんじゃないかと思ってしまいます。
言葉というと語弊(ごへい)を招(まね)くかも知れません。口がうまい必要はないんです。口がうまくないなら、朴訥(ぼくとつ)で言葉数は足りなくても、誠意や気持ちが通じればいい。口下手だけど、誠意が縛りにあらわれるのであれば、それでいいんです。
何が大事かと言えば、きちんと相手とコミュニケーションできる必要がある・・・と言うことです。

偉(えら)そうなことを書いてますが、自分も、齢(よわい)は半ばをとっくに過ぎているのに、まだまだ道半ばです。
もしかしたら、今、悩んでいる人の参考程度になれば・・・と、自らを晒(さら)しているに過ぎません。

プレイの空気は、そこにいる甲(こう)と乙(おつ)によって決まります。
それこそ、因縁(いんねん)の世界。しかし、縁(えん)があるからこそ、そこに出会いがあり、二人の空気が出来あがるわけです。
S は M を支配するからこそ、密度を濃くするためには、M を理解しないといけない。
偉そうに言うと、一期一会(いちごいちえ)の一筆書きなわけです。(笑)

しかし、そこに完璧というものはありません。

だからこそ、「愛」 も 「プレイ」 も 「刹那的(せつなてき)」 であるからこそ、甘く魅力的であり、一触即発であり、一期一会なわけです。
神の用意した 「人生の SM プレイ」 の前では、自分に M性があることを感じない自分でさえも、ドM な存在なのかも知れません。

人は不完全だからこそ美しい。
色も、エロも、生きているからこそ味わえるもの。
最高を知ってる人は、最低も知っているわけです。

理性で考えていては、昭和の高度成長期に、美味しい鯵(あじ)や鰯(いわし)、秋刀魚(さんま)に鯖(さば)は堪能(たんのう)できません。何故なら当時は、青魚(あおざかな)は貧乏人の食べ物と言われていたぐらい豊漁(ほうりょう)だったから。

他人の価値観に振り回されている人は不幸です。
しかし、自分に共感してくれる相手もいないのは、それと同じくらい不幸です。
それは何故かと言えば、他人の価値観を受け入れていないから。

そして、それがわかったとき、S と M は、共振(きょうしん)を始めます。
しかし、それはどちらかが 「ギブアップ!」 と言わない限りは終わらない 「チキンレース」 のようなもの。

自分の S 性であろうが M 性であろうが、客観的に理解することは、とても大切です。しかし、「知性」 の出る幕(まく)は、そこまで。そこから先は 「感性」 と 「本能」 の世界。「痴性(ちせい)」 の世界です。そこに委(ゆだ)ねられてナンボ。
世の中の人。特に日本人は、それが出来ないのです。

心理学的には、SM には、何らかの 「心の傷」 が関係しているように思いますが、しかし、その泥沼にガッポシはまってみて、倫理(りんり)的には薄汚れても、精神的にはとてもクリアな自分を感じます。

草食派男子の増殖と、肉食派女子の増殖も、日本人の遺伝子の底に眠る 「本能」 からの呼び掛けだと思ってます。

話がちょっと(かなり?)脱線してしまいましたが、理性によるコントロールは大切です。しかし、最後は自分を信じて、本能に委ねなさい・・・と言うことです。
そして、S を自認するのであれば、きちんと相手を受け止めるということ。
相手よりも自分を優先するような S に対して、女性は心を寄せることはないし、そういう S は、本当に甘い M の蜜を舐めていないのです。

サディストが偉いわけでもなく、ハードなプレイをするから偉いわけでも、優位なわけでもありません。なので、男性で M 性があるからと言って、劣勢になるものでもありません。
それは単なる自分の趣向であり性癖に過ぎないのです。
大事なのは、まず自分を良く見て、そして、相手を良く見るということです。

SM は、当人にとっては、社会的にも後ろめたい、苦痛を伴うものかも知れませんが、自分的には 「真珠(しんじゅ)の核」 を植え付けられた貝みたいに思ってます。
むしろ、その核による違和感があるからこそ、理性に捉(とら)われない・・・みたいな感覚です。
だからこそ、その傷口である場所を舐めて、甚振(いたぶ)ると同時に癒(いや)したくなる。
生きているから 「ぴくぴく」 するんですwww

(つづく)

2017/04/14

SM とはなにか?(3)

前回の記事(「SM とは何か?(2)」)から、随分と間が空いてしまいました。

前回の記事を執筆していたときには、続きとして 「SM に隠されている女性をイかせる要素」 について書こうと思っていましたが、気が変わりました(苦笑)

 

最近、今まで付き合っていた彼氏というのが、ドS でいろいろと束縛を受けていた・・・という女性の方から相談があったこともあり、再整理してみたくなったというのが実情です。

 

何故定義が必要か? S だろうが、M だろうが、二人が楽しめているのであれば、それは 「なんちゃって SM」 であろうが、何だっていいんです。

定義が欲しくなるのは、やはり、誰かに伝える必要性があったとき。誰かに説明しようとすると、同時に 「自分は何者なんだ?」 という疑問が沸いてくるわけです。

他人の評価に裏打ちされたものではなく、自分を客観的に自己観察し、そこをきちんと把握することこそが、自分自身のアイデンティティの確立プロセスになるわけです。

 

ちなみに、ここに書いてる内容は、あくまでも自問自答の結果であり私見であります。(笑)

 

 

1.性格的 S は、S(性的サディズム)か?

 

まず言えることは、「強がり」 や 「目立ちたがり屋」 が S でもなければ、「引っ込み思案(じあん)」 や 「おとなしい」 のが M なのでもない。「気が強い」 とか 「気が弱い」、あるいは、「我が強い」 とか 「我が弱い」 ことは、S 性や M 性 とは直結しないということ。

 

攻撃性は、脅威(きょうい)を認識していることの裏返しなわけです。これはノルアドレナリンによる作用です。要は、脅威によって生存本能が刺激されている状態にあり、闘争逃避反応(fight or flight)と言いますが、闘争か逃走のいずれか迫られている状態なわけです。どんな脅威があるかと言うと、簡単に例えば、外敵(がいてき)の 「縄張(なわば)り」 への侵入なんかがそうです。

生存本能に関わる性衝動としては、種の保存に関わる性闘争的な要素もありますが、これは外的に対する反応ですが、この例として解りやすいのは 「俺の女に手を出すな」 みたいなやつです。しかし、これらは考えてみても分かるように、外敵に対して向けられるものです。

これに対して DV(ドメスティックバイオレンス)などの内向的な暴力は、「自己保身的欲求」 や 「ストレスの発散」 が底にあったりします。自己保身には、自己防衛的な本能が働きますので、内向きとは言え、本能的には敵と認識しているわけです。

 

いずれにしても、生存本能や闘争本能は、S (サディズム)には直接的には結びつかないということです。

オラオラ系の勘違いしている人たちの 「オラオラ行為」 は、オスの優位性を誇張しようとしているだけの、単なる求愛行為に過ぎません。

SM の S は、サディズム(加虐的性向)の S であり、SM の M はマゾヒズム(被虐的性向) の M。性向(せいこう)とは、性的嗜好であるので、性的興奮を感じるのが大前提なわけです。

 

男で言えば、勃(た)つか勃(た)たないか。

 

大事なのは、まず性的興奮を伴うか伴わないかです。

 

まあ、何に対しても勃(た)つ輩(やから)が居ると思えば、グダグダと並び立てた条件を全て満たさないと勃(た)たないと称する面倒な輩も居るので、世の中、 十把一絡(じゅっぱひとから)げに決め付けることは出来ませんが、簡単に言うとそういうこと。

加虐的な行為や状況に性的興奮を感じるのが、サディスト (加虐的性向者) であり、逆に被虐的な行為や状況に性的な興奮を感じるのは、マゾヒスト (被虐的性向者) です。
 

2.性交が先か、サディスティックが先か?

 

しかし例外もあります。

 

性交の手段として、暴力やサディスティックな行動に走りたいという願望がある人については、まあ、自分も男ですので、気持ちは分からなくもありません。しかし、それは所謂(いわゆる) 「欲求不満」 と言われるものであって、性交できないという現実からの逃避(とうひ)手段でしかありません。こういう方に対しては、手っ取り早く 「風俗」 にでも行って来て下さいとしか言いようがないのですが、しかし、こういう人たちの一部には、女性に対して、恐怖心や不潔(ふけつ)感を抱(いだ)いたりしていることによって、女性ときちんとした性交渉が持てなかったりする人達もいます。ある意味、女性に対してコンプレックスもしくはトラウマなどのストレスを抱(いだ)いている人達です。

そういう人達の場合は、自分の優位性が容易に確保できる、極めて劣勢と想定できるような女性に対してしか、牙(きば)を剥(む)くことが出来ません。また、その際は、尽(ことごと)く、女性をモノと見なして、罵(ののし)ったりします。

 

そういった行為上の特徴から、自分をサディストと誤認している人も、稀(まれ)に見掛けたりします。

もしかしたら、心理学的には、そう言ったトラウマの中に、サディズムの種となるような心理的な要因があったりするのかも知れません。それについては否定しませんし、判断が困難な場合もなくはありませんが、こういう場合は、加虐的行為は、性交を達成するための手段あるいはプロセスに過(す)ぎず、加虐行為自体で性的興奮を感じているわけではないことに、早く気がつくべきなんです。

 

そうしないと、次のステージには行けない。

 

自分ではなかなか出来ないけれども、自分の固定観念を否定し、そして自分の固定観念を破壊する。自己崩壊を何回も繰り返さないと、人は脱皮できないんです。要は、修羅場(しゅらば)を経験して、人は大きくなっていく。

ところが、自分が捨てられることに対して極度に恐れる気持ち。自分で自分を捨てることのできない、そういう恐怖心の強い人達は、そこで停滞してしまう。そして、その狭い世界の中で、逃げ場のない欲望が渦巻くんです。

 

悪いけど、どこまで自分が可愛いのかと(苦笑)

 

性交の手段として、暴力やサディスティックな行為が不可欠なひとは、単に 「やりたい気持ち」 が濃縮された 「やりたい」 けど、「やれない」 人達なわけであって、S ではないということ。

広場で見かける 「自称ドS」 は、そこまで過激ではないかも知れませんが、まあ単なる、狼になりきれない 「飢えた狼」 系。(苦笑) ほとんどは、そういう勘違いタイプです。

 

3.サディズムとは?

 

似非(えせ)でない 「真の S」 は、自身のサディスティックな行為に酔いしれるのではなく、サディスティックな行為に対する相手の反応に、興奮を覚えるわけです。

性交を必要としないとするストイックなまでの求道者も中には居るようです。自分はそこまで道を究(きわ)めるに至ってはおりませんが、性交を伴うとすれば、それは加虐的行為によって性的興奮が高まった結果。その延長線上に、性交が存在するだけの話です。

 

でも、自分自身、それが最初から分かっていたわけではありません。

 

ある意味、今だから、偉そうに言えるだけのことであって、10数年くらい前までは、それなりに苦しんでいました。

 

先輩A: 「ちょびちゃん。お前は解ってないね~。オンナゴコロをね~」

ちょび:  「だからなんなんですかぁ。オンナなんてみんなワガママじゃないっすか~」

先輩B:  「でもね、それが可愛いんだよね~。ちょびちゃさ、きちんと受け止めてあげてる?」

 

パワーでは、怖いものはありません。

抜かず7~8発は当たり前。

 

だけど、何故か、自分が心を寄せた女性は、自分よりはパワーがないはずの先輩に、皆、なびいていきました。(T_T)


(つづく)

2017/04/09

不倫ブームと人口動態 - 「40代以上が8割」 の時代

現在、日本の総人口は 1億2,000万人。そのうち最も多い世代は 40代と60代で、団塊の世代と団塊ジュニアと呼ばれるその子供たち。

日本の平均年齢・中央値は 46歳。50歳以上の人口は、現在、約5,800万人で大人の半数を占めるらしい。これが、3年後には 6,000万人を超えて、大人の10人に6人は 50歳以上になるらしい。

40歳以上になると、もっと顕著(けんちょ)で、今既に 40歳以上の人口は 7,600万人(63%)。これが 20年後になると約 7,800万人となり、大人 10人に対して 8人が 40歳以上になるという。

 

この話は、社会面など社会問題の記事とかにあったものではなく、ふと目に付いた 「大人市場に方向転換するお菓子市場の話」 にあった内容。

 

「40代以上が8割。『おとな化』社会からロングセラーが生まれる」

 

社会面などの記事であったなら、「ふうん、当たり前だろ。何を今更・・・」 となってしまうところが、逆に読む前に身構えていなかったためか、現時点で、「日本の大人の半分は 50歳以上」、そして 「20年後は、大人の 10人に8人が 40歳以上」 という現実に、あらためて震撼した次第です。

 

某SNS における 「アラフォー広場」 の人口はどんどん増える・・・ということです。利用者のの流出がなければ・・・の話ですが(苦笑)。

 

孔子(こうし)は論語で、「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑(まど)わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順(したが)う、七十にして心の欲する所に従えども、矩(わく)を踰(こ)えず」 と言ったそうです。

 

しかし、現実は・・・と言えば、仕事や家庭に振り回される生活の中で、何とか 「立ち」 あがるものの、立って仕事をこなすだけで精一杯。四十路(よそじ)を迎えて、世間体(せけんてい)などという言葉には惑わされず、自分の心にぽっかり開(あ)いた穴を埋めるべく彷徨(さまよ)い歩き、五十路(いそじ)になると、将来よりは今が大切であることにようやく気付き、六十を過ぎて、耳が遠くなり始めたことで、ようやく他人の話にも耳を傾けることが出来るようになった・・・みたいなのが実情です(苦笑)

 

毎度見慣れている 「わが国の人口ピラミッド」 がこちらです。

 

 

これを見ると、現在65歳の団塊の世代と、現在40歳の団塊ジュニアの世代にピークが見られます。

 

不倫ブームは、80年代の金妻: 「金曜日の妻たちへ」(1983年)、そして 90年代後半には 「失楽園」(1997年)や 「不機嫌な果実」(1997年)がブームに。そして 2000年代は、昼顔: 「昼顔~平日午後3時の恋人たち~」 (2014年)と続きます。

80年代の金妻で胸をときめかせたのが、当時の昭和の高度成長期を謳歌(おうか)した昭和一桁から 10年代前半の世代。90年代後半は団塊の世代。そして、2014年はちょうど団塊ジュニア世代の女子が、40代に差し掛かる頃合いです。

 

「三十させ頃、四十はし頃、五十でゴザ掻き、六十ろくに濡れずとも」 ではありませんが、女性の性欲が強く表われてくる時期でもあり、子育てもある程度ピークを過ぎた時期でもあります。

しかし、それは今に始まったことではありません。

 

多分、不倫をする人たちの比率もそう変わらないんだけども、その世代の人口の占める割合が高いので、目立つ・・・ということなのでしょう。

そして、そういった動態を意識してか知らずかは解りませんが、そういう世の中の風潮を察知して、ビジネスとしての 「不倫ブーム」 的なもので盛り上がった時代です。

 

石田純一が、「不倫は文化」 という迷言を残したのが、1996年。

 

もし、この仮説が正しいなら、現在 40代前半の団塊ジュニア女子が、40代後半から 50代に向かう、ここ 10年は、日本の不倫文化も続きそうです。

 

しかし、それ以降は急激に世代人口が落ち込みますので、社会全体の草食化は今以上に進みそうな予感。

同時に、団塊世代は70代の半ばを過ぎ、あちらこちらで人が朽(く)ち果てている光景は日常的。当たり前の時代になっていくのかも知れません。

現代が、江戸の元禄時代だとするならば、一寸(いっすん)先は平安時代の末期。百鬼夜行の世界です。姥捨て山(うばすてやま)ではありませんが、社会問題を隔離するためには、平成の 「姥捨て施設」 は急務でしょう。

 

どうせ野山で朽ち果てるか、あるいは、施設で殺処分されるのであれば、大事なのは 「今」 であることを認識して、後悔しない自分の行き方を模索することです。

あとで、他人のせいや社会のせいにしても、何も始まりません。

 

集団主義から、個人主義への転換は、すでに始まっています。

レイシストやネトウヨに代表される連中の行動は、昔の右翼とは異なり、そういった恐怖に対する稚拙(ちせつ)な抵抗に過ぎません。

 

全ての人達に、自分はどう行きたいか?自分はどう生きたいか?が問われる世界が、もう目前まで迫(せま)っています。

2017/04/07

SM とセックス

某師曰(いわ)く 「SM がセックスにつながる様では青い・・・」 みたいなことが書かれておりました。

SM の延長にセックスがなくとも、脳でイクのが SM の真髄なんだそうです。

まあ、セックスという行為を経(へ)なくとも、ドーパミンにオキシトシンといった脳内快楽物質が 「ドバッ」 と放出できれば、それに勝ることはない・・・のは確かです。

 

まだまだ精進が足りないと言われれば、そのとおりですが(苦笑)

 

しかし、自分にとって SM は、やはり性的な行為の一部。

 

セックスは、身体と心のコミュニケーション。身体だけでも、心だけでも、気持ちいいけど、身体と心の両方で、しっかりと相手を受け止めることが出来たとき。まるで自分が鮭(さけ)にでもなった気分になります(笑)

 

 

人は、神の教えに背(そむ)き、エデンの園から追放された・・・みたいな話があります。

禁断の実を食べたことで、自我が芽生(めば)えたかどうかは解りませんが、この自我は英語で言うとエゴ(ego)。

 

人は神に背き、知性を発達させた結果、棒や火をはじめ道具を使うことを習得しました。

そして、限りなく欲望を膨(ふく)らませることも覚えました。

しかし、自分の場合は、棒や火といった道具を使って、目の前の女性をピクピクさせては楽しんでいるだけ。

多くのひとは、ことセックスに関しては、何も使わなかったりします。ひどい場合だと、言葉すらかけない。

自分の場合は、使えるものは道具でも何でも使って、相手のエゴを無力化させて、相手の本能を剥(む)き出しにしているだけです。

 

自分にとっては、SM は 「型」 ではなく 「手段」。

 

型は美しくアートに昇華(しょうか)できるかも知れない。それはそれで美しい。プロの世界は、魅(み)せてナンボ。そういう道があってもいい。それは、自分みたいな輩(やから)の道しるべになるから。

 

しかし、理屈で SM をほじくると、そこから見えてくるのは、まるで漢方医学にも似た先人達の経験則。そして、その底にあるものは、人の本能レベルにまで昇華した男女間の愛。

 

桜ではないけど、愛とは 「はかない」 から美しい。

野暮(やぼ)にならないように、粋(いき)になろうとし過ぎると、気障(きざ)になる。

自分は、粋であるに越したことはないけれども、野暮でなければ、それでいい。

 

江戸の美学・精神性 六雁(むつかり) によると、野暮と粋は紙一重とまでは行かないまでも、かなり近い位置関係にあるらしい。

 

そういう意味で 「粋」 を捉(とら)えると、二枚目俳優から脱皮して、マツケンサンバを歌った 「松平健」 や、バラエティーに出まくって強持(こわも)てのイメージを払拭(ふっしょく)した 「松方弘樹」。そして、最近で言えば 「勇者ヨシヒコシリーズ」 でダンジョー役を演じる 「宅間伸」 みたいな感じか。

セカンドブレーク直前!?ベテラン俳優・宅間伸にバラエティ界からも熱視線!

 

 

しかし、意見は分かれるものの、そんな某師に対して共感するところ。それは多分、相手を 「イかせてナンボ」 の感覚だと思います。

自分がイクことを目的としていないということ。

 

しかし、「エロゴト師」 の自分としては、SM は 「色事」 の範囲で捉(とら)えたい。

 

人間は完璧でないから、色がある。

そして、愛ははかないからこそ、美しいんです。

だけど、それを憎しみや悲しみで終わらせては野暮というもの。出会いを感謝できる状況に昇華できてこそ、粋なんです。

 

だからこそ、自分を頼って来たひとには、全力を尽くします。

 

思いっきり泣いて、思いっきり鳴きなさい。