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2018/02/21

「潤滑ゼリー」 の話

以前、「セックスの楽しみ方を広げる(2)」 のところで、「ペペローション」 をお薦めしましたが、この「ローション」 は、どちらかというと、「身体に塗りつけて楽しむ」 用。

 

今日、ご紹介するのは、「潤滑(じゅんかつ)ゼリー」 と呼ばれるタイプのものです。

アソコの潤いが不足している場合などに用いられるものです。

 

「ペペローション」 も 「潤滑ゼリー」 のいずれも、「水」 や 「グリセリン」、「親水性ポリマー」 などの成分で出来ていて、無害で粘膜部分にも使用出来るので、使えることには使えるのですが、「ペペローション」 などの場合は、ボディーに付けて楽しむ場合は、その 「ヌルヌル」 感が良いのですが、アソコに使う場合は、なかなかその 「ヌルヌル」 を水で流し切れないのが難点です。

 

愛奴と時間を掛けて 「している」 と、間に休憩を挟んだりして、潤いが不足する場合もありますが、さすがに、ツバをつけて 「ぺっぺっ」 なんてのは、まるで時代劇に出て来るゴロツキみたいで、「無粋(ぶすい)」 な感じがして嫌なのと、

 

 

その愛奴は、何回も 「している」 と、アソコが塩をしたアワビみたく、硬く狭くなってしまい、摩擦が半端ないこともあって、一度試しに 「潤滑ゼリー」 を用意してもらったことがあるのですが・・・

 

そのときに使ったのが、確かこんな感じのやつでした。

 

 

 

 

使ったのは、ほんの少量でしたが、その使用感は、なかなか良くて、一言で言うと 「ヌルヌル」 してなくて 「サラッ」 としているのですが、実に伸びが良く、ベタ付かないのです。

 

そもそもの使用目的が違うので、原料の成分は似ていても、使用感は違って当たり前なのですが、そのときに、初めて使ってみて、なかなかの 「使用感」 に気に入ってしまいました。

 

***

 

アレのときに、「性☆交痛」 を感じる人などは、少量を使うだけでも、かなり 「滑(すべ)り」 が良くなりますので、試されてみると良いかも知れません。

ただし、「潤滑ゼリー」 を使っても 「性☆交痛」 が解決しないという場合は、先が細身の男性自身が、女性の奥に食い込んでる痛みでしょうから、その場合は、勘違い男に、勢いを付けずにゆっくりと動いて貰うようにしてもらうか、あるいは、もっと 「亀」 が太い男性に乗り換えるしかありません。(苦笑)

2018/01/04

天国と地獄

お寺で 「婚活支援」 をしているお坊さんのお話です。

 

「お葬式」 でしか縁がないので 「葬式仏教」 などという言葉が定着して久しくなります。昔は、町の寺子屋代わりであったり、近隣の人の相談の場であったりしたそうですし、戦時中の疎開(そかい)先の寺社などは、疎開してきた学童などを受け容れていたそうです。

昭和の高度成長期辺りでも、まだ、お寺が幼稚園を経営していたり、書道教室を開いたり、町の公民館的な存在だったところもありましたが、古くから、「坊主丸儲け」 などと言われるように、欲に駆られる僧侶もいましたし、「エロ坊主」 などという言葉もあるように、若くして未亡人になった女性に手を出したり、立派な僧侶も居れば、自分のようなゲスの僧侶も居たりと、ある意味、人々の生活の中に、まだ 「お寺」 というもの残っていたものです。

 

最近では、「葬式仏教」 のイメージを払拭(ふっしょく)しようとしているのでしょうか。新たな活動を手掛ける人達も出て来ているようです。

このお寺では、2010年辺りから、婚活支援に乗り出したそうです。

 

「お寺婚活発起人の僧侶 『40代が一番選んでる』 と分析」

 

社会として、需要があるわけですから、それは大変良いことだと思います。

内容的には、男性は、若い子と結婚したがり、女性は、頑(かたく)ななまでに妥協しない。

このお坊さんの言う、「人は一人で正しく生きられるほど立派じゃない」 といった言葉や、「人を数字で見るのではなく、まずは出会いなさい」 という言葉などは、まさしくその通り。なるほどなと関心してします。

 

そして最後に、このお坊さんの 「天国と地獄」 の逸話が、「目から鱗(うろこ)」 で、秀逸です。

 

 

テーブルとか椅子とか言ってるので、もともとが仏教の小噺ではないのか、それとも、現在風に脚色し直したものなのかはわかりませんが、緊縛好きには、「椅子に縄で縛られた・・・」 みたいな表現も、嬉しくなってしまいます。(^^)/

 

数十人が座る長テーブルに大変なご馳走が並び、皆が座っているんです。ただし、人々は椅子に縄でぐるぐるに縛られていて、手には、長いフォークを持たされているんですね。で、フォークが長すぎて、料理をさせても自分の口に運ぶことができなない。目の前にご馳走があるのに食べられない。これほどの地獄はありません。足元に幸せは落ちているのに、満たされない、飢えている状態です。

 

極楽もほとんど同じ状況です。料理を前にして、椅子にぐるぐる巻きに縛られている。手には長すぎるフォーク。しかし何が違うかと言えば、まず、隣の人、向かいの席の人に、自分のフォークで料理を食べさせてあげるんです。そうすると相手が食べさせてくれる。

 

まず、隣の人に与える。周囲の人の幸せを願う。自分の幸せを最初に願うか、他者の幸せを願うか、この違いが、地獄の生き方と極楽の生き方の違いです。ちょっとした差が大きな差になる。結婚や恋愛も、最初に相手の幸せを願う心を持つか持たないかで大きく変わってくるのです。

 

「エロ師」 的に言わせて貰えば、「セ☆クス」 も同じです。

 

自分が気持ち良くなるための 「性行為」 は、例え男女が抱き合っていたとしても、心は通っていないのなら、相手の身体を使った単なる 「マ☆ス☆タ☆ベ☆ー☆シ☆ョ☆ン」。

「オ☆ナ」 に過ぎません。お互いが相手を気持ち良くしたいという気持ちがあって、はじめて 「セ☆クス」 と言えるわけです。

 

そのためには、自分が欲しいものや、自分が好んで受け容れられるものだけを選り好みするのではなく、お互いに相手を受け容れるのが大切だと思います。

 

***

 

自分というものを捨ててまで、結婚する必然性はないと思います。そんな結婚は、お互いが不幸になるだけです。

しかし、今ある 「自分らしさ」 を大切に思うということは、そもそも自助努力を放棄している状態ですし、相手よりも、自分を愛している状況ですから、「恋愛」 の体(てい)をなしていません。

 

「社会的規範」 に照らし合わせて、あるいは、社会の中で自信を失っている人に対しては、「自分らしさ」 を失わないように言いますが、個人対個人の関係において、「素(す)」 の自分を出せるか、あるいは、素の自分を受け容れて貰えるかどうかは重要かも知れませんが、「自分らしさ」 を主張するなんていうのは、「ワガママ」 であり 「甘え」 以外の何物でもありません。

 

自らの 「理想」 を求めて努力することは悪いことではありません。しかし、他人に 「理想」 を求めるなどと言うのは、「現実」 を見ていない証拠。

自己中の人ではありませんが、そういう人は、お付き合いしていたとしても、自分しか見ていないのです。

大切なことは、自分の目の前にいる 「相手」 を見るということです。

 

このお坊さんも言っているように、「結婚したくない人」 に無理やり、結婚を薦めるつもりはありませんが、少なくとも、「結婚したい」 と考えている人に対しては、もう少し、頑な気持ちを緩めても良いような気がします。

人を選ぶにあたって、数字や条件に捉われ過ぎている人は、結局は、自分のことしか頭にないわけです。

 

たとえ、その結婚が失敗して、「あんな結婚はするんじゃなかった!」 と思ったとしても、「結婚したい」 と思いつつ、生涯結婚出来ないよりはマシです。

「してしまった後悔」 を選ぶのか、それとも、「しなかった後悔」 を選ぶのか。

それは本人の選択次第です。

2017/12/09

「嫉妬心」 を制する (4)

前回まで、しばらく 「嫉妬の話」 を続けてきましたが、今回は最終回。

 

「『嫉妬心』 を制する」

「『嫉妬心』 を制する (2)」

 

「『嫉妬心』 を制する (3)」

 

「嫉妬心」 については 「一家言(いっかげん)」 ある読者の方が、ブログに次のように書かれておりました。

 

この嫉妬の底にあるのは『不安』と言う感情。
醜かろうが悪かろうがその不安を拭い去るためなら
真正面から受け入れますよ(*´∇`*)
嫉妬の根、不安の安子は愛で包めば良いのです!
(持論、炸裂っ( •̀ᄇ• ́)ﻭ✧)
愛があれば嫉妬何てっ

 

なるほど・・・。大変 「深いぃ~」 です♪

しかし、これは愛情や嫉妬を受け容れる側の気持ち。書かれた方の、「おおらかな母性」 を感じます。

 

「盗られる女」 と、「裏切られる女」

 

ところが、いざ、旦那や彼氏の浮気や不倫といった 「色恋沙汰」 となると、女性は二つのタイプに分かれるようです。ひとつは、旦那もしくは彼氏に 『裏切られた』 と感じるタイプと、もうひとつは、相手の女性に 『盗られた』 と感じるタイプ。

 

「恨む相手は夫じゃない? 不倫された女性のプライドに SHELLY 『冷静に考えると』 」

【番組視聴はコチラから】

 

実際は、当然、どちらか一方という単純な話ではなく、この二つの気持ちが織り合っているのだと思います。

しかし、この番組に登場している安富さん曰く、相手の女性に対する恨みの方が強いとのこと。

 

これは 「感情的」 と言うことも出来ますが、浮気や不倫をした旦那や彼氏は、自分が愛情を注ぐ対象であることから、その対象を 「盗られた」 という感覚が強いのだと思います。

そして、一方の 「裏切られた」 という感覚は、自分と相手の関係性において、相互の信頼で成り立っていた関係の片方が切れた・・・という喪失的な感覚で、「論理的」 でもあります。

前者は女性的、後者は男性的な感じがします。

 

実際、男性が社会において感じる同性間の 「嫉妬」 の場合は、信頼による繋がりが基本となっているので後者に近い感覚ですが、前者の感覚がないかと言えばそうでもなく、前者の感覚は、男性の場合は同性であれ異性であれ、「縄張りを荒らされた」 という感覚に近くなります。

そのように観ると、女性の場合、前者はグループを守る感覚が強く、母性愛的であるのに対して、後者は二者的でオンナ的であります。
 

詰まるところ、「盗られた」 と感じるのは、二者間の愛情と言うよりは、「自分のものである」 という既得権益を侵害された感覚の方が強く、また、「裏切られた」 と感じるのは、二者間の愛情を重視している人達の感覚であるような気がします。

 

奴隷もワンコも嫉妬する

 

しかし、これらの話は、一般の 「人」 のお話。 「奴隷」 の身ともなると、事情は大きく異なります。

そもそも、「奴隷」 は 「主」 の所有物であり、「主」 の財産でありますが、「主」 は 「奴隷」 ではありませんので、「奴隷」 が 「主」 を所有するのは勿論のこと、何人(なんぴと)も 「主」 を所有することは出来ません。

 

「主」 が 「奴隷」 に愛情を覚え、また、「奴隷」 も 「主」 に愛情を感じることは当然あります。

しかし、「主」 が 「奴隷」 を抱えるのは、ひとりでなければならない・・・という制約は、何処にもありません。

 

とは言え、「奴隷」 も人権はないにせよ 「ヒト」 である以上は、他の 「奴隷」 が自分よりも良く扱って貰っているのを見たら、「嫉妬」 を感じます。

イヌでさえも、「主」 の関心が他に移ると 「嫉妬」 を感じ、吠え続けたり、主の関心を取ろうとするそうですから、「奴隷」 であっても 「ヒト」 である以上は当然です。


「嫉妬」 は、最初にご紹介した読者の方も言っておりましたが、愛情がなくなることに対する 「不安」 の表れです。
躾けの出来ていないワンコは、不安になって、吠えたり噛み付きますし、自信を喪失したワンコは、塞(ふさぎ)ぎこみます。

 

「奴隷」 としての愛され方


こういう場合、奴隷は、どうしたら良いのか?

ワンコと同様、「主」 の関心を引き、興味を惹きつければ良いのです。
但し、吠えたり噛んだりするのは、勘弁して下さい。(苦笑)
要は、適切な時と場所で、最大限甘えれば良いのです。(笑)

 

「主」 が居なくなった途端に 「く~んく~ん」 と泣くイヌは、単なる 「甘ったれ」。「主」 にとっては 「困り者」 でしかありません。
きちんと、ワンコはワンコで堪(こら)えて、「主」 が帰ってきて

        「よしっ!」

となったら、主の傍(そば)に走り寄って、思いっきりじゃれ付くのが 「良いイヌ」 です。そして、そのときに、「主」 に思いっきり甘えて、思いっきり全力を出して楽しめば良いわけです。

 

奴隷としての株を上げる

 

「言いつけ」 をしっかりと守るワンコが可愛いように、「奴隷」 はまず何をおいても、きちんと 「主」 の言葉に耳を傾けて、きちんと意味を理解して、その 「言いつけ」 を守るべく行動すること。それが一番の基本です。

そして、普段の日の生活は、踏ん張って耐えて、「主」 に会えたときは、「主」 の前で、思いっきり壊れればいいんです。

「奴隷」 としての 「株」 が高まれば、「奴隷」 は 「主」 の資産ですから、当然 「主」 も喜びます。そうなれば、「主」 も、より、その 「奴隷」 に 「愛」 を注ぐでしょう。

ニャンコとワンコを比べれば、ニャンコの方が 「甘え上手」 かも知れません。しかし、どう足掻いたところで、ニャンコはワンコにはなれませんし、ワンコはニャンコにはなれません。
ニャンコにはニャンコの、ワンコにはワンコの 「甘え方」 があるということです。

 

夫婦や恋人同士といった男女関係では、「プライド」 が邪魔をしたりする場合がありますが、「奴隷」 には、「プライド」 は不要です。「プライド」 も何もかも、かなぐり捨てて、「主」 との楽しい 「ハレ」 の時間を過ごすのが SM です。

2017/12/07

「嫉妬心」 を制する (3)

前記事 「『嫉妬心』 を制する (2)」 の続きです。

 

 

何故、SMでは、それだけ鋭く感じるのか?

 

現在に至るまで、SM の経験がない読者の方で、今までの記事を読まれた方の中には、「何故、SM では、皆が気持ち良くなり、歓喜の声をあげるのか?」 と疑問を感じている方も少なくないようです。

 

        「そんな都市伝説みたいなことは、あるわけがない・・・」

 

と決めて掛かっている読者の方もいるかも知れませんし、SM は、サディスト(加虐的性向者) や マゾヒスト(被虐的性向者) といった、どこか神経の接続を間違った異常な人達の世界と思って読んでいる読者の方も、居るかも知れません。

 

SM に興じるのは、普通のひとたち

 

まあ、人は誰しも自分で実体験しないことには、分かる筈もありませんが、今まで、自分が従えてきた女性達は、普通の人達です。それこそ、最初に経験した男性が今の旦那で、結婚生活で浮気した経験はゼロという、普通の主婦さんであったり、普通の学生さんであったり、OLさんであったりします。

自分が今まで従えて来た M女達も、旦那や彼氏の前では、何の変哲もない、普通のノーマルな女性である筈ですし、表面的、対面的には、そんな素振りも見せない筈です。

「違いは何か・・・」 と聞かれれば、それは、自分はその女性ひとりひとりを 「清濁併せ呑んでいる」 ということです。だからこそ、その女性は、自分に対してだけ 「M性」 を見せるのです。

 

そもそも、「M女」 という特殊性癖の女性がこの世に存在するのではなく、女性の心の中に眠る 「M性」 を引き出すのが、S の真骨頂なのです。

ですので、既に M を自認している人であっても、自分の好きな人であったり尊敬できる人、あるいは、自分が 「主」 と認める相手に対してのみ M なのであって、誰に対しても M なのではないのです。

 

愛が飴なら、嫉妬は鞭

 

SM における快感が、通常の快感よりも何倍も強く感じるのは、そこに、「キレイな自分」 も 「汚い自分」 も、「良い自分」 も 「悪い自分」 も、全てを相手が受け止め、受け容れてくれているという 「安心感」 と 「開放感」 があるからです。

そして、責められることで 「受け手」 は追い詰められ、身体的には、物理的肉体的な刺激に敏感になるばかりでなく、心理的には、否応(いやおう)なく、行為に集中せざるを得ない状態に追い込まれます。

「愛と憎」 のように、最大限の振れ幅を以って、思いっきり揺(ゆ)さぶられる訳ですから、心や身体で感じる度合いが強くなって当たり前なのです。

 

「受け手」 が示す 「愛」 や 「嫉妬」 は、主の 「責め」 に対する 「受け手」 の反応のひとつなのです。「愛」 が、「飴」 なら、「嫉妬」 は 「鞭(むち)」 なのです。

 

***

 

今回は、そんな SM における 「飴と鞭」 である 「嫉妬心」 の使い方。

 

 

SM における嫉妬心の使い方

 

(1) 「嫉妬心」 は 「愛」 の裏返し

 

まず、押さえておくべき一番の基本は、愛されていなければ、あるいは、「求めるもの」 がそこになければ 「嫉妬心」 は湧(わ)かない・・・と言うことです。(笑)

 

「嫉妬心」 も 「性欲」 も、日常生活で 「あからさま」 に見せることは、社会的に 「恥ずかしい」 あるいは 「みっともない」 行為と見なされます。

しかし、「性欲」 も、「嫉妬」 も、原始的社会であれば、前者は、種としての 「生存欲求」、後者は 個体としての 「生存欲求」 の表れであり、悪いことではありません。

現代社会においては、どちらの場合も、節度ある行動が求められているということ。

「嫉妬心」 は、「愛」 や 「依存心」 の裏返しです。

これは突き詰めると、「性欲」 も去ることながら、SM においては 「嫉妬心」 も、思う存分解放されるべき存在であることを示している、と考えています。

 

(2) 嫉妬の辛さを軽減する

 

SM における 「嫉妬」 を使った調教の基本は、「嫉妬心」 の裏にある 「不安」 を払拭してあげること、そして、節度ある正しい 「嫉妬心」 に矯正してあげることです。

そのためには、その子の 「嫉妬」 の特性をきちんと見てあげないといけません。

 

感情的になり、攻撃的になる子もいれば、耐え切れず、その場から逃げようとする子もいますし、不貞腐れる子もいます。またこれとは逆に、嫉妬心の 「嫉(そね)み」 意識が強く、自分に自信がなくなり、自ら引いてしまう子もいます。

矯正と言うと、違和感を感じる方もいるかも知れませんが、「嫉(そね)み」 が強い人には、自信を持たせるようにし、「妬(ねた)み」 が強い人には、感情の出し方や抑え方を教え込むわけです。

 

日本ではあまりポピュラーではありませんが、欧米では、「アンガーコントロール」 あるいは 「アンガーマネジメント」 と呼ばれるセラピーがあります。これは、自分の 「怒り」 や 「憤(いきどお)り」 を抑えられない人が、その感情の自制を目的としたものですが、それは、「嫉妬」 もある意味同じなのです。

自分の愛情を上手く相手に表現出来なかったり、逆に相手の言動に不安を覚えたりする。自分の思いが相手に通じない苛立(いらだ)ちに対する 「怒り」 や 「哀しみ」 が 「嫉妬」 なのです。

 

感情的になり、攻撃的になったり、自己嫌悪や自己否定的になるような子の場合は、どちらも、きちんと叱り、責めると同時に愛情も与えます。これは、その子の好みよりは、強い責めを与えた後に、好む責めを与えるという意味です。

 

「嫉妬」 は、愛情が続く限りは、そのまま放置しておいても、無くならない感情です。

「嫉妬」 が、募(つの)れば募るほど、敵対者に対する怒り、もしくは、自分に対する無力感や自己嫌悪が増幅し、愛情の炎が消えるまで、その人を追い詰めます。

本来は、自分よりも大事であった人の存在が、その苦しみゆえに、自分を一番大切にせざるを得ない状況に陥(おちい)ってしまうのです。

 

誰しも一番の思いは、「好きな人の傍(そば)に居たい、離れたくない」 と思っている筈です。

「嫉妬」 を感じること自体は、悪いことではありません。しかし、「嫉妬」 に捉われてしまうと、その先は破滅しかありません。

 

(3) 嫉妬をスパイスとして使う

 

女性に取っては、弊害しかないように見える 「嫉妬」 ですが、しかし、適度な 「嫉妬」 は、女性の集中力を高めますし、「マンネリ」 を防ぐ特効薬にもなります。

女性にとっては、安心できますので、独占出来るに越したことはありません。

中には、疑い深く、相手を事実上独占していても、浮気のチェックを欠かさないひとも居たりします。

独占している相手に対して努力を怠らず、「嫉妬心」 を灯(とも)しているのであれば、まだ良いのですが、

 

「愛」 とは、糸のようなものです。強く引くと切れてしまいますし、緊張がなくなると、弛(たる)んでしまいます。

二人が 「赤い糸」 で結ばれているかどうかは分かりません。しかし、二人の間に結ばれている糸を弛ませることなく、そして、強く引き過ぎて切ることなく、付かず離れずの関係を如何に長く続けることが出来るかが、男女の恋愛を長く続けるための秘訣なのです。

 

「独占状態」 を獲得したからと言って、「永遠の愛」 が成就するわけではありません。

まだ、結婚経験のない若い娘なら、いざ知らず、既に結婚して、結婚の現実を知っている人であれば、その意味は理解できる筈です。

 

(4) 「愛」 と 「嫉妬」 を織り交ぜる

 

「マンネリ」 に陥(おちい)らないコツ。趣向を変えたり、一箇所にひとつのスタイルに偏(かたよ)らないこと。適度に 「愛」 と 「嫉妬」 を織り交ぜることも、そのひとつです。

相手の 「嫉妬」 の度合いを高めた状態の放置は、通常の 「焦(じ)らし」 よりも強い 「焦らし効果」 を生みます。

 

複数の奴隷を従えた複数プレイも、ある意味、この効果を最大限、利用するわけですが、複数を一緒に 「共飼い(ともがい)」 する場合は、序列をきちんと設定することと、それを全員が納得していることが絶対条件となります。

複数プレイの場合は、ただでさえ、奴隷にとってはストレスが強く、また、気が散りやすく、集中しづらい環境にありますので、きちんと、個別にその人に合わせたアフターケアが出来ないと、なかなか難しいと言うこともあって、自分の場合は、「多頭飼い」 でも、それぞれを別々に飼う 「別飼い(べつがい)」 を基本としています。

 

 

嫉妬を制する

 

「モテナイ男よりも、モテル男の方がいいでしょ?」 みたいな屁理屈はありますが、「『多頭飼い』 の男が好き!」 なんて女性は、ひとりもいませんし、いるわけもありません。

女性であれば、「自分ひとりの相手であって欲しい・・・」 と願うことは、とても自然で当たり前なことです。

 

しかし、現代の 「婚姻制度」 ですら、「一夫一婦制」 は、女性の出産や育児などの家庭の安定と、持つものと持たざるものの格差による、社会的な安定を目的としたものであって、女性あるいは一部男性の 「独占欲」 を満たすための制度ではありません。

ましてや、不倫や SM といった不条理な世界において、女性にとっての 「理想的な環境」 を与えなければいけない理由など何処にもないのです。

 

***

 

何故、嫉妬心を制する必要があるのか。
それは、自分の人生を、幸せなものにするためです。
本来は、自分が得られたものに感謝できることが一番重要なのです。

 

「妬(ねた)み」 や 「嫉(そね)み」 は、必ず、他人との比較から始まります。

不倫も、「隣の芝生が青く見える」 ところから始まります。


人の感情は一定ではありません。常に揺れ動くものです。

 

「嫉妬心」 が 「依存心」 から出ている場合は、必ずその 「人」 に幻滅するときが来ます。何故なら、誰でも、不足もあれば、至らないところもあるからです。この世に 「完璧な人」 は存在しないのです。


とは言え、人間は、自分を含めて誰かを愛し、愛されたいと願う限りは、この 「嫉妬心」 と付き合わざるを得ません。なので、出来るだけ、上手く付き合わなければならないのです。

2017/12/05

「嫉妬心」 を制する (2)

前記事 「『嫉妬心』 を制する」 の続きです。

 

「嫉妬心」 は、自分の身を守るための 「防御本能」 や、個体の 「生存本能」、そして、「独占欲求」 や 「依存欲求」 などが、複雑に絡み合った 「負の感情」 です。

人としては、一番醜(みにく)い 「グロな感情」 と言えるかも知れません。

そして、人の 「色恋」 や 「性愛」 には、必ず付き纏(まと)う感情が、この 「嫉妬」 です。

 

SM における嫉妬

 

SM では、このドロドロとした、決して美しくはない感情。怒りと悲しみ、攻撃本能と被虐、そして、愛と情欲が渦巻く 「嫉妬」 という感情をプレイで使用することがあります。

「性欲」 も 「嫉妬心」 も、どちらも、誰もが、自分の中に抱えているものであるにも拘わらず、日常社会においては忌み嫌われる存在です。

 

SM とは、ジョルジュ・バタイユ風に言えば、日常的な 「ケ」 の社会から隔絶された

「ハレ」 の儀式のようなものです。

 

ドロドロとしたもの、モヤモヤとしたものが、溜まりに溜まり、「妬(ねた)み」 ではありませんが 「怒り」 や 「憎しみ」 といった感情から、攻撃性を発露するのが、S であり、そして、その逆に 「嫉(そね)み」 ではありませんが、「失望」 や 「悲しみ」 といった感情から、被虐性を発露するのが、M なのかも知れません。

 

動物の世界には、SM という行為は存在しません。本能だけの世界です。

人が集まり、法が出来て、社会が出来あがり、そして、いろいろな制約が生まれることで、人の中に 「光と闇」、「裏と表」 が生じたに過ぎません。

旧約聖書の創世記の冒頭ではありませんが、神が 「光よあれ」 と言って、「光」 が生じたからこそ 「闇」 が出来、「法」 が出来て 「善と悪」 が生まれ、「社会規範」 により、「建前と本音」 もそうですし、「キレイな自分」 と 「汚い自分」 が生まれたわけです。

 

「SM の世界」 に集約されているものは、本来は、他人には見せられない 「愛憎」 であり、そこから派生する 「嫉妬」 に纏(まつ)わる、「性欲」 や 「支配欲求」 あるいは 「依存欲求」 なのです。

美しく切り出された刹那は、写真であれ、ペインティングであれ、小説であれ、パフォーマンスであれ、「裸婦」 であろうが 「性交描写」 であろうが 「緊縛」 であろうが、「芸術(アート)」 となり得ますが、それらは、「SM の世界」 の一片を昇華したものに過ぎません。

 

SM の世界とは、本来は 「清濁併せ呑む」 世界。そして、「心と身体」、「愛と憎しみ」、「美と醜」、「生と死」 が融合し、またあるときは対峙している 「エロとグロ」 の世界なわけです。

 

***

 

今回は、SMプレイにおける 「嫉妬心」 の使い方について、説明してみたいと思いますが、その前に、SMで良く見掛ける 「修復」 の心理について説明したいと思います。

 

SM における 「修復」 の心理

 

「修復の心理」 と言っているのは、SMプレイにおいて、「責め手」 なり 「縛り手」 が、「受け手」 に 「壊れた場所」 を発見すると、何故か、治そうとしてしまう 「心理」 のことです。

 

あるとき、自分の愛奴の 「調教日誌」 を読んだ 「M女さん」 が、自分のことを 「カウンセラーみたいだね」 と言ったのを記憶していますが、あの行動は、自分でも認識はしているものの、しかし、特別な意識を以って、行動しているわけではありません。

SM を嗜(たしな)む人の全員が、そのように行動するわけではありませんが、しかし、同じようなことをしている 「縄師」 の方は結構たくさんいます。

 

「春兜京(はるときょう)」 氏は、縄は勿論ですが、一人でつぶやくスタイルの数々の詩は、本当にに味わいがあり、実に深くて秀逸ですし、ネット上ではありますが、懇意にして戴いている 「喜多征一」 氏も、縄だけではなく、SMに対する姿勢と理解には、共感するところが多々あります。

 

では、そもそも、どういう心理で、そういう行動をとってしまうのか?

 

普段は、そんなことは、全くと言っていいほど考えたりはしないのですが、今ふと、思ったのは、自分の中には、自分が今までの経験で培(つちか)ったイメージのようなものがあって、「ここで、こういうことをすると、ここは、こう反応する・・・」 みたいなパターンがいろいろと記憶されているわけです。

しかし、反応しない 「受け手」 がいると、「あれっ?!」 と思うわけです。

 

そして、いつの間にか、頭の中でいろいろと勝手に考えて、別のことを試してみたりするわけです。この辺は、系統だった 「教科書」 があるわけでもなく、全ては自分の 「経験則」 だったりするわけですが、その結果、何かを発見したり、有力な仮説に行き着くわけです。そして、気が付くと、いつの間にか、「修復」 していたりする。

 

        「なんで自分は、こんなことをしているんだろう?」

 

今、思ったのは、多分、自分のイメージ通りに 「受け手」 を操(あやつ)りたい。なので、自分のイメージ通りにいかなかった場合には、自分のイメージを修復するか、あるいは、「受け手」 に壊れているところを見つけたら、それを 「修復」 するか。そのいずれかになるわけです。

 

「奴隷」 を自分の支配下に置き、自分の思うように弄(いじ)り、そして、「奴隷」 を思いっきり壊しているくせに、何かを見つけると、まずはそれを治した上で、また、思いっきり壊したくなる。

 

おかしな性分です。(苦笑)