2ntブログ
2017/12/07

「嫉妬心」 を制する (3)

前記事 「『嫉妬心』 を制する (2)」 の続きです。

 

 

何故、SMでは、それだけ鋭く感じるのか?

 

現在に至るまで、SM の経験がない読者の方で、今までの記事を読まれた方の中には、「何故、SM では、皆が気持ち良くなり、歓喜の声をあげるのか?」 と疑問を感じている方も少なくないようです。

 

        「そんな都市伝説みたいなことは、あるわけがない・・・」

 

と決めて掛かっている読者の方もいるかも知れませんし、SM は、サディスト(加虐的性向者) や マゾヒスト(被虐的性向者) といった、どこか神経の接続を間違った異常な人達の世界と思って読んでいる読者の方も、居るかも知れません。

 

SM に興じるのは、普通のひとたち

 

まあ、人は誰しも自分で実体験しないことには、分かる筈もありませんが、今まで、自分が従えてきた女性達は、普通の人達です。それこそ、最初に経験した男性が今の旦那で、結婚生活で浮気した経験はゼロという、普通の主婦さんであったり、普通の学生さんであったり、OLさんであったりします。

自分が今まで従えて来た M女達も、旦那や彼氏の前では、何の変哲もない、普通のノーマルな女性である筈ですし、表面的、対面的には、そんな素振りも見せない筈です。

「違いは何か・・・」 と聞かれれば、それは、自分はその女性ひとりひとりを 「清濁併せ呑んでいる」 ということです。だからこそ、その女性は、自分に対してだけ 「M性」 を見せるのです。

 

そもそも、「M女」 という特殊性癖の女性がこの世に存在するのではなく、女性の心の中に眠る 「M性」 を引き出すのが、S の真骨頂なのです。

ですので、既に M を自認している人であっても、自分の好きな人であったり尊敬できる人、あるいは、自分が 「主」 と認める相手に対してのみ M なのであって、誰に対しても M なのではないのです。

 

愛が飴なら、嫉妬は鞭

 

SM における快感が、通常の快感よりも何倍も強く感じるのは、そこに、「キレイな自分」 も 「汚い自分」 も、「良い自分」 も 「悪い自分」 も、全てを相手が受け止め、受け容れてくれているという 「安心感」 と 「開放感」 があるからです。

そして、責められることで 「受け手」 は追い詰められ、身体的には、物理的肉体的な刺激に敏感になるばかりでなく、心理的には、否応(いやおう)なく、行為に集中せざるを得ない状態に追い込まれます。

「愛と憎」 のように、最大限の振れ幅を以って、思いっきり揺(ゆ)さぶられる訳ですから、心や身体で感じる度合いが強くなって当たり前なのです。

 

「受け手」 が示す 「愛」 や 「嫉妬」 は、主の 「責め」 に対する 「受け手」 の反応のひとつなのです。「愛」 が、「飴」 なら、「嫉妬」 は 「鞭(むち)」 なのです。

 

***

 

今回は、そんな SM における 「飴と鞭」 である 「嫉妬心」 の使い方。

 

 

SM における嫉妬心の使い方

 

(1) 「嫉妬心」 は 「愛」 の裏返し

 

まず、押さえておくべき一番の基本は、愛されていなければ、あるいは、「求めるもの」 がそこになければ 「嫉妬心」 は湧(わ)かない・・・と言うことです。(笑)

 

「嫉妬心」 も 「性欲」 も、日常生活で 「あからさま」 に見せることは、社会的に 「恥ずかしい」 あるいは 「みっともない」 行為と見なされます。

しかし、「性欲」 も、「嫉妬」 も、原始的社会であれば、前者は、種としての 「生存欲求」、後者は 個体としての 「生存欲求」 の表れであり、悪いことではありません。

現代社会においては、どちらの場合も、節度ある行動が求められているということ。

「嫉妬心」 は、「愛」 や 「依存心」 の裏返しです。

これは突き詰めると、「性欲」 も去ることながら、SM においては 「嫉妬心」 も、思う存分解放されるべき存在であることを示している、と考えています。

 

(2) 嫉妬の辛さを軽減する

 

SM における 「嫉妬」 を使った調教の基本は、「嫉妬心」 の裏にある 「不安」 を払拭してあげること、そして、節度ある正しい 「嫉妬心」 に矯正してあげることです。

そのためには、その子の 「嫉妬」 の特性をきちんと見てあげないといけません。

 

感情的になり、攻撃的になる子もいれば、耐え切れず、その場から逃げようとする子もいますし、不貞腐れる子もいます。またこれとは逆に、嫉妬心の 「嫉(そね)み」 意識が強く、自分に自信がなくなり、自ら引いてしまう子もいます。

矯正と言うと、違和感を感じる方もいるかも知れませんが、「嫉(そね)み」 が強い人には、自信を持たせるようにし、「妬(ねた)み」 が強い人には、感情の出し方や抑え方を教え込むわけです。

 

日本ではあまりポピュラーではありませんが、欧米では、「アンガーコントロール」 あるいは 「アンガーマネジメント」 と呼ばれるセラピーがあります。これは、自分の 「怒り」 や 「憤(いきどお)り」 を抑えられない人が、その感情の自制を目的としたものですが、それは、「嫉妬」 もある意味同じなのです。

自分の愛情を上手く相手に表現出来なかったり、逆に相手の言動に不安を覚えたりする。自分の思いが相手に通じない苛立(いらだ)ちに対する 「怒り」 や 「哀しみ」 が 「嫉妬」 なのです。

 

感情的になり、攻撃的になったり、自己嫌悪や自己否定的になるような子の場合は、どちらも、きちんと叱り、責めると同時に愛情も与えます。これは、その子の好みよりは、強い責めを与えた後に、好む責めを与えるという意味です。

 

「嫉妬」 は、愛情が続く限りは、そのまま放置しておいても、無くならない感情です。

「嫉妬」 が、募(つの)れば募るほど、敵対者に対する怒り、もしくは、自分に対する無力感や自己嫌悪が増幅し、愛情の炎が消えるまで、その人を追い詰めます。

本来は、自分よりも大事であった人の存在が、その苦しみゆえに、自分を一番大切にせざるを得ない状況に陥(おちい)ってしまうのです。

 

誰しも一番の思いは、「好きな人の傍(そば)に居たい、離れたくない」 と思っている筈です。

「嫉妬」 を感じること自体は、悪いことではありません。しかし、「嫉妬」 に捉われてしまうと、その先は破滅しかありません。

 

(3) 嫉妬をスパイスとして使う

 

女性に取っては、弊害しかないように見える 「嫉妬」 ですが、しかし、適度な 「嫉妬」 は、女性の集中力を高めますし、「マンネリ」 を防ぐ特効薬にもなります。

女性にとっては、安心できますので、独占出来るに越したことはありません。

中には、疑い深く、相手を事実上独占していても、浮気のチェックを欠かさないひとも居たりします。

独占している相手に対して努力を怠らず、「嫉妬心」 を灯(とも)しているのであれば、まだ良いのですが、

 

「愛」 とは、糸のようなものです。強く引くと切れてしまいますし、緊張がなくなると、弛(たる)んでしまいます。

二人が 「赤い糸」 で結ばれているかどうかは分かりません。しかし、二人の間に結ばれている糸を弛ませることなく、そして、強く引き過ぎて切ることなく、付かず離れずの関係を如何に長く続けることが出来るかが、男女の恋愛を長く続けるための秘訣なのです。

 

「独占状態」 を獲得したからと言って、「永遠の愛」 が成就するわけではありません。

まだ、結婚経験のない若い娘なら、いざ知らず、既に結婚して、結婚の現実を知っている人であれば、その意味は理解できる筈です。

 

(4) 「愛」 と 「嫉妬」 を織り交ぜる

 

「マンネリ」 に陥(おちい)らないコツ。趣向を変えたり、一箇所にひとつのスタイルに偏(かたよ)らないこと。適度に 「愛」 と 「嫉妬」 を織り交ぜることも、そのひとつです。

相手の 「嫉妬」 の度合いを高めた状態の放置は、通常の 「焦(じ)らし」 よりも強い 「焦らし効果」 を生みます。

 

複数の奴隷を従えた複数プレイも、ある意味、この効果を最大限、利用するわけですが、複数を一緒に 「共飼い(ともがい)」 する場合は、序列をきちんと設定することと、それを全員が納得していることが絶対条件となります。

複数プレイの場合は、ただでさえ、奴隷にとってはストレスが強く、また、気が散りやすく、集中しづらい環境にありますので、きちんと、個別にその人に合わせたアフターケアが出来ないと、なかなか難しいと言うこともあって、自分の場合は、「多頭飼い」 でも、それぞれを別々に飼う 「別飼い(べつがい)」 を基本としています。

 

 

嫉妬を制する

 

「モテナイ男よりも、モテル男の方がいいでしょ?」 みたいな屁理屈はありますが、「『多頭飼い』 の男が好き!」 なんて女性は、ひとりもいませんし、いるわけもありません。

女性であれば、「自分ひとりの相手であって欲しい・・・」 と願うことは、とても自然で当たり前なことです。

 

しかし、現代の 「婚姻制度」 ですら、「一夫一婦制」 は、女性の出産や育児などの家庭の安定と、持つものと持たざるものの格差による、社会的な安定を目的としたものであって、女性あるいは一部男性の 「独占欲」 を満たすための制度ではありません。

ましてや、不倫や SM といった不条理な世界において、女性にとっての 「理想的な環境」 を与えなければいけない理由など何処にもないのです。

 

***

 

何故、嫉妬心を制する必要があるのか。
それは、自分の人生を、幸せなものにするためです。
本来は、自分が得られたものに感謝できることが一番重要なのです。

 

「妬(ねた)み」 や 「嫉(そね)み」 は、必ず、他人との比較から始まります。

不倫も、「隣の芝生が青く見える」 ところから始まります。


人の感情は一定ではありません。常に揺れ動くものです。

 

「嫉妬心」 が 「依存心」 から出ている場合は、必ずその 「人」 に幻滅するときが来ます。何故なら、誰でも、不足もあれば、至らないところもあるからです。この世に 「完璧な人」 は存在しないのです。


とは言え、人間は、自分を含めて誰かを愛し、愛されたいと願う限りは、この 「嫉妬心」 と付き合わざるを得ません。なので、出来るだけ、上手く付き合わなければならないのです。

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