2ntブログ
2017/11/05

M(被虐性向)の裏に隠れているもの

我が強いから S、引っ込み思案だから M ではない

 

おとなしいタイプ、物静かなタイプだから 「M (被虐性向)」 とは限りません。

実際、気が強くて物事にも積極的。「わたしはS・・・」 とばかり思っていた女性が、実は、「M だった・・・」 なんてケースも少なくありません。

キツイ性格ゆえに、「自分はS!」 と思い込んでる女性も居たりしますが、そういう人の多くは、フラストレーションを溜(た)め込んでいたり、単にヒステリックなタイプなだけ。

性格と性癖は必ずしも一致しません。(苦笑)

 

女性の多くは、基本的に 「M 性」 を持ち合わせています。

 

そして、その性向が強く表れる場合、何かしらの 「闇」 を心に抱えている場合が少なくありません。

 

「ドM女子」 の内にあるもの

 


小さい頃に性的ないたずらをされた記憶などは、大人になってからも、心の片隅に、ホコリを被った状態で、大きな瘡蓋(かさぶた)が残されていたりしますし、完璧な母親の姿が、無意識のうちに 「インナーマザー」 の形で心を蝕(むしば)んでいる場合などもあります。

その苦しみを緩和するために、「自☆傷」 を繰り返す子もいれば、拒食症や過食症といった摂食障害として、出てくる子もいますし、若い時分であれば 「ヤリ☆マン」 に走る子もいます。

 

生きるための活力とある、性や食といった生理的欲求と、自己との折り合い。自分のアイデンティティ(自己同一性)や価値観に絡む葛藤(かっとう)という表現が適切かどうか分かりませんが、そんな印象を受けます。

 

出せない苦しみ

 

異物を吐き出したいのに、自分ではどうやっても吐き出せない苦しみ。

 

多くの人は、その苦しみを、家族や親友といった自分の身近な人にさえ、話せていなかったりします。そして、その傷は、アコヤガイの体内に埋め込まれた異物のように、徐々に 「真珠」 へと変化し、そしてそれが 「M 性」 の核になっていたりします。

 

社会に出て、バリバリと仕事をこなしているような、プライドが高く、自分が傷付くのを怖れる女性の場合は、戦闘服を身に付け、その上に 「鎧(よろい)」 を身に付けています。しかし、それを脱ぐ場所がないと、自分では脱げなくなってしまうのです。

 

こういった多くの人は、出来れば、異物は外に吐き出したいし、鎧や戦闘服を脱いでリラックスしたい。もし、異物が吐き出せなかったにしても、異物を持っている 「ありのまま」 の自分を受け容れて欲しいのです。

しかし、自分では吐き出せないし、鎧も脱げない。だからこそ、悩み悩んだ挙句(あげく)に、自分の身を 「S(加虐性向者)」 に委(ゆだ)ねるのです。

 

何故委ねるのか

 

何故、S に対してかと言えば、S は、M に敏感だからです。

少なくとも M は S に加虐されることによって、M 自身で自虐する必要はなくなります。S と M は同じ土俵にあるわけです。

そして、同じ土俵に居るからこそ、異物に気がついて貰えると無意識に期待しているかどうかは分かりません。「ありのまま」 の自分を出しても、受け容れて貰えるのではないか、という期待もあるのかも分かりませんが、多分、感覚的に 「楽」 で 「リラックス」 出来るのでしょう。

 

S の在るべき姿

 

SM は、単なる 「責める道具」 を使いこなす 「責めの技術」 の世界ではありません。

確かに 「道具」 も 「型」 も 「技」 も 「技術」 も大事です。しかし、最も大事なのは 「心」 です。

 

S について言えば、どんなに技術を身に付けていても、自分のことばかりを考えて、M を見つけては 「うへへへへっ」 とか 「クックックッ」なんてやっているようでは、まだまだ半人前です。

 

自分の餌食(えじき)になる M なら、痒(かゆ)い背中は掻いてあげるのは当たり前w

序(ついで)に、背中をトントンと叩いてあげて、異物を吐き出させてあげるくらいの器量は身に付けて貰いたいもんです。(笑)

2017/11/04

奴隷の一分(いちぶん)(3)

前記事 「奴隷の一分」「奴隷の一分(2)」 の続きです。

 

奴隷に求められる視線

 

主が 「多頭飼い」 の場合、他の奴隷の存在が気になってしまうことは分かります。

もう空気のような存在となった 「自分の旦那」 には全く関心がなくなっていても、好きな人、お気に入りの人のことは常に気になってしまうのが、「女心」 というものです。

 

女性の頭は基本的には 「社会脳」 なので、状況を把握したい。そして、自分の立ち位置を確認したい。でも、地政学や権謀術数を駆使してでも、勝利を収めたいのかというとそうでもない。

少なくとも、独占できる環境下において、主を独占したいのであれば、そういうアプローチも有り得るかも知れません。

 

しかし、「多頭飼い」 は、変な例えを使うなら、クリニックの待合室のようなもの。

状況によっては、多少呼び出しの順番は変わる可能性もあるけれども、エロ医者でもない限りは、患者を特別扱いはしません。(苦笑)

その患者の症状や容態にあわせて、診療するだけです。

 

自分は自分、人は人なのです。

人ばかりを眺めて、人のことばかり気にしていては本末転倒。意味がありません。

奴隷が見なければいけないのは、他の奴隷ではなく、自分の主です。

気にするべきなのは、他の奴隷がどのような時間を過ごしているかではなく、主との二人だけの時間を如何に楽しむか、なのです。

運動会の 「駆(か)けっこ」 で、他のランナーが気になったからと言って、後ろを振り向いてはいけないのです。(苦笑)

ゴールに向かって、歯を食いしばって、ただ自分が走ることに集中すること。

 

競技ダンスなどでは、ひとつのテクニックなのかも知れませんが、しかし、審査員に対するアピールなどは姑息(こそく)。観客に対するアピールも必要ならば最後でいいんです。

ペアダンスの基本は 「二人の世界」 です。

女性の視線そして意識の先は常に男性です。

そして、その男性は、ただクールな面持ちのまま、女性をリードする。男性は主体ではないんです。あくまでも黒子。華は女性です。

男性は脇役。女性の存在を、女性の華を沸き立たせるのが男性の役割です。

 

「多頭飼い」 の主も、主とは言え、リードにおける主と従です。ある意味 「興行主」 みたいなもんであって、メインは女性。女性こそが主役なのです。

 

主と奴隷も同じこと。二人が踊っている最中は、それは 「二人の世界」 なのです。

奴隷は主のリードに集中して、蝶のように舞う。

二人の時間は、二人が楽しむためにあるのです。

そして、観客を意識した途端、二人の関係は魅せている存在から、見られている存在に変わってしまうのです。

 

スイッチが入っているときは、恥ずかしさも忘れるほどに 「集中」 し、スイッチを落としたら、全てを忘れて、日常の生活に戻る。

スイッチのオン・オフは、ある意味、「ハレ」 と 「ケ」 の関係。ウルトラマンと科学特捜隊の早田隊員、あるいは、ウルトラセブンとウルトラ警備隊の諸星弾隊員みたいなもんです。

 

2017/11/03

禍福は糾える縄の如し

 

「禍福(かふく)は糾(あざな)える 『縄』 の如(ごと)し」

 

人の人生は、「禍(わざわい)」 や 「福」、「幸」 や 「不幸」 が 「縄」 のように縒(よ)り合わさってる・・・という意味です。

「人間万事(ばんじ)塞翁(さいおう)が馬」 にも近い意味がありますが、こちらの方は・・・と言えば、幸せな出来事が実は、厄(わざわい)を招く序章であったり、不幸せなことが、実は幸せにたどり着くキッカケとなっていたり、人生は思い通りにはならないという意味合いにも、捉えられたりしますが、幸せであるからと言って浮かれるのではなく、辛(つら)いから、不幸であるからと言って、嘆(なげ)いてばかりいるのではなく、一生懸命に生きなさいという意味です。

 

人との出会いも不思議なものです。

 

その人と出会ったことによって、自分の人生が180°変わったかのような感覚を覚える場合もあります。

 

        「目から鱗(うろこ)が落ちる」

 

ではありませんが、長い人生。今まで自分の目の前に立ち塞がっていた 「厚い雲」 が一瞬で晴れ渡るような、自分の、ものの見方や考え方がちょっと変わっただけで、自分を覆(おお)っていた 「厚い膜」 が取れ、一瞬にして 「闇」 が 「光」 に変わることもあります。

 

人との出会いは、「縁(えん)」 です。

そして、人生はまるで 「縄」 のように、「縁」 が縁(よ)り合わさっています。

 

「麻縄」 も、たまに ”こげ茶色” をした麻の硬い表皮が紛れ込みます。そのときは、縄の繊維を傷つけないように丁寧に取り除きます。

「撚(よ)り」 の弱い縄は、軽く柔らかい分、弱くなりますし、撚りの強い縄は、重く硬くなります。

「縄」 の撚りは、とても重要です。撚りがあるから、細かい麻の繊維が 「糸(ヤーン)」 となり、その糸が縒り合わさって 「子縄(ストランド)」 となり、それが最後に縒り合わさって 「縄」 となります。

縄の引っ張りに対する強さは、摩擦です。撚りがあるから、強いのです。しかし、縄も使っているうちに、次第に撚りが戻ってきます。

撚りが解(ほぐ)れたところは、大変弱くなります。なので 「撚(よ)りを戻す」 必要があるのです。

 

「撚りを戻す」 というのは、そもそもは ”縄を修復” することです。縄も、メンテナンスをしっかりとしないと、撚りが強いところと、撚りが解(ほど)けたところが出てきて、縄が切れやすくなります。

縄をしごくのは、縄全体のテンション(緊張)を均等にし直しているのです。

 

人との関係も 「縄」 と一緒です。

一定の緊張がなくなると、縄は縄でなくなり、縄は切れてしまいます。

 

縄を大事にするということは、人との縁も大事にするということ。

しかし、痛んだ縄は、危険なので 「吊り」 には使用できません。

縄で 「人」 を縛るときは、その 「人」 のことをまず第一に考えなければいけないように、縄で 「人の心」 を縛る場合は、その人の 「心」 を第一に考えなければいけません。

 

縄は、「受け手」 の流す汗も脂も涙も、歓喜と共に流す淫汁をも吸い、そして、愛奴との全ての時間を記憶します。

 

        「たかが縄、されど縄」

 

自分が縛るときは、自分は 「受け手」 だけに集中します。

自分にとって 「緊縛」 は、その場にいる人を含めた、「受け手」 との二人だけの時間なのです。

「多頭飼い」 とは言え、少なくとも、その 「受け手」 と面しているときは、100%その人との時間なのです。そこで、「集中」 を阻害するのは、縄の緊張(テンション)をあえて無くすようなものです。

 

良好な関係を出来るだけ長く続けたいのであれば、別の人の話をするのはやめましょう。

2017/11/02

奴隷の一分(いちぶん)(2)

前記事 「奴隷の一分(いちぶん)」 の続きです。

 

多頭飼いに絡んで

 

「多頭飼い」 にもいろいろとスタイルがあると思います。

自分の場合は、奴隷同士を引き合わせることなく、また、特定の奴隷に 「誰が奴隷か?」、「何人の奴隷がいるか」 は、基本的には伝えません。

 

その奴隷と話しているとき、そして、会っているときは、自分の時間は100%その奴隷のためにあるからです。

        「誰が奴隷か?」

        「何人の奴隷がいるのか?」

 

「好奇心」 などと言っても、そんなのは名ばかり。興味がなければ、そもそも 「好奇心」 も湧きません。

それに、知ったところで、本人が苦しむだけなのです。

 

とは言え、偶然に知ってしまうことはあります。

そういう場合、もし、誰が奴隷かを知ってしまったとしても、「見るな!」 と言っています。

 

飼い主は、奴隷一人一人に完全な環境を与えられているわけではありません。

奴隷間には当然 「序列」 もありますし、それぞれの個性に応じて扱いも一様ではありません。

奴隷間で意図的に差異を付けているつもりはありませんが、全ての奴隷を 「公平」 に扱っているわけでもありません。

他の奴隷に関することを、特定の奴隷に報告する 「義務」 は、飼い主にはありませんし、「説明責任」 もありません。

 

見た結果、出てくる様々な疑問は、見た人(奴隷)の責任です。

そもそも 「見るな!」 と言っているわけなので、そこから派生する全ての問題は自分で処理するのが基本です。

 

夫婦の携帯をこっそり覗き見しても、何も得することはありません。

むしろ、見ない方が良かったものを見るだけです。

そして、「知ってしまった」 ことによって、時間はもう、元の流れには戻せなくなります。

「好奇心」 によって 「見たい!」 と逸(はや)る気持ちは、分からなくもありません。

 

しかし、それは 「パンドラの箱」 であり、「鶴の恩返し」 の ”鶴の機織り部屋” のようなものなのです。

浦島太郎の 「玉手箱」 は、「開けてはいけない」 と言われて手渡されたものです。

 

***

 

なので、夫婦やカップルの人に、特に言っておきたいこと。

自分のパートナーを試そうとは、けっして思わないこと。そして、携帯とか手帳を、こっそりと覗き見するのも厳禁です。

完璧な人なんていうのは、この世に存在しません。

「旦那や彼氏が浮気していないのは分かっている」 のであれば、確認する必要はないはずです。

単なる好奇心とは言え、不用意に見てしまったがゆえに、離婚にまで至ってしまう人達もいるのです。

法的には、不倫や浮気をした方が悪いことに変わりはありません。 しかし、

 

        「どうしてこんなことに、なってしまったんだろう?」

 

それは、パートナーが悪いのには違いありませんが、しかし、あなたが不用意に覗き見したからなのです。

覗き見するのであれば当然、「最悪の事態」 も想定した上で、見るべきです。

2017/11/01

奴隷の一分(いちぶん)

 

SM における 「主従関係」 は、細かくは、いろいろなバリエーションがあると思いますが、「奴隷」 であれ、「家畜」 であれ、「ペット」 であれ、基本は大きくは次の3つに代表されます。

 

     ① 奴隷は、人格も人権も持たない存在である。

     ② 主の命令は絶対である。

     ③ 主はいつでも奴隷を放(はな)つことができるが、
        奴隷は自らの意思によって主から離れることは赦されない。

 

どう読んでみても 「奴隷」 そのものです。

この、まるで鬼畜以外のナニモノでもないような 「契約」 を奴隷が了承して、初めて、主従関係は成立しますが、そこには SM が併せ持つ光と闇があります。

奴隷が、主の存在を 「善意の存在」 として見るか、それとも、「悪意の存在」 として見るかによって、この「契約」 は光輝くものにも、邪悪なものにも変化します。

 

では、この SM の 「奴隷契約」 に隠された 「光」 とは何か?

それは、主と奴隷の絆の深さに他なりません。自ら、自分を貶(おとし)めて、主に忠誠を誓うことで、主に100%自分を委ねることを誓うわけです。

何故これが 「光」 と成り得るかと言えば、それはその女性のもつ 「M 性」 にもよりますが、女性は基本的には、「好きな人に自分を委ねたい」 という願望があるから。しかし、それはどちらかと言うと表向きであって、その実 SM 的には、この先に女性を 「オーガズム(絶頂)」 に導くための、ある意味メンタルなトレーニングなのです。


     ① 自分から離れる自由がないからこそ、捉われの身だからこそ、自分を100%主に委ね、

     ② 人格も人権もない存在だから、余計なことは何も考えないで、

そして

     ③ どんなに怖い状況に直面しようとも、ただひたすらに主の命令を守ることで

 

最終的に、自分の存在を無にすることができるのです。

自分を無にし、恐怖にも身を委ねられるようになることで、自我を断ち切りることが出来るようになるわけです。

そして、自分の身をその怖ろしい波に委ねた途端、その怖ろしい波は、快楽の波に変化するのです。

 

何も 「頭(理性や意識)」 で考えず、100%信頼して自分の身を委ねること。

フランスの小説家であり、思想家、哲学者でもあった 「ジョルジュ・バタイユ」 は、女性の 「オーガズム」 を 「小さな死」 と呼んでいます。

若かりし日の女性が、「初恋」 で 「このひとのためなら死ねる・・・」 みたいな思いがあったとするならば、それは、本当のそのお相手の生贄(いけにえ)になることを示唆しているのではなく、それは本能の囁(ささや)きです。そしてその先にあるものは、女性の至福とも言うべき 「オーガズム」。

 

女性が 「中イキ」 でオーガズムを迎えるあたって必要とされるエッセンスが全て、この3ヶ条に含まれているのです。

 

***

 

奴隷も、いろいろ。

 

表面上、守れているようで、しっかりとは受け止めていない子。

逆に、愚直なまでに、しっかりと受け止めて、ひとつひとつ課題を乗り越えて行く子。
分かっているようで、ぜんぜん分かっておらず、口答えをしてくる子。

聞いているようでいて、全く聞いていない子もいれば、逆に、全く聞いていないようで、しっかりと理解している子。

 

人の価値観は、みんな違いますし、今まで生きてきた人生も、みんな異なります。

違うこと自体は構わない。しかし、そこから何を学ぶか。

奴隷と主の間に流れる微妙な空気の違いを読んで、それを自分の反省に役立てようとする優秀な奴隷や、天性の持ち前で、課題をクリアしてしまう子もいると思えば、自分の我を押し付けてくる子もいます。

 

もちろん、人により、性格も個性も生き方も違うので、人によって当然課題の中身も変わります。

課題も反応も違って当たり前なんですが、しかし、原則は変わらないということです。

1日24時間そうなりなさいと言っているわけでもない。主に相対(あいたい)するときだけ、あるいは、二人に係わる事に関してだけです。

 

そもそも、自分が着込んだ 「プライド」 という名の 「戦闘服」 やら 「鎧」 を脱ぐことが出来ず、奴隷になることすら許容出来ない人も少なくないので、それはそれで構いません。

 

***

 

男女の距離感を縮めようとすれば、それだけ、SM における緊張感はなくなります。

緊張のない自分の姿をもし、目の前で直視したとしたら、そこに居るのは単に ”その辺の薄汚いオヤジ” に過ぎません。

主と奴隷は、主従関係にあり、対等な関係ではありません。

無駄な足掻きかも知れませんが、距離感を保つことで、出来得る限り、自然の摂理に反して長く続くことを期待しているだけかも知れません。

 

普段の日常の日々は、歯を食いしばり、逢瀬のときに、思いっきり壊れるように、普段は、主従の礼節を守り、距離感を保つ。

そして、逢瀬のときは、思いっきり弾けて、そして、休息のときに始めて束(つか)の間の甘い時間を過ごす。

「ジョルジュ・バタイユ」 の言っている連続性と非連続性、そして、日常の社会(表)と祝祭(裏)の考え方と全く同じです。

 

確かにお互いの距離などの理由で、頻繁に会える会えないとかはあります。

そういうときは、常に緊張状態にあるので辛いかも知れません。しかし、そのような環境であれば、自分で自分の緊張を取る努力をしないといけません。

不安が高まってくれば、次第に 「契約」 の 「光」 は失せて、「闇」 ばかりが見えるようになります。

 

自分の心の持ち様によって、同じものが、「光」 にも 「闇」 にも見えるのが SM です。

 

だからこそ、身は朽ちても、常に心には光を。