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2017/11/01

奴隷の一分(いちぶん)

 

SM における 「主従関係」 は、細かくは、いろいろなバリエーションがあると思いますが、「奴隷」 であれ、「家畜」 であれ、「ペット」 であれ、基本は大きくは次の3つに代表されます。

 

     ① 奴隷は、人格も人権も持たない存在である。

     ② 主の命令は絶対である。

     ③ 主はいつでも奴隷を放(はな)つことができるが、
        奴隷は自らの意思によって主から離れることは赦されない。

 

どう読んでみても 「奴隷」 そのものです。

この、まるで鬼畜以外のナニモノでもないような 「契約」 を奴隷が了承して、初めて、主従関係は成立しますが、そこには SM が併せ持つ光と闇があります。

奴隷が、主の存在を 「善意の存在」 として見るか、それとも、「悪意の存在」 として見るかによって、この「契約」 は光輝くものにも、邪悪なものにも変化します。

 

では、この SM の 「奴隷契約」 に隠された 「光」 とは何か?

それは、主と奴隷の絆の深さに他なりません。自ら、自分を貶(おとし)めて、主に忠誠を誓うことで、主に100%自分を委ねることを誓うわけです。

何故これが 「光」 と成り得るかと言えば、それはその女性のもつ 「M 性」 にもよりますが、女性は基本的には、「好きな人に自分を委ねたい」 という願望があるから。しかし、それはどちらかと言うと表向きであって、その実 SM 的には、この先に女性を 「オーガズム(絶頂)」 に導くための、ある意味メンタルなトレーニングなのです。


     ① 自分から離れる自由がないからこそ、捉われの身だからこそ、自分を100%主に委ね、

     ② 人格も人権もない存在だから、余計なことは何も考えないで、

そして

     ③ どんなに怖い状況に直面しようとも、ただひたすらに主の命令を守ることで

 

最終的に、自分の存在を無にすることができるのです。

自分を無にし、恐怖にも身を委ねられるようになることで、自我を断ち切りることが出来るようになるわけです。

そして、自分の身をその怖ろしい波に委ねた途端、その怖ろしい波は、快楽の波に変化するのです。

 

何も 「頭(理性や意識)」 で考えず、100%信頼して自分の身を委ねること。

フランスの小説家であり、思想家、哲学者でもあった 「ジョルジュ・バタイユ」 は、女性の 「オーガズム」 を 「小さな死」 と呼んでいます。

若かりし日の女性が、「初恋」 で 「このひとのためなら死ねる・・・」 みたいな思いがあったとするならば、それは、本当のそのお相手の生贄(いけにえ)になることを示唆しているのではなく、それは本能の囁(ささや)きです。そしてその先にあるものは、女性の至福とも言うべき 「オーガズム」。

 

女性が 「中イキ」 でオーガズムを迎えるあたって必要とされるエッセンスが全て、この3ヶ条に含まれているのです。

 

***

 

奴隷も、いろいろ。

 

表面上、守れているようで、しっかりとは受け止めていない子。

逆に、愚直なまでに、しっかりと受け止めて、ひとつひとつ課題を乗り越えて行く子。
分かっているようで、ぜんぜん分かっておらず、口答えをしてくる子。

聞いているようでいて、全く聞いていない子もいれば、逆に、全く聞いていないようで、しっかりと理解している子。

 

人の価値観は、みんな違いますし、今まで生きてきた人生も、みんな異なります。

違うこと自体は構わない。しかし、そこから何を学ぶか。

奴隷と主の間に流れる微妙な空気の違いを読んで、それを自分の反省に役立てようとする優秀な奴隷や、天性の持ち前で、課題をクリアしてしまう子もいると思えば、自分の我を押し付けてくる子もいます。

 

もちろん、人により、性格も個性も生き方も違うので、人によって当然課題の中身も変わります。

課題も反応も違って当たり前なんですが、しかし、原則は変わらないということです。

1日24時間そうなりなさいと言っているわけでもない。主に相対(あいたい)するときだけ、あるいは、二人に係わる事に関してだけです。

 

そもそも、自分が着込んだ 「プライド」 という名の 「戦闘服」 やら 「鎧」 を脱ぐことが出来ず、奴隷になることすら許容出来ない人も少なくないので、それはそれで構いません。

 

***

 

男女の距離感を縮めようとすれば、それだけ、SM における緊張感はなくなります。

緊張のない自分の姿をもし、目の前で直視したとしたら、そこに居るのは単に ”その辺の薄汚いオヤジ” に過ぎません。

主と奴隷は、主従関係にあり、対等な関係ではありません。

無駄な足掻きかも知れませんが、距離感を保つことで、出来得る限り、自然の摂理に反して長く続くことを期待しているだけかも知れません。

 

普段の日常の日々は、歯を食いしばり、逢瀬のときに、思いっきり壊れるように、普段は、主従の礼節を守り、距離感を保つ。

そして、逢瀬のときは、思いっきり弾けて、そして、休息のときに始めて束(つか)の間の甘い時間を過ごす。

「ジョルジュ・バタイユ」 の言っている連続性と非連続性、そして、日常の社会(表)と祝祭(裏)の考え方と全く同じです。

 

確かにお互いの距離などの理由で、頻繁に会える会えないとかはあります。

そういうときは、常に緊張状態にあるので辛いかも知れません。しかし、そのような環境であれば、自分で自分の緊張を取る努力をしないといけません。

不安が高まってくれば、次第に 「契約」 の 「光」 は失せて、「闇」 ばかりが見えるようになります。

 

自分の心の持ち様によって、同じものが、「光」 にも 「闇」 にも見えるのが SM です。

 

だからこそ、身は朽ちても、常に心には光を。

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