暴力は、SM ではない
暴行を SM と勘違いする人達
以前、「グーパンチは、ないでしょ (苦笑)」 の記事にも書きましたが、「SMプレイ」 と称して、叩いたり殴ったり、あるいは、そうした暴力行為も SM に含まれると思っている人達が一部に存在します。また、「暴行プレイ」 なんてメニューを載せていたりする 「SMクラブ」 も存在します。
SM プレイは、双方の合意を基本としていますので、青タン(青アザ)が出来るまで殴るような暴力的な行為であっても、双方がそれを望むのであれば、プレイとして成立はしますし、他人がとやかく言えることではありません。
暴力的な部分だけを持ち出してきて、そういった ハードなプレイを否定するつもりはありません。「鞭打ち」 でも、打たれた部分が青く腫れあがるまで叩かれることを望む、ハードプレイヤーもおります。
打撃の痛みと衝撃で、アドレナリンを放出しまくった後、プレイの証しとして、そして、その余韻に浸るために、青アザを残すことを望む 「受け手」 の人はいます。
「キスマーク」 と同じですが、「痕」 や 「余韻」 を残すことで、「フラッシュバック」 も含めて、その 「実感」 を長く確認したいのです。
この場合でも、「打ち手」 が、相手の求めの根幹をきちんと理解しており、リスクを認識し、きちんと危険を排除するだけの技術があるのであれば、全く問題はありません。
「暴力」 もしくは 「暴力的シーン」 に SM 的要素が含まれていることも、否定しません。
世の中に一定数、「暴行」 に興奮を覚える人達は存在します。
と言うよりは、みんな 「興奮」 はします。しかし、それは 「性的な興奮」 ではなく、アドレナリンが放出されることによる、闘争的な興奮です。
一昔前であれば、東映の 「ヤクザ映画」 や 「ギャング映画」 あるいは 「時代劇」 などの、身近な 「暴力シーン」 で、多くの人達が 「興奮」 していたわけです。
「任侠(にんきょう)物」 を上映している映画館に、入っていくときは普通なのに、映画を見終わって出て来るときは、何故か、肩を怒らせて歩いて出て来る男性が多いなんて、笑い話もあるくらいです。
自分が、「暴力」 あるいは 「暴行」 を SM とすることに対して大変否定的なのは、なかなか上手く表現できないのですが、「暴力」 あるいは 「暴行」 というアプローチが、プレイする人達を大変誤認あるいは混乱させやすいこと。それと、エスカレートしたときの歯止めが大変難しいためです。
「SM の責め」 として見て、「素人」 と 「玄人」 の見極めが難しいこともありますし、傍目(はため)から、「DV なのか」 それとも 「プレイなのか」 の見極めも困難です。また、責め手が 「自分を保てている」 のか、「イってしまっているのか」 の区別も難しい点があげられます。
簡単に言うと、「鞭」 や 「縄」 と違って、「暴行」 の場合は、素人であろうが何であろうが、誰にでも簡単に出来てしまうという点です。
痛い・苦しいを好む人達
SM を経験していない人は良く、「SM は、痛いから嫌い」 と言う人がいます。しかし、昔、「SM は必ずしも痛くない」 の記事にも書きましたが、SM は必ずしも 「痛い」 ものではありません。実際に SM に興じている人達の中にも、「痛いのは無理」 という人達は大勢います。
また、SM の道に入って、「痛い系」 も悪くない・・・と思う人もいますが、それは、女性が興奮した場合、快感と痛みの区別が付けづらくなるからであって、始めから、「痛い系」 や 「苦しい系」 を好む人は、居ることは居ますが、そうそう多くはありません。
こういった 「痛い系」 や 「苦しい系」 の責めを好む人達は、「自己否定」 的な傾向が強いように思います。
「フィ☆スト」 も、ボディピアスのような 「身体改造」 もそうですし、ネックコルセットやギャグボールなどを装着し、呼吸をしづらくする 「苦しい系」 の責めを好む場合もそうです。
それ以外では、ピンタされたり、殴られたり、あるいは、首を締められたりといった、「暴力的」 な 「脅迫観念」 がないと、極度の 「恥ずかしさ」 などから、十分な自己の 「性の解放」 が出来なかったり、あるいは、これは 「自傷」 と近いかも知れませんが、その位の刺激がないと、自分の、生きているという 「実感」 を確認出来ないなどといった人もいます。
怖いのは、「プレイ慣れ」 していない素人
こういった 「受け手」 が、暴力的なプレイを望む場合、「責め手」 が、きちんと叩き方・殴り方を知っていて、冷静に対処出来る人であるならば、まだ良いのですが、それでも、「受け手」 の要望がエスカレートしていくような場合は、事故を起こす危険度がどんどん増していきます。
「ソフト」 なプレイなら、「責め手」 は 「受け手」 の希望や願望を適(かな)えてさえあげていれば、関係は成り立つかも知れません。
しかし、「ハード」 なプレイにおいては、「責め手」 がきちんと、場を掌握し、「支配」 出来ていないと、大変危ないのです。
どういうことかと言うと、「責め手」 は、頼まれたからやるのではなくて、「受け手」 の状態をきちんと確認しつつ、主体的にプレイ出来ないといけないのです。
場合によっては、身体的なインパクトは変えず、心理的なインパクトだけが強くなるように暗示を掛けたりしますし、ポーズだけを取る場合もあります。
例えば、過呼吸状態のときに、口と鼻を押さえたりするのは、一見 「責め」 のように見えているかも知れませんが、これは単に、酸素の摂り過ぎを抑止しているだけです。
では、「暴行プレイ」 の何が怖いのか?
縄や鞭と言った所謂(いわゆる)典型的な SM であれば、そこには、確実に 「技術」 の壁が存在します。
しかし、「暴力行為」 の場合は、素人であろうと、誰でも出来るだけに、「ソフト」 と 「ハード」 の見極めがきかなくなる場合があるのです。
そして、始めのうちこそ、注意を払うかも知れませんが、慣れてくるに従って、気も緩んできますし、次第にプレイがエスカレートする可能性もあるためです。
その典型が、過去の記事 「愛のコリーダ」 や、「愛のコリーダ(2)」 で紹介した、「安倍定(あべさだ)事件」 です。
「安倍定」 は 「責め手」、石田吉蔵(よしぞう)は 「受け手」 だったわけですが、しかし、実際に場を取り持っていたのは、吉蔵であり、「定(さだ)」 は、ただ吉蔵の希望や願望を適えていてあげてただけです。
吉蔵も、定に、顔が赤く腫れ上がるまで、首を締め上げて欲しかったわけではありません。定が吉蔵の要望通りにしていたら、そうなってしまっただけの話です。
実例1 いきなり首を絞められた話
これは実際にあった話ですが、とある女性が、そのときお付き合いしていた彼氏に、「首絞め願望」 があることを話したらしいのです。
本人は、自分にそういう願望があることを話しただけのつもりだったのですが、彼氏は、頼まれていると受け取ったのか、あるいは、自分がその願望を適えてあげようと思ったのでしょう。
「セックス」 をしていたときに、どうやら、その彼氏がいきなり、彼女の首を絞めたらしいのです。
本人は、咄嗟のことで、いきなり、呼吸が出来なくなり、声も出ない状況で、そのまま死ぬかと思ったと言っていました。多分、気管を絞められたのでしょう。
以前、その彼女から 「首絞め願望」 の話を聞いたときに、「そういう話を、気安く、男に話さない方がいいよ」 と忠告しておいたのですが、どうも、その真意は伝わっていなかったようです。
柔道の経験があり、絞め技の出来る人の手に掛かって、数秒で落とされてしまうのも、味気ありませんが、全く首を絞めた経験もない、力のある男性に、いきなり首を絞められることくらい、怖いことはありません。(苦笑)
実例2 重度の青アザを残した話
これも実際にあった話ですが、以前、とある 「M女さん」 とお会いした際、顎(あご)に打撲痕を、身体にいくつかの歯形を発見したことがあります。DV かと思い、本人に聞いてみると、ピンタをして貰いたくて、そのときにお付き合いのあった男性にお願いしたとのこと。
噛むのも、彼女がお願いしたのかどうかは忘れてしまいましたが、男性に噛み癖でもあったのでしょうか?
この女性の場合は、グーで殴られたわけでもなさそうなので、その男性も意図的に痕を付けたわけではなさそうです。多分、手首の骨が顎の骨にでも当たってしまったのかも知れません。
しかし、その女性は紛いなりにも 「亭主」 のいる身です。痕が残るほど強く叩かれたり、噛まれたりすることを希望されていたのかは微妙です。
ピンタも一歩間違えば、鼓膜(こまく)を破りかねませんし、勢い余った場合は、頚椎(けいつい)を痛める場合もあります。大きな怪我の場合もそうですが、歯形の痕がくっきりと残っている場合も、犬でなく、人に噛まれたことは一目瞭然ですので、言い訳も難しくなります。
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上記の2つは、いずれも、こと無きを得たものの、ヒヤリ とするトラブルであることには変わりません。
DV?虐待?SM?
「暴行プレイ」 をまだ、お店で楽しんでいる場合は、お店にもルールはあるでしょうし、少なくとも、叩いたり叩かれることを前提に、十分リスクを認識し、回避出来るであろう人達が働いているわけですから、あまり心配はしていません。
では、何を心配しているのか?
やはり、それは、悲惨な事故もありますし、SM と言う名のもとに、DV や虐待が行われることで、社会に、「SM は危険」 という、間違った認識が植え付けられてしまう懸念もありますが、「暴力プレイ」 を SM のひとつのジャンルとして認めたくない一番の理由は、「DV」 あるいは 「虐待」 を含めた 「暴力」 を SM と勘違いしている 「鬼畜野郎」 共が、SM の潜在的な社会的需要を荒らしてしまうことに他なりません。
「健全な SM」 というのも、おかしな表現ではありますが、一昔前には、一種の精神的疾患として扱われていた、サディズムやマゾヒズムといったものも、現代では、本人が心理社会的な問題を自覚していたり、あるいは、同意のない相手に対して、性的衝動を行動に移すなど、社会的な問題が引き起こされるような場合を除き、個人の 「性的な嗜好」 として認知されています。
「真性ドS」 でも、何でも良いのですが、「SM」 に興じる者は、いわゆる 「びょーき」 の人達とは、一線を画していないといけないのです。
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この世の中、怪我を負わせれば 「傷害罪」 ですし、事故であれ、死亡させてしまえば 「障害致死罪」 に問われます。
「SM」 とは、何回も書きますが、被虐側の M は、拘束されて自由を奪われたり、自分の身体を相手に委ねる行為です。ですので、そこでは、相手に対する 「信頼」 というものがとても大切になってくるわけですが、もうひとつ大切なのは、委ねる相手の持つ 「技量」 と 「人間性」 です。
どんなに 「人間性」 が良くても、「技量」 が伴わなければ事故を起こしますし、どんなに 「技量」 に優れていても、「人間性」 に乏しければ、相手を食い物にしようとするゲスも居ます。
サイコでもない限りは、殴ってボコボコにすることのを想像すると、ワクワクしてきてしまって、後先構わず、誰それ構わず、殴り出すヤツなんて居ません。
何故なら、現実の社会でそんな行動をとっていたら、逆に 「返り討ち」 に合うのがオチですし、凶暴な場合は、檻(おり)に入れられて社会から隔離されるからです。
やはり、現実問題として 「怖い」 のは、「プレイ」 において、自ら陶酔してしまい、加減が出来なくなってしまう人と、そもそも加減の仕方すら知らない人達であり、また、弱い立場にあるものに対してのみ、「暴力」 という選択肢が出て来る 「虐待」 気質のある人達です。
おわりに
ジョルジュ・バタイユや、伊藤晴雨ではありませんが、「SM の根源」 にあるものは、人が心の底に持つ、「死」 に対する畏怖と、「生」 の喜びであり 「愛」 です。
「自☆傷」 が、「生」 の混乱と葛藤しながらも、「生きたい!」 と望む 「心の叫び」 であるように、SM は、愛することの下手な人達が、愛を求め、愛を交歓する世界なのです。
自らの快楽だけを求め、自らの快楽に興じるために、相手を暴力によって脅迫し、支配する行為は、「ロールプレイ」 の範囲では許されたとしても、それを越えた場合は、単なる 「虐待」 であり、「SM」 としては認められないというのが、 自分の基本的な認識です。
そして、「真性ドS」 でも何でも構いませんが、そういう人達については、「イクなら他人を巻き込まず、ひとりでイってくれ!」 というのが、自分の率直な意見です。