2ntブログ
2017/06/30

「甘える」 ことと 「甘え」 の違い(6)

「『甘える』 ことと 『甘え』 の違い(5)」 からのつづき

 

「甘える」 ことと 「甘え」 の違い。

 

この 「お題」 で、自分の頭の中にある 「考え」 をうまく整理できぬまま、ダラダラと 「お片付け」 をしていたところ、先日、このような記事を見つけました。

 

「いい子に育てると犯罪者になります ―― 豊田議員のパワハラ騒動の真の問題とは」 2017.06.28

 

「このはげっー!」 「わーかーるーだーろーっ!!」 の豊田議員ネタに絡めてますので、最新ネタ記事でありますが、この記事を読んで 「なるほど」 と納得してしまいました。

 

 

自分が学歴を褒めることは、まずないのですが、豊田真由子衆議院議員(現無所属)の場合は、本当に舌を巻くほどその 「キャリア」 は素晴らしいです。

東大法科はともかく、ハーバード大の修士は、コロンビア大などもそうですが、ネイティブではない日本人にとっては、素養と同時に、血の滲(にじ)む努力がなければ、そうそう簡単に取れるもんではありません。
 

しかし、彼女の場合は、厚生労働省のキャリア時代にしても、キャリアの事務官としての組織的な役割をきちんと認識出来ていませんでした。

中央省庁の 「省」 である場合、キャリアの事務官のトップは、事務次官です。
現場は、キャリアやノンキャリの 「技官」、「医務官」 そして 「武官」 がいる中で、事務方たる 「事務官」 は後方支援役であり、キャリアであれば、中枢神経たる司令塔なのです。
しかし、彼女の場合は、何を勘違いしたか、自分が一番強いと思って、自ら 「切り込み隊長」 になってしまったのでしょう。頭では理解しているつもりても、心や身体では理解できていないタイプです。
本人の上昇志向があまりにも強いのか、あるいは、人を使う能力に欠けているのか。多分、その両方だとは思いますが、小さなグループでさえも統率できず、役所の中で、自分が足切りになりかねない状況下で、プライドもあるのでしょう。
政治家に転身し、古巣に戻ったものの、しかし、自分をサポートする秘書は、中央省庁の役人レベルにも達しない阿呆ばかり。

そんなの当たり前でしょう・・・と、分かりそうなもんですが、しかし、彼女は何に、そして、何故それほどまでに追いまくられていたのでしょう?

 

世間も、「水に落ちた犬」 に石を投げるばかり。自分も、特にこの議員に対して関心があるわけでもありませんでしたが、この記事を読んで思わず納得してしまいました。

この記事に繋げて書くことがあるとすれば、やはり 「インナーマザー」 の存在でしょう。彼女にとって、その 「インナーマザー」 の存在を示唆(しさ)している事件が、園遊会事件です。

これは、彼女が、3年前の園遊会に招かれた際に、同伴が許されている配偶者の代わりに、自分の母親を連れて来て入園しようとして、宮内庁職員とトラブルになったもの。

 

「政治家の秘書」 として、代議士との会話を録音をするところまでは、まあ保身のためにあり得ること。しかし、それをリークするなど、あってはならないことではあります。しかし、「いつ刺されるかもしれない」 という本人の恐怖心と、国会閉会まで頑張ったという告白を聞くに連れ、納得。

 

彼女にとっては、キレて叱責(しっせき)する瞬間が、理性と感情を遮断する唯一の方法だったのでしょう。この記事の中でも、「私の心を傷付けるな!」 「私が受けてる痛みがどれくらいあるか。お前分かるか!」 「お前はどれだけ私の心を叩いている!」 といったセリフや、ミュージカル調?に抑揚(よくよう)を付ける一人語りなどは、心の中の本音ではないかと推測しています。

 

彼女の行動や言動は、一見サディスティックではあります。

 

怒りによるアドレナリンの分泌でスイッチを入れ、相手を罵(ののし)り攻撃することで、スッキリしている様子には、確かに緊張と緩和が見られますし、鼻歌まじりに一人語りをしているときは、恍惚(こうこつ)状態で、エンドルフィンでも分泌されているのかも知れません。しかし、やはり、「ストレス発散」 の域を出ていません。

自分の本音であり、心の内を晒しているという意味においては、マゾヒスティックであるとも取れなくはありませんが、ペットや動物など、人とは認識していない相手に見られたところで 「恥ずかしい」 という感情は沸きません。

むしろ、「車内の会話のリーク」 という、本人が予想だにしなかった事態が起き、自分の醜態(しゅうたい)だけでなく、弱い部分が周囲の目に晒されてしまったことで、彼女の心の中は現在、心が瓦解(がかい)している最中でしょう。
 

彼女の場合は、表を守っている 「理性の鎧(よろい)」 も 「あまりにも正当」 であるがゆえに、頑強すぎて、誰も砕くことが出来なかったパターンでしょう。心を許せる相手も、そして、相談あるいは意見を聞き入れるに足る 「敬意」 を持てる相手もいなかったということです。

ある意味、彼女の華やかなキャリアもプライドも、秘書による 「蜂の一刺し」 で崩れ去ってしまいましたが、これからが、自分自身の人生であると言えます。

 

「清原和博も酒井法子も頑張り続けた過剰な 『いい子』 期待に応えられない 『しんどさ』 が犯罪者を生む」

 

すぐ弱音を吐いては、ダラダラと甘えてくる依存体質の人も困りものですが、実は、甘え方を知らない人も困りものなのです。

 

 

日本には、「人に迷惑をかけない」 ことを美徳とする風潮があります。しかし、それは 「人に甘えてはいけない」 というのと近いニュアンスがあります。

日常的な生活において、つい自分に 「甘え」 が出て、自分で出来ることも他人に依存してしまったり、自分で努力もせず、他人に頼ろうとするのは 「甘え」 かも知れません。

自分の足で立てるのに、立つ努力をしない人に対しては、世の中は厳しいです。人ひとりを支えるのは、とても難しいことです。しかし、その難しさを知っているからこそ、人は 「自分の足で立とう」 と努力している人達を助けようとするのです。

自分ひとりで生きていくことなんか出来ませんし、誰の手助けもなく、生きてきたなんて言う人がいたら、それは 「思いあがり」 もはなはだしい。

 

100%完全な人は、この世にはいませんし、人間とは弱い存在です。

なので、集団で生活するようになり、群れという概念から 「社会」 というものを作り上げてきました。社会というもの自体が、自分達の種が存続するために、弱い者を外敵から身を守り、お互いに助け合って生きるための手段なわけです。

 

「人に迷惑をかけまい」 と自分の足で立とうとする人のいきざまは、美しいと思います。

 

しかし、他人に対して何でもかんでも 「人に迷惑をかけるな!」 と非難する人々は、醜悪以外の何者でもありません。

何故ならば、それは、社会によってある程度のリスクから守られて生きてきた人が、社会の本質的な意義を否定する、「甘え」 だからです。

 

 

日本社会の厳しさ、そして、生きづらさがこの辺に見え隠れしています。

 

(つづく)

2017/06/26

「桂歌丸が語る裸芸批判の真意」 の真意



「桂歌丸が語る裸芸批判の真意 『起用する側にも責任がある』」

 

「真意」 なんて書いてあるから、もっと深いワケがあるのかと思ったが、落語界や古巣の 「笑点」 に対する諌言(かんげん)とかなら、まだしも、「アキラ100%」 って下積み生活長くて、ようやく日の目を浴びた 「ぴん芸人」 でしょ?

 

「下積み」 の辛(つら)さや苦しさは、落語界の弟子入りとはまた違うかも知れないけれども、義理と人情と言葉で生きてきたはずの 「落語界」 の重鎮(じゅうちん)でもある歌丸師匠が、どうして、こんなに 「アキラ100%」 の芸を叩くのかね?

 

「嫌い」 なら 「嫌い」 と言うのも野暮(やぼ)だけど、こんだけ屁理屈つけられると気障(きざ)ったらしい嫌味(いやみ)しか残らない。

少なくとも伝統を重んじる 「江戸の噺家(はなしか)」 なんだったら、やっぱり 「粋(いき)」 でなくちゃいけないわけで。そこが抜けちまったら、そんなのは 「季語」 が抜けた俳句のようなもの。

 

この発言は、高座ではなくて、囲み取材の中で出てきたものなので、本音がポロリと出てしまったのでしょうか?

全文をきちんと載せてる記事とかもないので、検証すら出来ないんですけど、そもそも、あの会話は、やはり今まで落語を愛し、落語に精進してきた師匠が、落語界を奮起させてるメッセージなわけで、歌舞伎や能や狂言だけでなく、日本語を大切にする落語というものも伝統芸なんだから、精進しなさいという後進に対するメッセージだったんではないかとも思います。

 

***

 

歌丸師匠風に言わせて貰うとするなら、「言っちゃ失礼ですけど、裸でお盆を持って出てる人だけを、何故こんだけ叩くのか」

 

裸芸についても、いちゃもんが。

 

歌丸師匠: 「言っちゃ失礼ですけど、裸でお盆を持って出て何が芸なんですかね。あれを日本の文化だと思われたら困るんですよ。あんなのは酔っ払いがお座敷でやるようなもんですよ。・・・」

 

確かに、昭和の「宴会芸」 のたぐいではあります。(苦笑)
でも、最も古く、日本の書物に残る 「芸」 は、 「古事記」 や 「日本書紀」 にあるように、「日本最古の踊り子」 と言われ、「芸能の神様」 とも称される 「アメノウズメ」 が、天の岩屋戸(あまのいわやど) で踊った 「裸踊り」 です。

まあ、「アメノウズメ」 は女神ですので、もし、男がやったら、歌丸師匠が言うように大ブーイングだったかも知れませんが、しかし、もし 「笑い」 の根源が 「裸踊り」 にあるのだとしたら、歌丸師匠の言葉は、単に様式や格式に捉(とら)われただけの、古い価値観に過ぎません。

 

大正時代から続く、安来節にあわせて踊る 「どじょうすくい」 といった 「宴会芸」 も廃(すた)れる一方です。

 

歌丸師匠: 「それにああいう方がテレビに出れば、子供も観るじゃないですか。子供に『おもしろい』と思われたら大変な間違いですよ。親も一緒になって笑っているようじゃ、しょうがない。昔の親だったら『観ちゃいけない!』って叱っていたはずです」

 

まあ、キワモノなんてのは、「レーザーラモンHG」 みたいなのもいれば、「そんなの関係ねぇ」 ではないけど 「小島よしお」 だってそう。お盆でなくて、競泳パンツで隠してるだけです。

モッコリを見なくて済む分だけ、まだ、男にとっては見やすいってもんです。だって、他の男の股間なんか、はっきり言って見たくありませんから。(苦笑)

 

昔の親が 「観ちゃいけない」 と言っていた代表的な番組と言ったら、ドリフターズの 「8時だよ全員集合」 でしょう。(苦笑)

「火事と喧嘩(けんか)は江戸の華(はな)」 と言います。

どうせ、昔の親を持ち出すのであれば、落語界の師匠たるもの、「アキラ100%」 ではなくて、芸能界の重鎮ヅラしてる 「志村けん」 に喧嘩を売って下さい。(笑)

 

それに 「小島よしお」 が言ってましたが、子供を笑わすのは、なかなか骨が折れるそうで、舐めて掛かると痛い目にあうそうです。

むしろ、相手が子供であっても、軽視しない。そういう芸に対する真摯な姿勢は、とても大切だと思います。

 

笑いが取れなくて 「滑(すべ)る」 のは、野暮(やぼ)ったいから。

「ピン芸人」 を含め、今の 「お笑い芸人」 は、今の 「お笑い芸人」 なりに、タブーに切り込んで、今のメディアに合った 「今の時代の笑い」 を追及しているわけです。


落語は、言葉を通してお客様に 「笑っていただく」 のに対して、ああいう方は、「笑われている」 でもいいじゃないですか。(笑)

チャップリンのコケティッシュな動きにも似ています。言葉を使わずに表現する 「芸」 があっていいわけです。語りで、笑いを誘うのではなくて、不様(ぶざま)な自分の挙動を晒して、笑いを誘ってるだけです。

 

残る・残らない、残す・残さないなんてのも、未練です。

粋(すい)を極めているはずの師匠が、わざと未練を見せてるような気もします。

 

***

 

いろいろと愚痴(ぐち)を書き連(つら)ねましたが、しかし、書けば書くほど、言葉を商売道具としてる落語界の巨匠が、そんなに落ちぶれているはずもないことに気が付きます。

そして逆に、これは、噺家による 「完全なトーク(演目)」 だとすると、

 

「アキラ100%」 を非難する人達に寄り添うフリをしつ、実は、落語界の後進、そして、「アキラ100%」 他、今の 「お笑い芸人」 を応援し、言葉をうまく使う方法もあるということを示唆しているわけであり、放送局には、芸人文化を尊属させるためにも、もっと金を出せと言っているようにしか思えません。

 

落語の海外公演でも、日本語で落語をする必要性を、歌丸師匠は、「リズムや間合い、言い回し・・・」 と言っていますが、これは 「ピン芸人」 の所作(しょさ)そのものだと言えます。

 

全てが繋がるのです。

 

「言っちゃ失礼ですけど・・・」 とか、「もっと憎まれ口を叩かせてもらうと・・・」 と言いつつ、そのまま 「恨み辛み(うらみつらみ)」 を言うだけなら、噺家じゃなくても出来ます。

言いたかったのは、全てその逆説です。

 

そして、そうやって読むと、クソ真面目に何にでもケチをつける 「現代の日本の風潮」 を嘲け笑ってるようにも見えます。

なので、最後のオチも、きちんと付いてます。

 

歌丸師匠: 「度胸は認めますよ。よくあんなことやったなと(笑い)。でも、私は認めるわけにはいかない。私は『裸になれ』と言われても絶対無理だもん。私が裸になったら、学校の理科室みたいになっちゃうよ、ウェッヘッヘ!」

 

やっぱり 粋です。 がはははははっ (笑)

 

歌丸師匠は、呼吸器疾患ですから、一度呼吸が乱れると 「死ぬ」 ような苦しみを覚えるはずです。

入院中のベッドで、「アキラ100%」 の裸芸を見て、思わず笑って 「死ぬ」 ような苦しみを味わってしまったのであれば、歌丸師匠が仕返しをしたくなる気持ちも解ります。(笑)

そして、それに懲(こ)りて、昔の諸先輩方の落語でも聞いていたのでしょう。

歌丸師匠の、この炎上自体に、信念を貫けみたいな、師匠の深くて温かいメッセージが隠れていそうです。

2017/06/23

「甘える」 ことと 「甘え」 の違い(5)

「甘える」 ことと 「甘え」 の違い。

 

長年 SM をしてると、いろいろな女性に出会います。

 

SM というと 「メンタルを病んでる子が多い」 みたいな偏見を持たれていたりしますが、しかし、そういった傾向がないわけでもないので、否定出来なかったりするのも事実です。
しかし、そもそも SM なんて、この世の 「生きづらさ」 を抱えている人達の 「寄せ集まり」 みたいなもの。逆に 「病んでいる」 人達は、普通の人よりも 「感受性の強い」 人達だったりもしますので、コントロール出来ている限りは、そもそも排除する理由も見当たりません。

 

自分が今まで出会った子の中にも、拒食症や過食症などの摂食障害の子はいましたし、自傷癖の子や依存体質の子もいました。
そこまで行かなくても、完璧主義の子や自分に自信をもてない子もいましたし、白黒つけないと気が済まなかったり、すぐ諦(あきら)めちゃう子に、泣きたくても泣けない子や、幼少時の性的なトラウマを抱えている子などなど。

 

どんな人でも、多かれ少なかれ、あるのかも知れません。

しかし、SM にたどり着く大部分の人は、何か心の中に、自分ではどうしようもない 「生きづらさ」 を感じているように感じます。ある意味、生き方が不器用(ぶきよう)な人達。

そして、M の子ってのは、自分を壊すことで困難を受け止めようとし、S の場合は、逆に自分が好きなものだろうと何だろうと、困難を丸ごと壊すことで、バランスを取ろうとしているのでしょうか。

それはまるで、道路の割れ目に落ちた種が根を伸ばし、芽を伸ばそうとする生きる苦しみであり、足掻(あが)きのような気がします。

 

SM を長年経験してて、思うこと。

 

全員が全員、同じだとは思いませんが、自分は、最初若い頃は、SM とは 「壊すもんだ」 と思っていました。しかし次第に、壊したあとには 「壊したもの」 を組み立てようとしている自分に気が付く。そして、いろいろと組み立てているうちに、それが、自分に都合の良いように組み立ててるわけではなく、「本来あるべき姿」 に戻そうとしている自分に気が付きました。

 

みんな、乾(かわ)いて飢えているのです。求めているものは、みんな 「愛」 だったりするのですが、そういう子の場合は、その先に、行く手(ゆくて)を阻(はば)む 「重い大きな石」 があったりする。

M の子は、その石を自分で降ろすことが出来ずに苦しんでるわけです。S の醍醐味は、その石を見つけ出して、その石を自分の火薬で砕いてあげること。

 

そして、以前より漠然としたイメージはあったのですが、最近思うことは、「愛」 で満たされたいという気持ちが、「代理欲求」 的な感じで、「食欲」 や 「性欲」 に繋がっているのではないかということ。

 

ここで 「代理欲求」 とは、「基本欲求」 が満たされない場合に、それに取って代わって取る行動を 「代償行動」 と言いますが、「代理欲求」 という考え方は、それを代替する別の欲求で満たそうとすること、を言います。しかし、この場合、「代償行動」 であれ 「代理欲求」 であれ、どちらも、「代わり」 に過ぎませんので、いくらこれらが満たされたとしても、そもそもの 「基本欲求」 が充足されることはありません。

そして、ここで、この 「基本欲求」 を満たそうとする行為を 「甘えさせる」、そして、「基本欲求」 とは異なる「代理欲求」 を満たそうとする行為を 「甘やかす」 と説明しようとする人達もいます。

 

実際、いろいろな女性と話をしてみると、結構、母娘の間で 「感情的に微妙なシコリ」 を抱(かか)えてたりするのを耳にします。心の中にある 「大きな重石」 についても、いろいろと話をしてみると、最後に 「お母さんとの関係」 に帰着するケースも少なくありません。

摂食障害の子もそうであったし、自傷癖のある子もそうでした。「脱皮」 と言う言葉が一番適切でしょうか。多くの女性が、幼少期に自分の母親から植え付けられた価値観から逃れようと、あるいは、本当の自分を取り戻そうと、足掻(あが)いているように感じるのです。

 

以前 「インナーマザー」 について記事を書きましたが、もしかしたら、良い子であれば、あるほど、お母さんに翻弄(ほんろう)されているかも知れませんし、また、心の深いところで、自分の心の中にある 「インナーマザー」 あるいは 「インナーペアレント」 と呼ばれるものが、自分の心の中で絶対的であるために、自分の自我を許容できなかったり、自立できなかったり、あるいは、そこから派生する自分の理想や価値観といったものから、抜け出せないのかも知れません。


前の記事 「『甘える』 ことと 『甘え』 の違い(4)」 では、「アタッチメント(愛着)理論」 を紹介しましたが、愛着に関連する実験のひとつに、人間に極めて近いとされる 「アカゲザル」 の赤ちゃんを使って、ハリー・ハーロー(Harry Harlow)が、生まれ立ての子供のサルの行動を観察した 「アカゲザルの愛着実験」 と呼ばれるものがあります。

 

これは、「ハードマザー」 と呼ばれる、針金で出来ているお母さんモデルに哺乳瓶をセットしたものと、「ソフトマザー」 と呼ばれる、ハードマザーの上に柔らかい毛布をかけたお母さんモデルを用意し、アカゲザルの赤ちゃんの行動を観察した実験ですが、アカゲザルの赤ちゃんは、お腹が空(す)くと、針金で出来たハードマザーのところでお乳を飲みますが、飲み終わるとすぐにソフトマザーのところに戻るんだそうです。また、赤ちゃんを驚かせたりすると、赤ちゃんが逃げ込むところも、ソフトマザーだったそうです。

それまでは、愛着が生じるのはミルクによるものと考えられていたそうなのですが、この実験から、赤ちゃんとお母さんの間の 「スキンシップ」 が重要であると認識されるようになります。

 

あとは、この実験の後日談として、ソフトマザーに愛着を覚えた赤ちゃんも、その後、成長するにつれて、自分を傷付けたり、仲間と付き合えないといった、さまざまな問題が出てきたそうです。 「愛の心理学-4つの愛着スタイルと愛着障害」 かささぎ心理相談室

 

***

 

「母という存在は、誰にとっても特別なもの。その母との絆が不安定になり、関係に悩み苦しむ 『母という病』 が近年増えています」 というのは、精神科医として京都医療少年院に勤務し、親子関係の問題を見つめてきた、医学博士で作家の岡田尊司氏が、自らの著書である 「母という病」 で述べている言葉です。

 

 

理不尽(りふじん)にも、女性に対して、母としての 「出産」・「子育て」 と同時に、嫁としての 「介護」、そして 「労働」 が求められている 「これからの日本」。

フランスのように、社会として子育てが出来るシステムもなければ、昔の日本のように、村で子供を育てるシステムも残っていません。ひとりひとりが、既にいっぱいいっぱいで、本来許されるはずの 「甘え」 さえもが許されない社会。

しかし、建前ばかりが先行し、人間の本質を見ない日本は、この先、どうなっちゃうんでしょうか?

 

(つづく)

2017/06/21

コンドームの話(4)

 

コンドームを買うのは、男と女どちらか?

 

前回の 「コンドームの話(3)」 では、独身の方向けに書いてみましたが、では、既婚の方の場合はどうでしょう?

結論から言うと、どちらかでならねばならない、ものではない・・・と思います。

 

なので、男性が用意するのであれば、それはそれで構わないと思います。女性が 「自分で買うのが恥ずかしいだろうから」 と、自分で用意してくる男性は、確かに 「デリカシー」 のある人だと思います。

しかし、それだけの理由で、「男が買うもの」 と決め付ける女性は逆に、横暴というか横柄というか。なんか、そんな感じがしてしまいます。(苦笑)

 

夫婦の場合、ゴムを付ける目的は 「避妊」 でしょう。
その場合は、やはり主導権は 「女性」 側にあるわけです。

 

以前、「大変妊娠しやすい」 と自認している主婦さんを縛ったことがあります。その主婦さんは、レス歴が十数年。

最初の子が出来て、子供が生まれたあとにゴム付きでしたら、今度は二人目が懐妊(かいにん)。それ以来、していないとのことですので、そのゴムも、旦那がどのように準備したかは知りませんが、1箱あったとしても、いっぱい余ってる状況にあるわけです。(笑)
当然、自分もゴムは使いますが、その主婦さんの、ゴム装着後の目視(もくし)確認と、使用後の目視確認には、協力は致しましたが、いささか驚きました。(^^;)

そのときは、サイズの問題もあって、自分が持参したゴムを使用しましたが、一般の人が気をつけなければいけないこと。

 

それは、ラブホだから、粗悪品を使っているというわけではありませんが、ラブホに常備してあるゴムは、穴が開いてる可能性もあるということです。

まあ、大のオトナはしないでしょうが、一番のリスクは、数は少ないものの 「悪ふざけ」 と称して、ラブホに常備されている 「コンドーム」 に針で 「プチッ」 とする 「不届き者」 の存在です。

ラブホも、利用者の善意を前提とするビジネスですので、殺精子剤入りの避妊ゼリーが含まれているような、高いゴムは置きませんし、ましてや、未使用のゴムを廃棄交換するようなところは、何処にもありません。


あとは、妊娠が心配なら、値段は張っても、殺精子剤(メンフェゴール)入りの避妊ゼリーが塗布されたゴムを使用すること。破れたりするのが怖いなら、自分で引っ張って、風船を膨(ふく)らませて確認すればいいんです。

まず、「コンドーム」 には、サイズがあります。「コンドーム」 を買えるということは、その人の道具を熟知している。知っている必要があるわけです。
そして、「コンドーム」 を買うときに、恥ずかしくて 「ドキドキ」 することで、女性の脳内には、フェニルエチルアミンといった 「ときめきホルモン」 が分泌されるわけです。当然、女性の側も、夜の生活を意識するようになります。
また、コンドームの箱に残っているゴムの数を管理することで、前回のことを思い出すキッカケにもなりますし、旦那のセ○クスを管理することで、一定の独占欲も満たすことが出来るわけですし、何処か決まったところにゴムを置いておくなど、女性からの 「おねだりサイン」 としても使えるわけです。

 

最悪な奥さんは、女性が家計を管理しているにも拘(かか)わらず、自分で買わないばかりか、旦那の小遣いで買わせて、ゴムは自分で管理しようとする奥さん。

ゴムの管理を旦那に任(まか)せない分、賢いと思われるかも知れませんが、男性は 「使用料」 を取られてる感覚になります。(笑)
まだ、奥さんに 「首ったけ」 状態の 「新婚さん」 なら、それでも良いのですが、「いまどきの旦那」 のようにお小遣いを極限にまで絞っている 「ブラック女房」 がそれをやっては終わりです。(苦笑)

「浮気」 という字など、頭の片隅になかった旦那であっても、あの 「コンドーム」 は自分で買った 「コンドーム」 という意識が残ります。

 

「自分のコンドームを、自分の好きなように使って何が悪い?」

 

実際のところ、そう思うかどうかは解りませんが、恥ずかしいからと、それを遠ざけてばかりいると、究極の避妊には違いありませんが、いつの間にか 「セックスレス」 ということにもなりかねませんので、ご注意ください。

 

***

 

ここまで 「ゴムネタ」 で、ダラダラと書いてきましたが、コンドームを買うのは、男と女どちらか?

自分は、どちらもオトナである以上、リスクを感じる方が用意するのが当たり前。そして、行為に積極的な方が用意するのが自然・・・だと思っています。

 

ちなみに自分の場合は、用意はしてありますが、教育を兼ねた 「羞恥プレイ」 の一環として、既に何人もの主婦さんに、「はじめてのおつかい」 を体験して貰ってます。(笑)

2017/06/20

コンドームの話(3)

 

コンドームを買うのは、男と女どちらか?

 

これは、既婚か未婚かによっても異なります。

男女の区別なく、この世には 「ゲスなヤツ」 もいます。そんなことを言うと、「お前が言うな!」 とお叱(しか)りを喰らってしまいそうですが、自分もかなり 「ゲスい」 ことは 「ゲスい」 ですが、本当にどうしようもないのがいます。

 

「確信中田氏系」 の、小出恵介とか、元TBSのワシントン支局長で、就職の相談に乗るフリ?をして薬を盛ってレイプした疑惑が持たれている山口敬之もそう。

ワザと中田氏してる点で、どちらもかなりの 「ゲス」 ですが、しかし、薬を盛って相手の意識や自由を奪ってまで 「してしまう」 後者は、お代官様だけあって越後屋以上。

事後の自己の示談交渉で、すんなりとお金を払う姿勢を見せる小出くんには、まだ 「ゲス」 なりにも、「清々(すがすが)しい」 印象を感じますが(苦笑)、後者については、対価で女性を釣ろうとするものの、その対価すらも踏み倒そうとする 「ゲス」 中の 「ゲス」 の典型です。


まあ、ここまでの 「ゲス」 が相手だと、どんなことを言っても絶対に 「ゴム」 は付けてくれませんが、とにかく、そういう 「ゲス」 連中達の 「仕掛け」 に乗らないようにするためにも、独身時代は男女共に 「コンドーム」 を持参しておくことをお薦めします。

 

では、女性が持つべき理由。

 

それは、コンドームなしで、されちゃうことを極力避けるためです。

「やれるか、やれないか。」 そんな切羽詰まった状況で、「ゴム」 がないから・・・と諦めてくれる男性ばかりではありません。

小出恵介や山口敬之クラスの 「ゲス中のゲス」 の毒牙に掛かってしまえば、もう、それ以上打つ手はありませんが、それでもまだ、確信犯的に 「ゴム」 のない状況を作り出しておいて、「ゴム無し」 でやろうと迫る 「自分のことしか考えていない男」 の意図を判別する 「リトマス試験紙」 としてはまだ使えるわけです。

 

では、男性が持つべき理由は?と言うと、ワザとゴムに穴を開けて 「妊娠確率」 を高めようとする女性の存在です。

 

一見、「都市伝説」 的ではありますが、自分がその 「可能性」 について、「現実的に有り得る」 と思ったのは、「外出し」 前提で、とある女性と 「生」 でしていて、イきそうになったときに、その女性に 「カニばさみ」 を喰らってから、です。

 

「カニばさみ」 とは、イきそうな男性の腰もしくは胴部に、女性が足を挟(はさ)み込んで、ガッツリと足首でロックしてしまうこと。「カニばさみ」 から脱出できないと、必然的に女性の中で出してしまうことになるわけです。

 

女性で言うと波が来る感覚。既にイきそうな状態の中、足でロックされてしまい、イかないように堪(こら)えるのと、何とかロックから逃れようとするので、精一杯です。多分、そのときの自分は、まさしく ((((;゚Д゚))))))) みたいな顔をしていたはずです。(苦笑)

 

コンドームは、装着したからと言って、それで完全に 「妊娠リスク」 がなくなるわけではありません。中でゴムが破れてしまう場合もあるし、終わったあとに、ゴムを中に置き忘れてしまったりする場合もあります。

 

で、ゴムに穴を開けると、どうなるか?

 

穴から漏れ出ることも考えられますが、一番のリスクは、その穴から伝染するように、ゴムが裂けてしまうこと。こうなると、射精時にゴムが被(かぶ)っているのかも怪しいわけです。

 

独身のときは、病気の感染を防止する意味でも、また、望まぬ妊娠を防ぐ意味においても、「自分の身は自分を守る」 という認識がとても大切であるように思います。

 

(つづく)

2017/06/18

コンドームの話(2)

 

「コンドームの話」 のつづき

 

「既婚者であれば、コンドームは、女性が買うのが当たり前」 と言うのは、昭和の世代であれば、結婚して女性が主婦として家庭に入っていたことも大きいかも知れません。

というのも、スーパーや薬局では、何箱も入ってセットで 「大安売り」 してますが、男性はなかなかその時間に帰ってくることが出来ません。

家の家計を預かってる主婦であれば、家計の節約も 「内助(ないじょ)の功(こう)」。在庫があったかどうかを思い出して、安いタイミングで買い、無駄な出費を減らしたいというのが主婦の本音です。

 

しかし、これにはわけもありました。要はこの場合、奥さんが旦那の 「コンドーム」 の在庫を管理しているわけです。

旦那が浮気しようとして、こっそりとゴムをくすねようものなら、女性は敏感に反応します。女性の記憶力を舐めてはいけません。女性の記憶力は、下手をするとテープレコーダでも隠し持っているのではないかと思われるぐらい、何年の何月何日かも含めて、どうでもいい昔のことを細かく記憶していたりするのです。

旦那の 「財布」 は、レシートチェックも含めて、女性の嫉妬心を抑え、女性の独占欲を満たすために、定期的に確認するアイテムのひとつでありましたが、旦那の財布や定期入れに未使用のコンドームでも入っていた日には、旦那は無意識であれ半(なか)ば 「浮気宣言」 をしているようなもの。しかし、当時の賢い奥さま方は、何知らぬ顔をして 「容疑者」 を泳がしていたものです。(笑)

というもの、使用した形跡が見られなければ、何も起こらないわけですが、しかし、奥さまの捜査は続きます。しかし、ずっと入れてあったはずのゴムがなくなっていたり、別のゴムに入れ替わっていると、もう逮捕状の請求目前になってしまうわけです。

 

以前であれば、「コンドーム」 は、男の浮気がバレるひとつだったわけです。

 

 

これは、自分が若いときの 「彼女」 から、し組まれたこともありました。当時は、女性もイザというときのためにコンドームを持っていたりしたもんでしたが、「わたしからのプレゼント」 とか称して、その子の持っていた 「ゴム」 が自分の財布の中にセットされるわけです。

不思議に思って 「何で?」 と聞くと、「自分はもう○○ちゃんだけだから、持ってる必要ない」 みたいに言うわけです。

これに気を良くしてしまうと、もう彼女の思う壺なわけです。次に彼女と会ったときに、同じゴムが入ってれば問題は起きないのですが、違うゴムが入っていたりすると、もう質問責めの嵐なわけです。(苦笑)

 

中には、印をつけるために、袋の角の隅を三角に折ったり、切れ込みを入れたりとかも、あったのだとか。
当時もラブホであれば、コンドームを置いてるところもありましたが、そのときに使用するのであればまだしも、そういったゴムを未使用分としてお財布に補給する行為は、ある意味大変リスキーだったわけであります。(笑)

 

(つづく)

2017/06/18

コンドームの話

 

最近は、男性がコンドームを買うのが、一般的なのでしょうか?

まあ、女性が、コンドームを買うのを 「恥ずかしい」 と思うことは、十分理解できます。

しかし、昭和の高度成長期。特に結婚している場合は、女性がコンドームを用意するのが、一般的でした。

 

何故かと言えば、当時は 「家族計画」 みたいな標語でしたが、それ以前は、国の 「産めよ増やせよ」 の号令のもと、10人兄弟なんか当たり前の世界。

戦後、妊娠中絶が合法化されたものの、避妊(ひにん)にも、オギノ式やペッサリーなど、いろいろな方法もあってか、「コンドーム」 は避妊率が高いものの、しかし、必ずしも 「コンドーム」 がメジャーな避妊法でなかったということもあります。

 

特に農村部では、普及が遅れたとのこと。今も同じですが、薬局で取り扱ってはいるものの、そもそも当時は、何処で扱っているかも解らない人も多いし、今も変わりませんが、女性がコンドームを買うのは 「恥ずかしい」 わけです。(笑)

なので、当時は 「コンドーム」 の利用を促進するために、町内会かなんかの回覧で、コンドームが回覧されてきて、取った数の分の料金を入れるみたいな 「愛の小箱」 運動みたいなのが、あったとのこと。

 

自分が子供のときは、薬局に 「コンドーム」 の自動販売機があったのを記憶しています。

まあ、当時は、「自販機」 全盛期なんで、それこそ、都内であっても、ハンバーガーの自販機も、「エロ本」 の自販機もありましたし、「てんぷら蕎麦」 なんかの自販機もありました。

学校で、性教育なんかもありましたし、当時も、カッパブックスとか、若者向けの豆本、今で言う 「ムック本」 みたいなのもあって、自販機で 「コンドーム」 を買って、使う相手もいないのに、装着の練習をした記憶があります。70年代くらいでしょうか。

 

当時の状況を調べてみると、「コンドーム」 による避妊効果もあってか、農村地域でも、妊娠率が半分以下に低下したようです。そういう意味では、当時の政策である 「家族計画」 は成功したのかも知れません。

自分の親は、団塊の世代より上の 「裕次郎世代」 ですが、団塊の世代においては、「コンドーム」 の利用はそれ以上に普及していたわけです。

 

今現在、アラフォーの 「団塊ジュニア」 世代をピークにして、急激に進む日本の人口減少。これは、「社会が経済成長することで、出生率が減る」 などと言われていますが、なんてことはありません。避妊の理由は、いろいろですが、要は、「コンドームの利用が普及」 して、「家族計画」 が行過ぎてしまったのが原因です。

 

当時は、結婚している女性が 「避妊」 のために、「コンドーム」 を求めたわけです。逆に言うと、それまでは、男女の愛の交接においては、女性は、常に 「妊娠」 というリスクを負っていたということです。

ですので、「コンドーム」 の着用をお願いするのは、女性の方からでした。

当時の 「薬局」 の営業時間は、今の 「ドラッグストア」 のように、遅い時間まで開いていませんし、当時も 「コンドームの自販機」 はありましたが、それよりは、薬局で 「コンドーム」 を纏(まと)め買いすると 「安かった」、ということもあったと思います。

 

なので、当時は、せっかくの機会を失わないよう、自分は自分で 「コンドーム」 を隠しもってはいたものの(当時は女性も、隠し持ってる子が多かったですがww)、結婚すると、「コンドーム」 を買うのは 「女性」 という認識でした。

 

(つづく)

2017/06/16

尻フェチ、脚フェチ、巨乳フェチ

とある 「おしゃべり部屋」 で 「フェチ談義」 になったときのお話。

 

ちなみに、ここでの 「フェチ」 とは、フェティシズムの略で、本来は性的な対象でないモノや、身体の一部分に対して、性的な魅力を感じてしまったりすることではありますが、「下着泥棒」 のように 「病的」 なものではなく、どちらかというと 「何にセックスアピールを感じるか?」 的なもの。

 

ここで展開した 「持論」 の 「自論」 とは、

 

「背の高い男には、『巨乳フェチ(巨乳好き)』 が多く、背の低い男には、『尻フェチ・脚フェチ』 が多い」

 

というもの。

 

ちょうど、このときに一緒のお部屋でお話をしていた 「Wくん」 は、身長187cmの巨漢。ためしに、この持論を振ってみたところ、「はい、巨乳好きです。何で解ったのですか?」 というお返事が。(笑)

 

自分の経験則では、身長が175cm を超える巨漢の男性の場合、かなりの確率で 「巨乳好き」 とか 「ポチャ好き」 がいるように、そして逆に、身長が 160cm台以下の背の低い男性の場合は、尻フェチとか、脚フェチが多いように感じています。


そこで、あみだした自分の 「持論」 とは、

異性の 「性」 に目覚めた年齢にもよるかも知れませんが、背の低い男は、女性のお尻や脚に目が行きやすく、逆に、大勢いる中でも、自分の頭や顔がぽっこりと出てしまうような、背の高い男は、かなり高い位置から、下を見下ろしており、女性の頭とか肩くらいしか見えないというもの。要は、背の高い男には、胸の大きい女性や、ポチャの女性が目立つわけで、どうしても、目がそこに行ってしまう・・・というもの。

そして、そうこうしているうちに、どんどん、性嗜好が確立されていく・・・みたいな 「説」 を披露したところ、女性から、鋭い視線で質問が・・・

 

「あの巨乳好きで有名なナイナイの岡村は?」  ((((;゚Д゚)))))))

 

確かに、す・・・するどい、ご指摘 (^^;)

国会の答弁も、もっと、これくらいシャープに斬り込んで貰いたいもんですが。

 

まあ、岡村くんの場合は、背が低いというコンプレックスもあるのかも知れませんし、「榊原郁恵(さかきばらいくえ)」「アグネス・ラム」 あるいは 「宮崎美子(みやざきよしこ)」 の強烈な洗礼を受けた影響かも知れません。

 

  

 

が、しかし、彼の場合は、やはり精神的に 「男になりきれていない」 というか、無条件に女性に受け入れて貰いたい・・・みたいな、女性に対する 「甘え意識」 というか 「授乳願望」 が、「巨乳好き」 的行動に走らせているように思います。

 

***

 

自分の場合は・・・と言うと、常に、前から数えて何番目みたいな子供時代を過ごしていたので、やはり、女性を見ると、足元からお尻そして腰から背中と、下から効率良く?女性をスキャンするクセがついてしまっています。

また、お尻好きなこともあってか、女性のチェックは圧倒的に 「うしろ姿」 が多いので、それもまた 「女性の胸」 に対する執着が低い、ひとつの要因になっているのかも知れません。

 

ちなみに、そんな自分は今、こんなペアダンスにはまってます。(笑)

 

 

取り留(と)めのない話になってしまいましたが

 

某 SNS の 「おしゃべり部屋」 なんかでお話をしていますと、メディアによるステレオタイプ的な 「巨乳好き」 とか 「痩せ信仰」 に反して、「微乳好き」 や 「貧乳好き」 あるいは 「ポチャ好き」 の男性もそれなりに存在しています。

 

もし、この自論が正しいと思えるのであれば、「ポチャの人」 は、できるだけ 「背の高い男」 にアプローチしてみるのも良いかも知れません。

2017/06/14

「命令」 の意味と 「命令」 の重さ

「『奴隷』 にとって、『主』 の命令は絶対である。」

 

この文の 「奴隷」 のところが、「ペット」 になろうが 「家畜」 に変わろうが、その意味は変わりません。SM において、主の命令は 「絶対」 だってことです。

英語の文化圏だと、最近では 「攻め手」 のことを 「トップ」、「受け手」 のことを 「ボトム」 などと呼んだりしています。二人の関係を、支配・被支配や加虐・被虐に限定せず、目上・目下(めした)のように 「立ち位置」 あるいは 「ポジション」 的な部分に、表現を単純化しているのが言葉の面白いところですが、重要なのは、二人の間には明らかに 「立ち位置」 に違いがあるということ。

 

しかし、自分が相手にどれだけ真摯(しんし)に接していても、相手が自分に対して、必ずしも誠意を持って応えるとは限りません。


「命令」 の意味と 「命令」 の重さ。それはその 「命令」 を受け止める人によって、さまざま。

なので主は、その 「命令」 のひとつひとつに、「受け手」 がどう対応するのかを、じっくり観察しています。

 

自分に都合の悪い命令は無視してしまったり、自分勝手に解釈しなおしてしまう子も居れば、簡単にできる命令は守るものの、難しい命令は諦(あきら)めてしまう子も居る。何回もへこたれながらも、真摯に命令を守ろうと頑張る人もいます。

「受け手」 が自分のことを、どう捉(とら)えているのか。それは本人に言葉で確認しなくとも、命令に対する行動を見ているだけで十分解るのです。


ある人は、クールに表情を変えず平然としながら、じっと 「受け手」 の行動を見守っているかも知れませんし、ある人はニコニコとしながら見守っているかも知れません。


「主」 は、「奴隷」 を気持ち良くするために、存在するのではありません。

 

本来であれば、自分にとって都合の良い 「責め」 ばかりを求める 「奴隷」 なんてのは有り得ません。何故なら、それでは本末転倒。「奴隷」 に対して 「主」 が 「奉仕」 しているようなものだからです。(苦笑)

しかし、それでも、「主の命令には絶対に応える」 くらいの 「真剣さ」 があるのであれば、それはまだ、「ご褒美」 と成り得るのです。

 

SM において、言葉は手綱(たづな)です。そして、言葉という手綱操作に対して、きちんと振舞えるよう、きちんと基本を仕込むのが 「躾(しつ)け」 であり、主に対する奉仕をはじめ 「芸事(げいごと)」 を仕込むのが 「調教」 です。

しかし、そこの精神性が揺(ゆ)らいでしまうと、ワンコであれば、飼い主の命令を聞かなかったり、無闇に吠えたり、年中発情していたりして、飼い主を困らせる 「ダメ犬」 になってしまうように、マゾは 「エゴマゾ」 になってしまうわけです。

 

「エゴ」 とは、自分の 「思うがまま」 を欲しがる気持ちです。そして、自分の思うようにならないから、怒り、苛立ち、怖れ、そして、悲しむわけです。

そもそも、自分が 「主」 と認める相手に支配され、「主」 に自分の全てを委(ゆだ)ね、「主」 に弄(いじ)られ虐(いじ)められることは、本来であれば、マゾにとっては至極の喜びであるはずなのです。

であるにも拘(かか)わらず、どうして 「エゴ」 が強く現れてしまうのか?

 

それは、その 「主」 が 「奴隷」 を飼いきれていないから・・・と言われてしまえば、それまでですが、「奴隷」 が、きちんと 「主」 の 「言葉の重み」 を理解していないためです。

 

「主」 の言葉は、SM における手綱であり、「主」 と繋がる絆(きずな)なのです。

そして、「奴隷」 であろうと 「ペット」 であろうと 「家畜」 であろうと、「主」 の元に居るためには、常に、「『奴隷』は、『主』とは対等の存在ではない」 ということ。そして、「『主』の命令は常に『絶対』である」 ということを、常に自分に言い聞かせることなのです。

 

「奴隷」 は、命令によって 「躾け」 られていきます。

そして、命令によって 「主」 から与えられた課題には、自分にとって簡単なものもあれば、難しいものもあります。

しかし、課題が難しいからと言って、勝手に課題を放り投げてしまったり、困難から逃げてしまっては、奴隷失格なのです。

 

課題の選定やその内容は、主によってさまざまでしょう。

「主に会いたい」 という奴隷の気持ちを抑えるために自虐的な課題を与える主もいるかも知れませんし、主と奴隷の二人だけの時間を作るために、奴隷に日記をつけさせたりするかも知れません。

また、奴隷を躾(しつ)け直したりするために、課題を用意する場合もあります。

 

「奴隷」 でも 「ペット」 でも 「家畜」 でも構いませんが、「受け手」 の方は、「主」 は気分で課題を選んでいるとでも思っているかも知れません。しかし、きちんと S の素養を持っている 「主」 であれば、「奴隷」 の性格を読み、そして、邪魔なものは排除し、不足するものは補おうとしていたりするものなのです。
 

自制心が弱ければ、我慢を教えなければいけませんし、逆に自制が強ければ、緩(ゆる)めることを教えなければいけません。

プライドが邪魔をしているようであれば、そういった意味のない不要なプライドは 「折る」 場合もありますし、プライドの下に心に刻(きざ)まれた深い傷が隠されているような場合には、その傷を舐(な)めて、癒してあげたりする場合もあります。

 

きちんと SM を理解している人の SM は、その相手を壊しているようで、不要な部分を削ぎ落としていたり、あるいは、組み上げ直していたりするので不思議です。

 

単に気が強く 「自称ドS」 を気取ってる男女が多い中で、とある20代半ばの女性は、M女 の子に対する 「お仕置き」 として、いろいろとその子のことを考えて最終的に、”反省文を書かせて、それをもって近所の公園に行かせ、そこでその反省文を口に咥えて、胸を露出させ、それを写メに撮る” ことを命令したそうです。これには、思わず笑ってしまいましたが、本人は 「一生懸命考えたんだ」 と、ちょっとご立腹(りっぷく)の様子。(笑)

 

しかし、相手のことをしっかりと観察し、そこから、相手の気質を読んで 「お仕置き」 の内容を考えているのを知って、自分が 「その年齢」 のときにしていた行動を考えると 「すごいな」 と思ってしまいました。自分は、「愛」 と 「誠意」 をもって 「M」 に対峙できる 「S」 は、「ホンモノ」 だと思っています。

 

筆者のことを信じてくれているにも拘わらず、怖くてジャンプ出来ない子もいれば、未だに迷っている子もいますし、涙を流し、苦しみつつも、最終的に課題を達成して、喜びに満たされている子もいます。早く 「宿題を出しなさい」 と言っているのにも拘わらず、宿題を提出しない子もいます。(笑)

しかし、これらの子達は、筆者と戦っているのではありません。この子達が実際に戦っているのは、筆者ではなく、鏡に映ってる自分自身なんです。

 

「主」 たる者にも、いろいろな人間がいますので、全てに当て嵌(は)まるとは思っていませんが、「『主』も、ただ単に 『思いつき』 で命令しているわけではない」 ということ。そのことを理解する 「キッカケ」 になってくれればいいな~と思っています。

2017/06/13

「ちょいワルオヤジ」 炎上?

「『イチボは?』 と聞かれたら、お尻をツンツンできますから」 の 「ちょいワルジジ」 が大炎上

 

 

「ちょいワルオヤジ」 で、一時は名前の馳せた 「LEON」 の元編集長 岸田一郎氏ですが、今度は、「ちょいワルジジ」 として、社会復帰を模索しているようです。いやいや全く、「往生際(おうじょうぎわ)」 の悪いジジイです。

 

と言うのも、この 「ちょいワルオヤジ」。数年前に、「東京ガールズコレクション(TGC)」 の舞台と引き換えに、当時23歳のモデルの子に 「枕営業(肉体関係)」 を迫った挙句(あげく)、舞台に出さなかった・・・みたいなトラブルが露見するなど、遺憾(いかん)なく 「極悪オヤジ」 ブリを発揮。

 

「【枕営業】ちょいワルオヤジ元LEON編集長・岸田一郎氏、TGCを餌にSEX、美人モデルが涙の告発」

 

 

「品位のなさを、装いでカバーするセンス」 には長けてそうですが、しかし、女性に 「こんなのと同類」 と思われてしまっては、逆に口説ける女性も口説けなくなってしまいます。(苦笑)

 

少なくとも、自分の知ってる 「団塊世代」 のオヤジ達は、銀座での遊びには長けてますし、何より自らを格好つけることはなく、エロでも品良く、オシャレに会話ができる人達ばかりですし、職権を悪用してまで、女性を喰おうみたいな、悪戯(あこぎ)な真似(まね)をする人なんかいません。

 

まあ、中身がないので、職権でも使わなければ女性も抱けないし、「GG(ジジ)」 創刊号の 「きっかけは美術館」 という企画ではありませんが、付け焼刃(つけやきば)で、狙いを定めた美術展の画家の薀蓄(うんちく)を頭に叩き込んで、「アートジジ」 のフリをする・・・みたいな発想が出てくるのでしょう。

 

 

しかし、この炎上広告で、それなりの部数を売ってしまおうという算段なのでしょうか?

まあ、中身に自信のない 「金有おやじ」 が真似たところで、どうせ寝技には持ち込めませんし、世の中には、外ズラしか見えない 「危篤な女性」 も山のようにいますので、そういう意味では、オシャレは七難を隠す良い道具かも知れません。(苦笑)

 

まあ、「ちょいワルオヤジ」 の方は、あくまでも、対モデルという業界内の話ですし、約束を反故(ほご)にされただけでは詐欺(さぎ)罪には問えません。

女性の方も 「訴える」 とのことでしたが、勝ち目もないので、裁判にまではなっていない様子。

それに、薬を盛ってレイプをした疑いが持たれている、元TBSワシントン支局長の山口敬之氏なんかと比べれば、卑劣ではあるものの、まだまだマシか。


***

思いっきりディスってしまいましたが、自分の 「ちょびわるオヤジ」 (最近 「ちょびワルおやぢ」 に改名)も、もともとは、コヤツの名前をもじってますので、あまり偉そうなことは言えません。
しかし、それは、コヤツのあまりにも 「ゲスい女喰い」 が露見する前の話。

まあ、唯一参考になったことと言えば、このオヤジは、1951年生まれで現在 66歳。モデルとのトラブルがあった 3年前は 63歳です。
還暦(かんれき)を超えても、やれてる人はやれてるのね~ってとこぐらいでしょうか。
あらっ、アメブロにも書いていたんですね。見つけてしまいました。

http://ameblo.jp/zino-kishida/

 

ちなみに 「ちょびワルおやぢ」 の方は、ゲスであることは否定しませんが、犯罪行為や、女を騙(だま)すような卑劣なことは致しません。