「甘える」 ことと 「甘え」 の違い(6)
「『甘える』 ことと 『甘え』 の違い(5)」 からのつづき
「甘える」 ことと 「甘え」 の違い。
この 「お題」 で、自分の頭の中にある 「考え」 をうまく整理できぬまま、ダラダラと 「お片付け」 をしていたところ、先日、このような記事を見つけました。
「いい子に育てると犯罪者になります ―― 豊田議員のパワハラ騒動の真の問題とは」 2017.06.28
「このはげっー!」 「わーかーるーだーろーっ!!」 の豊田議員ネタに絡めてますので、最新ネタ記事でありますが、この記事を読んで 「なるほど」 と納得してしまいました。
自分が学歴を褒めることは、まずないのですが、豊田真由子衆議院議員(現無所属)の場合は、本当に舌を巻くほどその 「キャリア」 は素晴らしいです。
東大法科はともかく、ハーバード大の修士は、コロンビア大などもそうですが、ネイティブではない日本人にとっては、素養と同時に、血の滲(にじ)む努力がなければ、そうそう簡単に取れるもんではありません。
しかし、彼女の場合は、厚生労働省のキャリア時代にしても、キャリアの事務官としての組織的な役割をきちんと認識出来ていませんでした。
中央省庁の 「省」 である場合、キャリアの事務官のトップは、事務次官です。
現場は、キャリアやノンキャリの 「技官」、「医務官」 そして 「武官」 がいる中で、事務方たる 「事務官」 は後方支援役であり、キャリアであれば、中枢神経たる司令塔なのです。
しかし、彼女の場合は、何を勘違いしたか、自分が一番強いと思って、自ら 「切り込み隊長」 になってしまったのでしょう。頭では理解しているつもりても、心や身体では理解できていないタイプです。
本人の上昇志向があまりにも強いのか、あるいは、人を使う能力に欠けているのか。多分、その両方だとは思いますが、小さなグループでさえも統率できず、役所の中で、自分が足切りになりかねない状況下で、プライドもあるのでしょう。
政治家に転身し、古巣に戻ったものの、しかし、自分をサポートする秘書は、中央省庁の役人レベルにも達しない阿呆ばかり。
そんなの当たり前でしょう・・・と、分かりそうなもんですが、しかし、彼女は何に、そして、何故それほどまでに追いまくられていたのでしょう?
世間も、「水に落ちた犬」 に石を投げるばかり。自分も、特にこの議員に対して関心があるわけでもありませんでしたが、この記事を読んで思わず納得してしまいました。
この記事に繋げて書くことがあるとすれば、やはり 「インナーマザー」 の存在でしょう。彼女にとって、その 「インナーマザー」 の存在を示唆(しさ)している事件が、園遊会事件です。
これは、彼女が、3年前の園遊会に招かれた際に、同伴が許されている配偶者の代わりに、自分の母親を連れて来て入園しようとして、宮内庁職員とトラブルになったもの。
「政治家の秘書」 として、代議士との会話を録音をするところまでは、まあ保身のためにあり得ること。しかし、それをリークするなど、あってはならないことではあります。しかし、「いつ刺されるかもしれない」 という本人の恐怖心と、国会閉会まで頑張ったという告白を聞くに連れ、納得。
彼女にとっては、キレて叱責(しっせき)する瞬間が、理性と感情を遮断する唯一の方法だったのでしょう。この記事の中でも、「私の心を傷付けるな!」 「私が受けてる痛みがどれくらいあるか。お前分かるか!」 「お前はどれだけ私の心を叩いている!」 といったセリフや、ミュージカル調?に抑揚(よくよう)を付ける一人語りなどは、心の中の本音ではないかと推測しています。
彼女の行動や言動は、一見サディスティックではあります。
怒りによるアドレナリンの分泌でスイッチを入れ、相手を罵(ののし)り攻撃することで、スッキリしている様子には、確かに緊張と緩和が見られますし、鼻歌まじりに一人語りをしているときは、恍惚(こうこつ)状態で、エンドルフィンでも分泌されているのかも知れません。しかし、やはり、「ストレス発散」 の域を出ていません。
自分の本音であり、心の内を晒しているという意味においては、マゾヒスティックであるとも取れなくはありませんが、ペットや動物など、人とは認識していない相手に見られたところで 「恥ずかしい」 という感情は沸きません。
むしろ、「車内の会話のリーク」 という、本人が予想だにしなかった事態が起き、自分の醜態(しゅうたい)だけでなく、弱い部分が周囲の目に晒されてしまったことで、彼女の心の中は現在、心が瓦解(がかい)している最中でしょう。
彼女の場合は、表を守っている 「理性の鎧(よろい)」 も 「あまりにも正当」 であるがゆえに、頑強すぎて、誰も砕くことが出来なかったパターンでしょう。心を許せる相手も、そして、相談あるいは意見を聞き入れるに足る 「敬意」 を持てる相手もいなかったということです。
ある意味、彼女の華やかなキャリアもプライドも、秘書による 「蜂の一刺し」 で崩れ去ってしまいましたが、これからが、自分自身の人生であると言えます。
「清原和博も酒井法子も頑張り続けた過剰な 『いい子』 期待に応えられない 『しんどさ』 が犯罪者を生む」
すぐ弱音を吐いては、ダラダラと甘えてくる依存体質の人も困りものですが、実は、甘え方を知らない人も困りものなのです。
日本には、「人に迷惑をかけない」 ことを美徳とする風潮があります。しかし、それは 「人に甘えてはいけない」 というのと近いニュアンスがあります。
日常的な生活において、つい自分に 「甘え」 が出て、自分で出来ることも他人に依存してしまったり、自分で努力もせず、他人に頼ろうとするのは 「甘え」 かも知れません。
自分の足で立てるのに、立つ努力をしない人に対しては、世の中は厳しいです。人ひとりを支えるのは、とても難しいことです。しかし、その難しさを知っているからこそ、人は 「自分の足で立とう」 と努力している人達を助けようとするのです。
自分ひとりで生きていくことなんか出来ませんし、誰の手助けもなく、生きてきたなんて言う人がいたら、それは 「思いあがり」 もはなはだしい。
100%完全な人は、この世にはいませんし、人間とは弱い存在です。
なので、集団で生活するようになり、群れという概念から 「社会」 というものを作り上げてきました。社会というもの自体が、自分達の種が存続するために、弱い者を外敵から身を守り、お互いに助け合って生きるための手段なわけです。
「人に迷惑をかけまい」 と自分の足で立とうとする人のいきざまは、美しいと思います。
しかし、他人に対して何でもかんでも 「人に迷惑をかけるな!」 と非難する人々は、醜悪以外の何者でもありません。
何故ならば、それは、社会によってある程度のリスクから守られて生きてきた人が、社会の本質的な意義を否定する、「甘え」 だからです。
日本社会の厳しさ、そして、生きづらさがこの辺に見え隠れしています。
(つづく)