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2017/06/12

「甘える」 ことと 「甘え」 の違い(4)

本来、女性は、自分が最大限 「甘える」 ことの出来る男性を見つけ、自分を捧(ささ)げ、相手と同化することによって交わり、そして身篭(みごも)った後は、自分の子供に対して 「無常の愛」 を注ぐ。そういう動物です。 「『甘える』 ことと 『甘え』 の違い(3)」

 

「動物なんて表現、失礼な・・・」 と思われるかも知れませんが、これは、人によって個体差はあるものの、女性は 「プロラクチン」 という性ホルモンの分泌によって、否応(いやおう)なく 「母性本能」 のスイッチが入ってしまうという、「動物の本能」 という意味。

 

女性は、「母性本能」 によって、子供に 「無常の愛」 を注ぐよう、突き動かされ、そして、その女性の情動が、子供に伝えられていきます。

しかし、愛情の表現や子供を扱う手段は、自らの経験や知見あるいは価値観に基づくものであり、文化的社会的な色彩が濃く表れたものとなります。

 

子供は、乳児期に母親等特定の人と 「基本的な信頼関係」 を築き、そこで非言語的に喜怒哀楽といった情動を学んでいきます。

乳児は、母親が自分から離れていくという体験を通して、自分と母親は異なる存在であることを知ります。そして、自我が目覚(めざ)めてくるに連れて、母親と他者を区別するようになり、「人見知り」 するようになるわけです。そして、「第三者の目」 を意識するようになる。

そして、「甘える」 ことが許される関係と、「甘え」 が許されない関係を学び、また、「甘える」 ことが出来る関係にあっても、そこに、「第三者の立場」 にある人が絡んだり、「第三者の視点」 が持ち込まれると、「甘え」 が通じなくなる、といったことを学んでいきます。

こうして、「愛」 や 「甘え」 の拒否や許容のほか、「甘え」 の反対語である 「自立」 や、「第三者の視線」 を学び、そして、日本人の場合は 「恥ずかしい」 という 「羞恥心」 を学び、やがて、他者との 「基本的な信頼の確立」 を学んでいきます。

 

母親を通じて、社会の基本である 「愛」 や 「人との係わり合い」 を学んでいくわけです。

乳児と母親の間で、情緒的な深い結び付きである 「アタッチメント(愛着)」 を形成するという概念は、発達心理学において、ジョン・ボウルビィ(John Bowlby)が提唱した 「アタッチメント理論(愛着理論 Attachment Theory)」 として知られていますが、これがその後の、子供の性格や自我の形成、あるいは、将来の恋愛関係にも大きく影響する、とも言われたりしています。

 

この理論では、まず乳児は 「愛着」 の対象である母親を、自分を守る 「安全な避難場所」 として認識します。自分が最後に逃げ込む場所であり、泣きつく先です。心の拠り所(よりどころ)でもあります。そして、次第に 「安全な避難場所」 を、外界で活動していくための 「安全基地」 として利用し始めます。そして徐々に、「安全基地から離れたくない」 という 「恐怖心」 や 「不安」 に打ち勝って、自らの愛着対象を増やし、自立していくというモデルを用いています。

乳幼児が、常に持って離さない 「ぬいぐるみ」 は、どんなに汚くても、どんなに臭くても、その子の 「愛着」 なのです。なので 「汚いから!」 と言って勝手に捨てたり、強要はしないように。(苦笑)
自分の価値観を押し付けず、徐々に距離を置かせるようにしてあげてください。w

親離れ、あるいは、親から独立するということは、自分で新たな 「安全な避難場所」 を作るということであり、そして、真の 「自立」 とは、最終的に自分の中に 「安全な避難場所」 が獲得できるということなのです。

「甘える」 という気持ちや行為自体は悪くありません。
しかし、「安全地帯から離れたくない」 という 「恐怖心」 や 「不安」 と対峙することなく、対峙した振りをして、逃げ帰ってくるのは 「甘え」 です。自分の思い通りにいかないのが、世の常。
その困難に対して、正面から立ち向かった上でも弱音なのか、そうでないかによって、「甘える」 ことの許される 「甘え」 か、そうでないかが決まるのです。

最近の世の中で 「おかしな論理」 を見掛けますが、「他人に迷惑を掛けること」 が即ち 「甘え」 ではありません。
そういう人に限って、自分一人では立てていなかったりするのです。
自分一人で立つ 「辛(つら)さ」 を理解している人は、「甘え」 は許容しませんが、「甘える」 ことは許容します。

(つづく)

2017/06/10

日曜縄ゴト師(3)

本日は、日曜ではありませんが、3回目の日曜縄ゴト師 ww

 

今回使用した 「麻縄」 は、絞りも以前よりキツイためか、「煮なめし」 しても、以前ほどは 「ふかふか」 にはなりませんでしたが、しっかりしてるので、そんなに毛羽も立ちません。

煮て水分を含んでるときは、硬く縮んでいますが、乾燥させると柔らかさも悪くないので、今回は、「擦(す)りなめし」 も、油を少し多めに浸透させて、手で伸ばす程度に。

 

本日は、それを陰干(かげぼ)ししていたものに 「蜜蝋(みつろう)」 を使って作った自家製ワックスを擦(す)りこみます。

蜜蝋ワックスを指にとって、これをなめし用に使ってる布になすりつけて、縄全体に塗りつけ、あとは、何回か手で擦りなめします。




 

 

 

その後は、コンロで毛羽を焼きます。まあ、毎回、火入れをするたびに、このときに出る 「毛羽の煤(すす)」 は細かく、尖がっているので、吸い込んだりすると 「身体に良くなさそうだな~」 などと思ったりするのですが、結局今回も何の対策もせず。(><)

 

 

このあと、濡れた布で、煤(すす)をふき取って、再度、擦りなめしをします。

このくらいになると、縄も光沢が出てきます。

光のあたり具合で、こんなにも写真映りが変わります。

 

 

 

色はエロ。縛る女性によっても、縄の色はいろいろと変わりそうです(笑)

 

ちなみに、「縄」 を見て 「痛そう」 と言う人がいますが、「痛い」 と思われる皆さんがイメージしてるのは、綱引きに使われてたロープ。これは、径が太いこともありますが、麻自体も 「マニラ麻」 とか 「サイザル麻」 とか、かなり硬いタイプの麻が使われています。

 

一方、「緊縛(きんばく)」 で主に使われるのは、ジュート(黄麻)と呼ばれる麻で、肌触りの良い、比較的柔らかい麻が使われます。

麻紐(あさひも)で、バッグ等を編(あ)んだりされる方もいますが、これらの麻紐に使われているのも、ジュートです。

2017/06/05

「甘える」 ことと 「甘え」 の違い(3)

「『甘える』 ことと、『甘え』 の違い(2)」 からの続きです。

 

「甘える」 ことが許される関係であっても、「甘える」 ことが出来る場合と、出来ない場合があります。

 

「甘え」 の根源は、相手に愛を求め、自分がその中に同化したい気持ちの表われです。

自分と他人の区別なく交わって、そして出来得(できう)るならば、その中に溶けてしまいたい感。それは、生物的には、「子宮への回帰」 的な、一種の本能的なものと言えるのかも知れません。

 

不完全な状態で生まれてくる動物にとって、「甘えること」 は、自分の身を守り、生存確率を高めるためのひとつの手段なのです。しかし、成長するに従って、「甘え」 を脱ぎ捨て、「自立」 することが求められます。

生まれて間もない子羊は、ミルクを欲しがります。しかし、ある程度育ったら、子羊はミルクを欲しがるかも知れませんが、しかし、きちんと自立して、草を食べないといけないわけです。

 

では何故、「自立」 が求められるのか。それは、完成された個体として、自分自身、食べていくことが出来るようになること。それが第一なのですが、もうひとつ重要な点は、完成された個体として群(む)れを作り、群れの中でお互いに助け合うことなのです。

そして、その一番小さな群れが、家族なわけです。子供もオトナになると、オスは、その群れから離脱します。自分で餌を取れるようになり、そして、それを他の個体に分け与えることが出来るようになって 「一人前」 というわけです。

 

子供の 「愛」 は、「求め」、そして、「与えられるもの」 であるのに対して、オトナの 「愛」 は、「求めるもの」 ではなく、「与えるもの」 に変化する、ということです。

 

「甘え」 とは、それ自体は悪いものではありません。

 

「甘え」 とは、集団を形成する牽引(けんいん)力になるということです。そして、それと同時に、女性にとっての 「甘え」 は、男性との結びつきを求める 「根源」 となるのです。

「甘え」 とは社会を構成する要素なわけです。

 

本来、女性は、自分が最大限 「甘える」 ことの出来る男性を見つけ、自分を捧(ささ)げ、相手と同化することによって交わり、そして身篭(みごも)った後は、自分の子供に対して 「無常の愛」 を注ぐ。そういう動物なのです。

 

(つづく)

2017/06/01

「甘える」 ことと 「甘え」 の違い(2)

「甘え」 が、「乳児と母親」 の関係を起源としており、また、甘えが許される関係であっても、第三者の目やその他の条件が加わることによって、甘えが許されなくなるということを、ひとつ前の記事 「『甘える』 ことと、『甘え』 の違い」 の冒頭のところで説明しました。

 

「甘えたい」 という気持ちの根源は、「依存欲求」 です。

人間は、古代そしてもっと遡(さかのぼ)れば 「猿」 の祖先であった時代より、「集団」 を形成することによって、今まで生き延びて来ました。

「依存欲求」 自体は、「保証の欲求」 や 「愛情の欲求」 そして 「承認の欲求」 といった集団による 「生存本能」 にも絡む部分ですので、それ自体は、決して悪いものではありません。

 

しかし、集団生活となると、当然、「依存する側」 と 「依存される側」 のバランスが大事になってきます。しかし 「集団」 と言うものは、その時代や環境によって、国や民族あるいは家庭のあり方も変わってくるように、普遍(ふへん)的なものではありません。

時代の変遷(へんせん)や環境の変化などと共に、集団の中身が大きく異なってくるのと同様、許容される 「甘え」 も変化します。

 

「依存欲求」 は、生物の本能的な欲求とは異なり、乳児と母親のコミュニケーションを通じて、哺乳類が、後天(こうてん)的に 「学習」 することで作られて行くもの、であるということ。

このため、「依存欲求」 自体は、生物学的には、良し悪しや優劣を付けれるものではなく、その個人が属する集団の価値観によって大きく異なってくるということです。

 

タチの悪い 「甘え」 の典型的な例が 「韓国」 です。日本から見れば、「言い掛(が)かり」 とか 「難癖(なんくせ)」 あるいは 「いちゃもん」 にしか聞こえませんが、これなんかは、韓国人社会が許容している 「甘え」 に過ぎません。

「甘え」 ゆえに、他人のせいにして、自己を正当化し、そして 「甘え」 が過ぎると、相手は 「我慢」 を強(し)いられるためか、大統領でも何でも、失脚(しっきゃく)した途端に、とことんボコボコにする。困ったもんです。(苦笑)

 

話がちょっと横道に逸(そ)れてしまいましたが、この 「甘え」 が形成されるプロセスには、母親が大きく関係するということ。そして、自分と母親は異なる存在であり、「人見知り」 によって他者との区別を始めるということです。そして、「第三者の目」 を意識するようになる。
ここで、「甘え」 の反対語である 「自立」 や、「第三者の視線」 を学び、そして、日本人の場合は 「恥ずかしい」 という気持ちを学んでいくわけです。
言葉を覚えるようになれば、日本語の場合は、丁寧語・謙譲語・尊敬語等、否応(いやおう)にも、相手をきちんと細かく識別して、応対できるようにならなければなりません。
英語等に比べれば、どうしても 「第三者視線」 を意識せざるを得ないわけです。

「甘える」 という行為は、① 「甘えても構わない人」 に対し、② 「甘えても構わない状況」 下において、③ 相手が許容できる範囲内で、許されるわけです。
「甘え上手」 と言われる人達は、甘えても良いときに、思いっきり甘え、それ以外のときは甘えを見せない人です。そして、「甘え下手」 と言われる人達は、どうも、その辺の切り替えが上手くない人。

悪い意味で 「甘え下手」 な人は、「甘えたい」 という感情を、”抑えられない系” の人であり、逆に、良い意味で 「甘え下手」 な人は、「甘えたい」 という感情を、”常に抑圧してしまう系” の人達なわけです。

 

何故、自分が、この 「甘える」 ことと 「甘え」 の違いを、ここで取り上げたか?

 

それは自分の経験則ではありますが、良い意味で 「甘え下手」 な人に、M女 が多いということ。どうしても、「甘えたい」 という自分の願望を抑制してしまうのです。

そして、その結果、自分ひとりではイけるのに、セッ○スではイけなかったり、あるいは、悲しくても人前では泣けなかったり、といったことが起こる。

そういう人を経験する度(たび)に、自分ではどうしてもガス抜きが出来ないので、SM を利用してガスを抜いているんではないか、などと思ったりします。

 

そして、やはり一番の理由は、「甘え」 に絡んで、「第三者の視線」 であるとか 「羞恥」 とか、日本の独特な 「SM 観」 を醸(かも)し出している 「羞恥(しゅうち)プレイ」 に関係する要素が多いためでしょうか。

日本人の心の底に眠る 「村意識」 にも通じるところがありますが、日本人ほど、他人の目(第三者の視線)を気にする人種はいません。
日本の SM では、そのロールプレイの中で 「他人の視線」 というものを、多様します。自分もしくは自分達の痴態(ちたい)を 「覗(のぞ)かれる」 というシチュエーションもそうですし、「見る」 あるいは 「見られる」 といったシチュエーションもそうです。
「羞恥プレイ」 には、当然、こういった 「露出」 も含まれます。

欧米等、海外での BDSM は、拘束(ボンデージ)を含め、痛みや苦しみを与えることが中心となっており、日本においては、ひとつの SM ジャンルを構成する 「羞恥(しゅうち)プレイ」 といったものも、海外ではあまりメジャーではありません。

そもそも、欧米人には 「羞恥心」 があまりないためか、あるいは、直情的なためか、性にオープンな印象を受けますが、しかし、その反面、あまり 「日本的な エロさ」 を感じなかったりします。

 

(つづく)