「甘える」 ことと 「甘え」 の違い(2)
「甘え」 が、「乳児と母親」 の関係を起源としており、また、甘えが許される関係であっても、第三者の目やその他の条件が加わることによって、甘えが許されなくなるということを、ひとつ前の記事 「『甘える』 ことと、『甘え』 の違い」 の冒頭のところで説明しました。
「甘えたい」 という気持ちの根源は、「依存欲求」 です。
人間は、古代そしてもっと遡(さかのぼ)れば 「猿」 の祖先であった時代より、「集団」 を形成することによって、今まで生き延びて来ました。
「依存欲求」 自体は、「保証の欲求」 や 「愛情の欲求」 そして 「承認の欲求」 といった集団による 「生存本能」 にも絡む部分ですので、それ自体は、決して悪いものではありません。
しかし、集団生活となると、当然、「依存する側」 と 「依存される側」 のバランスが大事になってきます。しかし 「集団」 と言うものは、その時代や環境によって、国や民族あるいは家庭のあり方も変わってくるように、普遍(ふへん)的なものではありません。
時代の変遷(へんせん)や環境の変化などと共に、集団の中身が大きく異なってくるのと同様、許容される 「甘え」 も変化します。
「依存欲求」 は、生物の本能的な欲求とは異なり、乳児と母親のコミュニケーションを通じて、哺乳類が、後天(こうてん)的に 「学習」 することで作られて行くもの、であるということ。
このため、「依存欲求」 自体は、生物学的には、良し悪しや優劣を付けれるものではなく、その個人が属する集団の価値観によって大きく異なってくるということです。
タチの悪い 「甘え」 の典型的な例が 「韓国」 です。日本から見れば、「言い掛(が)かり」 とか 「難癖(なんくせ)」 あるいは 「いちゃもん」 にしか聞こえませんが、これなんかは、韓国人社会が許容している 「甘え」 に過ぎません。
「甘え」 ゆえに、他人のせいにして、自己を正当化し、そして 「甘え」 が過ぎると、相手は 「我慢」 を強(し)いられるためか、大統領でも何でも、失脚(しっきゃく)した途端に、とことんボコボコにする。困ったもんです。(苦笑)
話がちょっと横道に逸(そ)れてしまいましたが、この 「甘え」 が形成されるプロセスには、母親が大きく関係するということ。そして、自分と母親は異なる存在であり、「人見知り」 によって他者との区別を始めるということです。そして、「第三者の目」 を意識するようになる。
ここで、「甘え」 の反対語である 「自立」 や、「第三者の視線」 を学び、そして、日本人の場合は 「恥ずかしい」 という気持ちを学んでいくわけです。
言葉を覚えるようになれば、日本語の場合は、丁寧語・謙譲語・尊敬語等、否応(いやおう)にも、相手をきちんと細かく識別して、応対できるようにならなければなりません。
英語等に比べれば、どうしても 「第三者視線」 を意識せざるを得ないわけです。
「甘える」 という行為は、① 「甘えても構わない人」 に対し、② 「甘えても構わない状況」 下において、③ 相手が許容できる範囲内で、許されるわけです。
「甘え上手」 と言われる人達は、甘えても良いときに、思いっきり甘え、それ以外のときは甘えを見せない人です。そして、「甘え下手」 と言われる人達は、どうも、その辺の切り替えが上手くない人。
悪い意味で 「甘え下手」 な人は、「甘えたい」 という感情を、”抑えられない系” の人であり、逆に、良い意味で 「甘え下手」 な人は、「甘えたい」 という感情を、”常に抑圧してしまう系” の人達なわけです。
何故、自分が、この 「甘える」 ことと 「甘え」 の違いを、ここで取り上げたか?
それは自分の経験則ではありますが、良い意味で 「甘え下手」 な人に、M女 が多いということ。どうしても、「甘えたい」 という自分の願望を抑制してしまうのです。
そして、その結果、自分ひとりではイけるのに、セッ○スではイけなかったり、あるいは、悲しくても人前では泣けなかったり、といったことが起こる。
そういう人を経験する度(たび)に、自分ではどうしてもガス抜きが出来ないので、SM を利用してガスを抜いているんではないか、などと思ったりします。
そして、やはり一番の理由は、「甘え」 に絡んで、「第三者の視線」 であるとか 「羞恥」 とか、日本の独特な 「SM 観」 を醸(かも)し出している 「羞恥(しゅうち)プレイ」 に関係する要素が多いためでしょうか。
日本人の心の底に眠る 「村意識」 にも通じるところがありますが、日本人ほど、他人の目(第三者の視線)を気にする人種はいません。
日本の SM では、そのロールプレイの中で 「他人の視線」 というものを、多様します。自分もしくは自分達の痴態(ちたい)を 「覗(のぞ)かれる」 というシチュエーションもそうですし、「見る」 あるいは 「見られる」 といったシチュエーションもそうです。
「羞恥プレイ」 には、当然、こういった 「露出」 も含まれます。
欧米等、海外での BDSM は、拘束(ボンデージ)を含め、痛みや苦しみを与えることが中心となっており、日本においては、ひとつの SM ジャンルを構成する 「羞恥(しゅうち)プレイ」 といったものも、海外ではあまりメジャーではありません。
そもそも、欧米人には 「羞恥心」 があまりないためか、あるいは、直情的なためか、性にオープンな印象を受けますが、しかし、その反面、あまり 「日本的な エロさ」 を感じなかったりします。
(つづく)
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