「甘える」 ことと 「甘え」 の違い(3)
「『甘える』 ことと、『甘え』 の違い(2)」 からの続きです。
「甘える」 ことが許される関係であっても、「甘える」 ことが出来る場合と、出来ない場合があります。
「甘え」 の根源は、相手に愛を求め、自分がその中に同化したい気持ちの表われです。
自分と他人の区別なく交わって、そして出来得(できう)るならば、その中に溶けてしまいたい感。それは、生物的には、「子宮への回帰」 的な、一種の本能的なものと言えるのかも知れません。
不完全な状態で生まれてくる動物にとって、「甘えること」 は、自分の身を守り、生存確率を高めるためのひとつの手段なのです。しかし、成長するに従って、「甘え」 を脱ぎ捨て、「自立」 することが求められます。
生まれて間もない子羊は、ミルクを欲しがります。しかし、ある程度育ったら、子羊はミルクを欲しがるかも知れませんが、しかし、きちんと自立して、草を食べないといけないわけです。
では何故、「自立」 が求められるのか。それは、完成された個体として、自分自身、食べていくことが出来るようになること。それが第一なのですが、もうひとつ重要な点は、完成された個体として群(む)れを作り、群れの中でお互いに助け合うことなのです。
そして、その一番小さな群れが、家族なわけです。子供もオトナになると、オスは、その群れから離脱します。自分で餌を取れるようになり、そして、それを他の個体に分け与えることが出来るようになって 「一人前」 というわけです。
子供の 「愛」 は、「求め」、そして、「与えられるもの」 であるのに対して、オトナの 「愛」 は、「求めるもの」 ではなく、「与えるもの」 に変化する、ということです。
「甘え」 とは、それ自体は悪いものではありません。
「甘え」 とは、集団を形成する牽引(けんいん)力になるということです。そして、それと同時に、女性にとっての 「甘え」 は、男性との結びつきを求める 「根源」 となるのです。
「甘え」 とは社会を構成する要素なわけです。
本来、女性は、自分が最大限 「甘える」 ことの出来る男性を見つけ、自分を捧(ささ)げ、相手と同化することによって交わり、そして身篭(みごも)った後は、自分の子供に対して 「無常の愛」 を注ぐ。そういう動物なのです。
(つづく)
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