「奴隷」の心得
SM におけるサディスト(S)とマゾヒスト(M)の関係は、「主従関係」 であり、所謂(いわゆる)通常の 「恋愛関係」 とは違うものであることは、以前にも何度か説明しました。
では、SM における、この 「主従関係」 をどのように説明したら良いのか。実は今までも、何回か説明をしているつもりなのですが、しかし、十分に説明仕切れていません。
今回は、奴隷の心得。M の行動や振る舞いといった視点から説明してみたいと思います。
まず、SM における 「主従関係」 の行動的な側面について、出来るだけ自分の中にあるイメージを言葉にしてみたいと思います。主従関係をきちんと理解出来れば、自ずと、奴隷があるべき姿を理解できるはずだからです。
この 「主従関係」 を直観的に例えるとしたら、今現在一番しっくりときている表現は、ダンスの 「パートナー」 みたいな感覚でしょうか。
SM と 「ダンス」 は似ている
社交ダンスなら社交ダンス、サルサならサルサという 「ダンスの道」 があります。SM の場合は、SM 自体が高尚なものではありませんし、「こうあらねばならない」 という規範的なものがあるわけでもないので、「道」 と呼ぶには、少しおこがましい感があります。
しかし、SM とダンスとは、実に似通っています。どちらも、男女がペアを組み、男女間の愛や喜びそして美を表現することに、何か関わりがあるからでしょうか?
どちらも同じ 「にほひ」 がするのです。(笑)
男女関係
ダンスにおける男性パートと女性パートの男女関係も、実に SM と似通っています。
踊りにおける男女のペア。もう、踊りにおいては、もう、何年も連れ添ってきており、踊りであれば、これ以上、お互いの呼吸が合う相手はいない申し分のないパートナーである。相手の癖も、手に取るように解かる。
男性も女性も、一緒に踊っている時間が楽しく、踊りそのものを楽しんでいる。
女性のパートナーも、男性パートナーの考え方を十分に尊重している。
男性は、女性のパートナーの呼吸を読み、音楽と踊りの流れを読み、そして、女性パートナーが最高に映えるように踊りをリードする。
女性は、男性のパートナーを十分に信頼しており、身体を預けるときは、躊躇なく身体を相手に預ける。
そして、どちらも、ダンスにおいては、常に前進するための努力は惜しまない。常に新しいことにチャレンジしており、常に張り詰めた緊張感みたいなものを持っている。
勿論、その陰では、人知れぬパートナー同士の苦悩も涙もある。
ダンスを SM に言い換えてみても、そのまま当てはまりそうなほど、酷似しています。
視線
また、ダンスの最中に意識する 「視線」 というのも、実に似通っています。
例えば、観客が居て、観客に対して 「見せるダンス」 に興じる人達は、「他人からどのように見えるか」 というように 「他人の視線」 を意識します。当然ですが、「見せる」 ために効果的な動き、言わば 「魅せる」 動きを取り入れたりもします。
しかし、基本的な関心や視線は、純粋にパートナーとのダンスを楽しむ人達と同様、お互いのパートナーそして自分達にあります。
そして、ダンスにおいては、進む方向を決めたり、進行を決定するのは、リードする男性の役目です。
女性は、男性のリードを信用して、心配したり不安な素振りを一切見せることなく、ただ自身の身をパートナーに委ね、伸び伸びと演技をするわけです。
そういう意味では、女性のパートは、見られている自分を意識することはあっても、自身の関心と視点は、常にダンスをリードする男性にあるのが基本です。
ダンスにおいては、「レディーファースト」 であることを理由に、女性が 「メイン」 と思われる方も多いかも知れません。しかし、レディーファーストは、女性が男性のエスコートに委ねるということです。
ダンスにおいても、女性パートは、男性のリードに 「従属」 するのが基本なのです。
リードとフォロー
では、「奴隷の心得」 と題しているのに何故、ここまで、SM とダンスとの類似性を説明してきたのかと言うと、ダンスのスピリットとも言える 「リードとフォロー」 を説明したかったからです。
ダンスの 「リードとフォロー」 は、「ダンスの感性」 程度にしか理解されなかったりしますが、それでは、踊りを綺麗に誤魔化しているだけ。単に、上辺(うわべ)を取り繕(つくろ)っているに過ぎません。
ダンスにおける 「リードとフォロー」 は、ダンスの技術ひとつひとつを、ひとつにまとめ上げる真髄であり、ペアが一体となるための、エネルギーの根源のようなものです。
スピードが乗り、パワフルでいて、しかし、しっかりとバランスもとれていて 「躍動感(やくどうかん)」 があふれるような踊りは、寸分違わずピタリと呼吸の合った男女の、絶妙な 「リードとフォロー」 があってこそ、生まれます。
女性に至っては、そこにはもう、思考はありません。「無心」 です。あるのは音楽と目の前のパートナーだけです。
「リードとフォロー」 は、SM の基本でもありますが、セックスにおいて、頭の中が既に真っ白になっており、何も考えられず、ただ男性のリードに心身を委ねている女性と状況的には全く同じなのです。この情景も、SM と驚くほど一致します。
奴隷の意味
SM プレイでは一般に、受け手側のことを、「奴隷」、「性奴隷」 や 「愛奴(あいど)」、あるいは、人ではなく、家畜やペット等の動物その他に例えて、「雌豚(めすぶた)」 や 「肉便器」 といった蔑称(べっしょう)で呼んだりするのが慣例ですが、これらは、SM プレイにおいて、「加虐性嗜好者」 側を 「支配者」 に、「被虐性嗜好者」 側を 「奴隷」 に見立てていることに由来します。
当然ながら、「支配者」 と 「奴隷」 との間には、固有の 「主従関係」 が成立しています。
奴隷とは
「支配者」 すなわち 「主(ぬし)」 と 「奴隷」 間の実質的な形態は、人それぞれ様々ですが、形式的には、「人格」 や 「人権」 を有しない者(自らの意思で放棄した者)として扱われ、支配者に対する 「絶対服従」 および 「性的な奉仕」 が義務付けられています。
また、支配者には、奴隷に対して懲罰や責め苦を与える 「懲戒権」 あるいは 「懲罰権」 と、奴隷を一方的に解除解約する 「解除権」 が与えられているのが一般的です。
「奴隷制時代」 のリアルな 「奴隷」 とは、形態的にも、かなり類似しているように見えるのですが、やはり、一番大きく異なる点としては、奴隷制時代の奴隷は、強制的に使役労働に就(つ)かされているのに対して、SM の奴隷の場合は、「自らの自由意思に基づいて(SM というロールプレイ上の)奴隷を選択している」 ことであり、本人の意に反して拉致監禁されているわけでもなければ、暴行や陵辱を受けているわけではありません。
被虐性嗜好者が、自分の意思に基づいて、特定の加虐性嗜好者の支配を受けたい。即ち、その支配者の奴隷となり、支配者の命令には絶対的な服従を誓い、性的な奉仕は勿論、精神的肉体的な責めを与えられても、文句は言いませんと言っているわけです。
もっと砕けた表現で言うとするならば、「わたしを主さまの(愛の)奴隷です。何でも言うことを聞きますので、わたしのことを好きにして下さい!」 と言っているに過ぎません。(笑)
しかし、現実としては、何をされても良いというのは稀です。「痛いのは無理!」 という M女 も少なからず居ますし、ガッツリと縄目を付けられては困る M女 も居ます。
M女 に、いくら被虐性向があると言っても、それぞれ、好みの趣向があったりしますし、自分が受け入れられない責めというのもあります。また、家庭生活あるいは社会生活を続けていく上で、特に留意して欲しい事項などもあったりします。
主たる S も、M女に恐怖感を感じさせてしまったり、実生活で問題を引き起こしてしまって、後が続かなくては、元も子もありませんので、SM プレイに際しては、現実的には、こういった事前確認をするのが通例です。
SM プレイに際しては、S は、M にとことん配慮します。これは、SM プレイで事故を防止するための鉄則みたいなものです。
吊りを伴わない緊縛であっても、縛る場所と締め付けを間違えると、うっ血したり、神経を痛めたりする場合がありますし、アナル調教にしても、後ろに使ったものを、うっかり前に使った時点で、女性は膀胱炎を起こします。
安全には当然、出来る限りの配慮はします。それは、主の役割でもあります。
しかし、たまに勘違いする人がいます。S は、M を甘やかしているわけではありません。
また、「S は、M女 を気持ち良くさせているのだから、M女に奉仕しているわけで、とどのつまり、S は M だ!」 みたいな、訳の分らない論理を平然と口にして、「ドヤ顔」 したりする人も、たまに見かけますが、こういう人は、SM を全く良く理解出来ていません。(笑)
「奉仕」 とは、他の人に自ら尽くし、自らを捧げることです。S は、M女 が良く出来た場合に、ご褒美をあげる以外は、基本は、手の平の上で、M女を転がして楽しんでいるのです。(笑)
奴隷に求められる姿勢
では、M 女はこうあるべき、みたいなものはあるのでしょうか。
M 女に最低限求められること。それは、SM プレイにおいては、主のことだけを見つめ、主の命令には逆らわないことです。奴隷にとって、主は絶対的な存在であり、主の命令には絶対服従が原則です。
人としての権利も人格をも捨て去っているのですから、プライドを持つことなど、到底許されるものではありません。
そして、主の言い付けを守り、主の命令に従うことでのみ、褒美(ほうび)が与えられる、すなわち、認められる存在なのです。
しかし、M 女とは言え、被虐性嗜好があるだけで、それ以外は、何の変哲もない普通の女子です。それぞれ個性もあります。素直な子もいれば、そうではない子も居ますし、控(ひか)えめで遠慮(えんりょ)がちな子も居れば、ワガママな子も居ます。
主と奴隷の関係になったからと言って、いきなり自分の人格を変えれるはずもありませんし、そもそも、SM プレイでは、自分の素(す)が出ますので、演技なんかしている余裕はありません。
出来るとすれば、普段の家庭生活や社会生活の中では押し殺されている、自分の欲求や願望を出せる 「別人格」 みたいなものを作り上げることくらいでしょうか。
そういう意味では、最初から、完成された M女、完成された奴隷というものは存在しません。誰もに 「始めて」 があるように、皆、調教を通じて自分の M 性を理解し、調教を受けて一歩一歩、求められる姿に近づいていくのです。
ですので、始めから出来なくても当たり前。しかし、それで開き直っていては 「M女の端(はし)くれ」 としても既に失格。出来ないながらも、自ら目指そうとする意識を持ち、努力することが重要なのです。
奴隷のイメージの一例
言葉で説明されても、奴隷のあるべき姿のイメージが良く掴めないという読者の方は、ペットを想像すると良いかも知れません。
ペットで、わんこを飼っている人であれば、わんこを見れば、解かるはずです。
ちなみに、躾け(しつけ)に失敗し、我儘(わがまま)で何でもやりたい放題。飼い主の言うことすら聞かず、手の付けようのないわんこや、自分を人間と思い込んでいる面倒なわんこは、失敗例です。(苦笑)
わんこは、飼い主が誰であるかを認識しています。そして、常に飼い主に注意を払っています。そして、自分の飼い主のことを常に気に留めています。
動物にもプライドがあるのかどうかは解かりませんが、自分を最下位の序列に置いているわんこであれば、家族に対して問題行動を取ることもなく、適切に振る舞います。
飼い主の命令に忠実かどうかは、調教の進捗の程度によりますが、上手く行けばご褒美がもらえますし、してはいけないことをしたら、叱(しか)られます。
ドッグランで、飼い主の指示に忠実に駆け抜けるわんこは誉められます。また、飼い主が忙しいときに、大人しく自分でひとり遊びをしてるわんこも、誉められますが、自分遊びに夢中になる余りに、飼い主の声にも気付かず、糸の切れた凧(たこ)状態になって走り回るわんこは叱られます。
奴隷に求められる用件
奴隷に求められている用件は、前述したとおりですが、再度整理してみると次のようになります:
① 主を絶対的な存在として認識し、主の命令に対して絶対的に服従すること
② 自らの人権や人格を自らの意思により放棄し、人としての尊厳のない奴隷、家畜、もしくは、これ等と同等の存在として、主に(性的に)奉仕すること
③ 主の命令に反したとき、ならびに、主が望む場合、いつでも、主による処罰を許容すること
④ 自らの意思では、主の元を離れ(られ)ないこと
こうやって、改めて眺めてみても、やはり 「性奴隷」 以外のナニモノでもなく、思わず 「鬼畜」 的な印象を受けてしまいます。(笑)
本来は、ここに前提条件として、「主と奴隷の双方が、良質かつ濃厚な SM プレイを希望しており、その目的を実現するために、奴隷は・・・」 という言葉が隠されています。
英文契約であれば、whereas で続く前提条件です。「海外の SM」 と 「日本の SM」 の差異については、機会があれば、また別途ご紹介したいと思いますが、では、何故隠しているのか?
ひとつは、「建前と本音」 ではありませんが、全てを書いてしまうと、SM の鬼畜感というか、オドロオドロしさが途端に薄れてしまい、健全になってしまうからでしょう。
SM は、加虐性嗜好者と被虐性嗜好者という、ある意味、変態同士の特殊な性的交遊ですので、健全化されてしまうと、SM そのものが持つ 「禁断の雰囲気」 が壊されてしまうこと。
しかし、一番の理由としては、やはり、M女には、「コスプレ」 のようなロールプレイ的な 「遊び」 としてではなく、切実なものとして受け止め、真剣に取り組んで貰いたいという思いが隠されているように思います。
SM が志向するもの
「高尚な心理学者」 からすれば、「SM」 とは、単なる 「加虐性嗜好者たる S と、被虐性嗜好者たる M によるロールプレイ」 と理解しているのかも知れません。
しかし、SM を愛好する者達は、SM を 「コスプレ」 のような 「単なるロールプレイ」 とは認識しておらず、常軌を逸しない範囲で、真剣に 「切った張った」 の 「心理戦」 を繰り広げているのです。
「表と裏」 に 「善と悪」 そして 「天使と悪魔」 の間で人の気持ちが揺らぎあい、そんな中、お互いが無意識の中で目指しているもの。それは、M の場合は、支配者に対する 「絶対的な信頼と服従」 によって導かれる 「自らのエゴからの解放」 と、それゆえに得られる、強烈なほどの 「性的快感」 と 「満足感」 と言ったところでしょうか。
S の場合は、奴隷を支配することによる 「自らのエゴの実現」 です。奴隷の支配自体は、目的でもあり手段でもありますが、最終的には、支配欲求と加虐性欲を満たしつつ、得られる 「性的快感」 と 「満足感」 ですが、これらはいずれも、個人レベルでのお話です。
では、これら S と M の異常な番い(つがい)同士は、何を求めているのか。
結局のところは、個々の個人を超えたところにある 「一体感」 であるように思っています。
ダンスで言うところの、絶妙なリードとフォローで、呼吸がピッタリと合い、スピードに乗り、パワフルでいて、安定感のある躍動感(やくどうかん)溢(あふ)れる踊りです。
ダンスの真髄であり精神性が、「リードとフォロー」 にあるのだとしたら、SM の真髄であり精神性も、リード役である S とフォロー役である M の 「責めと受け」 にあると言えましょう。
人権や人格といった社会通念や、自分を守るための権利意識やプライドといったものから、エゴや嫉妬といった感情的なものまで、何もかもを捨て去って、主に自身の身も心も全てを委ねる。緊張を以って、無心で主の責めの全てを受け止めるわけです。
女性のオーガズムは、緊張と弛緩(しかん)の繰り返し動作です。ドキドキから始まって身体が緊張し、緊張がピークを迎えイクと、女性は緊張から解放されて弛緩した状態となります。
「責めと受け」 は、主と奴隷の二人の 「掛け合い」 です。
M は、単に S の責めに身を委ねていれば良いわけではありません。責めを受け止める、つまり、何らかのリアクションを返す必要があるのです。
そして、「ボケ」 と 「ツッコミ」 ではありませんが、お互いが相手を理解し、S は M が持つスイッチを入れ、M は S が持つスイッチを入れ合うことが出来て初めて、ラリーとなるのです。
そして、このような状況下において、果たして M 女に、頭で考えている余裕はあるでしょうか?(笑)
そんな余裕はある筈がないからこそ、奴隷に求められる用件は、本人も意識する必要がありますし、普段から調教を通して、繰り返し仕込んで行く必要があるのです。