縁の大切さ
ネット時代の 「縁」
某 SNS をやっていて感じること。
そして最近、ネットの絡みで話をしてて、ちょくちょく話題に上る言葉が、この 「縁」 と言う言葉。
SNS は、無機的なロジックの集まりに過ぎない筈なのですが、そこにいる利用者達の 「縁」 を介在しているような、そんな不思議な感覚を覚えることがあります。
縁がない人とは、良くも悪くも、繋(つな)がらない。会話もありません。
ところが、縁のある人とは、関係が途絶(とだ)えても、あるところでバッタリと出くわしたり、普段は何の絡みもないのに、何故かリストの何処かに残っていたり。
人との 「縁」 とは不思議なもんです。
特にネットの時代に突入してからは、参加する人も多様化して、JUNET やパソコン通信といった一部の人達が使えていた時代とは、明らかに様相が変わってきています。
年齢も学歴も職歴も多種多様。住んでる場所といった制約も受けない SNS の世界は、それだけ現実の世界の 「物理的制約」 から解放されている世界です。
そこでは、現実と仮想の世界を区別することもなく、「ありのまま」 を楽しんでいる人もいれば、仮想の世界に限定して楽しんでいる人もいます。その中には、仮想という非現実の世界であるからこそ、現実とは全く異なる姿をして楽しんでいる人達もいます。
規定の範囲内であれば、楽しみ方は、人それぞれです。
「縁」 とは?
「縁」 とは、もとは仏教用語で、インドのサンスクリット語では Pratyaya。「えん」 とか 「えにし」 と読みます。そもそも、仏教では、原因と結果、因果(いんが)において、結果を生じさせる直接的な原因である 「因」 に対して、間接的に働く原因を 「縁」 と呼びます。
「縁」 とは、直接的な原因である 「因」 を助成して結果を生じさせるに至るまでの条件であったり、事情であったり。そういった間接的な原因、「巡(めぐ)り合わせ」 のようなもの。
しかし、誰もが、このような原始仏教的な哲学レベルで、言葉を認識しているわけではありません。正しい用法なのか、それとも誤っているのかは分かり兼ねますが、日本では、この言葉が定着して 「ご縁」 みたいな使われ方をします。英語にしてしまうと 「運命 (fate)」 とか、「宿縁(karma)」 みたいな表現になってしまいますが、イメージで言うと、前以(まえも)って出会うように仕向けられているかのような、人と人との 「出会い」 や、「結びつき」、あるいは、「巡り合わせ」 のようなもの。
ある人があるとき、何気なく口にした言葉が、それを聞いた人の行動や人生に大きな影響を及ぼしたりする。それなりの年齢に達して、「今ある自分」 というものを振り返ると、そういう記憶も少なからずあったりするものです。
「縁」 の捉え方と関わり方
自分のことを振り返ると、若い時分は、自己中心的なところが強かったからでしょうか。
何らかのかたちで自分が関与した結果、周囲の人間同士が仲良くなったりすると、何か 「自分が利用されている」 ようで、気分が良くなかったものです。
しかし、よくよく考えてみると、人は皆少なからず、誰かに影響を及ぼし、そして誰かに影響を及ぼされながら生きているのです。
ある意味、社会には、これだけの人が溢(あふ)れているのに、誰にも影響を及ぼしていないのなら、人との接触の密度が、それだけ希薄なわけですから、それも悲しいことだし、誰にも影響を及ぼされていないのなら、それも悲しいことなわけです。
都会の雑踏(ざっとう)ですれ違う多くの人達と同様、居ても居なくても変わらない人しか、自分の周りに存在しないのであれば、それは、自分以外に人がいないようなアリゾナの荒野の砂漠に、ただ一人佇(たたず)んでいるのと、あまり変わらない。
自分が触媒(しょくばい)としての働きをするというのも、何かの 「縁」。
そのときの触媒としての自分の存在がなければ、もしかしたら、その人達が出会うことも、なかったかも知れない。
そういう発想に目覚めたとき、自分には、縁を導いてくれた人、縁を介在してくれた人に対する感謝の気持ちも忘れてはいけない・・・そういう風に考えるようになりました。
逆に言うと、その大切な縁に関わった人を蔑(ないがし)ろにすることは、自分が大切に思うその縁自体をも、汚(けが)してしまうということ。
縁があるからといって、必ずしも全てがハッピーエンドとなるわけではありませんので、その自分が大切に思う縁に関わった人達を悲しませたり、傷付けてしまったり、あるいは、その逆もあるかも知れません。
しかし、例え感情的なシコリが残ったとしても、自分の中の 「感謝の気持ち」 を忘れてはいけません。
「縁」 の作用
「縁」 によって人の何が変わるか?
「縁」 が生じると、当然そこには人と人とのコミュニケーションが生じます。そして、その人とのコミュニケーションを通して、それが 「恋愛」 や 「友情」 に発展したり、「ビジネス」 に結びついたり、あるいは、それが元で 「トラブル」 が生じたり。様々です。
多くの場合、双方もしくはどちらか片方が好意を持っている場合、そこでは、何かしらの価値観の共有が起こります。
しかし人間、この 「価値観」 というのが、なかなか、厄介な代物なのです。
「価値観」 とか 「考え方」 というものは、自分の行動を司(つかさど)る個性の本質みたいなものですから、自分にとっては至極(しごく)当たり前なもの、普遍(ふへん)的なものとして認識しています。しかし実際は、人が異なれば価値観も異なって当たり前。それほど違うのが、人の 「価値観」 であり、人の 「考え方」 なのです。
そもそも、個々の人の価値観は、一朝一夕(いっちょういったん)で出来上がったものではありません。
その人の属する地域社会や世代に共通の価値観もあれば、親や家族と共有している価値観もある。当然、自分の趣味や趣向を通して付き合いのある人達と共有しているコミュニティの価値観もあれば、性差により異なる価値観、その人固有の価値観もあります。
そして、その価値観は、時間と共に刻々と変化しています。
ある意味、「他人との付き合い」 とは、詰まるところ、異なる価値観が出会い、そして、お互いの価値観を尊重しあい、かつ、共通の価値観に触れることと言っても過言ではありません。
価値観が異なるがゆえに、そこにエゴのぶつかり合いが生じるわけです。
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次回は、纏めきれるかは解かりませんが、人の 「価値観」 について、整理して考えてみたいと思います。