フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ
最近、ちょくちょく、この映画のタイトルが話題にのぼる。
以前、ブログを介して興味をもったという女性と話をしたときも、「B 子」 の話に絡め、この 「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」 の話になったりした。
日本では、2015年2月13日公開。今からちょうど一年位前の映画。
その女性も、この映画を見たらしく、自分がブログに書いてあるような内容が事前に解かっていたら、もう少し楽しめた・・・みたいなことを言ってくれた。
ある意味、最大級の賛辞であるのだけれども、残念なことにそのときまで、自分はこの映画のことを全く知らなかった。(苦笑)
昨日、ふとそんなことを思い出しながら、この映画のことを調べてみた。
この映画の原作は、同名の小説。原作の累計部数は1億部とのこと。かなりのボリュームである。
この映画の原作者である EL ジェームズはイギリス生まれの主婦。この作品はネットでの投稿がベースになっているらしい。それまでの本を書いたり、ライターの仕事をしていた訳ではないというのがすごい。
イギリスというと 「ハリーポッター」 を思い浮かべてしまうが、SM モノとなると思わず 「スパンキング」 というキーワードも連想してしまう。(笑)
「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ(Fifty Shades of Grey)」 は、直訳すると 「グレイ氏の 50 のかげ」 みたいな感じか。既に早川文庫から、「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」 というタイトルで邦訳版が出ているためか、映画の邦題は書籍と同じ名称となっている。
これに続いて、「フィフティ・シェイズ・オブ・ダーカー(Fifty Shades of Darker)」、そして、「フィフティ・シェイズ・オブ・フリード(Fifty Shades of Freed)」 が、フィフティシェイズシリーズの第2弾・第3弾として続くらしい。
グレイ氏という名前に 「灰色」 を掛けているのが、アリアリしてしまっている。その後に、Darker とか Freed とか続くと、「闇」 とか 「解放」 とかを連想してしまう。(笑)
まだ昨日の今日なので、当然ではあるが、映画も原作も見ていない(苦笑)
一通り、映画や小説の記事を覗き見しただけ。
もしかしたら今後、映画を見たり、あるいは、原作を読む機会もあるかも知れないが、今回はこのまま、映画も小説のさわりも読まないまま、思いついたことを書いていくことにする。
「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」。ストーリー的には、完全な SM ネタ。
奴隷契約書も、プレイの内容もプレイ中の心理描写も全て、SM ネタである。
いろいろな人の書評なり、映画の感想を読んでみたものの、皆さん、自分なりに受けたインパクトを解釈し、一生懸命表現しようとしてはいるものの、SM に対する知見に乏しいせいか、迷走しまくってる感の強い書評が多い。(笑)
映画のプロモーションのコピーは、ビジュアルにかもし出す 「雰囲気」 が売りなので、富豪とまだ性的経験のない女子学生の非日常的なロマンス・・・みたいな感じで売り出したい感じである。(笑)
一方の原作(小説)の方は・・・と言うと、キスするまでに 100ページもかかる・・・みたいな、女性の触感や心のドキドキ感を煽(あお)る 「焦(じ)らし」 満載の官能小説っぽい(笑)
ダブルのベッドで隣でアイマスクをして寝てる、あるいは、イビキを搔(か)いて寝てる旦那を尻目に、脚をもじもじとよじらせながら、あそこを濡らして、ページをめくる主婦にとっては、イケメンで金持ちの男と、処女で奥手な女子学生というのも、非日常的な組み合わせであり、小説の世界に移入しやすい人物設定だったのかも知れない (笑)
やっぱりミリオンセラーになるだけあって、本質はここにありそう。笑
あとから知ったのだけど、この小説。この映画の原作となる作品を書くキッカケは、バンパイヤの青年と人間の女性の間の恋愛を描いた 「トワイライト」 の二次創作から始まっているとのこと。
イケメンの青年と処女の女性というキャラクター設定は、狙ったものではなく、「トワイライト」 から映画のイメージがそのまま引き継がれている・・・ということらしい。
そうなると、イギリスの作風で、上流階級の環境で育った青年実業家が S という、多少違和感を覚えるような設定になってしまっていることも、理解できなくもない。
女性を惹きつけるファンタジーの要素はそのままに、それをよりリアルでエロチシズム満載の SM の世界にマッピングしているのであるから、まあ、女性が喰い付くのも無理はない。笑
この作品。原作者がイギリス出身と聞いて、真っ先に思い浮かべてしまうのは、やはり、「スパンキング」 である。(笑)
特にイギリスの上流階級の躾けは厳しいので、実際には、そこで自分の M 性に目覚めてしまうひとが出ても、全然不思議でも何でもない。
イギリスと日本の類似性。それは 「お尻叩き」 である。
今でこそ、虐待あるいは性的虐待的な性向ともとらえられないことから、教育現場からは姿を消していると思うが、教壇の前でパンツをズリ落とされ、人前でお尻を叩くみたいなことは、かつての昭和の時代の日本の教育にはあったし、それで ”恥ずかしい” という感覚を 「パブロフの犬」 的に植え付けられていた側面もあった。
日本の場合、躾けに厳しい家庭では、箸の使い方がまずいだけで、竹の物差しで 「ペシッ!」
まあ、時代に対するノスタルジー的なものも多少はあるものの、イギリスの場合も、日本に近い 「躾け」 や 「羞恥」 みたいな伝統が残っている。
イギリスの場合は、アッパークラスやアッパーミドルと呼ばれる人達や、寄宿舎などがある私立学校に入れている家庭などは、ナニー(nanny)と呼ばれる家庭教師にマナーなども厳しく躾けられる。
イギリスの場合、スープを音をたててすするようなことがあったら 「ペシッ!」
ちなみに、スパンキングは上流階級に限らず、イギリスの家庭では一般的である。
この辺りをイギリスの 「騎士道精神」 と、日本の 「武士道精神」 を対比して説明するひともいる。これは、どちらも島国であり、その土地からは簡単に逃げることが出来ないという状況下で、それが、そのような精神文化を作り上げる大きな要因になっているという考え方である。
騎士道精神であれ、武士道精神であれ、その精神を教え込むためには当然、子供の時分に躾けが大事。日本でもイギリスでも、これは武家や名家の慣わしであったというもの。
そういう要素が全くなかった・・・と否定や反証するのは、なかなか困難であるが、少なくとも、今の日本の 「尻叩き」 はイギリス由来のものと考えるほうが自然。
明治政府は、大日本帝国海軍を開設するにあたり、兵式をイギリス式に定めてダグラス教官団を招聘(しょうへい)している。
九尾の猫鞭(Cat O' Nine Tails)も、そもそもは、イギリス海軍における少年兵の懲罰用の鞭。
元は大英帝国領であったマレーシアやシンガポールには、今でも、英国統治時代の鞭打ち刑が残っている。
日露戦争における日本の勝利で、極東の小さな島国に過ぎなかった日本という国が世界で大きな脚光を浴びることになる。
家庭でお尻をむき出しにしての 「スパンキング」 も、海軍様式であるイギリス様式が日本の明治の文化に溶け込んだものと理解するほうが、より自然である。
バブルが弾ける前くらいまでは、「両親にさえ、手をあげられたことなんて、今まで一度もないっ!」 なんて台詞が 「お嬢様?」 の口をついたりしたものであるが、これは自ら、自分の家庭が ”成金” あるいは ”成り上がり” であると言っているようなもの (苦笑)
時代は絶えず変わっているし、DV が良くないことであるのは当然のこと。しかし、DV と躾けの区別がつかずに、暴力を振るうのも良くないのと同様、躾けもせずに放任というのも考え物。
宿題をやらず、学校で恥をかくのは自分の勝手だけど、「自己中」 は、社会性欠如の原因ともなり、大人になってからでは手遅れで、なかなか治らない。
この作品に、スパンキング的要素がどれだけあるのかは解からないが、バンパイヤと人間の女性の間の愛を描いた 「トワイライト」 の二次創作から始まったという点は面白いし、大変興味深い。
そもそも、バンパイヤは 「捕食者」。女性は 「被食者」 すなわち 「食べられる側」 であって 「捕食者の獲物」 に過ぎない。
しかし、そこに愛が目覚めたことによって生まれた新たな関係が 「トワイライト」 なわけであるが、それを現代の 「SM の世界」 に結びつけるところが実に適切というか、的を射ている。(笑)
加虐の究極は、被虐者の死を意味する。従来のバンパイヤを、精神学的に言われている病的な 「加虐性淫乱症」 患者とするならば、ある意味 「トワイライト」 におけるバンパイヤは、人間の血をすすらず、動物の血で生き延びているという点で、被食者側である女性にとっては、自分に危害を加えない捕食者。
現代の SM における S (加虐性愛者)に極めて近いわけである。
理屈で説明すると頭では納得するものの、身体ではなかなか理解できなかったのが、この SM のパラドックスである。
被虐性向者は、自分の安全が確保されていることを実感しないと、なかなか相手に自分を委ねられない。そこには信用と信頼だけでなく、「相手を大事にする気持ち」 がないと、「主(ぬし)」 としては受け入れて貰えないのである。
ある意味 SM を実際に経験している人であっても、解かってやってる人と、そうでない人がいるくらいなので、作者本人が、それを知っていて書いたのか、それとも 「トワイライト」 からインスパイアされての「偶然の産物」 だったかは分からない。
しかし、その部分が、ある意味 SM のエッセンスであるだけに、それに反応した女性が、これだけ世界中に多く存在することは、ある意味驚きである。
バンパイヤを 「性的加虐者」 である S (ドミナント)に、内気で風変わりな女子高生を 「性的被虐者」 である M (サブミッシブ) に見立ててるあたりは、ある意味、折角の 「トワイライト」 の ”お伽話的要素” を剥(は)ぎ取ってしまってる・・・みたいな残念感はあるものの、しかし、むしろ純化させたとも言えないわけではない。
この映画に魅了されたという女性は、どのくらいいるのだろうか?
まだ、映画も原作も読んでいないが、話を聞いてみたいものである。笑
以前、ブログを介して興味をもったという女性と話をしたときも、「B 子」 の話に絡め、この 「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」 の話になったりした。
日本では、2015年2月13日公開。今からちょうど一年位前の映画。
その女性も、この映画を見たらしく、自分がブログに書いてあるような内容が事前に解かっていたら、もう少し楽しめた・・・みたいなことを言ってくれた。
ある意味、最大級の賛辞であるのだけれども、残念なことにそのときまで、自分はこの映画のことを全く知らなかった。(苦笑)
昨日、ふとそんなことを思い出しながら、この映画のことを調べてみた。
この映画の原作は、同名の小説。原作の累計部数は1億部とのこと。かなりのボリュームである。
この映画の原作者である EL ジェームズはイギリス生まれの主婦。この作品はネットでの投稿がベースになっているらしい。それまでの本を書いたり、ライターの仕事をしていた訳ではないというのがすごい。
イギリスというと 「ハリーポッター」 を思い浮かべてしまうが、SM モノとなると思わず 「スパンキング」 というキーワードも連想してしまう。(笑)
「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ(Fifty Shades of Grey)」 は、直訳すると 「グレイ氏の 50 のかげ」 みたいな感じか。既に早川文庫から、「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」 というタイトルで邦訳版が出ているためか、映画の邦題は書籍と同じ名称となっている。
これに続いて、「フィフティ・シェイズ・オブ・ダーカー(Fifty Shades of Darker)」、そして、「フィフティ・シェイズ・オブ・フリード(Fifty Shades of Freed)」 が、フィフティシェイズシリーズの第2弾・第3弾として続くらしい。
グレイ氏という名前に 「灰色」 を掛けているのが、アリアリしてしまっている。その後に、Darker とか Freed とか続くと、「闇」 とか 「解放」 とかを連想してしまう。(笑)
まだ昨日の今日なので、当然ではあるが、映画も原作も見ていない(苦笑)
一通り、映画や小説の記事を覗き見しただけ。
もしかしたら今後、映画を見たり、あるいは、原作を読む機会もあるかも知れないが、今回はこのまま、映画も小説のさわりも読まないまま、思いついたことを書いていくことにする。
「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」。ストーリー的には、完全な SM ネタ。
奴隷契約書も、プレイの内容もプレイ中の心理描写も全て、SM ネタである。
いろいろな人の書評なり、映画の感想を読んでみたものの、皆さん、自分なりに受けたインパクトを解釈し、一生懸命表現しようとしてはいるものの、SM に対する知見に乏しいせいか、迷走しまくってる感の強い書評が多い。(笑)
映画のプロモーションのコピーは、ビジュアルにかもし出す 「雰囲気」 が売りなので、富豪とまだ性的経験のない女子学生の非日常的なロマンス・・・みたいな感じで売り出したい感じである。(笑)
一方の原作(小説)の方は・・・と言うと、キスするまでに 100ページもかかる・・・みたいな、女性の触感や心のドキドキ感を煽(あお)る 「焦(じ)らし」 満載の官能小説っぽい(笑)
ダブルのベッドで隣でアイマスクをして寝てる、あるいは、イビキを搔(か)いて寝てる旦那を尻目に、脚をもじもじとよじらせながら、あそこを濡らして、ページをめくる主婦にとっては、イケメンで金持ちの男と、処女で奥手な女子学生というのも、非日常的な組み合わせであり、小説の世界に移入しやすい人物設定だったのかも知れない (笑)
やっぱりミリオンセラーになるだけあって、本質はここにありそう。笑
あとから知ったのだけど、この小説。この映画の原作となる作品を書くキッカケは、バンパイヤの青年と人間の女性の間の恋愛を描いた 「トワイライト」 の二次創作から始まっているとのこと。
イケメンの青年と処女の女性というキャラクター設定は、狙ったものではなく、「トワイライト」 から映画のイメージがそのまま引き継がれている・・・ということらしい。
そうなると、イギリスの作風で、上流階級の環境で育った青年実業家が S という、多少違和感を覚えるような設定になってしまっていることも、理解できなくもない。
女性を惹きつけるファンタジーの要素はそのままに、それをよりリアルでエロチシズム満載の SM の世界にマッピングしているのであるから、まあ、女性が喰い付くのも無理はない。笑
この作品。原作者がイギリス出身と聞いて、真っ先に思い浮かべてしまうのは、やはり、「スパンキング」 である。(笑)
特にイギリスの上流階級の躾けは厳しいので、実際には、そこで自分の M 性に目覚めてしまうひとが出ても、全然不思議でも何でもない。
イギリスと日本の類似性。それは 「お尻叩き」 である。
今でこそ、虐待あるいは性的虐待的な性向ともとらえられないことから、教育現場からは姿を消していると思うが、教壇の前でパンツをズリ落とされ、人前でお尻を叩くみたいなことは、かつての昭和の時代の日本の教育にはあったし、それで ”恥ずかしい” という感覚を 「パブロフの犬」 的に植え付けられていた側面もあった。
日本の場合、躾けに厳しい家庭では、箸の使い方がまずいだけで、竹の物差しで 「ペシッ!」
まあ、時代に対するノスタルジー的なものも多少はあるものの、イギリスの場合も、日本に近い 「躾け」 や 「羞恥」 みたいな伝統が残っている。
イギリスの場合は、アッパークラスやアッパーミドルと呼ばれる人達や、寄宿舎などがある私立学校に入れている家庭などは、ナニー(nanny)と呼ばれる家庭教師にマナーなども厳しく躾けられる。
イギリスの場合、スープを音をたててすするようなことがあったら 「ペシッ!」
ちなみに、スパンキングは上流階級に限らず、イギリスの家庭では一般的である。
この辺りをイギリスの 「騎士道精神」 と、日本の 「武士道精神」 を対比して説明するひともいる。これは、どちらも島国であり、その土地からは簡単に逃げることが出来ないという状況下で、それが、そのような精神文化を作り上げる大きな要因になっているという考え方である。
騎士道精神であれ、武士道精神であれ、その精神を教え込むためには当然、子供の時分に躾けが大事。日本でもイギリスでも、これは武家や名家の慣わしであったというもの。
そういう要素が全くなかった・・・と否定や反証するのは、なかなか困難であるが、少なくとも、今の日本の 「尻叩き」 はイギリス由来のものと考えるほうが自然。
明治政府は、大日本帝国海軍を開設するにあたり、兵式をイギリス式に定めてダグラス教官団を招聘(しょうへい)している。
九尾の猫鞭(Cat O' Nine Tails)も、そもそもは、イギリス海軍における少年兵の懲罰用の鞭。
元は大英帝国領であったマレーシアやシンガポールには、今でも、英国統治時代の鞭打ち刑が残っている。
日露戦争における日本の勝利で、極東の小さな島国に過ぎなかった日本という国が世界で大きな脚光を浴びることになる。
家庭でお尻をむき出しにしての 「スパンキング」 も、海軍様式であるイギリス様式が日本の明治の文化に溶け込んだものと理解するほうが、より自然である。
バブルが弾ける前くらいまでは、「両親にさえ、手をあげられたことなんて、今まで一度もないっ!」 なんて台詞が 「お嬢様?」 の口をついたりしたものであるが、これは自ら、自分の家庭が ”成金” あるいは ”成り上がり” であると言っているようなもの (苦笑)
時代は絶えず変わっているし、DV が良くないことであるのは当然のこと。しかし、DV と躾けの区別がつかずに、暴力を振るうのも良くないのと同様、躾けもせずに放任というのも考え物。
宿題をやらず、学校で恥をかくのは自分の勝手だけど、「自己中」 は、社会性欠如の原因ともなり、大人になってからでは手遅れで、なかなか治らない。
この作品に、スパンキング的要素がどれだけあるのかは解からないが、バンパイヤと人間の女性の間の愛を描いた 「トワイライト」 の二次創作から始まったという点は面白いし、大変興味深い。
そもそも、バンパイヤは 「捕食者」。女性は 「被食者」 すなわち 「食べられる側」 であって 「捕食者の獲物」 に過ぎない。
しかし、そこに愛が目覚めたことによって生まれた新たな関係が 「トワイライト」 なわけであるが、それを現代の 「SM の世界」 に結びつけるところが実に適切というか、的を射ている。(笑)
加虐の究極は、被虐者の死を意味する。従来のバンパイヤを、精神学的に言われている病的な 「加虐性淫乱症」 患者とするならば、ある意味 「トワイライト」 におけるバンパイヤは、人間の血をすすらず、動物の血で生き延びているという点で、被食者側である女性にとっては、自分に危害を加えない捕食者。
現代の SM における S (加虐性愛者)に極めて近いわけである。
理屈で説明すると頭では納得するものの、身体ではなかなか理解できなかったのが、この SM のパラドックスである。
被虐性向者は、自分の安全が確保されていることを実感しないと、なかなか相手に自分を委ねられない。そこには信用と信頼だけでなく、「相手を大事にする気持ち」 がないと、「主(ぬし)」 としては受け入れて貰えないのである。
ある意味 SM を実際に経験している人であっても、解かってやってる人と、そうでない人がいるくらいなので、作者本人が、それを知っていて書いたのか、それとも 「トワイライト」 からインスパイアされての「偶然の産物」 だったかは分からない。
しかし、その部分が、ある意味 SM のエッセンスであるだけに、それに反応した女性が、これだけ世界中に多く存在することは、ある意味驚きである。
バンパイヤを 「性的加虐者」 である S (ドミナント)に、内気で風変わりな女子高生を 「性的被虐者」 である M (サブミッシブ) に見立ててるあたりは、ある意味、折角の 「トワイライト」 の ”お伽話的要素” を剥(は)ぎ取ってしまってる・・・みたいな残念感はあるものの、しかし、むしろ純化させたとも言えないわけではない。
この映画に魅了されたという女性は、どのくらいいるのだろうか?
まだ、映画も原作も読んでいないが、話を聞いてみたいものである。笑