奴隷が経験する岐路
M女が、そのまま奴隷であり続けられるか。それとも、野良に転じてしまうのか。
それは奴隷に目覚めた自分。その自分に対する甘え。
そして、主に対する「甘え」をどうコントロールするかに掛かっています。
「奴隷には、人格も人権もない・・・」
「主の命令は絶対・・・」
主と奴隷は、対等ではないのです。
頭では理解していても、その意味を理解していない。
自分の我を打ち消すことが出来ないのです。
プレイは、ハードルと同じ。次第に高いレベルに設定されていきます。
主の寵愛(ちょうあい)を受けているM女は、「私の嫌がることを主がするはずがない」 と思い込むようになります。
しかし、主が求めているのは、その嫌なことであったり、自分が拒否したくなる不安と対峙したときに、主を信用して、無我になって飛び込むことなのです。
遅かれ早かれ、自分を取るか、主に従うかの決断を迫(せま)られる世界。
自分がネガティブな状態になると、理性は悪魔になって囁(ささや)き始めます。
「もう無理っ!」
「前に言ってたことと全然違うじゃないっ!」
「自分のためにならないよ。そんな主、やめちゃいなっ・・・」
まあ、SM がアンダーグラウンドな世界ですので、これらの理性の声は、悪魔ではなく、天使かも知れませんが(苦笑)
SM における S と M の関係は、共生関係にあります。
しかし、支配関係にもあるという特殊な世界です。
相互の信頼は、必要条件です。しかし、安住を約束するものではありません。
甘える時間が欲しいのであれば、その分、自分の甘えを抑えることも重要なのです。
ご褒美が欲しいのであれば、尚更です。
SM は、ある意味、盆栽(ぼんさい)のようなもの。
天にまっすぐ伸びる枝をことごとく切り落とし、その中から選んだ鈍重(どんじゅう)な一本に全ての栄養を注(そそ)ぎ、肥大化させたり、矯正(きょうせい)して成長を妨(さまた)げたりする。植物の方には一切の選択肢はありません。
しかし、盆栽師の方は、無理やりやっているかと言うと、そうではありません。
その植物の特性を見切って、その植物の良さを引き出すことを考えながら、鋏(はさみ)を入れていく。そこには愛があります。
盆栽にも基本はありますが、しかし、そこにはゴールも、正解も、完成もありません。
SM も肉体的な部分から入るかも知れませんが、しかし、最終的に責め縛られている部分は 「心」 ですので、楽であるはずがありません。
「S はサービスの S」 と言った人がいます。これはある意味 「言い得て妙」 とも思いましたが、これを受けて、「S は M にサービスをしてるから、S は実は Mだっ」 みたいな論理展開をする人も出てきます。
確かに、行為だけを見れば、そう思われても仕方ありませんし、「オラオラ」 するのが、SM と誤認している人は、まずは 「サービスの S」 を理解すべきだと思います。
しかし実際は違います。
プレイが奴隷の安住の場になった途端(とたん)、「S はサービスの S」 に陥(おちい)ってしまうのです。
お店であれば、そこに対価が発生しますので、エゴイスティックなマゾであっても、ある程度は許容されるかも知れませんが、はっきり言ってこの状況は、S としては全然面白くない状況なのです。ですから、当然 S である主は愛奴と共に、また階段を一歩登ろうとします。
もっとプレイをハードにするかも知れませんし、心を揺(ゆ)さぶってくるかも知れません。
常に奴隷は、新たな目標が設定される度(たび)に、岐路(きろ)に立たされます。
しかし奴隷にとっての選択肢は、主を信じ、自分の恐怖心や不安に打ち勝って着いて行くだけなのです。