2ntブログ
2017/12/05

「嫉妬心」 を制する (2)

前記事 「『嫉妬心』 を制する」 の続きです。

 

「嫉妬心」 は、自分の身を守るための 「防御本能」 や、個体の 「生存本能」、そして、「独占欲求」 や 「依存欲求」 などが、複雑に絡み合った 「負の感情」 です。

人としては、一番醜(みにく)い 「グロな感情」 と言えるかも知れません。

そして、人の 「色恋」 や 「性愛」 には、必ず付き纏(まと)う感情が、この 「嫉妬」 です。

 

SM における嫉妬

 

SM では、このドロドロとした、決して美しくはない感情。怒りと悲しみ、攻撃本能と被虐、そして、愛と情欲が渦巻く 「嫉妬」 という感情をプレイで使用することがあります。

「性欲」 も 「嫉妬心」 も、どちらも、誰もが、自分の中に抱えているものであるにも拘わらず、日常社会においては忌み嫌われる存在です。

 

SM とは、ジョルジュ・バタイユ風に言えば、日常的な 「ケ」 の社会から隔絶された

「ハレ」 の儀式のようなものです。

 

ドロドロとしたもの、モヤモヤとしたものが、溜まりに溜まり、「妬(ねた)み」 ではありませんが 「怒り」 や 「憎しみ」 といった感情から、攻撃性を発露するのが、S であり、そして、その逆に 「嫉(そね)み」 ではありませんが、「失望」 や 「悲しみ」 といった感情から、被虐性を発露するのが、M なのかも知れません。

 

動物の世界には、SM という行為は存在しません。本能だけの世界です。

人が集まり、法が出来て、社会が出来あがり、そして、いろいろな制約が生まれることで、人の中に 「光と闇」、「裏と表」 が生じたに過ぎません。

旧約聖書の創世記の冒頭ではありませんが、神が 「光よあれ」 と言って、「光」 が生じたからこそ 「闇」 が出来、「法」 が出来て 「善と悪」 が生まれ、「社会規範」 により、「建前と本音」 もそうですし、「キレイな自分」 と 「汚い自分」 が生まれたわけです。

 

「SM の世界」 に集約されているものは、本来は、他人には見せられない 「愛憎」 であり、そこから派生する 「嫉妬」 に纏(まつ)わる、「性欲」 や 「支配欲求」 あるいは 「依存欲求」 なのです。

美しく切り出された刹那は、写真であれ、ペインティングであれ、小説であれ、パフォーマンスであれ、「裸婦」 であろうが 「性交描写」 であろうが 「緊縛」 であろうが、「芸術(アート)」 となり得ますが、それらは、「SM の世界」 の一片を昇華したものに過ぎません。

 

SM の世界とは、本来は 「清濁併せ呑む」 世界。そして、「心と身体」、「愛と憎しみ」、「美と醜」、「生と死」 が融合し、またあるときは対峙している 「エロとグロ」 の世界なわけです。

 

***

 

今回は、SMプレイにおける 「嫉妬心」 の使い方について、説明してみたいと思いますが、その前に、SMで良く見掛ける 「修復」 の心理について説明したいと思います。

 

SM における 「修復」 の心理

 

「修復の心理」 と言っているのは、SMプレイにおいて、「責め手」 なり 「縛り手」 が、「受け手」 に 「壊れた場所」 を発見すると、何故か、治そうとしてしまう 「心理」 のことです。

 

あるとき、自分の愛奴の 「調教日誌」 を読んだ 「M女さん」 が、自分のことを 「カウンセラーみたいだね」 と言ったのを記憶していますが、あの行動は、自分でも認識はしているものの、しかし、特別な意識を以って、行動しているわけではありません。

SM を嗜(たしな)む人の全員が、そのように行動するわけではありませんが、しかし、同じようなことをしている 「縄師」 の方は結構たくさんいます。

 

「春兜京(はるときょう)」 氏は、縄は勿論ですが、一人でつぶやくスタイルの数々の詩は、本当にに味わいがあり、実に深くて秀逸ですし、ネット上ではありますが、懇意にして戴いている 「喜多征一」 氏も、縄だけではなく、SMに対する姿勢と理解には、共感するところが多々あります。

 

では、そもそも、どういう心理で、そういう行動をとってしまうのか?

 

普段は、そんなことは、全くと言っていいほど考えたりはしないのですが、今ふと、思ったのは、自分の中には、自分が今までの経験で培(つちか)ったイメージのようなものがあって、「ここで、こういうことをすると、ここは、こう反応する・・・」 みたいなパターンがいろいろと記憶されているわけです。

しかし、反応しない 「受け手」 がいると、「あれっ?!」 と思うわけです。

 

そして、いつの間にか、頭の中でいろいろと勝手に考えて、別のことを試してみたりするわけです。この辺は、系統だった 「教科書」 があるわけでもなく、全ては自分の 「経験則」 だったりするわけですが、その結果、何かを発見したり、有力な仮説に行き着くわけです。そして、気が付くと、いつの間にか、「修復」 していたりする。

 

        「なんで自分は、こんなことをしているんだろう?」

 

今、思ったのは、多分、自分のイメージ通りに 「受け手」 を操(あやつ)りたい。なので、自分のイメージ通りにいかなかった場合には、自分のイメージを修復するか、あるいは、「受け手」 に壊れているところを見つけたら、それを 「修復」 するか。そのいずれかになるわけです。

 

「奴隷」 を自分の支配下に置き、自分の思うように弄(いじ)り、そして、「奴隷」 を思いっきり壊しているくせに、何かを見つけると、まずはそれを治した上で、また、思いっきり壊したくなる。

 

おかしな性分です。(苦笑)

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