2ntブログ
2017/12/04

「嫉妬心」 を制する

嫉妬とは?

 

「嫉妬心」 とは何でしょう?

 

「嫉妬心」 は、女性ばかりでなく、男性にもあります。

「嫉妬心」 とは、自分が愛情を掛ける対象を失いたくないが故に、自分に敵対する相手を妬(ねた)み、あるいは、嫉(そね)む気持ちです。

 

「妬(ねた)み」 とは、自他を比較し、自分が持っていない物事に対して、羨ましく思うと同時に、その相手に対して覚える 「怒り」 や 「憎しみ」 のことです。

「嫉(そね)み」 とは、自他を比較し、自分が持っていない物事に対して、羨ましく思うと同時に、自分に対して 「失望」 や 「悲しみ」 などの負の感情を持つことです。

 

 

嫉妬と羨望の違い

 

「嫉妬心」 は、三者関係によって生じる怒りや悲しみなどの負の感情です。

二者の場合は、「羨望(せんぼう)」 と言います。

 

「羨望の眼差(まなざ)し」 と言う言葉がありますが、「羨望」 は、「憧憬(どうけい)」 とは異なります。英語で言うと、嫉妬心は 「ジェラシー(jealousy)」、羨望は 「エンヴィー(envy)」。

 

 

この挿絵なんかは、「羨望」 ではなく、「憧(あこが)れ」 ・・・。「憧憬」 です。

「羨望」 の方は、相手を羨(うらや)む気持ちから、自分に対する失望感や劣等感、あるいは、怒りや憎しみなどが混じって、ネガティブで強張(こわば)った表情になります。

下の写真の左側の女性のイメージです。

 

 

 

嫉妬は集団欲に付随した本能

 

本来、「嫉妬」 とは、長い人間の群れにおける集団生活においては、弱者が集団生活の中で、自分が依存する強者との関係を確立し、より有利な 「立ち位置」・「テリトリー」・「縄張り」 を確保するために、必要不可欠な感情でした。

特に女性は、出産・子育てにおいては、多くの支援を必要とします。

集団においては、ボスに近い存在であればあるほど、良質で豊かな食事にありつけることが出来ます。

「嫉妬」 とは、「既得権益」 を守ろうとする 「独占欲」 から来る 「防衛反応」 であり、そして、自分が所有していないものを所有する者に対する 「不快感」 に他なりません。

 

「嫉妬」 は、ヒトだけが保有する感情ではありません。ヒトと同様、集団生活を重視するイヌにも、同様の感情があることが報告されています。

「イヌは飼い主を取られると嫉妬する」 Natinal Geographic

「”Jealousy in Dogs (Chiristine R. Harris, Caroline Prouvost)」, July 23, 2014, PLOS ONE

 

 

嫉妬は、現代の日常社会には馴染まない

 

ヒトが、安全を求めて、集団で生活するようになり、「集団欲求」 そして 「安全欲求」 が満たされるようになると、「独占欲求(依存欲求)」 もそうですし、「承認欲求」 といった 「社会的欲求」 といった、集団社会におけるいろいろな欲求が出てくるようになります。

 

「嫉妬」 とは、「安全欲求」 そして 「社会的欲求」 が絡んだ 「不快な感情」 ですが、この 「嫉妬」 で生まれた感情は、自分に自信がない女性の場合は、「嫉(そね)み」 となって 「自己否定」 的な感情が強く表れ、逆に、自信過剰、あるいは、自己中心的な性格が強い女性の場合は、「妬(ねた)み」 となって、「怒り」 の感情や 「攻撃的な性格」 が強く表れてきます。

 

いずれにしても、原始的な社会においては、「嫉妬心」 は、個体の生存本能に近い 「防衛反応」 的性格を持つ感情ではありますが、現代のようにある程度成熟した 「社会システム」 においては、「怒り」 と言った 「負の感情」 と同様、度を越えた感情は、社会的には受け入れられづらくなってきています。

 

「嫉妬」 という感情が、この世から消えて無くなるものではありません。しかし、社会的にも、表に出す感情ではなく、社会の裏で燻(くすぶ)る 「負の感情」 と言えるでしょう。

人前で 「セ☆クス」 しないのと同様、羞恥心で隠されるべき感情が、「嫉妬心」 であると言えます。

2017/12/03

出会いと別れ (2)

前記事 「出会いと別れ」 の続き。

 

縁と愛と生と死と

 

出会いがあれば、別れがあります。

人が生まれるのが出会いなら、死はお別れです。

こればかりは、いくらお金持ちだからと言って、どうなるものでもありません。
才能と機会に恵まれ、そして巨万の富を築いたハリウッドスターであろうと、愛と生死だけは、自分の思うようには出来ません。


「出会い」 もそうなら、「別れ」 もそうですが、「縁」 が取り持つ 「関係」 というのは不思議なものです。
そして、「出会い」 もそうなら、「別れ」 もそう。
何だか訳の分からない 「流れのようなもの」 に、浚(さら)われて、急に発展する場合もあれば、何だか訳の分からない 「流れのようなもの」 に巻き込まれて、そして、急に壊れる場合もあります。

 

 

愛は辛抱(しんぼう)です。

お互いが維持しようと、踏ん張っている限りにおいては、繋がり続けることが出来ます。
しかし、人と人の関係は、自分の思うようにはなりません。
親子関係もそう。自分の血を引く子供でさえ、自分の意のままにはならないのです。ましてや、血の繋がらない夫婦関係なら、尚更です。

SM における、主と奴隷の出会いと別れ

そして、それは、SM においても同じです。

 

SM において、「奴隷」 とは、主の命令が絶対の存在であり、人権のない存在であり、そして、自分の意思では主の下を去ることが出来ない存在です。

ここだけ見る分においては、ローマ帝国時代あるいは南北戦争前のアメリカの 「奴隷制」 と何ら変わりません。

SM における 「奴隷」 と、「奴隷制」 の 「奴隷」 の大きな違いは、奴隷が自らの 「意思」 で奴隷となっているのか、それとも 「強制」 されているのかの違いです。

 

そして、お互いの 「意思」 で繋がっている以上、SM の 「奴隷」 の場合であれ、どちらか一方の心が離れたときには、関係を強要することは出来ません。

一見矛盾するように聞こえるかも知れませんが、自分は奴隷に対して、

        「来る者は拒まず、去る者は追わず」

と言っています。
これは、「奴隷」 という 「特別な存在」 で在り続けたいのであれば、主の命令は絶対であり、奴隷は人権のない存在であり、そして、自分の意思では主の下を去ることが出来ないという、「奴隷の原則」 を守りなさいということです。
つまり、奴隷が主のもとを 「去りたい」 と思った時点で、既に 「主の奴隷」 ではなくなっているという意味に他なりません。

とある別れ

「多頭飼いなんだから、ひとりくらい減っても、問題ないでしょ?」

そう言われると、かなり凹みます。
代わりの人がいないから辛い。代わりの人がいるから問題ないというものではありません。
自分は一人一人、その人自身を見ています。
奴隷ひとりを受け止めるにも、それなりのエネルギーが必要です。
そして、奴隷に対する 「リスペクト」 というのは、ちょっとおかしな表現かも知れませんが、自分は、どの奴隷に対しても、その奴隷の人格を尊重し、きちんと誠心誠意、対峙しているつもりです。

とは言え、主と言えども人間ですから、「完全」 ではありません。

そもそも、不倫をしても、何も罪の意識さえも感じない上に、長年 「SM」 に興じているような 「ゲス」 な人間ですから、偉そうなことを言えたものではありませんが、言うなれば、「一寸の虫にも五分の魂」 みたいなもんです。
「ゲス」 は 「ゲス」 なりに、ゲスの良識を意識しているということ。

***

今回の別れの発端は、とある 「M女さん」 との出会いから始まりました。
この 「M女さん」 は、既に 「主」 がいる方。 しかも、もう結構、「主の方」 とは長いようで、SM プレイから複数プレイに至るまで、いろいろとお話を伺っておりました。
SM であれ、結局のところ突き詰めれば、「マンネリ」 と 「女性の嫉妬」 を如何にして克服するか、の世界です。

 

経験者としての 「M女さん」 とそんな話をしたあと、彼女は、自分の 「主」 に対する思いをブログにアップしたのですが、それがどうやら、自分の愛奴の気に障(さわ)ったようなのです。

もしかしたら、書き手からして見ると、多少の皮肉に受け取れるような記述があったのかも知れませんが、特に、自分の愛奴に対するあからさまな 「誹謗中傷」 があったわけでもありません。しかし、そこから 「愛奴との関係」 は拗(こじ)れに拗れてしまいました。

 

ここまで来ると、「誰が悪い」 という話ではありません。

彼女が悪いわけでも、愛奴が悪いわけでもなければ、自分が悪いわけでもない。

いや、自分を正当化したところで意味ありません。結局のところは、愛奴の言い分をきちんと聞いて、受け止めてあげれなかった自分に幻滅したのでしょう。

既に自分から気持ちが離れていたのであれば別ですが、まさか、こんな些細(ささい)なことで破局を迎えるとは、思ってもいませんでした。

愛奴は、ここのところ、いろいろなことが重なっていましたし、「普段は、しっかりしないと・・・」 みたいに甘えたい気持ちを抑えようとするところもありました。
幼馴染との忘年会でも、いろいろと 「多頭飼いなんか、やめときな・・・」 みたいなネガティブな忠告があったのかも知れません。
気持ち的に 「いっぱいいっぱい」 なところで、自分がドジを踏んでしまったのかも知れません。

***

しばらく間を置いて、戻ってきて欲しい期待はありますが、もう、難しいかも知れません。

若い時分で常に右肩上がりに成長するのであれば、過去を振り返らず、「コレジャナイ!」 と思ったら、終わりにして 「次!」 でもいいと思います。
しかし、人は齢(よわい)を重ねていくに連れて、坂も次第に下りに入ってくると、人との 「縁」 を大事にすることの大切さも、学びます。

人もいつか壊れる存在であるからこそ、いつか壊れる 「縁」 であっても、それを出来るだけ大事にする必要があるわけです。

とは言っても、未練タラタラですが、愛奴を責めるつもりは毛頭ありません。

愛奴が自分から離れていったのは、自分の至らなさであり、愛奴を飼いきれていなかった証拠なのですから、全ては自分のミスなのです。

「縁」 とは?

「縁」 とは不思議なものです。

「縁」 には、自分が相手に何かしらの影響を与える 「触媒(しょくばい)」 あるいは 「伝播係」 のような役割を担う場合と、自分が相手から何かしらの影響を受ける 「主体」 あるいは 「末端」 としての役割を担う場合があります。

愛奴との関係も、「縁」 によって始まり、そして、「縁」 によって終わりを迎えました。

今はまだ分かりませんが、しかし、この出会いにも何か意味があるとすれば、形はどうであれ、いずれ同じ状態になっているはずです。

 

答えは誰にも分かりませんが、しかし、「縁」 で生じた 「出会いと別れ」 の先に、自分に約束されていた何か大切なものを見つけたとき、人はそれを 「運命」 と呼び、そして、自分の 「縁」 を繋いでくれた人達に感謝します。

自分は、愛奴と会うべくして会い、そして、別れるべくして別れた・・・と思いたい。


自分は 「多頭飼い」 だからと言って、それぞれの人を比較したりはしませんし、自分に着いて来てくれている以上は、みんな自分の大事な 「奴隷」 です。
そして、自分の予想に反して、別れが早かったから、あるいは、「愛奴との関係」 が、自分の思い通りに行かなかったからと言って、相手に対して怒りを覚えたりはしません。

 

 

愛奴には、自分のような人間と時間を共有してくれたことに感謝しています。


***

「来る者は拒まず、去る者は追わず」 などと格好付けている 「多頭飼い」 ではありますが、愛奴に去られたときは結構、こんな調子で凹んでいるのが実情です。(苦笑)

2017/11/24

とあるセックスレス相談 (5)

前記事 「とあるセックスレス相談 (4)」 の続き。

 

外にセ☆クスを求める

 

(1) 結婚、恋愛、セ☆クスの相手を分ける女性

「結婚、恋愛、セ☆クスの相手を分ける女性(上) 結婚しない恋人と結婚を迫る新しい彼」

「結婚、恋愛、セ☆クスの相手を分ける女性(中) 子育てと仕事に奮闘...非協力な夫以外の男性に惹かれる」

「結婚、恋愛、セ☆クスの相手を分ける女性(下) 一人にすべてを求めたい...それはかなわない」

「結婚、恋愛、セ☆クスの相手を分ける女性...その後の私、よりよい道を探したい」

 

浮かれるような喜びの度(たび)に何か手に掴(つか)まえている。この女性のそんな生き方が、良い選択であったかどうかは、ここでは議論しません。

しかし、結婚して、安定した生活の中で、出産や子育てしている、母として自分も、異性と恋愛し語り合うときの、ときめく乙女のような自分も、身体を重ね合わせて肉を貪(むさぼ)り合うような、オンナとしての自分も、全てが自分です。

 

その全てを、いくら相手に望んだとしても、全てを満たしてくれる人はこの世には居りません。

だからと言って、自分が我慢したり、自分の人生を犠牲にすれば良いというものでもありません。多くの人の葛藤(かっとう)は、そこにあります。

母としてどう生きるか。妻としてどう生きるか。そして女としてどう生きるかは、結局は、自分がどう生きて行くかということなのです。

 

本人も 「節操のない、倫理観に欠けた・・・」 と述べていますが、読んでいると 「浮き草的」 と言うか実に軽い感じがします。

しかし、筋が通っているように見えるのは、やはり、他人を変えてやろうといった傲慢(ごうまん)さがないところと、人の意見や価値観の多様性を理解しているところです。そして何よりも自立心のあるところです。

 

結構、頭の賢い子で、自分をきちんと鳥瞰(ちょうかん)しています。

相談者となっている彼がゲイであるためか、「家族はもっと広いものとして捉(とら)えてもいい・・・」 といったかなり 「リベラル」 な意識を持っているところは、単に刹那的に生きているわけではなく、きちんと考えている子だな~とも思ったりします。

結婚、恋愛、セ☆クスの対象を全て分散させなさい・・・と言っているわけではなく、この女性の場合は結果として、そうなってしまったということ。

 

自分も予(かね)てより、旦那で不足するものは、カレでもいい。カレがいても不足するものは、「セ☆フレ」 でもいいと思っています。

綺麗事を言うのはやめて、「人とは弱い存在である」 ことを認めてしまえば、逆に、そういった多くの 「縁」 によって、自分の人生は支えられているのです。

 

***

 

最近、話をする機会がありませんが、「某 SNS」 での古い友人(女性)は、旦那以外に彼を作っており、歴史が古い順に、「長男」、「次男」、「三男」 などと呼んでいました。(爆笑)

お母さんが、自分の子供達を等しく愛するように、それぞれの男に対して常に 「良かれ」 と思って、接しています。

女性の方は、何処に出しても恥ずかしくない 「男」 として育てているつもりなのですが、しかし、それを一向に分かろうとしない男達。(苦笑)

 

「別れ話」 の日に、その土地に古くからある 「料亭」 を選んだ意味は?

別に本人がその店の食事を食べたかったからではありません。

「一期一会」 的な感覚。女性は特にそれを意識しているわけではありませんが、一応は 「キャリア」 であるなら 「品格」 を身に付けろ・・・というメッセージもあるでしょうし、「味」 もそうなら、「マナー」 も身に付けなさい・・・というメッセージも込められていたように思います。

きちんと、それぞれの男性の器というものを見ているわけです。

「野暮」 じゃダメ!きちんと 「粋な男」 として 「振舞える」 ようになりなさい、という彼女からのメッセージに、いつか気が付くときが来るんでしょうか?

 

男と女には 「出会い」 があり、そして、その出会いのひとつひとつに 「物語」 があります。
 

(2) 40代女性

「40代女性(上) セ☆クスレスの原因...出産、夫の単身赴任、いじめ、孤独感、家族の障害」

「40代女性(中) 夫以外との男性との出会い 揺れる思いに高まる欲求、そして...」

「40代女性(下) 身も心もしっかりつながりたい・・・淡白な夫とついに別居」

 

旦那そして子供がアスペルガー症候群だったという例です。アスペルガー症候群のパートナーは、カサンドラ症候群という症状に苛(さいな)まれることが知られていますが、これはその例かも知れません。

この女性自身も、インナーマザーに捉えられていたのかも知れません。

旦那と別居して、自分を振り返り、そして、自分を理解することで、他人の新たな側面を発見する。自分が変わるということではなく、ひとつ自分の認識が変わる。ひとつ自分が気付くことで、他の人の行動も自然と変化して来ますし、世界の色も変わる。

セ☆クスレスが、発端とはなっていますが、しっかりと自分と対峙し、他人と自分との関係性を見直すことは、この女性の未来にとって、この女性が幸せになる上で、とても良いことのように思います。

 

(3) 触れ合う喜びを取り戻したバツイチ女性

「触れ合う喜びを取り戻したバツイチ女性(上) DV、セ☆クスレス、そして離婚へ」

「触れ合う喜びを取り戻したバツイチ女性(下) いつからでもやり直せる」

 

ひとつの屋根の下で暮らしていると、常に身近に居る人のことを 「自分は、この人のことを知り尽くしている」 と思いがちになります。若くして結婚した夫婦はどちらも未熟。どちらも家庭生活を通して、人として成長していきます。

この女性は、結婚生活から自立を学び、そして、いくつかの恋愛を通して、結婚あるいは社会の目には囚われない、自立した 「愛のかたち」 を手に入れたんだと思います。

この女性の場合、社会的な自立があるからこそ、「無条件で自分を受け入れてくれて、抱きしめてくれる存在」 というものが、際立ってくるのでしょう。

 

(4) セ☆クスレスに悩んでいた男性

「セ☆クスレスに悩んでいた男性(上) 偶然目にした妻のメールに......」

「セ☆クスレスに悩んでいた男性(下) 年下女性と婚外恋愛...『彼女こそ人生のパートナー』」

 

意図していなかったとは言え、奥方の携帯を 「盗み見」 したことで、現実を知ってしまった旦那。奥方が何故 「外食」 していたのか、その理由は、本人も知らないのでしょう。この文章上には全く書かれていません。

しかし、その現実を知って、凹みながらも、前向きに 「自分の幸せ」 を獲得した旦那は、ある意味 「天晴(あっぱ)れ」 と言えます。

 

(5) 心も体も離れた妻の介護で葛藤する夫

「心も体も離れた妻の介護で葛藤する夫(上)」

「心も体も離れた妻の介護で葛藤する夫(下)」

 

既に心も身体も離れている夫婦。そこにあるのは、やはり家族という 「情」 と言う感情なのでしょうか。

このご夫婦の感情が、どのように縺(もつ)れたのかは分かりません。子供が 「お父さん、別に離婚したっていいよ」 というのを聞くに連れ、どちらかが一方的に悪いというようなものでもないように思います。

この旦那の 「セ☆クスレス」 に対する思いも、単なる性的な衝動を越えたところにあるように思います。

かなり重い内容なのですが、だからと言って、この記事を排除するというのも忍びなく、また、今の時代、誰でも、このような状況にならないとは限りませんので、参考までに、ここに居れておくことにしました。

 

***

 

実際に、人の生の声を聞いてみたり、こうやって、それぞれのケースを見てみると、「セ☆クスレス」 や 「不倫」 は、単なる 「性の衝動」 だけではなく、多くの人間のさまざまな 「人間模様」 があるということです。

「ゲス不倫」 とばかりに、単なる 「好奇なネタ」 として、人を論(あげつら)う 「マスコミ」 ですが、芸能人だって政治家だって、同じ人間です。

そして、この世の中、「自分勝手な男」、「自分勝手な女」 も居れば、そういった人も、いろいろな紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、気付き、学び、そして、より良い人生にしようと悩み、常に足掻いているということです。

 

いろいろと考えさせられます。

2017/11/22

とあるセックスレス相談 (4)

あなたの両親は、いい夫婦?

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***

 

前記事 「とあるセックスレス相談 (3)」 の続き。

 

セ☆クスレスを修復する

一方で、「性の悦び」 を前向きに捉えて、より良い 「セ☆クス」 を求めることで、効果をあげる人達もいます。

(1) セ☆クスレスを努力で克服した女性

「セ☆クスレスを努力で克服した女性(上) 40歳過ぎから夫に応じられなく」

「セ☆クスレスを努力で克服した女性(下) 夫に内緒の 『秘密の特訓』」

 

機が熟したということもありますが、「自分がセ☆クスを楽しめるようになりたい」 という意識が、家庭生活や家族も含めて、全てを前向きに変えていってるように思います。

メールであれ手紙であれ、きちんと自分の意思や考えを相手に伝えることは、大変良いと思いますし、会話であれば、そもそもが男と女の話ですから、言いたいこともきちんと言えず、感情的になってしまったりすることもありますが、メールや手紙であれば、そういうこともありません。

自分に嘘を付かず、目先のことから逃げたりせず、そして、素直な意思疎通があったからこそ、旦那も誤解したりせずに、きちんと受け止めてくれたのだと思います。

 

やはり、深い縁がそこにあって結婚したわけですから、夫婦同士で愛することが出来るのなら、それに優るものはありません。

 

(2) 夫との修復を図りながら迷いが生まれている女性

「夫との修復を図りながら迷いが生まれている女性(1)」

「夫との修復を図りながら迷いが生まれている女性(2) 思いの丈を手紙に」

「夫との修復を図りながら迷いが生まれている女性(3) 『やっぱり夫が一番』」

「夫との修復を図りながら迷いが生まれている女性(4) 肉体的欲求なのか、精神的欲求なのか」

 

フリーランスの奥方と、ガチガチの企業体質の旦那の、日常生活の不満がありありと表現されています。奥方は思ったことは口に出してしまう 「クレクレ系」 と言うよりは、自分の思うとおりにしたいタイプなのでしょうか。(苦笑)

今ある問題を、どうしたら解消できるか、それを辛抱強く考えて行動するのではなく、0か100かを求めてしまう。ひとつ前の記事にあるような、自分の考え方や認識が変わるだけで、他人の反応も変わるという経験を、まだきちんと実感出来ていないのかも知れません。

 

昔の友人に 「相手に多くを求め過ぎだよ」 と言われたことが書かれていますが、正しくその通り。この女性は、それであれば、旦那に多くを求めるのではなく、外食で・・・という方向に進んでいくわけですが、外食の相手にも、多くを求め過ぎないか?・・・ということです。

 

この手の女性の場合は、自分の思ったとおりでないと気が済みません。気に喰わないところがあると、全てが0になってしまうタイプです。

0か100かと言うと、論理的な印象を受けますが、きちんとボーダーが50点とか70点とかにあれば問題ありません。しかし完璧を好む人の場合、0~99 は 0になってしまうのです。

極端なことを言うと、ひとつでもミスを冒(おか)したら不合格ですから、合格者は滅多に出ません。偉そうな割には、どこかキャパの狭さのようなものを感じます。

多分、内食を諦めて、外食してみたとしても、そこには感謝も満足もなく、言い訳しか残らないような気がします。

相手の悪いところばかりを 「粗探(あらさが)し」 するのではなく、相手の良いところを見つけて、相手に感謝する気持ちがなければ、そもそも精神的な満足を得られる筈もありません。

 

そもそも、記事の最後にいみじくも、「つまり私は恋愛がしたいのか、マンネリ状態を脱したいのか。ぐるぐると思考が渦巻いて、支離滅裂な状態・・・」 と書いてあるとおり、自分が何をしたいのか、何を求めているのかすら、はっきりと分かっていないのです。

 

まだ夫婦の可能性も残っているわけですし、こういうタイプは、外食し始めると、今度は、気に食わないことがあると、どんどん相手を乗り換えていくタイプに変容しますので、外食はしないほうが無難です。

 

***

 

しかし、外に活路を見出す人達もいます。

 

(つづく)

2017/11/22

とあるセックスレス相談 (3)

前記事 「とあるセックスレス相談 (2)」 の続き。

 

セックスを拒否する側の苦悩


(1) 夫婦生活を拒否する側の苦しみ

「夫婦生活を拒否する側の苦しみ(上) 妊娠きっかけ、外国人夫と 『地獄の日々』」

「夫婦生活、拒否する側の苦しみ(下) ストレス頂点、電話から夫の泣き声」

 

この記事は、一人目の産後初のセ☆クスで二人目が懐妊してしまったケース。

自分が以前に相談に乗った10数年間セ☆クスレスの女性も、ほとんどこれと同じような展開でしたので、セ☆クスでは、常に神経質なほど避妊を確認していた記憶があります。

このお二人は国際結婚ですので、言語・宗教・文化、国民性や価値観の違いなど環境が異なることによるストレスも、かなり大きいものと思われますが、やはり、出産・育児と仕事そして生活の疲れもあって、自分が被害者であるという意識が強くなってしまっており、そのストレスを旦那に向けてしまって、自分の気持ちの余裕がなくなってしまっています。

 

前記事にあった例も、女性からの求めではありましたが、相手に対する心遣いを忘れてしまい、「セ☆クス」 するのが当たり前であり、相手を気持ち良くしてあげるという思いよりも、常に自分が気持ち良くなりたいという 「エゴ」 が強く出てしまっているように思います。

 

やはり、「セ☆クス」 は、心と身体のコミュニケーションなんだと。ひとつの家庭で常に顔を合わせている存在であるからこそ、その辺の使い分けがとても難しいわけですが、拒否する方は、既に 「いっぱいいっぱい」 になっており、また、拒否された方は、裏切られたような、突き放されたような感じに感じてしまうのでしょう。

 

ここでは、本人も書かれていますが、「自分だけが大変な思いをしている。夫はわかってくれない。」 という被害者意識があり、そして、それゆえに 「意地でもセ☆クスをさせてたまるものか。」 という思いもあったと吐露(とろ)しています。
「セ☆クス」 を 「取引材料」 とすることは、一番良くないことです。

この例では、「カウンセラー」 を間に入れたことが、ひとつの気付きと修復のキッカケとなっています。これは、ひとつの良いやり方です。
 

同じ屋根の下で毎日顔を合わせていると、相手を理解したような気になってしまいますし、文化や価値観の違いもあり、どちらも自分を悪いとは思っていません。

相手にいくら期待しても、不満を言っても、自分の思い通りになることはまずありません。夫婦の場合、結局は、お互いに寄り添いつつも、何処で折り合いを着けるのか、しかありません。


「自分」 を守りに入ってしまうと、自分を害する人は全てが 「敵」 になってしまいます。
自分を大事にすると共に、相手のことも考える 「優しさ」 が、「愛」 の根底になります。
夫婦の間に会話はあっても、そこに通じている心がなければ、単なる 「業務連絡」 に過ぎません。
どちらが一方的に悪いわけではありませんが、お互いに余裕がなくなり、相手のことを考えることが出来なくなっていったことが、どんどん拗(こじ)れた結果、ひとつの症状として、「セ☆クスレス」 が現われた・・・という感じでしょうか。

何処の家庭でも良くあることだけに、考えさせられます。

 

 

(2) 夫の求めを拒否することに悩む女性

「夫の求めを拒否することに悩む女性(上) 子連れで再婚」

「夫の求めを拒否することに悩む女性(下) 熱出しても、介護中でも...」

 

この夫婦の場合も、女性は性欲があまり強くなく、セ☆クスを気持ち良いと思っておらず、セ☆クスをしても翌日身体が痛くなり、仕事がきつくなることから、セ☆クスが苦痛になっているケースです。自分が気持ち良くなく苦痛でしかないことから、義務で応じているという感覚があることから、本人は全く楽しめていませんし、それ以上に、週に1回は絶対にしようとする旦那に対して、一種の 「脅迫観念」 さえも感じているように思われます。

 

***

 

どちらのケースも、「夜の営み」 に限定して言えば、女性は 「オーガズム」 には至っておらず、楽しめている気がしません。

女性の方は、夫婦の「義務」 として 「夜の営み」 をしているに過ぎませんし、男性は男性で、単なる性欲処理的な、男性的なセ☆クスになってしまっている気がします。

 

(つづく)