出会いと別れ (2)
前記事 「出会いと別れ」 の続き。
縁と愛と生と死と
出会いがあれば、別れがあります。
人が生まれるのが出会いなら、死はお別れです。
こればかりは、いくらお金持ちだからと言って、どうなるものでもありません。
才能と機会に恵まれ、そして巨万の富を築いたハリウッドスターであろうと、愛と生死だけは、自分の思うようには出来ません。
「出会い」 もそうなら、「別れ」 もそうですが、「縁」 が取り持つ 「関係」 というのは不思議なものです。
そして、「出会い」 もそうなら、「別れ」 もそう。
何だか訳の分からない 「流れのようなもの」 に、浚(さら)われて、急に発展する場合もあれば、何だか訳の分からない 「流れのようなもの」 に巻き込まれて、そして、急に壊れる場合もあります。
愛は辛抱(しんぼう)です。
お互いが維持しようと、踏ん張っている限りにおいては、繋がり続けることが出来ます。
しかし、人と人の関係は、自分の思うようにはなりません。
親子関係もそう。自分の血を引く子供でさえ、自分の意のままにはならないのです。ましてや、血の繋がらない夫婦関係なら、尚更です。
SM における、主と奴隷の出会いと別れ
そして、それは、SM においても同じです。
SM において、「奴隷」 とは、主の命令が絶対の存在であり、人権のない存在であり、そして、自分の意思では主の下を去ることが出来ない存在です。
ここだけ見る分においては、ローマ帝国時代あるいは南北戦争前のアメリカの 「奴隷制」 と何ら変わりません。
SM における 「奴隷」 と、「奴隷制」 の 「奴隷」 の大きな違いは、奴隷が自らの 「意思」 で奴隷となっているのか、それとも 「強制」 されているのかの違いです。
そして、お互いの 「意思」 で繋がっている以上、SM の 「奴隷」 の場合であれ、どちらか一方の心が離れたときには、関係を強要することは出来ません。
一見矛盾するように聞こえるかも知れませんが、自分は奴隷に対して、
「来る者は拒まず、去る者は追わず」
と言っています。
これは、「奴隷」 という 「特別な存在」 で在り続けたいのであれば、主の命令は絶対であり、奴隷は人権のない存在であり、そして、自分の意思では主の下を去ることが出来ないという、「奴隷の原則」 を守りなさいということです。
つまり、奴隷が主のもとを 「去りたい」 と思った時点で、既に 「主の奴隷」 ではなくなっているという意味に他なりません。
とある別れ
「多頭飼いなんだから、ひとりくらい減っても、問題ないでしょ?」
そう言われると、かなり凹みます。
代わりの人がいないから辛い。代わりの人がいるから問題ないというものではありません。
自分は一人一人、その人自身を見ています。
奴隷ひとりを受け止めるにも、それなりのエネルギーが必要です。
そして、奴隷に対する 「リスペクト」 というのは、ちょっとおかしな表現かも知れませんが、自分は、どの奴隷に対しても、その奴隷の人格を尊重し、きちんと誠心誠意、対峙しているつもりです。
とは言え、主と言えども人間ですから、「完全」 ではありません。
そもそも、不倫をしても、何も罪の意識さえも感じない上に、長年 「SM」 に興じているような 「ゲス」 な人間ですから、偉そうなことを言えたものではありませんが、言うなれば、「一寸の虫にも五分の魂」 みたいなもんです。
「ゲス」 は 「ゲス」 なりに、ゲスの良識を意識しているということ。
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今回の別れの発端は、とある 「M女さん」 との出会いから始まりました。
この 「M女さん」 は、既に 「主」 がいる方。 しかも、もう結構、「主の方」 とは長いようで、SM プレイから複数プレイに至るまで、いろいろとお話を伺っておりました。
SM であれ、結局のところ突き詰めれば、「マンネリ」 と 「女性の嫉妬」 を如何にして克服するか、の世界です。
経験者としての 「M女さん」 とそんな話をしたあと、彼女は、自分の 「主」 に対する思いをブログにアップしたのですが、それがどうやら、自分の愛奴の気に障(さわ)ったようなのです。
もしかしたら、書き手からして見ると、多少の皮肉に受け取れるような記述があったのかも知れませんが、特に、自分の愛奴に対するあからさまな 「誹謗中傷」 があったわけでもありません。しかし、そこから 「愛奴との関係」 は拗(こじ)れに拗れてしまいました。
ここまで来ると、「誰が悪い」 という話ではありません。
彼女が悪いわけでも、愛奴が悪いわけでもなければ、自分が悪いわけでもない。
いや、自分を正当化したところで意味ありません。結局のところは、愛奴の言い分をきちんと聞いて、受け止めてあげれなかった自分に幻滅したのでしょう。
既に自分から気持ちが離れていたのであれば別ですが、まさか、こんな些細(ささい)なことで破局を迎えるとは、思ってもいませんでした。
愛奴は、ここのところ、いろいろなことが重なっていましたし、「普段は、しっかりしないと・・・」 みたいに甘えたい気持ちを抑えようとするところもありました。
幼馴染との忘年会でも、いろいろと 「多頭飼いなんか、やめときな・・・」 みたいなネガティブな忠告があったのかも知れません。
気持ち的に 「いっぱいいっぱい」 なところで、自分がドジを踏んでしまったのかも知れません。
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しばらく間を置いて、戻ってきて欲しい期待はありますが、もう、難しいかも知れません。
若い時分で常に右肩上がりに成長するのであれば、過去を振り返らず、「コレジャナイ!」 と思ったら、終わりにして 「次!」 でもいいと思います。
しかし、人は齢(よわい)を重ねていくに連れて、坂も次第に下りに入ってくると、人との 「縁」 を大事にすることの大切さも、学びます。
人もいつか壊れる存在であるからこそ、いつか壊れる 「縁」 であっても、それを出来るだけ大事にする必要があるわけです。
とは言っても、未練タラタラですが、愛奴を責めるつもりは毛頭ありません。
愛奴が自分から離れていったのは、自分の至らなさであり、愛奴を飼いきれていなかった証拠なのですから、全ては自分のミスなのです。
「縁」 とは?
「縁」 とは不思議なものです。
「縁」 には、自分が相手に何かしらの影響を与える 「触媒(しょくばい)」 あるいは 「伝播係」 のような役割を担う場合と、自分が相手から何かしらの影響を受ける 「主体」 あるいは 「末端」 としての役割を担う場合があります。
愛奴との関係も、「縁」 によって始まり、そして、「縁」 によって終わりを迎えました。
今はまだ分かりませんが、しかし、この出会いにも何か意味があるとすれば、形はどうであれ、いずれ同じ状態になっているはずです。
答えは誰にも分かりませんが、しかし、「縁」 で生じた 「出会いと別れ」 の先に、自分に約束されていた何か大切なものを見つけたとき、人はそれを 「運命」 と呼び、そして、自分の 「縁」 を繋いでくれた人達に感謝します。
自分は、愛奴と会うべくして会い、そして、別れるべくして別れた・・・と思いたい。
自分は 「多頭飼い」 だからと言って、それぞれの人を比較したりはしませんし、自分に着いて来てくれている以上は、みんな自分の大事な 「奴隷」 です。
そして、自分の予想に反して、別れが早かったから、あるいは、「愛奴との関係」 が、自分の思い通りに行かなかったからと言って、相手に対して怒りを覚えたりはしません。
愛奴には、自分のような人間と時間を共有してくれたことに感謝しています。
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「来る者は拒まず、去る者は追わず」 などと格好付けている 「多頭飼い」 ではありますが、愛奴に去られたときは結構、こんな調子で凹んでいるのが実情です。(苦笑)
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