天国と地獄
お寺で 「婚活支援」 をしているお坊さんのお話です。
「お葬式」 でしか縁がないので 「葬式仏教」 などという言葉が定着して久しくなります。昔は、町の寺子屋代わりであったり、近隣の人の相談の場であったりしたそうですし、戦時中の疎開(そかい)先の寺社などは、疎開してきた学童などを受け容れていたそうです。
昭和の高度成長期辺りでも、まだ、お寺が幼稚園を経営していたり、書道教室を開いたり、町の公民館的な存在だったところもありましたが、古くから、「坊主丸儲け」 などと言われるように、欲に駆られる僧侶もいましたし、「エロ坊主」 などという言葉もあるように、若くして未亡人になった女性に手を出したり、立派な僧侶も居れば、自分のようなゲスの僧侶も居たりと、ある意味、人々の生活の中に、まだ 「お寺」 というもの残っていたものです。
最近では、「葬式仏教」 のイメージを払拭(ふっしょく)しようとしているのでしょうか。新たな活動を手掛ける人達も出て来ているようです。
このお寺では、2010年辺りから、婚活支援に乗り出したそうです。
社会として、需要があるわけですから、それは大変良いことだと思います。
内容的には、男性は、若い子と結婚したがり、女性は、頑(かたく)ななまでに妥協しない。
このお坊さんの言う、「人は一人で正しく生きられるほど立派じゃない」 といった言葉や、「人を数字で見るのではなく、まずは出会いなさい」 という言葉などは、まさしくその通り。なるほどなと関心してします。
そして最後に、このお坊さんの 「天国と地獄」 の逸話が、「目から鱗(うろこ)」 で、秀逸です。
テーブルとか椅子とか言ってるので、もともとが仏教の小噺ではないのか、それとも、現在風に脚色し直したものなのかはわかりませんが、緊縛好きには、「椅子に縄で縛られた・・・」 みたいな表現も、嬉しくなってしまいます。(^^)/
数十人が座る長テーブルに大変なご馳走が並び、皆が座っているんです。ただし、人々は椅子に縄でぐるぐるに縛られていて、手には、長いフォークを持たされているんですね。で、フォークが長すぎて、料理をさせても自分の口に運ぶことができなない。目の前にご馳走があるのに食べられない。これほどの地獄はありません。足元に幸せは落ちているのに、満たされない、飢えている状態です。
極楽もほとんど同じ状況です。料理を前にして、椅子にぐるぐる巻きに縛られている。手には長すぎるフォーク。しかし何が違うかと言えば、まず、隣の人、向かいの席の人に、自分のフォークで料理を食べさせてあげるんです。そうすると相手が食べさせてくれる。
まず、隣の人に与える。周囲の人の幸せを願う。自分の幸せを最初に願うか、他者の幸せを願うか、この違いが、地獄の生き方と極楽の生き方の違いです。ちょっとした差が大きな差になる。結婚や恋愛も、最初に相手の幸せを願う心を持つか持たないかで大きく変わってくるのです。
「エロ師」 的に言わせて貰えば、「セ☆クス」 も同じです。
自分が気持ち良くなるための 「性行為」 は、例え男女が抱き合っていたとしても、心は通っていないのなら、相手の身体を使った単なる 「マ☆ス☆タ☆ベ☆ー☆シ☆ョ☆ン」。
「オ☆ナ」 に過ぎません。お互いが相手を気持ち良くしたいという気持ちがあって、はじめて 「セ☆クス」 と言えるわけです。
そのためには、自分が欲しいものや、自分が好んで受け容れられるものだけを選り好みするのではなく、お互いに相手を受け容れるのが大切だと思います。
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自分というものを捨ててまで、結婚する必然性はないと思います。そんな結婚は、お互いが不幸になるだけです。
しかし、今ある 「自分らしさ」 を大切に思うということは、そもそも自助努力を放棄している状態ですし、相手よりも、自分を愛している状況ですから、「恋愛」 の体(てい)をなしていません。
「社会的規範」 に照らし合わせて、あるいは、社会の中で自信を失っている人に対しては、「自分らしさ」 を失わないように言いますが、個人対個人の関係において、「素(す)」 の自分を出せるか、あるいは、素の自分を受け容れて貰えるかどうかは重要かも知れませんが、「自分らしさ」 を主張するなんていうのは、「ワガママ」 であり 「甘え」 以外の何物でもありません。
自らの 「理想」 を求めて努力することは悪いことではありません。しかし、他人に 「理想」 を求めるなどと言うのは、「現実」 を見ていない証拠。
自己中の人ではありませんが、そういう人は、お付き合いしていたとしても、自分しか見ていないのです。
大切なことは、自分の目の前にいる 「相手」 を見るということです。
このお坊さんも言っているように、「結婚したくない人」 に無理やり、結婚を薦めるつもりはありませんが、少なくとも、「結婚したい」 と考えている人に対しては、もう少し、頑な気持ちを緩めても良いような気がします。
人を選ぶにあたって、数字や条件に捉われ過ぎている人は、結局は、自分のことしか頭にないわけです。
たとえ、その結婚が失敗して、「あんな結婚はするんじゃなかった!」 と思ったとしても、「結婚したい」 と思いつつ、生涯結婚出来ないよりはマシです。
「してしまった後悔」 を選ぶのか、それとも、「しなかった後悔」 を選ぶのか。
それは本人の選択次第です。
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