2ntブログ
2017/04/22

出会いと縁

男女の仲だけでなく、同性同士もそう。縁(えん)とは、不思議なもの。

縁には、縁を繋(つな)げる役割の人達 「コネクタ」 と、縁によって繋がる 「当人」 になる人達 「ターミナル」 になる人達がいます。

 

若い頃は、「自分が利用されている」 と勘違いしていました。

 

しかし、自分も稀(まれ)に、繋がる側である 「ターミナル」 を経験したりすると、やはり、繋げる役割である 「コネクタ」 の存在の重要さを、意識せざるを得ません。

 

そうやって見えてくる 「目に見えない人間像」。

 

「良縁」 を単なる 「グッドラック(幸運)」 だと思って、良縁を繋いでくれた 「コネクタ」 の存在をいい加減に扱う人、「邪険(じゃけん)に扱う人」 は、良い結果に恵まれません。

 

今、自分が 「損しているか」 あるいは 「徳しているか」。あるいは今後、その人との関係で、自分が 「損するか」 あるいは 「徳するか」 で 「人間関係」 を測(はか)るのではないと言うこと。

人間関係は、「今のうちに、この人に恩(おん)を着せて、後でいろいろ返して貰おう」 みたいな打算でなりたっているものではないということ。

 

「一期一会(いちごいちえ)」 とは、純粋にその人そしてその時間を自ら楽しみ、そして、その人との時間の共有に感謝し、共感することです。その時間とその人を尊重するということ。

 

自分の体調が悪くても、そのときのベストを尽くすのです。

「自己ベストを出せ!」 と言っているわけではなく、「その人」 と 「その時」 を最大限楽しみなさいということ。

 

あくまでも、「奉仕」 する側、場を仕切る側である 「茶道の心得」 なのです。

 

画一的・機械的な 「マニュアルベース」 のサービスではありません。

 

SM と一緒なのです。

 

人と人との関係は、その組み合わせ毎(ごと)に異なるのです。

 

人の組み合わせが異なれば、干渉しあう色も違う。干渉しあうことによって生まれる 「和音」 も 「不協和音」 もそれぞれ異なるのです。

 

桜の花のように、パッと咲いて、パッと散る関係もあります。しかし、その時間は短くても、人の心、人の記憶にずっと残る 「開花」 もあるんです。

 

花見で、大騒ぎをするのは、悪くありません。

みんなで楽しく騒いで、いいんです。

そして、楽しさをお隣さんにも分けてあげればいい。
食べ物をシェアし、飲み物を注ぎあい、そして、喜びのシェアを伝播させること。
でも、強制はいけません。相手の受け入れ具合をきちんと測りながら・・・です。

「袖(そで)摺(す)り合うも多生(たしょう)の縁」

袖を摺り合う・・・という意味は、それだけ物理的に近くに居たということですが、多生の縁の 「多生」 は、仏教用語で輪廻(りんね)を表す言葉であって、「多少の縁」 = 取るに足らない縁 という意味ではありません。

ましてや、ネットなどの情報科学の発達によって、今や、物理的に離れていても、袖が触れ合う世界です。

縁には、良縁もあれば、悪縁もあります。
しかし、絶対的な良縁もなければ、絶対的な悪縁もない。
縁を大事にする人には、良縁が集まり、縁を利用する人には、悪縁が集まる。

見える人には、見えて、見えない人には全く見えないのが、「縁」 です。

あなたは、「縁」 を大事にしていますか?

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