2ntブログ
2017/04/20

SM とは解放と休息の場 - とあるSM 相談 (1)

以前、元カレとの SM で耐え切れなくなったという女性の相談に乗りました。

お話を聞いてみると、プレイにおいては、言葉責めと称して、「お前は駄目なんだ」 的な自己否定的な批難を常に浴びせられ、束縛されていたとのこと。

本人曰(いわ)く、「洗脳されている気がした」 とのことでしたが、ここまでくると 「呪縛」 という表現のほうが近い。(苦笑)

 

しかし、元カレについて話を聞いてみると、常に 「イライラ」 としているタイプではありますが、きちんと社会生活は送っているし、特段、サイコ・・・というわけでもない。

 

社会の一線で全力を尽くしていると、全く自分に余裕がなくなってしまう場合があります。

政治やニュースなどを通して、世の中を見回して見ても、「そうじゃない!」 と感じる現実は山積しています。

問題意識を持つことは、悪くはありません。しかし、評論化を気取って、自分を除く他の人達に 「駄目出し」 をして 「優越感」 に浸ってるだけなら、それは単なる 「自己満足」 の世界。

自分が優れているのであれば、少なくとも、労(ろう)を惜(お)しまず、「自分の愛する女性」 を 「良い方向」 に導いてあげればいいんです。

 

結局のところ、こういうタイプは、自己中心。そして、自分の思い通りにはならない他人に 「イライラ」 し、他人を批難することで自己を正当化し、安心しているタイプ。根源にあるのは、自信のない弱い自分であり、他人を恐れ、常にその露見を恐れているわけです。

 

そのカレが、愛しているのは常に 「自分」。 「他人の粗探(あらさが)し」 は、「自己防衛」 の表れに過ぎません。実は 「弱い」 から、実質的に脅威のない人間に対しても、鎧(よろい)を身に付け、あるいは、自分に危害が及ばない、自分より弱い相手に対して 「挑発行為」 を楽しんでいるわけです。

 

そんな元カレと、物理的な行為自体は SM に類似していたとしていたかも知れません。

 

しかし、その行為の本質は、自分の弱い気持ちを隠そうとして、あるいは、常に見下されている不安を解放しようとする 「弱い者虐(いじ)め」 に過ぎません。

 

自分にも、そういう余裕のない時期がなかったわけではありません。しかし、本質的な方向性が違うと、どうしても違和感を感じざるを得ません。

 

プレイにおいては、本人を言葉で罵(ののし)る場合もあります。過剰に罵られることで、本人の感情が後押しされて涙が出る。逆に言うと、そこまで追い詰められないと、自分の感情を解放できない人もいるのです。

しかし、その場合は、自分がストレスを発散したくて罵っているわけではないということ。

 

罵いることで、ストレスを発散したい人が、たまたまそういった、過剰に追い詰められないと、感情を表に表すことが出来ない人と出会えれば、まだいいのですが、人生はそんなに甘くはありません。

自分の思い描いている SM のイメージに固執する人の場合は、相手が自分の趣向とあっている人かどうかを見極め、「コレジャナイ!」 と思ったら、未練なく次に流れるタイプの人もいます。

 

大事なことは、主たる者が、きちんと 「受け手」 を見て、きちんと受け止めているかということです。

その 「受け手」 の心や内面にある傷。そういったものをきちんと理解しているか。そして、その現実から目を逸(そ)らそうとせず、きちんと正面から、その 「受け手」 に対峙できるかどうか。

 

「受け手」 にとっても、主との時間は、例え一睡(いっすい)も取れなかったにしても、満足感と充実感に浸れる、いっときの 「休息の場」 でなければいけないのです。

コメント

非公開コメント