アンタが主役?
いつまでたっても、なかなか難しいのは、やはり、「責め手」 と 「受け手」 の距離感の保ち方です。
自分も昔、若い時分に、波乗り(サーフィン)に興じたことがあります。
SM も、実に波乗りの感覚に似ています。
スポーツとしては、ベストの波を選んで、波に乗ろうとする他のひとに競(せ)り勝って、波に乗れた者勝ちの世界。競(せ)りに勝っても、乗れなければ全員敗者です。
しかし、波に乗れたとしても、きちんと 「良い波乗り」 が出来なければ、意味がありません。
波をきちんと読めず、自分勝手に動こうとしても、板は失速するだけ。
ギャラリーの視線を浴(あ)びて、「目立ってやろう」 とパフォーマンスを意識すればするほど、失速する。
大事なのは、波と自分の一体感。
無意識となり、波に自分を委(ゆだ)ねられないといけない。
ギャラリーから見たら、波に乗ってる時間なんて、せいぜい、数秒から十数秒、長くても数十秒の世界。
しかし、波に乗ってる人間の時間は、止まっているのです。
記憶に残っているのは、スローモーション。
コマ送り再生の世界です。
その数秒から数十秒が、とても長い時間に感じる。
きちんとしたワザを繰り出せるかどうかは、波の状態と、あとは自分の精進次第。
波に後押しされる感覚に、しっかりと身を委ねる。
波の前では、大自然の前では、人は 「受け手」 以外の何者でもありません。
受け間違えば、事故も起こします。
ときにはつまづいて、海の底まで連れていかれて、石などにしこたま押し付けられたりします。
さぼって 「ボーッ」 といていると、流されたり、もします。
波が巻いて出来る空洞(チューブと言います)にうまく入ることが出来ると、視界は急に暗くなります。水しぶきは目に入るし、明るい出口はずっと先。
おもいっきり叫んでも、波のうねるような音や、水しぶきの音に掻(か)き消されて、自分の声は聞こえません。
板をもっていかれないように、ただひたすら耐える。板を押さえて堪(こら)えていると、次第に出口は近づいてきて、急に視界が広くなる。そして、目の前の前面に、明るい世界が広がるのです。
「ちょびさん、チューブに入ってましたよ・・・」
ちょうどそのときゲッティングアウトしていた仲間が、目撃します。
うまくパーフォマンス出来たという 「喜び」 が、一挙にこみあげます。
パフォーマンスがうまく出来た・・・と言うのは、人の評価であり、仲間の評価。
主役となった快感はありますが、しかし、それは波に自分を委ね、波に転がされる快感。大自然と自分が調和する快感に比べれば、ほんの微々(びび)たるものに過ぎません。
波は、大自然の 「愛」 を感じさせてくれたりします。しかし、自分は愛されているから大丈夫などと舐(な)めてかかったり、調子に乗っていると、とても怖い存在です。
大自然の主は、愛するか怒るかです。憎(にく)みませんが、人の驕(おご)りや慢心そして甘えにはとても厳しい存在です。
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自分に自信のない人や、自分は価値がない。自分は誰にも求められていないと感じる人。そういう人には、「自分の人生における主役は、自分なんだよ」 と教えます。
人はみんな、完璧になるために生まれてきたわけでも、誰かを楽しませるために生まれてきた訳でもない。人は、自分が幸せになるために生まれてきたんです。
自分の人生において、主役は自分なんです。だから、自分を大切にしなきゃいけない。自分らしさを大事にしなさいと、教えます。
しかし、主の愛に触れたからといって、調子に乗って甘えていると、主は怒ります。
男と女の関係においてもそうです。
SM というロールプレイにおいては、文字通り 「主役」 は、「責め手」 である S です。
しかし、二人の関係においては、S は主(ヌシ)ではあっても、ヒロインとしての主役は M なのです。S は指揮者やプロデューサーであり黒子なわけです。
輝かしいヒロインは、本人の才能によるところもあれば、努力によるところもあるでしょう。しかし、自分一人の力ではなく、プロデューサーやその他大勢の黒子の存在があって、出来上がっているものなのです。脇役(わきやく)や端役(はやく)が居るからこその、主役なんです。
主役は、自分の思い通りに出来る存在ではないんです。
許されるのは、その役柄に沿って、自分の台詞(せりふ)や感情を表現することだけです。
だから、自分に自信のない子には、あなたの 「人生の主役はあなた」 だと言ってるわけです。では、主たるプロデューサーは誰かと言ったら、それはその子自身だと言ってるわけです。
一方で、主役なんだから、何でも自分の好き勝手が出来ると勘違いしている子に対しては、厳しく接します。
ドラマには、ドラマの調和が、撮影現場には撮影現場の調和があるように、SM にも調和が求められるのです。SM は手段であり方法論であり、道のようなもの。
SM の根底には 「愛」 があります。しかし、その愛を絶対的なものと勘違いし、あの 「愛」 に甘え、調子に乗っていると、調和は脆(もろ)く崩れるのです。
SM においては、「受け手」 である M が主役なのです。
そして、主役であるからこそ、自由が効かないのです。許されていることは、ただひとつ。
主を信じ、主の命令に従い、その中で、自分や自分らしさを表現するということだけなんです。
主の前では、嫉妬や独占欲あるいはプライドや不安に駆(か)られて、そのときの自分の感情に耳を傾けては駄目なんです。
自分の迷う心を全て捨て去り、主の命令に耳を傾け、そして主に自分の心も身体も委ねる。
自分は 「自分の人生の主役」 であるからこそ、自分の役を放り出すことが許されないのです。
SM においては、M が主役。
身体中の産毛を逆立てて、自分に触れる主の指を感じ、命令を聞き逃すまいと、主の声に集中しなさい。そして、主の命令を否定しようとする邪念を打ち払い、自分の身体の奥から込み上げてくる熱いものから逃げようとしないで、ただただ耐え続けなさい。
そして、自分は楽器にでもなったつもりで、主が奏(かな)でる振動を全身に響(ひび)かせて、心地良い音色で鳴きなさい。
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