SM とセックス
某師曰(いわ)く 「SM がセックスにつながる様では青い・・・」 みたいなことが書かれておりました。
SM の延長にセックスがなくとも、脳でイクのが SM の真髄なんだそうです。
まあ、セックスという行為を経(へ)なくとも、ドーパミンにオキシトシンといった脳内快楽物質が 「ドバッ」 と放出できれば、それに勝ることはない・・・のは確かです。
まだまだ精進が足りないと言われれば、そのとおりですが(苦笑)
しかし、自分にとって SM は、やはり性的な行為の一部。
セックスは、身体と心のコミュニケーション。身体だけでも、心だけでも、気持ちいいけど、身体と心の両方で、しっかりと相手を受け止めることが出来たとき。まるで自分が鮭(さけ)にでもなった気分になります(笑)
人は、神の教えに背(そむ)き、エデンの園から追放された・・・みたいな話があります。
禁断の実を食べたことで、自我が芽生(めば)えたかどうかは解りませんが、この自我は英語で言うとエゴ(ego)。
人は神に背き、知性を発達させた結果、棒や火をはじめ道具を使うことを習得しました。
そして、限りなく欲望を膨(ふく)らませることも覚えました。
しかし、自分の場合は、棒や火といった道具を使って、目の前の女性をピクピクさせては楽しんでいるだけ。
多くのひとは、ことセックスに関しては、何も使わなかったりします。ひどい場合だと、言葉すらかけない。
自分の場合は、使えるものは道具でも何でも使って、相手のエゴを無力化させて、相手の本能を剥(む)き出しにしているだけです。
自分にとっては、SM は 「型」 ではなく 「手段」。
型は美しくアートに昇華(しょうか)できるかも知れない。それはそれで美しい。プロの世界は、魅(み)せてナンボ。そういう道があってもいい。それは、自分みたいな輩(やから)の道しるべになるから。
しかし、理屈で SM をほじくると、そこから見えてくるのは、まるで漢方医学にも似た先人達の経験則。そして、その底にあるものは、人の本能レベルにまで昇華した男女間の愛。
桜ではないけど、愛とは 「はかない」 から美しい。
野暮(やぼ)にならないように、粋(いき)になろうとし過ぎると、気障(きざ)になる。
自分は、粋であるに越したことはないけれども、野暮でなければ、それでいい。
江戸の美学・精神性 六雁(むつかり) によると、野暮と粋は紙一重とまでは行かないまでも、かなり近い位置関係にあるらしい。
そういう意味で 「粋」 を捉(とら)えると、二枚目俳優から脱皮して、マツケンサンバを歌った 「松平健」 や、バラエティーに出まくって強持(こわも)てのイメージを払拭(ふっしょく)した 「松方弘樹」。そして、最近で言えば 「勇者ヨシヒコシリーズ」 でダンジョー役を演じる 「宅間伸」 みたいな感じか。
セカンドブレーク直前!?ベテラン俳優・宅間伸にバラエティ界からも熱視線!
しかし、意見は分かれるものの、そんな某師に対して共感するところ。それは多分、相手を 「イかせてナンボ」 の感覚だと思います。
自分がイクことを目的としていないということ。
しかし、「エロゴト師」 の自分としては、SM は 「色事」 の範囲で捉(とら)えたい。
人間は完璧でないから、色がある。
そして、愛ははかないからこそ、美しいんです。
だけど、それを憎しみや悲しみで終わらせては野暮というもの。出会いを感謝できる状況に昇華できてこそ、粋なんです。
だからこそ、自分を頼って来たひとには、全力を尽くします。
思いっきり泣いて、思いっきり鳴きなさい。
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