2ntブログ
2017/04/07

SM とセックス

某師曰(いわ)く 「SM がセックスにつながる様では青い・・・」 みたいなことが書かれておりました。

SM の延長にセックスがなくとも、脳でイクのが SM の真髄なんだそうです。

まあ、セックスという行為を経(へ)なくとも、ドーパミンにオキシトシンといった脳内快楽物質が 「ドバッ」 と放出できれば、それに勝ることはない・・・のは確かです。

 

まだまだ精進が足りないと言われれば、そのとおりですが(苦笑)

 

しかし、自分にとって SM は、やはり性的な行為の一部。

 

セックスは、身体と心のコミュニケーション。身体だけでも、心だけでも、気持ちいいけど、身体と心の両方で、しっかりと相手を受け止めることが出来たとき。まるで自分が鮭(さけ)にでもなった気分になります(笑)

 

 

人は、神の教えに背(そむ)き、エデンの園から追放された・・・みたいな話があります。

禁断の実を食べたことで、自我が芽生(めば)えたかどうかは解りませんが、この自我は英語で言うとエゴ(ego)。

 

人は神に背き、知性を発達させた結果、棒や火をはじめ道具を使うことを習得しました。

そして、限りなく欲望を膨(ふく)らませることも覚えました。

しかし、自分の場合は、棒や火といった道具を使って、目の前の女性をピクピクさせては楽しんでいるだけ。

多くのひとは、ことセックスに関しては、何も使わなかったりします。ひどい場合だと、言葉すらかけない。

自分の場合は、使えるものは道具でも何でも使って、相手のエゴを無力化させて、相手の本能を剥(む)き出しにしているだけです。

 

自分にとっては、SM は 「型」 ではなく 「手段」。

 

型は美しくアートに昇華(しょうか)できるかも知れない。それはそれで美しい。プロの世界は、魅(み)せてナンボ。そういう道があってもいい。それは、自分みたいな輩(やから)の道しるべになるから。

 

しかし、理屈で SM をほじくると、そこから見えてくるのは、まるで漢方医学にも似た先人達の経験則。そして、その底にあるものは、人の本能レベルにまで昇華した男女間の愛。

 

桜ではないけど、愛とは 「はかない」 から美しい。

野暮(やぼ)にならないように、粋(いき)になろうとし過ぎると、気障(きざ)になる。

自分は、粋であるに越したことはないけれども、野暮でなければ、それでいい。

 

江戸の美学・精神性 六雁(むつかり) によると、野暮と粋は紙一重とまでは行かないまでも、かなり近い位置関係にあるらしい。

 

そういう意味で 「粋」 を捉(とら)えると、二枚目俳優から脱皮して、マツケンサンバを歌った 「松平健」 や、バラエティーに出まくって強持(こわも)てのイメージを払拭(ふっしょく)した 「松方弘樹」。そして、最近で言えば 「勇者ヨシヒコシリーズ」 でダンジョー役を演じる 「宅間伸」 みたいな感じか。

セカンドブレーク直前!?ベテラン俳優・宅間伸にバラエティ界からも熱視線!

 

 

しかし、意見は分かれるものの、そんな某師に対して共感するところ。それは多分、相手を 「イかせてナンボ」 の感覚だと思います。

自分がイクことを目的としていないということ。

 

しかし、「エロゴト師」 の自分としては、SM は 「色事」 の範囲で捉(とら)えたい。

 

人間は完璧でないから、色がある。

そして、愛ははかないからこそ、美しいんです。

だけど、それを憎しみや悲しみで終わらせては野暮というもの。出会いを感謝できる状況に昇華できてこそ、粋なんです。

 

だからこそ、自分を頼って来たひとには、全力を尽くします。

 

思いっきり泣いて、思いっきり鳴きなさい。

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