2ntブログ
2016/01/11

「多頭飼い」 について [改訂]

犬などのペットの場合もそうですが、本来 「多頭飼い」 は、複数の M を同時に調教する 「複数プレイ」 のことを指してしたように思います。しかし最近は、一人のパートナーしか持たない 「一頭飼い」 に対して、同時期に複数人の M を、それぞれ個別に並行して調教しているような場合も含めて使ったりしています。

多頭飼いは、M 同士を引き合わせる場合もありますし、他にも M がいることを伝えるだけの場合もあります。また、その存在を明確には言わないで、示唆するだけの場合もあります。

自分は、単独さんを招いての複数プレイは経験あるものの、M 同士を引き合わせての多頭プレイは、経験がありません。
M 同士を仲良く取り持ち、お互いの 「わだかまり」 をなくして、全員で楽しむ。M 同士の嫉妬や荒立つ感情。それぞれの手綱(たづな)を操(あやつ)りながら、全員を満足させる必要がありますので、多頭で個別に調教しているのとはわけが違います。
S の懐(ふところ)の深さが求められるという点で、「新たな境地」 であることは明らか。

いずれの場合も、多頭飼いに ”つきもの” なのは、女性の 「独占欲」 であり 「嫉妬」 です。
実際に引き合わせることで、これらに正面から対峙して、独占欲や嫉妬までも、手懐けようとするひともいれば、単に、独占欲や嫉妬を利用しようとするひともいます。
独占欲や嫉妬の利用も、これを意識させることで、常に自分に関心を集めるように利用するひともいれば、一定の距離感を確保するために利用するひともいたりと、さまざまです。


自分にとっての 「多頭飼い」 は後者。消極的な意味での 「多頭」 です。

実際に 「多頭飼い」 状態になると、時間もそれに要する金額も頭数に比例して倍にも3倍にもなりますし、体力もその分消耗します。当然、増やすには自(おの)ずと限界というものもありますが、しかし、「多頭飼い」 と称していても、檻(おり)の中には一頭しかいない場合もあれば、空っぽの場合も多々あります。(苦笑)

そういう意味では、あえて 「多頭飼い」 と言わなくても良いときも少なくありませんが、何故公言しているかと言えば、それは、「複数の女性」 を調教することで ”男性のばら撒き欲求” を満足させたいからというよりは、女性の 「独占欲」 を満足させるための 「縛り」 は一切受け付けないよ・・・的なスタンスの表明みたいなもの。それがひとつ。
そして、もう一つの理由は、こちらの方が重要ですが、他の女性の存在が自分にとって、一人の相手にのめり込むことを防止するための 「ストッパー」 になるということ。当然、他の女性の影は、相手に対しても 「ストッパー」 となり得ます。

自分自身、いくら格好を付けたり、偉そうなことを言ってみたところで、所詮(しょせん)は、SM に呆(ほう)けている ”禄(ろく)でもない” 単なる 「おっさん」 です。当然、若い女性の未来や家庭を犠牲にするほどの価値はありません。
「ストッパー」 と言うよりは、そのための予防線と言ったほうが正しいかも知れない。

しかし、そんな男でも、何かを求めて来てくれる人がいるのは嬉しいことです。
だからこそ、自分はそれぞれの相手を誠心誠意愛し、与えてあげれるものは分け与え、一緒に楽しい時間を過ごす。一期一会だからこそ緊張感があっていい。
こんなおっさんを独占したところで、何もいいことはひとつもありませんよと・・・。自分の場合は、そんな感じです。


一方、女性の方はと言えば、「独占欲」 がもとから備わっているので、女性にとっては 「一頭飼い」 が一番であることに変わりはありません。「多頭飼い」 を意識すると、もうそれだけで苛々(いらいら)するという人も少なくないかも知れません。
実際問題 「多頭飼い」 を敬遠(けいえん)する女性は少なからずいます。

女性の 「独占欲」 は、女性の持つ生存本能です。人間は他の動物と比べると出産や子育ての負荷も高く、発情期もありません。人間の長い進化の歴史の中で、男性を独占できなかった女性は、食に飢えたり外敵に襲われる危険も多く、妊娠し出産に至る確率も低かったであろうことは、想像に難(かた)くありません。

しかし、人間の種の保存には、重要な役割を果たしたかも知れない 「女性の独占欲」 ですが、婚姻の 「一夫一婦制」 は、そもそも、宗教的にも制度的にも、女性の独占欲を満たすために存在するものではありません。
なので、まるで既得権益とばかりに、結婚の例を持ち出して、SM の世界にまで 「一夫一婦制」 すなわち 「一頭飼い」 を求める女性も居たりしますが、それはまったくのナンセンス(笑)

本能の話をするのであれば、女性の 「独占欲」 に対し、もう一方の男性側に備わる本能とも言える 「ばら撒き欲」 の方も尊重しなさいみたいな話になります (笑)
こちらはと言えば、人間がまだ植物だった頃にまで遡(さかのぼ)ります。多くの皆さんが毎年悩まされる杉花粉もそうですが、自らの種を残すために、より広範囲に種をばら撒こうとするわけです。起源は植物の時代まで遡るわけですから、こっちのほうが、より深刻なわけです(苦笑)

まあ半分冗談ではありますが、そういうわけで、「一頭飼い」 も 「多頭飼い」 のどちらも、それは当事者のポリシーであって、尊重されるべきもの。
好き・嫌いは勝手ですし、当然、M にも 「主」 の選択権はありますので、「一頭飼い」 や 「多頭飼い」 といった主従形態は、最後は、あくまでも本人達次第の話。
言いたいことは、どう理屈をこねたところで、結局は趣向の問題。いずれも正当化できるものではないということです。


自分の心の中の 「独占欲」 や 「嫉妬心」 が抑えられないから・・・という女性の苦悩が生じているのは本心であり、確かだと思います。
「多頭飼い」 を許容している、あるいは、許容せざるを得ないひとは少なからず居ますが、その中で、「多頭飼い」 が好きだと言う M は、まず居ないでしょう。
「多頭問題」 は、そういう意味では、M にとっては、とても重要でセンシティブな問題であることは、十分認識しています。
なので、適切にコントロールできている M に対しては、不必要に刺激するようなことはしません。もし、日常の生活の中で、ふと、そういう気持ちが沸き起こったときには、むしろ、”本来の自分” のあるべき姿に戻ってもらいたい・・・という思いがあります。

これは、自分の場合は、相手同士を引き合わす予定がないということに他なりません。ですので敢(あ)えて 「相手が誰であるか」 を、お互いに知らせることはしていませんし、当然その序列も明らかにしていません。

相手が敢えて、その問題に触れてこない限りは、一緒にいる時間は、実際の調教のときはもとより、電話であろうと、メールや SNS であろうと、それは100%その相手のための時間と認識しています。
”多頭の自分” を相手が独占できる時間なのです。なので、それを認識している子達は、本音では気になっていたとしても、その話には触れてきません。


大事であり至福であるのは、お互いが向き合っている 「今」 であるということを、相手が解かってくれているかどうか、そこまでは分かりません。
聞かれれば自分は、包み隠さず全てを話しますので、折角の大事な時間を 「修羅場」 にしたくないという思いが、相手にあるのかも知れません。
自分自身に威厳があるとも思いませんが、もしかしたら相手は 「尊敬」 あるいは 「畏怖(いふ)」 的な感覚を少なからず抱いてるのかも知れません。
いずれにしても、主従関係は、それ自体が既に ”対等な関係でない” ではないということ。

馬鹿もしますし、ボケもします。オヤジギャグなのでウケているかどうかは別ですが 冗談も言います。(苦笑)
でも、琴線(きんせん)に触れれば、冷徹にすぐ切られることを、彼女達は知っています。
しかし、そうでない限りは、深い懐で受け止められ、たくさんの愛を与えてくれることも知っています。

なので、「多頭」 を公言してはいますが、彼女達の琴線に触れる 「多頭問題」 については、その存在の有無からして、自分からは一切言及していません。
それが彼女達に対する 「デリカシー」 であり 「思いやり」 だと思っています。

SM も恋愛の一種である以上、始まりがあれば、おわりもあります。永遠はありません。
しかし、だからこそ、桜の花とおなじように、果敢(はか)なく、美しいのです。

常に相手が自分と同じ思いである筈もありませんから、これらの思いは、単なる自分の 「思いあがり」 かも知れません。

プレイでは冷徹を装(よそお)っていたとしても、自分は相手の女性に感謝しています。そして出来れば、相手もそうであって欲しいと願っています。感謝の気持ちは、充足をもたらします。
自分が 「主」 であって、相手が 「従」 であろうとも、その ”感謝する気持ち” に変わりはありません。
この関係は、経営者と労働者の関係でも同じです。搾取する使役(しえき)か、共に苦労し人生を生きる使役かの違いで、会社は、天国にも地獄にもなります。
そこには、築かれる 「信用」 と 「信頼」 に大きな違いが出てきます。

SM はサディズム(性的加虐性向者)とマゾヒズム(性的被虐性向者)のロールプレイと言われてます。しかし、そのプレイが表面上あるいは肉体的なプレイに留まっている場合、心の充足感・満足感は得られません。
自分も、心が繋がり切れていない相手の場合などは、幾度となく同様の経験をしています。
SM においても、最終的に、その女性を 「従」 たらしめるのは、心が入り、愛があってこそです。


しかし、M の人間が必ずしも従順(submissive)であるとは限りませんし、「嫉妬」 や 「独占欲」 をコントロールできるわけではありません。そのような場合は、逆に 「多頭関係」 を表面に出し、「嫉妬」 や 「独占欲」 を剥(む)き出しにした上で、調教し、躾けていく必要があります。
SM 調教には当然、肉体的な限界や精神的な限界はあります。しかし、女性の心の中で渦巻く嫉妬心や高慢な虚栄心は、例外です。徹底的に痛めつけたとしても、誰も文句は言いません。
SM は、盆栽(ぼんさい)にも似ています。主従関係を利用して、不必要な部分は徹底的に責め、厳しく躾(しつ)け直し、逆に不足してる部分はは、誉めて喜びを与えることで伸ばしていく。

こうなると、実際はかなりハードなものになってきます。しかし、お互いが性愛を貪(むさぼ)りあうばかりでなく、そこに愛を以って、人としての成長を手助け出来たりするのも、SM 調教のし甲斐(がい)のひとつと言えます。

当然、途中で挫折する M も出てきます。「こんなに辛(つら)いなら、他のひとの方がマシ!」 と思うのであれば、その時点で、その主 は、もう 「主」 ではないのです。
M にとっては、もう、その主より与えられる 「性的快感」 や 「充足感」 よりも、嫉妬や独占欲から来る 「苦しみ」 の方が、強いということでしょう。
多くの場合、実際の主従関係の認識が甘い場合もありますし、精神的な調教・躾けが甘い場合もあります。
自分の経験で言えば、まだ調教も入口の段階で、それが表面化してしまう場合もありますし、M の家庭に深刻な影響が出かねないような精神状況になってしまう場合もあります。
しかし、そのような状況になってしまったとしたら、後で言い訳をしても始まりません。要は、自分の S の能力が未熟であると言う一言につきます。

相手に迷いがあり、かつ、そこに甘えや余裕があるのなら、「奴隷契約」 をもとに説得を試みてもいいでしょうし、情で引き止めるアプローチをとっても構わないと思います。
しかし、自分では手に負えない。飼い切れない場合を含め、状況が深刻である場合は、リリースする潔(いさぎよ)さが必要です。

このような状況下で、女々しい態度を取る 「主」 とやらの話を聞くと、「本当に S か?」 と疑ってしまいますが、それを言い出せば、「多頭飼い」 も、単に喰い散らかすだけの 「多頭飼い」 もいれば、S としての責任を以って、それぞれの M に対峙し、きちんと飼い慣らしている 「多頭飼い」 もいます。
 

「多頭飼い」 というと SM の世界では兎角、風当たりが強くなるのですが、「多頭飼い」 にもいろいろとバリエーションや趣向があるということ。そして、「良い多頭飼い」 と 「悪い多頭飼い」 ではありませんが、要は、その 「主」 たる S の懐や度量によって、中身の質はまったく異なるということを理解して貰えると、SM もまた、違った見方が出来るようになってくると思います。

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