「奴隷」 の意味
SM では良く、「主従関係」 にある従属者や、あるいは、その従属関係を 「奴隷」 に例えます。
「奴隷」 以外にも、「愛奴」 とか 「性奴隷」 あるいは 「家畜」 とか 「ペット(愛玩動物)」 みたいな表現が使われたりしますが、これらは、いずれも、人としての尊厳を認められておらず 「所有物」 として扱われる存在であることを示しています。
これらはいずれも、主従関係にある二人の 「より具体的な関係性」 や、従属者を表す 「メタファー(metaphor)」 です。
メタファーとは、日本語では 「暗喩(あんゆ)」 とか 「隠喩(いんゆ)」 と言いますが、要は、違うものではある (それそのものではない)けれども、イメージを捉(とら)えるのに適当な例・・・みたいなもの。
ですので、ここで、古代ローマ帝国の奴隷制の話や、旧約聖書にあるアブラハムが奴隷ハガルとの間に子供をもうけた話。あるいは、南北戦争以前のアメリカでの奴隷売買の話をして、表面的な類似性を細々と説明したところで、「奴隷」 の理解には役立ちますが、あまり本質的ではありません。
SM は 「愛」 です。一般社会における婚姻や恋愛が、対等な関係であるとするならば、SM の関係は対等ではありません。「主従関係」 が基本。
主従関係とは即(すなわ)ち、基本、主の命令には絶対的に服従します・・・ということです。
相互に対等な関係ではありませんので、二者の関係を 「恋愛」 とは呼びませんし、特定の相手のことを指して、恋人とか彼氏彼女とは呼び合いません。
二人の関係が、主と奴隷のような隷属関係をイメージしているのであれば、従属者を 「奴隷」 と呼び、人間と家畜の関係に近いと認識しているのであれば 「家畜」 と呼んでいるだけです。
しかし、あくまでも、二人の世界観によるものであり、それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。
では、SM に 「主従関係」 は必須なのか?
主従関係の形式性については、いろいろと議論の余地がありますが、個人的には、当事者間で相互に、「主従関係」 にあるという認識は必要だと思っています。
その認識が薄れるとどうなるか?確実に、”SM の精神性みたいなもの” が薄れていきますから、当然 「SM ごっこ」 的性格が強くなってくるように感じます。
愛のあるセックスと愛のないセックスの違いに似ています。
しかし、「主従関係」 は、「信用」 や 「信頼」 と同じ側面もあります。ですので、「信用」 や 「信頼」 が一朝一夕で得られないのと同様、「主従関係」 も、いきなり築きあげれるものでもありません。少しずつ、お互いの時を重ねて、積み重ねられていくに従って、確固たるものになっていくものだと思っています。
人によっては、「奴隷契約書」 の類(たぐい)を作成して、そこに詳細を規定する人もいます。実際に作成した人によると、契約としての重みを実感している人も少なくないようですが、そもそも公序良俗に反しますので、当前ではありますが、法的拘束力を持つものではありません。
法的な効力を期待する、民法や商法でいう 「契約」 というよりは、どちらかというと、宗教などにおける 「(神との)契約」 に、より近いものと言えば、解かりやすいでしょう。
ここで言う 「契約」 は、当事者である 「主」 と 「奴隷」 のみが知る二人だけの約束事であり、二人の間の 「誓い」 なのです。
では、SM における 「主従関係」 には何が求められるのか?
主従関係を築き、奴隷となることは、身も心も、主に捧げるという意味です。
そこで奴隷に求められるのは、基本的には、「人としての尊厳・人格を捨て去ること」、そして、「主の命令には、絶対的に服従すること」 の2点です。
これを日常的に持ち続けることを要求するか、プレイの間だけに限定するか。その辺は、人によります。
また、程度の差はありますが、信用と信頼による裏打ちに加えて、「愛情」 と 「尊敬」 の心がなければ、そうそう簡単に出来るものではありません。
以上は、基本です。
とは言え、主を主とも思わず、「主従関係」 もへったくれもなく、自分の都合の良い要求ばかりを並び立てる、エゴ丸出しの ドM ちゃんも、少なからずいます。
こういう人は、「エゴマゾ」 とか呼ばれていますけど、大抵の場合、躾けもなってないので、多少可愛かったりして飼われても、面倒で飼いきれなくなって放されたり、あるいは、自分から耐え切れなくなって逃げ出しちゃったり。
いずれにしても辛抱が出来ないので、すぐに野良になる運命にあります。
結局、自分のプライドとか心が傷付かないように、守りに入っているので、SM で、ストレス発散は出来ても、心が解放されませんので、満たされません。
結果、相手に不平不満を覚えこそすれ、感謝の気持ちなんて、これっぽっちも沸きませんから、悪循環を起こし始めます(苦笑)
「自称ドS くん」 も困ったもんですが、M でタチの悪いのが、この 「エゴマゾ」 タイプです。
単に M のスイッチを入れてくれて、性感マッサージを受けたいだけなのであれば、「主従関係」 は不要ですが、この場合、それこそ、M はマグロの M、S はサービスの S になってしまいます。(苦笑)
金銭的対価のある SM クラブなら、まだしもですが、通常の SM カップルの場合は、余程、相性が良かったり、あるいは、相手に旨味がない限りは有り得ません(苦笑)
SM において 「主従関係」 は基本です。
「奴隷」 以外にも、「愛奴」 とか 「性奴隷」 あるいは 「家畜」 とか 「ペット(愛玩動物)」 みたいな表現が使われたりしますが、これらは、いずれも、人としての尊厳を認められておらず 「所有物」 として扱われる存在であることを示しています。
これらはいずれも、主従関係にある二人の 「より具体的な関係性」 や、従属者を表す 「メタファー(metaphor)」 です。
メタファーとは、日本語では 「暗喩(あんゆ)」 とか 「隠喩(いんゆ)」 と言いますが、要は、違うものではある (それそのものではない)けれども、イメージを捉(とら)えるのに適当な例・・・みたいなもの。
ですので、ここで、古代ローマ帝国の奴隷制の話や、旧約聖書にあるアブラハムが奴隷ハガルとの間に子供をもうけた話。あるいは、南北戦争以前のアメリカでの奴隷売買の話をして、表面的な類似性を細々と説明したところで、「奴隷」 の理解には役立ちますが、あまり本質的ではありません。
SM は 「愛」 です。一般社会における婚姻や恋愛が、対等な関係であるとするならば、SM の関係は対等ではありません。「主従関係」 が基本。
主従関係とは即(すなわ)ち、基本、主の命令には絶対的に服従します・・・ということです。
相互に対等な関係ではありませんので、二者の関係を 「恋愛」 とは呼びませんし、特定の相手のことを指して、恋人とか彼氏彼女とは呼び合いません。
二人の関係が、主と奴隷のような隷属関係をイメージしているのであれば、従属者を 「奴隷」 と呼び、人間と家畜の関係に近いと認識しているのであれば 「家畜」 と呼んでいるだけです。
しかし、あくまでも、二人の世界観によるものであり、それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。
では、SM に 「主従関係」 は必須なのか?
主従関係の形式性については、いろいろと議論の余地がありますが、個人的には、当事者間で相互に、「主従関係」 にあるという認識は必要だと思っています。
その認識が薄れるとどうなるか?確実に、”SM の精神性みたいなもの” が薄れていきますから、当然 「SM ごっこ」 的性格が強くなってくるように感じます。
愛のあるセックスと愛のないセックスの違いに似ています。
しかし、「主従関係」 は、「信用」 や 「信頼」 と同じ側面もあります。ですので、「信用」 や 「信頼」 が一朝一夕で得られないのと同様、「主従関係」 も、いきなり築きあげれるものでもありません。少しずつ、お互いの時を重ねて、積み重ねられていくに従って、確固たるものになっていくものだと思っています。
人によっては、「奴隷契約書」 の類(たぐい)を作成して、そこに詳細を規定する人もいます。実際に作成した人によると、契約としての重みを実感している人も少なくないようですが、そもそも公序良俗に反しますので、当前ではありますが、法的拘束力を持つものではありません。
法的な効力を期待する、民法や商法でいう 「契約」 というよりは、どちらかというと、宗教などにおける 「(神との)契約」 に、より近いものと言えば、解かりやすいでしょう。
ここで言う 「契約」 は、当事者である 「主」 と 「奴隷」 のみが知る二人だけの約束事であり、二人の間の 「誓い」 なのです。
では、SM における 「主従関係」 には何が求められるのか?
主従関係を築き、奴隷となることは、身も心も、主に捧げるという意味です。
そこで奴隷に求められるのは、基本的には、「人としての尊厳・人格を捨て去ること」、そして、「主の命令には、絶対的に服従すること」 の2点です。
これを日常的に持ち続けることを要求するか、プレイの間だけに限定するか。その辺は、人によります。
また、程度の差はありますが、信用と信頼による裏打ちに加えて、「愛情」 と 「尊敬」 の心がなければ、そうそう簡単に出来るものではありません。
以上は、基本です。
とは言え、主を主とも思わず、「主従関係」 もへったくれもなく、自分の都合の良い要求ばかりを並び立てる、エゴ丸出しの ドM ちゃんも、少なからずいます。
こういう人は、「エゴマゾ」 とか呼ばれていますけど、大抵の場合、躾けもなってないので、多少可愛かったりして飼われても、面倒で飼いきれなくなって放されたり、あるいは、自分から耐え切れなくなって逃げ出しちゃったり。
いずれにしても辛抱が出来ないので、すぐに野良になる運命にあります。
結局、自分のプライドとか心が傷付かないように、守りに入っているので、SM で、ストレス発散は出来ても、心が解放されませんので、満たされません。
結果、相手に不平不満を覚えこそすれ、感謝の気持ちなんて、これっぽっちも沸きませんから、悪循環を起こし始めます(苦笑)
「自称ドS くん」 も困ったもんですが、M でタチの悪いのが、この 「エゴマゾ」 タイプです。
単に M のスイッチを入れてくれて、性感マッサージを受けたいだけなのであれば、「主従関係」 は不要ですが、この場合、それこそ、M はマグロの M、S はサービスの S になってしまいます。(苦笑)
金銭的対価のある SM クラブなら、まだしもですが、通常の SM カップルの場合は、余程、相性が良かったり、あるいは、相手に旨味がない限りは有り得ません(苦笑)
SM において 「主従関係」 は基本です。
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