「主」 と 「奴隷」 の世界
前回のコラムでは、SM における 「奴隷」 の意味を説明しました。しかし、SM において何故、「主従関係」 は必須か? という問いについては、十分に書き切れませんでした。
この辺りは、人によってもまちまちでしょうし、だいたい、普段そこまで深く考え SM に興じてるひとなんか、自分を含めても皆無でしょう (苦笑)
それならば、自分のことを書けばいいわけですが、それでも自分自身、十分に整理しきれているわけではありません。
しかし、このまま放置するのも癪(しゃく)ですし、折角の機会なので、うまくまとめ切れるかはどうかは分かりませんが、リベンジの意味で、もう少し、自分を振り返って書き下ろしてみたいと思います。
まず断言できるのは、SMとは、サディストとマゾヒストの ”恋愛のようなもの” であり、かつ、”共生関係みたいなもの” であるということ。
しかし、通常の恋愛と同じかというと、やはり違います。
S は、相手を虐(いじ)めて性的に興奮し、M は、逆に相手に虐められて性的な快感を得る。
M にとっては、相手が誰でもいいのではなく、自分が認めた相手。自分が許容できる相手でなければなりません。そこが最低ラインです。そこに、信用と信頼が求められることは、以前、別のコラムにも書きました。
しかし、この状況だけでは、M は S に自分の身体を委ねてはいるものの、S に責めさせて、自分が気持ち良くなっているという見方も出来ないわけではありません。
良い例が、「エゴマゾ」 と呼ばれている人達です。もし実際に自分に対して、そんな尊大な態度をとる 「勘違いの M」 がいたとしたら、果たして自制できるかどうか?
どんなプレイになってしまうのか若干不安もありますが、徹底的に躾(しつ)け直すか、それすら諦(あきら)めて、野に放すか(苦笑)
「SM ごっこ」 や 「金銭の授受を伴うサービス」 であるならまだ割り切りもしますが、そもそも、「ホンモノの S」 が、そんな都合の良い状況を許容できる筈もありません。
そんな絶対的な服従もなしの相手には、「愛」 など与えません。そんな子に対して、わざわざ自分の体力を消耗するのはもったいない。電マでも、突っ込んでおけばいい(笑)
あとは、名実共に肉便器にするくらいしか使い道ありません(苦笑)
下手にプライドが高く虚栄心の強い女性であれば、緊縛したまま浣腸でもして、そのまま、空の浴槽に放置するのも良いかも知れない(笑)
幸か不幸か、まだ実際のプレイでは、そのような人には巡り合っていません。
自分にとって 「主従関係」 は、S が M と戯(たわむ)れる際の手綱(たづな)のようなもの。そして、相手を 「愛」 するために必要不可欠なもの。愛の根拠みたいなもの。
ですので、「主従関係」 が強まってくれば愛も強まりますし、その逆に 「主従関係」 が薄まれば、それだけ愛も冷めます。どうでも良くなってきます。
愛は愛でも、一般の 「恋愛」 のように対等なものではありません。やっぱり 「主従愛」 です。
ペットを人間の感覚で飼うひとは多くなってきてると思いますが、その感覚に近い(笑)
複数のわんこを飼ってるひとは、一方のわんこが可愛がられているときに、もう一方のわんこが、自分も構ってもらいたくて大声で 「わんわん」 吠えたら、ペシンと頭を叩くでしょう(笑)
それが、正しい飼い方かどうかは解かりませんが、どんなにペットを人のように愛していたとしても、飼い主は、犬には人権は認めませんし、絶対的な服従を求めます。
しかし、これは勿論、S のスイッチが入ってるときの話 (苦笑)
スイッチが入っていないときは、普通の恋人同士とさほど変わりなく、甘えたり甘えられたり、バカ話もすれば、真面目な話もします。
もともと、自己中でも鬼畜でもなければ、オラオラ系の人間であるわけでもありません。人並みの良識とデリカシーは持ち合わせているつもりです。(苦笑)
しかし、S のスイッチが切れても、主従愛が通常の恋愛に変わることはありません。
むしろ、一般の恋愛のときよりも、相手に対するいたわりの気持ちは強いかも知れません。
そもそも、S は何に感じているのか?
加虐行為そのもの。例えば相手を叩いたり、痛めつける行為そのものに快感を感じているわけではありません。それならば、カラテの組み手でもいいし、柔道の乱捕りでもして発散させてればいい(笑)
M を責めることで S が感じるというよりは、責めたあとの M の反応をみて、感じているわけです。
この辺は、S が全部が全部そうなのか、聞いて回ったわけではありませんので、あくまでも、自分の個人的な見解です。
S は、自分の支配欲・征服欲を満たして、どうのこうの・・・みたいな説明もありますが、実際のところ、自分が何処(どこ)で支配欲や征服欲を満たしているかというと微妙で良く解かりません(苦笑)
ギャーギャー、ヒーヒー、すすり泣きは、BGM としては最高です。自分の S のボルテージを高めてくれます。
自分の手の平の上で、相手を転がしてる感覚というとあまりにも抽象的ですが、例えば、相手が本能的に見せる反応を、言葉で制して、相手にその逆のことをさせたりするのは、そのこと自体も快感ではありますが、どちらかというと場をコントロールしていく上で、必要不可欠な感じがしています。
やはり一番は、自分の命令によってではなく、自分の愛奴自らが、心の奥底から自発的に吐露する反応です。言わせたわけでもない言葉を自ら吐くときなどは、官能的で、時には思わず、自分が逝きそうになってしまいそうになる場合もあります。
多分、自分の手の平の上で、ピクピクと痙攣(けいれん)するのを見るのが好きなのかも知れない。
SM における 「主従関係」 は、自分にとっては、SM のプレイを自分の思い通りに操(あやつ)る手綱であると同時に、SM における 「主従愛」 を表わすバロメータでもあります。
「主従関係」 を伴わない、ある意味 「敬意」 や 「尊敬」 が伴わない、肉体だけの SM プレイは、自分にとっては 「愛のないセックス」 みたいなもの。
それならば、恋人同士の 「SM ごっこ」 の方が、まだそこには 「恋愛」 があるので、マシと言うもの(苦笑)
そんな思いが、ひとつ前のコラムで、「SM で ”主従関係” は必須」 みたいな答えを導いたのかも知れません。
SM は、一見、肉体に物理的な刺激を与えては喜びあってるように見えますが、その真骨頂であり醍醐味は、心の世界での交わりです。
浮世のしがらみを忘れ、社会の常識やらしがらみから解放され・・・交わる。
M は、自分の防衛本能を脱ぎ捨て、恐怖心を克服し、そして、虚栄心とかプライドといった 「心の鎧(よろい)」 や 「欲」 を脱ぎ捨てて、愛し合うわけです。
S は、身体を縛りますが、実際のところは心をも縛り、そして、M の見せる ”至極のピクピク” を見て、そして同時に逝くのです(笑)
二人が一体になろうとするのに、自由も人格も不要です。S が統制する以上、M は信用し信頼して、身も心も委ねればいい。主の命令は絶対で、M には人としての尊厳もないのです。
神が、アダムとイブを造る前の状態に戻るわけです。
しかし、当然ではありますが、そんな簡単に ”至極” に到達できるはずもありません。(笑)
だからこそ、一歩一歩、S は M に課題を与え、それを乗り越えられたときに、S は M に 「たくさんの愛」 を与える。
M はそこで 「愛」 を確認し、不安が解消され、次の新たな目標に向かって二人で進む。
そういう愛の積み重ねがあって、はじめて到達できる。
それが自分の理解する SM の 「主」 と 「奴隷」 の世界です。
この辺りは、人によってもまちまちでしょうし、だいたい、普段そこまで深く考え SM に興じてるひとなんか、自分を含めても皆無でしょう (苦笑)
それならば、自分のことを書けばいいわけですが、それでも自分自身、十分に整理しきれているわけではありません。
しかし、このまま放置するのも癪(しゃく)ですし、折角の機会なので、うまくまとめ切れるかはどうかは分かりませんが、リベンジの意味で、もう少し、自分を振り返って書き下ろしてみたいと思います。
まず断言できるのは、SMとは、サディストとマゾヒストの ”恋愛のようなもの” であり、かつ、”共生関係みたいなもの” であるということ。
しかし、通常の恋愛と同じかというと、やはり違います。
S は、相手を虐(いじ)めて性的に興奮し、M は、逆に相手に虐められて性的な快感を得る。
M にとっては、相手が誰でもいいのではなく、自分が認めた相手。自分が許容できる相手でなければなりません。そこが最低ラインです。そこに、信用と信頼が求められることは、以前、別のコラムにも書きました。
しかし、この状況だけでは、M は S に自分の身体を委ねてはいるものの、S に責めさせて、自分が気持ち良くなっているという見方も出来ないわけではありません。
良い例が、「エゴマゾ」 と呼ばれている人達です。もし実際に自分に対して、そんな尊大な態度をとる 「勘違いの M」 がいたとしたら、果たして自制できるかどうか?
どんなプレイになってしまうのか若干不安もありますが、徹底的に躾(しつ)け直すか、それすら諦(あきら)めて、野に放すか(苦笑)
「SM ごっこ」 や 「金銭の授受を伴うサービス」 であるならまだ割り切りもしますが、そもそも、「ホンモノの S」 が、そんな都合の良い状況を許容できる筈もありません。
そんな絶対的な服従もなしの相手には、「愛」 など与えません。そんな子に対して、わざわざ自分の体力を消耗するのはもったいない。電マでも、突っ込んでおけばいい(笑)
あとは、名実共に肉便器にするくらいしか使い道ありません(苦笑)
下手にプライドが高く虚栄心の強い女性であれば、緊縛したまま浣腸でもして、そのまま、空の浴槽に放置するのも良いかも知れない(笑)
幸か不幸か、まだ実際のプレイでは、そのような人には巡り合っていません。
自分にとって 「主従関係」 は、S が M と戯(たわむ)れる際の手綱(たづな)のようなもの。そして、相手を 「愛」 するために必要不可欠なもの。愛の根拠みたいなもの。
ですので、「主従関係」 が強まってくれば愛も強まりますし、その逆に 「主従関係」 が薄まれば、それだけ愛も冷めます。どうでも良くなってきます。
愛は愛でも、一般の 「恋愛」 のように対等なものではありません。やっぱり 「主従愛」 です。
ペットを人間の感覚で飼うひとは多くなってきてると思いますが、その感覚に近い(笑)
複数のわんこを飼ってるひとは、一方のわんこが可愛がられているときに、もう一方のわんこが、自分も構ってもらいたくて大声で 「わんわん」 吠えたら、ペシンと頭を叩くでしょう(笑)
それが、正しい飼い方かどうかは解かりませんが、どんなにペットを人のように愛していたとしても、飼い主は、犬には人権は認めませんし、絶対的な服従を求めます。
しかし、これは勿論、S のスイッチが入ってるときの話 (苦笑)
スイッチが入っていないときは、普通の恋人同士とさほど変わりなく、甘えたり甘えられたり、バカ話もすれば、真面目な話もします。
もともと、自己中でも鬼畜でもなければ、オラオラ系の人間であるわけでもありません。人並みの良識とデリカシーは持ち合わせているつもりです。(苦笑)
しかし、S のスイッチが切れても、主従愛が通常の恋愛に変わることはありません。
むしろ、一般の恋愛のときよりも、相手に対するいたわりの気持ちは強いかも知れません。
そもそも、S は何に感じているのか?
加虐行為そのもの。例えば相手を叩いたり、痛めつける行為そのものに快感を感じているわけではありません。それならば、カラテの組み手でもいいし、柔道の乱捕りでもして発散させてればいい(笑)
M を責めることで S が感じるというよりは、責めたあとの M の反応をみて、感じているわけです。
この辺は、S が全部が全部そうなのか、聞いて回ったわけではありませんので、あくまでも、自分の個人的な見解です。
S は、自分の支配欲・征服欲を満たして、どうのこうの・・・みたいな説明もありますが、実際のところ、自分が何処(どこ)で支配欲や征服欲を満たしているかというと微妙で良く解かりません(苦笑)
ギャーギャー、ヒーヒー、すすり泣きは、BGM としては最高です。自分の S のボルテージを高めてくれます。
自分の手の平の上で、相手を転がしてる感覚というとあまりにも抽象的ですが、例えば、相手が本能的に見せる反応を、言葉で制して、相手にその逆のことをさせたりするのは、そのこと自体も快感ではありますが、どちらかというと場をコントロールしていく上で、必要不可欠な感じがしています。
やはり一番は、自分の命令によってではなく、自分の愛奴自らが、心の奥底から自発的に吐露する反応です。言わせたわけでもない言葉を自ら吐くときなどは、官能的で、時には思わず、自分が逝きそうになってしまいそうになる場合もあります。
多分、自分の手の平の上で、ピクピクと痙攣(けいれん)するのを見るのが好きなのかも知れない。
SM における 「主従関係」 は、自分にとっては、SM のプレイを自分の思い通りに操(あやつ)る手綱であると同時に、SM における 「主従愛」 を表わすバロメータでもあります。
「主従関係」 を伴わない、ある意味 「敬意」 や 「尊敬」 が伴わない、肉体だけの SM プレイは、自分にとっては 「愛のないセックス」 みたいなもの。
それならば、恋人同士の 「SM ごっこ」 の方が、まだそこには 「恋愛」 があるので、マシと言うもの(苦笑)
そんな思いが、ひとつ前のコラムで、「SM で ”主従関係” は必須」 みたいな答えを導いたのかも知れません。
SM は、一見、肉体に物理的な刺激を与えては喜びあってるように見えますが、その真骨頂であり醍醐味は、心の世界での交わりです。
浮世のしがらみを忘れ、社会の常識やらしがらみから解放され・・・交わる。
M は、自分の防衛本能を脱ぎ捨て、恐怖心を克服し、そして、虚栄心とかプライドといった 「心の鎧(よろい)」 や 「欲」 を脱ぎ捨てて、愛し合うわけです。
S は、身体を縛りますが、実際のところは心をも縛り、そして、M の見せる ”至極のピクピク” を見て、そして同時に逝くのです(笑)
二人が一体になろうとするのに、自由も人格も不要です。S が統制する以上、M は信用し信頼して、身も心も委ねればいい。主の命令は絶対で、M には人としての尊厳もないのです。
神が、アダムとイブを造る前の状態に戻るわけです。
しかし、当然ではありますが、そんな簡単に ”至極” に到達できるはずもありません。(笑)
だからこそ、一歩一歩、S は M に課題を与え、それを乗り越えられたときに、S は M に 「たくさんの愛」 を与える。
M はそこで 「愛」 を確認し、不安が解消され、次の新たな目標に向かって二人で進む。
そういう愛の積み重ねがあって、はじめて到達できる。
それが自分の理解する SM の 「主」 と 「奴隷」 の世界です。
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