2ntブログ
2016/01/23

とある出会いと別れ - B子の場合 3

※ この小説は、フィクションであり、実在する個人・会社・組織団体とは、
※ 一切関係ありません。

(前回からのつづき)

逢瀬(おうせ)を繰り返す毎に、次第と B子 の家庭像が見えてくる。

B子の旦那は、自分で家庭の物事を全て決定し、指図をして、その通りにすることを望む 「自己中心的」 な男性。しかも、好みとか事の仔細に至るまで指示されることにあるようで、自分の考えが常に正しく、他人の価値感や意見を受け入れられない気質のようである。
そして、他人に自分の価値感を受け入れ、従うことを強(し)いるものの、指図に従わなかったり、無視したりすると、モノに当り散らす。

直接手を出さないだけ、まだマシではあるが、しかし、家族にとってみれば、モノに当り散らす行為も、度々繰り返されると、恐怖心を植えつけられ、萎縮(いしゅく)してしまうものである。
そのためか、B 子や B子の息子にとって 「家庭」 はもはや、外から帰って来て 「ほっ」 と一息を付く憩(いこ)いの場ではなく、父親の顔色を伺う場と化してしまっているようだった。

そして、そんな息子も反抗期に差し掛かり、外で問題を起こすようになってきていることが、母親の B子にとっては、一番の悩みになっていた。

そうこうしているうちに夏休み。

夏休みは、不倫カップルにとっては最大の鬼門。それは、家に子供が居て、主婦は、なかなか家を空けれないからである。

子供との時間が増える一方で、子供がだんだん手を付けられなくなっていく。そんな状況下で、不倫という行為に対しては、良心の呵責(かしゃく)など一切感じない B子ではあったが、息子が自分以上に家庭問題で苦しんでいる中、さすがに、子供に対する呵責の意識からは逃れられなかったようである。

最後まで、自分の抱えている問題を口にせず、しかし、会うことを先延ばしにする B子。しかし、最後に出た言葉は、

「息子が苦しんでいるのに、自分だけ気持ち良くなるなんて出来ない・・・」

という言葉だった。親にとって子供という存在。特に、母親にとって息子という存在は、どんな状況にあったとしても、決して割り切れることのない存在である。

夏の終わり。 まだ残暑も残る中、一足早く秋風が通り抜けた。


【あとがき】

こういう話は、どちらか一方の言い分だけでは、正確な状況は把握できないものである。両方の言い分を聞けば、双方に問題があることは多いので、あくまでも、これは B子の言い分として割り引いて考える必要はある。

「他人の話を聞けない」 男も確かに多い。一時期、脳生理学的な側面から男女の行動差を説明した 「人の話を聞かない男、地図を読めない女」 なんて本がベストセラーになったくらいである。B 子の旦那に限った話ではない。
それに、自分で家庭の物事を全て決定し、指図をして、その通りにすることを望むという、リーダーシップが、家庭内で何か大きな問題が生じたときに発揮されるのであれば、家長としての役割をきちんと果たしている立派な旦那・・・ということになりそうなものである。
しかし、そうならないのは、どうも、好みといった 「人の価値感」 の領域にまで踏み込んでいるからのようである。

自分の考えが常に正しく、他人の価値感や意見を受け入れられないのは、「自己中心性」 の強い現れである。
そして、他人に自分の価値感を受け入れ、従うことを強(し)いるものの、指図に従わなかったり、無視したりすると、モノに当り散らす。
自分の思いを上手く表現できるのであれば、モノに当たらずとも、説得できる筈であるし、もし正論であるならば、家族もそれなりに感化されていく筈である。
これは、自分の思いを説明できないため、自分の思う通りにならないと、癇癪(かんしゃく)を起こす子供に近いが、そもそも、価値感の優劣を論理的に説明できるひとは誰もいない。
要は、常に、自分の思い込みや価値感を押し付けてくるところに問題がある。

特徴的だったのは、B 子の旦那は、「家族とは、常に行動を共にするもの」 という思いが強い・・・と B 子が言っていたこと。

自己中の旦那が、自己の思い込みや価値感を家族に強要し、かつ、旦那が仕事で不在の場合を除き、”そこに居ない” という選択肢が取れないのである。
ここまでくると、完全なる DV である。


そんな DV を DV と思わず耐えてきた息子も、反抗期に差し掛かることになる。

男性に強く現れる反抗期。これは、今までは女性と同列で保護の対象となっていた 「(男の)子供」 から、自立した 「男」 に変わることを意味している。
ボス猿が牛耳る猿山の群れの中では、もはや保護の対象ではなく、一人前の男として、序列が付けられて、その序列に応じた生き方が求められる、その準備段階なわけである。
そこで大事なのは、男性の手本たる父親から、一人前として認められること。「承認欲求」 が強く働いてきているのである。
しかし、そんな父親からは、押し付けにダメ出しばかりか、自分の価値感すら認めてくれない始末。当然、父親を尊敬している筈もないので、無意識下で、父親を自分の理想として結び付けようとする本能との乖離(かいり)も生じる。

家庭で生じた心の歪(ゆが)みが、家庭内では解消できず、その結果が、外で出てしまっているだけのこと。
父親が、息子を価値感を認め、対等な 「男」 として息子を認めない以上、息子の反抗は留まることを知らない。取っ組み合いや、殴(なぐ)り合いも、その承認が得られないときの最終手段である。
むしろ、息子は空手を習っているので、本来であれば、取っ組み合いをするのが、一番手っ取り早いのである。しかし、それが出来ないのは、幼少の頃から、ずっと子供心に擦(す)り込まれてきた 「豹変する父親」 に対する怖れの気持ちである。


苦しむ息子を見てて、何も思わない母親はいない。B 子はもう、これっぽっちも旦那のことは、愛していない。だからと言って、B 子を縛った自分のことを愛してるわけでもない。
B 子が愛してるのは、自分の子供。ましてや息子である。母親である B子にとっては、これ以上ない掛け替えのない存在である。
もがき苦しむ最愛の息子の姿を見て、自分は快楽に浸るなんてことが出来る器用な女性は、まあ、まず居ないと考えて間違いない。

毎日の生活からくるストレスによって生じた、彼女の心の中の歪(ゆが)み。もしかしたら、それが性的欲求と結びついて、彼女の SM 願望を肥大化させていったのかも知れない。

離婚を勧めるのは簡単である。男と女は分かれてしまえば赤の他人である。しかし、子供はそうはいかない。ましてや、子供が思春期に受ける傷としては決して軽くない。
B 子も馬鹿ではない。そんなことくらいは重々承知である。
結局、母親は、息子と父親が対峙する日を見守ることしか出来ない。

B 子を通して、世の中のお母さん達の大変さを垣間見たような気がする。
B 子とは、つかの間の縁だったけれども、大事に至らないように、この時期をうまく乗り越えていって貰いたいと切に願っている。

(完)

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