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2017/05/18

愛のコリーダ

ひとつ前の記事 「美しさの基準」 に引き続き、R&B (リズム&ブルース)絡みのネタ。

 

「愛のコリーダ」 は、今は亡き大島渚監督が手掛けた映画作品。

 

 

大島渚監督は、あの 「朝まで生テレビ」 にレギュラー出演していては、ちょっと他の人とは違うところで 「ぷんぷん」 していた、あの御老体(ごろうたい)です。(笑)

 

 

ストーリー的には、不貞関係にあった男を絞め殺し、局部を切り取って大事に保管するという、実際にあった猟奇(りょうき)殺人事件である 「阿部定(あべさだ)事件」 を扱ったもの。

それまでの 「日本のポルノ」 を越える 「ハードコア作品」 ということでも騒がれていましたが、しかし、それよりも何よりも、当時、その 「渋さ」 で持て囃(はや)されていた 「藤竜也」 の主演というのが、一大センセーショナルでした。

 

 

そして楽曲的には、プロデューサの大御所である 「クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)」 が手掛けたアルバム 「デュード(Dude)」 に挿入されている 「愛のコリーダ」 が大ヒットします。

 

このアルバムは、「愛のコリーダ」 以外にも、才能溢(あふ)れるものの、恵まれなかった 「ジェームズ・イングラム(James Ingram)」 の 「ジャスト・ワンス(Just Once)」 や アルバム名にもなっている 「デュード(Dude)」 そして、「パティ・オースティン(Patti Austin)」 が歌う「ラズマタズ(Razzmatazz)」 など名曲揃いのアルバム。

 

  

 

  

 

ちょうど80年代初頭。R&B はこれ以降90年代に掛けて、全盛を極めていきます。

 

その後、「愛のコリーダ」は、昨今(さっこん)の 「ろくでなし子」 ではありませんが、出版物がわいせつ文書にあたるということで、猥褻(わいせつ)か、猥褻でないかが法廷で争われることとなります。最終的には最高裁で無罪を勝ち取りますが、兎に角(とにかく)、話題を欠かすことのなかった作品。それが 「愛のコリーダ」 です。

 


が、しかし、映画を見てきた人に言わせると、「何か良く解らなかった・・・」 という人が大部分。
世間で騒がれるだけ騒がれたものの、男女の情欲が深く絡んでおり、猟奇的、そして、実話に基づく作品ということもあってか、簡単に感情移入できないもどかしい作品として、受け止められてしまったのかも知れません。

 

ちなみに 「阿部定事件」 は、その後、役所広司と黒木瞳が演じ、一世を風靡(ふうび)した、渡辺淳一の 「失楽園」 のモチーフともなっています。


*** 【以下、グロ注意】

 

前置きが長くなってしまいましたが、いよいよ本筋の 「阿部定事件」。

 

この映画で取り上げられた 「阿部定(あべさだ)事件」 が起きたのは、1936年(昭和11年)。日本がまだ、太平洋戦争(第二次世界大戦)に突入する前の時代です。

当時の日本は、まだ姦通罪が残る時代です(廃止は昭和22年)。

「阿部定事件」 が起きたとき、あの瀬戸内寂聴さんは、徳島の女学校二年生。ちなみに、瀬戸内寂聴さんが結婚した後、夫の教え子と駆け落ちをしたのも、まだ姦通罪が廃止になる前の昭和21年のときです。

 

 

当時、「阿部定(あべ・さだ)」 は、中野の料亭に女中として勤めており、そこの店主である石田吉蔵(いしだ・きちぞう)と不倫関係に。そして、密会の末の駆け落ち(かけおち)。

そして、二人で宿を転々としては、情事を重ねます。

最初は、首を絞めながら情交すると気持ち良い。そんなことをお互いに試しながら、ふざけあっているうちに、定(さだ)の気持ちがどんどん石田に募(つの)っていく。

そんな中、定(さだ)の気持ちの中に嫉妬(しっと)が芽生えてきたのでしょうか。石田を独占したい欲求から、石田を絞殺し、そして定(さだ)が一番執着している石田の局部を切り取ったというもの。

 

定(さだ)は逮捕の後、精神鑑定を受け、残忍性淫乱症(サディズム)と節片(せっぺん)淫乱症(フェチズム)と診断されています。しかし、本人は、それまでの自分の芸妓(げいぎ)そして娼妓(しょうぎ)(注:現在の娼婦)としての男性遍歴から、それは石田ただ一人に対して行った行為であるとして、それを否定しています。


本人は、逮捕時に石田の殺害理由を、石田とは結婚できないので、彼を殺せば他のどんな女性も彼に触ることが出来ないから・・・といった趣旨の自供をしています。

また、「まるで重荷が私の肩から持ち上げられたように、石田を殺したあと、私はとても楽になった」 とも供述しています。

そして、石田に対しては、それまでに経験した男性の誰にもまして、女性の扱いが旨く、性技に長(た)けていたと証言しています。

 

石田の遺体(いたい)が横たわる現場には、血で、「定、吉二人キリ」 と書かれ、石田の左腕には 「定」 との文字が刻まれ、そして、3日後の逮捕に至るまで、定(さだ)は、石田の下着を纏(まと)い、切り取った局部は紙に巻いて、逮捕時まで、肌身から離さず持ち歩いていたといいます。

 

 

また、定(さだ)は、釈放(しゃくほう)後の晩年に、

 


「そうね、人間一生に一人じゃないかしら、好きになるのは。ちょっと浮気とか、ちょっといいなあと思うのはあるでしょうね、いっぱい。それは人間ですからね。けどね、好きだからというのは一人…」

 

という言葉を残しています。

 

殺したことを後悔もしていないし、そもそも、自分もそのとき死ぬつもりだった、といった言葉も、坂口安吾の対談などに残されています。

 

(つづく)

2017/05/17

美しさの基準

「美」 とは、そもそも、何なんでしょう(笑)

 

「美」 とは、そそるものであり、萌えるもの。そして自分が適(かな)わない崇高(すうこう)なもの。「美」 とは、自分の感性に訴えかけて、そして、自分が痺(しび)れるもの。

 

料理もそうだし音楽もそう。視覚系なら、小説もそうだし、踊りやショー。そして映画・映像といったビジュアルもそう。感性を痺れさせるもの。それが 「美」。

 

基本的には 「フェチ」 から派生しているものだと思ってます。臭いもあれば、声もある。

 

全ては、エロティシズムが根源です。

 

そして、自分の内なるものを表現したい。

 

表現したい者が発信する主張に対するレスポンス。きっと、その評価が、ある一定レベルを超えること。それなりに 「そそる」 ことの普遍性が得られることが 「美」 と言える条件なんだと思います。

ある意味、個人レベルの 「価値観」 から、社会的・時代的な 「価値観」 への昇華(しょうか)です。そこで、社会的通念との衝突が起きる。その結果、現代では、性やセックスとは一線を画した部分が 「美術」 として 「偉そうな顔」 をしている訳であります(苦笑)

 

エロ(痴性)と知性の融合こそが 「美術」。

 

大切なのは、それを産み出した人達の感性であり、そして、その感性に刺激されて、もっと深化させようとする人達の思いです。

 

美術は、そもそも、評価されようとして、賞を取って 「偉くなってやろう・・・」 という名誉欲から来るものではないということ。「伝統」 とやらを伝える人達は、その人達で、その 「美」 を深化させればいい。

「クラシックバレエ」 にしても、「社交ダンス」 にしても、「クラシック音楽」 にしても、あるいは、日本で言えば、「歌舞伎」 にしても、「能」 や 「雅楽」 にしてもです。

 

今は、若い連中に流行りの ヒップホップにラップ。

 

日本人は、日本風にアレンジして、その道を志(こころざ)す人は、その信念を貫(つらぬ)けばいいと思います。

しかし、やはり本流からすれば、英語圏(けん)等 「リエゾン」 の言語圏の人達が、日本語風の 「撥音(はつおん)」 をするところが 「粋(いき)」 なんであって、あとは、やはり、今ある現状から、逃(のが)れたくても逃れられない苦しみ。絶望と、そして成り上がりたい感。

 

ちなみに、「ラップ」 と最初に呼ばれた曲は、「ラッパーズ・ディライト (Rapper's Delight)」。

 

 

この曲を歌う 「シュガーヒル・ギャング(Sugarhill Gang)」 は、もともとは、ピザ屋の店員。鼻歌よろしく、既成曲に自分達のセリフを乗せて、ノリまくってたのを、スカウトされて、1989年にリリースして大ヒットになったわけです。

 

 

自分は、80年代から90年代に掛けて、R&B (リズム&ブルース)全盛期を楽しんだ口ですが、仕事でワシントンDC に出張したときなどには、ゴミバケツを寄せ集めては夜中に一人、ドラムセションにふける黒人の兄ちゃんにビビリながらも、その音には響き酔いしれていた記憶があります。

 

美意識の根源は、自分です。

 

当時の彼女とデートの最中、伊勢崎町の商店街で、まだデビュー前の 「ゆず」 と出会い、その音の良さに 「タイ米」 ならぬ 「大枚」 のチップを弾(はず)んでしまい、彼女から駄目出しを喰らった記憶もあります。

ジャズバーに行き、自分の困ったリクエストに対しても、誠意でもって応えてくれるプレイヤーの気持ち、それも嬉しい。

自分にとっては、「ゆず」 であれ誰であれ、心地良い曲を、自分達二人のために歌ってくれたことが何よりも嬉しい。

 

「美」 の根源とは、自分の快感を、他者に伝える気持ち。そして、「発信者」 と 「受信者」 の共感が生む 「快感の連鎖」 だと思ってます。

 

***

 

SM の 「緊縛」 も単に 「縛る」 だけなら、それは単なる 「技術」 の世界。

しかし、「受け手」 の女性と 「縛り手」 の心が溶け合って、醸(かも)しだすものは、女性の美。

その女性にあった、女性のエロを搾(しぼ)り出そうとする 「縛り手」 の作品だと思ってます。

未だに自分でも判断できないのが、「女性」 に焦点をあてるべきか、「縛り」 に焦点を当てるべきか。

 

やはり 「縄は美しい」。

 

「受け手」 の女性と 「縛り手」 そして、それをキャプチャーする 「カメラマン」 のハーモニーこそが、日本の SM の芸術を昇華しつつある、と思ってます。

 

***

 

何を言いたかったかと言うと、「美」 の意識の根源は 「自分にある」 ということです。

「美」 は多様であるからこそ、違ってると思うなら、自分で避けて、自分の道を行けばいい。

DIS りたくなる気持ちは解ります。だけれども、それは、自分が新しいステップにチャレンジする力に使わなければいけないということ。

 

自分は、芸術学的な学問を学んだことはありませんが、自分の肌で感じるところ、「美」 とは、自分の快感であり、自分の美意識を、社会的な基準でマッピングする行為なんだと思ってます。

2017/05/15

出会いと別れ

若い頃は、「苔(こけ)の一念(いちねん)岩をも通す」 ではないけど、自分が最大限努力すれば、出来ないことはないと思っていました。世の中甘くはありませんので、何かを成し遂(と)げるためには、その位の強い信念は必要です。

 

しかし、それが全(すべ)てに通用するかというと、そうでもない。どんなに足掻(あが)いても、自分の思うようにならないことが、世の中たくさんあります。

 

人の生死もそうなら、人との出会いもそう。

 

どんなに自分が好きな人であっても、相手に自分の思いが通じないことはしょっちゅうだし、人との出会いがあれば、それと同じだけの、別(わか)れもある。

どんなにお互いが愛し合って結婚したとしても、気持ちが離れることもあれば、愛が一転して憎悪に変わることもある。


現実的には、「愛」 はあるけれども、人間は誰しも不完全な存在ですので、そこには 「永遠の愛」 などありません。「愛」 とは与えるもの。見返りも求めるものでもなければ、比較するものでもない。ましてや、「愛」 を欲しがるのは 「愛」 ではなく、「欲」 なのです。

 

別れの美学

 

昨今(さっこん) 「ゲス」 と呼ばれる 「不倫」 なんて言葉も、そもそも、SM やってるような 「外道(げどう)」 にとっては、「だから何?」 と逆に質問されかねない、ある意味、何の意味もなさない言葉ですが、どうワルぶっても避けられないのが、「出会い」 と 「別れ」。

 

人の本質は、やはり、「別れ」 に表われるように思います。

 

「桜」 ではありませんが、蕾(つぼみ)から 「パッ」 と花が咲いて、そして 「パッ」 と散る。時間は長ければ長いに越したことありませんし、密度も濃ければ濃いに越したことはない。

オンナを喰い散らかすのが 「無粋(ぶすい)」 なら、心が 「いっぱいいっぱい」 になったオンナに対して後ろ髪を引くのは 「野暮(やぼ)」 というもの。そこでオンナを脅(おど)したり、罵(ののし)ったりするなんざ、外道以下です。

自分の未練(みれん)を抑(おさ)えて、放してこそ 「粋(いき)」 と言うもんです。

 

SM では、奴隷の方からはその隷属(れいぞく)関係を解消できないのが一般的。しかし、これは、主の身近な存在として主に従属している幸福を実感させるのと同時に、気持ちが一時的に不安定になって、不安から逃げようとする女性の退路を断(た)つこと。自身を主に委ねさせるようにすることが本来の隠された目的なわけで、文面通り社会的肉体的に支配して従わせることを目的としているわけではありません。

緊縛はしても、束縛はしないのは当たり前。そして、愛奴の心にガッツリと縄目が残せないようでは、単なる SM の真似事(まねごと)に過ぎません。

 

SM の難しさ。それはやはり、相手があることの難しさです。距離感は、遠すぎても意味なければ、近すぎても駄目。良い意味での緊張を維持し続けることは、なかなか簡単なことではありません。

 

どんなにお互い愛し合っていたとしても、心がいっぱいいっぱいに溢(あふ)れてしまい、ガス抜きが出来ずに苦しむ場合もある。

性の欲望が解放され、心も満たされる関係では、愛という名の緊張がどんどん高まります。そんなとき、「割り切り」 というガス抜きが出来ていないと、風船は膨(ふく)らみ続けて、そして最後に頭に不安がよぎった途端(とたん)に、破裂します。

そんな場合は、どれだけ自分に心が残っていても、もう別れて自由にしてあげる、放(はな)してあげる以外に道はありません。

「飼い切れていない」 と言われれば、それまで。SM では、「受け手」 が全てを責め手に委ねる以上、「責任」 は文字通り全て 「責め手」 に帰するわけです。

だからこそ、どれだけ 「受け手」 の方も主に委ねられているかが、重要となってくるわけですが、しかし、それも、元を辿(たど)れば 「主の躾(しつ)け」 に行き着きます(苦笑)。

 

出会いがあれば、いつか別れも訪れます。どんな出会いも期間が長いか短いかだけの話。

 

大事なことは、どんなに切なくても、その出会いを統括(とうかつ)して、出会った相手に感謝する気持ち。出会いを感謝の気持ちに昇華(しょうか)するということ。

それが出来る人の通った道には、花が咲き、それを出来ない人の通った道には、屍(しかばね)ばかりが転がります。

人は、今を一生懸命に生きることが大切です。今を大事に出来ない人には、幸せは訪れません。何故なら、今の連続が未来だから。今を楽しめない人は、未来も楽しめません。

そして、その逆に、過ぎ去った 「今の連続」 が過去なのです。なので、今を大事に出来ず、現在をきちんと消化出来ていない人が通った道には、屍ばかりが転がるのです。
 

きちんと 「挨拶」 のできる愛奴は 「卒業」 なのです。なので恩師として教え子として、今でも心は繋がっています。逆にそれを出来ない奴隷は 「落第」 です。

自分が至らなかった心苦しさは残りますが、野良になって永遠に彷徨(さまよ)い続けるのも、転がり続けるのも人生です。

 

そして、「別れ」 によって突然 「空き」 が生じるからこそ、次の出会いがある。そこにまるで、空気の流れがあるように、入れ替わるわけです。

 

大事なことは、人との縁を大事にして、今を大事にすること。自分の利益を追求するのではなくて、相手を尊重するということ。そして、自分が通った道の後には、花が咲くように心掛けるということです。

 

一期一会を大事にする

 

一期一会とは、人との縁を大事にして、今を大事に生きるという意味です。

ある意味、縁ある人と自分との掛け合いでもあり、その人との時間を大切にする。

贅(ぜい)を尽くし、持(も)て成(な)すことでもない。自分の誠意を尽くすこと。最近では死語に近くなってきましたが、大事なのは 「真心(まごころ)」 です。

ダラダラの関係を 「一期一会」 などとは呼びませんし、相互に謙虚(けんきょ)な気持ちのない関係にも 「一期一会」 は当てはまりません。
ましてや、真意を測(はか)りかねてたり、話が噛みあっていなかったり、あるいは、自己中心的で打算のある関係などは論外と言えます。
そこには、大事であるがゆえに、相手を尊重し、自分よりも相手を優先する気持ち、そして、良い意味での緊張と喜びがあります。

 

物事に対する執着を捨てて、自分の執着を乗り越えて、縁ある人との時間を、真摯に純粋に楽しむ。

 

例え、自分が好意を寄せる女性から、別れ話を切り出されたとしても、いや、そういう場面であるからこそ、「一期一会」 であるならば、一緒に二人で本当に美味しいものを食べるくらいの心の余裕が欲しいものです。

釣った魚に餌をあげないどころか、逃げる魚に餌なんてとんでもないなんて言うのは、野暮。

「違いの分からない」 男や女は、この世に五万といますが、それでも、「一期一会」 であるならば、自分と縁(ゆかり)のあった人とは、一緒に美味しいものを食べ、お酒を酌(く)み交(か)わしたくなるものです。

 

とある若い独身の男性に別れ話を伝えるために、別れ話を切り出そうとしていた女性が選んだお店は、「あつた蓬莱軒」 の陣屋本店。明治6年創業の 「ひつまぶし」 発祥とも言われている老舗(しにせ)の名店です。

涙で、味は解らないし、気分も晴れないでしょう。女性が美味しいと薦める 「小鉢」 も断ってしまう始末。しかし、その店を選んだのは、彼女が美味しいものを食べたかったからではありません。

わざわざ遠くまで来てくれて、せめて美味しいものでも味わって帰って貰いたいという彼女の誠意であり、ホンモノ(ホルモンではない)の味が分かる男になって貰いたい、そして、そういう格式のある店でも映えるような 「粋(いき)な男」 になって貰いたい、という彼女のメッセージが隠されていたわけです。

 

いつか、もっと立派になって、何かの縁でまた 「ひつまぶし」 に出会ったときには、きっとそのときのことは、甘酸っぱい思い出になっていることでしょう。

今現在 「別れ」 に直面し、心に痛みを感じている人達に、この話を捧げます。

2017/05/13

距離感

SM で難しいと思うこと。そのひとつに 「距離感」 があります。

しかし、これはもしかしたら SM に限らないのかも知れません。

 

お互いに近過ぎるのも駄目なら、遠過ぎるのも良くない。

 

これは、天体の関係に良く似ています。

近過ぎると、お互いに引き合う力(引力)が強くなり、最後には衝突してしまいますし、遠過ぎると、遠心力のような力が働いて、どんどん離れて疎遠(そえん)になるばかり。

 

理想は、月と地球の関係のように 「付かず離れず」。

 

お互いがグルグルと一定の距離を保ちながら、いつまでも回っていられるのが理想なのですが、しかし、人は不完全な存在であるためか、なかなかそれが難しい。

愛は引力(いんりょく)であり、仕事とか家庭とか日常の社会生活は斥力(せきりょく)です。愛する気持ちが強くなれば強くなるほど、踏(ふ)ん張っていないと衝突してしまう。衝突は、社会的な日常生活の破綻(はたん)を意味します。

 

愛とは 「緊張」 です。

 

愛する気持ちが高まれば高まるほど、心は追い詰められ、身体の筋肉は硬直します。愛とはそもそも苦しい存在なのです。愛がない人生は空(むな)しい。だけど恋し愛するのは、その対極にあって、とても苦しいんです。

だから、恋愛に疲れた人達は、「恋愛はもういい」 となる。特に女性は心が入ってしまうときついんです。

セックスにおける 「オーガズム」 は、極度の緊張からの弛緩(しかん)するときに発生するそうですが、愛も積もり積もってくると、大きなストレスになります。人は不完全な存在なので、それだけの愛をしまっておくところはありません。

セックスでイクためには、極度の緊張が破れるまで、堪(こら)えないといけない。しかし、愛する気持ちをそこまで高めてしまうと、心が破けてしまい、その結果全てを失ってしまったりする。

 

動物としての人間にとって、愛とは、自己の生存欲求(自己愛)とは異なる、種の保存欲求に他なりません。セックスして自己の遺伝子を保存し、そして自己の遺伝子を継承する 「家族」 を守るために 「愛」 が存在するのです。

「激しい愛」 は、セックスを促(うなが)す衝動であり、そして、「穏(おだ)やかな愛」 は家族や社会といった群れに対する帰属意識なわけです。

 

身体の奥から、こみ上げてくるものに振り回されていいのは、ヌシと会っているときだけ。ヌシに自身の心と身体を委ねているときだけです。それ以外のときは、しっかりと自分の足で立ち、時間に追われ、家族に翻弄される。

お互いの距離感を意識しながら、きちんとスイッチのONとOFFを切り替える必要があるわけです。

2017/05/02

「男の味見」 のススメ

人の 「好(この)み」 はさまざまです。

甘いもの好きから、オヤジが好むような珍味(ちんみ)好きまで、さまざま。

ある意味、自分の価値観の中核とも言えるものです。

なので、最終的には、世間や他人の基準に従うのではなく、自分の基準で自分が判断すべきもの。


食べものは、まだ予算さえ合えば、食べることが出来ますが、しかし、予算にも当然限界はあります。

「ホンモノ」 と出会い、本当に美味しいものにありつくためには、「好き嫌い」 は無いに越したことはありませんし、経験を積んで 「自分の舌」 を鍛(きた)えるのも大事。

下手なファッション誌に出ているレストランなんかを食べ歩いたところで、踊(おど)らされるのが関の山(せきのやま)。

しかし、自分の足でただ闇雲(やみくも)に歩いてみたところで、美味い店に当たるよりも、不味いものに当たる確率の方が断然高い。横浜の中華街でも、そうです。(笑)

それならば、舌の肥えてる自分が信頼を寄せる人にでも紹介して貰ったほうが、まだマシというもの。

 

恋人選びや、結婚相手選びも同じです。

いやいや、恋人や結婚の相方(あいかた)探しとなると、そこにはどうしてもお互いの相性が出てきますので、それ以上に難しい。


心の相性は、付き合うことである程度理解できます。
付き合うことで、あるいは、一緒に住むことで態度が変わる人もいますが、それは、付き合うか、一緒に住まない限りは解りません。
別れ際(わかれぎわ)で、キレイな別れ方が出来ず、最後に脅(おど)し文句や捨て台詞(すてぜりふ)を残さないと気の済まないような、幼稚(ようち)な輩も居たりしますが、これもなかなか最初から見極めるのは難しかったりします。

時間も食うし、お金も掛かるので、最後で判断すればいいんです。

 

いろいろな人を認識する


要は、「いろいろな人」 がいるということ。

 

まずは、自分の憧(あこが)れではなく、現実の世界で実際に 「いろいろな人」 が存在することを認識し、味わってみるのが大事。
若いときには、好き嫌いや選り好み(よりごのみ)をせず、不味い料理も美味しい料理も経験して、自分の舌を鍛えるということ。好き嫌いがある人は、その自分の先入観を否定してみるのも悪くないのです。イモトに蛇を食わせるように、その人が 「絶対に無理」 なものを喰えと言ってるわけではありません。先入観を捨てて 「喰わず嫌い」 や 「選り好み」 を直して、「食べてみなさい」 ということです。

20代前半までは、いかに練習問題を数多く解くかに掛かっているのです。

 

女性は、相手に対する 「好き」 という好意に始まり、それが 「ドキドキ」 して、ときめくようになり、セックスに至ります。最終的にセックスの点数は、心の満足度と身体の満足度によって決まります。女性の本質は生物的にはその通りです。

しかし、結婚には、生活を始め、さまざまな要因が関係しますので、単純にセックスが良いからと相手を選択できるものではありません。

 

しかしセックスは、味見をしてみないと解らないものだけに、選ぶ際には、「自分の味覚」 がとても重要になってくるのです。
特に若い女性が知っておくべきこと。それは10代や20代の女性も性欲はあるでしょう。しかし、女性の性欲は、30代40代と年齢を増すに連れて、より強く激しくなっていくということです。20代や結婚当初は、セックスに全く興味がなかったという淡白な女性でさえ、四十路(よそじ)を迎えるにあたって、強い性的な衝動を覚えたりもするのです。
選択する時点では、外見は熟れていても、オンナとしてはまだまだ熟れていないんです。

 

20代前半までは、練習問題を解く時期


20代半(なか)ばまでは、自分を鍛える時期。

自分の 「好き嫌い」 を克服し、「選り好み」 をやめ、まずは喰ってみる。味見です。そして、自分の味覚を鍛えて、まずは、「不味(まず)いもの」 と 「美味しいもの」 を知り、区別できるようになること。そして、「美味しいもの」 は、「そこそこ美味しいもの」 と、「めっちゃ美味しいもの」 を知り、区別できるようになること。
これから梅雨(つゆ)にかけての、東京湾羽田沖の穴子(あなご)。口の中で溶ける 「煮穴子の炙(あぶ)り」 も、ふぐの白子の上品でとろける味も、いつでも食べれるものではありませんが、知らないよりかは知ってる方が断然人生豊かになると言うものです。

 

紙一枚で分かることで、人を選別しない


言ってしまえば、頭の出来や経済力などは給与証明や出身大学あるいは勤務先など紙一枚で解りますが、頭の回転や人間性は、話してみればある程度解るものの、しかし、きちんとその人の本質を見抜くためには、口先だけで甘言(かんげん)を吐く、口八丁手八丁や自分語りの旨(うま)い呪術師を見破るだけの経験が必要になります。
目先の数字は、最後に見れば良いのです。最初から、目先の数字ばかりを見て、選別している人は、自分の機会を減らしてるわけです。大企業並みの求人倍率であれば、数字による足切りも仕方ないでしょう。しかし、中小零細がそれをやったら、ブラックよろしく嘘の宣伝でもしない限りは、来る人はいません。(苦笑)

 

ホンモノの味を理解して、味覚を鍛える


要は、大事なのは、自分の現実での立ち位置をしっかりと認識することと、相手の表から見えない部分を観(み)る力なのです。

若いときは、自分のキャパシティ(器の容量)を出来るだけ広げると共に、ホンモノを見抜く力を付けるための努力を惜しまないようにしなさい、ということ。
キャパシティが小さければ、それだけチャンス(機会)が減りますし、ホンモノを見抜く力が弱ければ、それだけ自分の時間を浪費します。結果として、なかなかホンモノには出会えません。

 

誰があなたの見方かを認識する


そして、美味しいものを教えてくれた人には、もっと美味しいものを教えてもらいなさいということ。
背伸びをして自分を飾ろうとする人は、気取ってるだけで、あなたに本当に美味しいものを食べさせようとは思っていません。逆に、あなたに好意を寄せる人は、下心の有無を別にすれば、あなたにほんとうに美味しいものを味わわせて、喜んで貰おうと思っています。

 

下積みして磨く


心の相性も大事ですし、身体の相性も大事。
そして、自分の心も磨き、自分の身体も磨く。
自分の心を磨くというのは、現実に思いっきりぶつかって、いっぱい涙を流して、現実を理解するのと同時に、自分の心の角を取ることだし、自分の身体を磨くのは、身体のお手入れや適度なダイエットは否定しませんが、自分の感度や味覚を高めなさいということです。
きちんと下仕事をした上での料理と、全く下仕事のない料理では、料理人が言うのもなんですが、お味は全く異なります。(笑)

 

後半戦


逆に、20代も後半戦に突入すると、女性も意識してるのか無意識なのか。徐々にではありますが、成熟度が増すにつれて、結婚に対する期待度も高まってきます。なので、それが相手に対して無言のプレッシャーを与える場合もあるわけです。

こういう場合、責任意識の強い男は、「ババ抜き」 でババを掴(つか)まされるのを嫌い避けますし、逆に無責任男や自己中男は、「そんなの関係ねーっ」 とばかりに突き進みます。(笑)

自分の季節の移り変わりを認識するのもとても大事。

この年代に必要になってくることは、男を見る目と、相手にプレッシャーを与えることなく、相手の休息地となり得るか、なのです。

 

女性の論理だけで、突進していっても玉砕(ぎょくさい)するだけです。

竹槍(たけやり)片手に精神論で 「心頭滅却(しんとうめっきゃく)」 して突撃しても、機関銃には敵(かな)いません。

大事なことは、女は男を、男は女を理解し、女は男を見る目を養い、男は女を見る目を養う。

そして、心も身体も響き合うことが重要なのです。

 

親心・オヤジゴコロ・もーれつア太郎のココロのボスであるのココロ

 

頭でいくら考えても、行動に移せないのは、理屈では分かっても、身体で理解していないから。

 

心に傷を抱(かか)えており、自暴自棄(じぼうじき)を繰り返す子には、「自分を大切にしなさい」 と言いますが、箱入り娘でもないのに、箱から出れない子には、「さっさと飛び降りなさい」 とお尻を叩きたくなります。(苦笑)

 

20代までは 「箱入り娘」 で、娘に 「悪い虫」 が付かないようにと、用心していた親も、30代も半ばを過ぎると次第に、どんな 「虫」 でもいいから、付いて欲しいと願うようになります。

まあ、それからでも、決して遅いとは申しません。

遅咲きの花であれば、遅咲きの花の春を謳歌(おうか)すれば良いのです。

大事なのは、いつまで待っても、王子様は現れないということ。

実際は現れていても、目が悪いので、通りすがりの人が王子様であることに、気が付かないのです。

 

結婚前にとにかくハチャメチャに遊びまくった感のある人達は、基本、結婚しても、結束力は硬いです。ある意味、女性は男性に、男性は女性に対する諦(あきら)めの気持ちもあるし、それ以上に、美味い料理に当たるよりも、不味い料理に当たる確率を、身体で覚えているのです。そして何よりも、自分の相方が 「ベスト」 ではないものの、上位にあることも身を以(も)って実感している。

 

料理も味見は、とても大切です。

頭ではなく、自分の舌でひとつひとつを確認するのです。

その基本となる 「味」 を覚えるためにも、「見てくれ」 に捉(とら)われず、男を 「味見」 することをお勧めします。(笑)

 

「分かるかな? まあ、分からないだろうな~(笑)」