2ntブログ
2017/11/19

「食」 と 「セ☆クス」 の話

「食欲」 と 「性欲」 は、人の基本的な生理欲求の中でも、相互に大変関わりが深いものです。「食欲」 も 「性欲」 も、どちらも 「飢え」 を感じさせます。

実際に、脳の視床下部の中で、別名満腹中枢とも呼ばれる食欲中枢(腹内側核)と性欲中枢は隣り合っています。特に女性の場合は、その傾向が強く出ます。

 

何故、今回、「食と性」 を取り上げたかと言えば、以下のような記事を見かけたためです。

 

「食欲を我慢できない人は、性欲もがまんできない?食とセ☆クスのエロい関係」

 

買ってはいけない 「素人料理本」

 

きちんと議論しているのかと、記事に目を通してみたら、何と 「ごはんとセ☆クスのおいしい関係」 という市販本のディスり記事。まあ、エロネタのキュレーターが 「世間で手垢が付くほど語られてきた性愛論の範疇から1ミリもはみ出さない内容・・・」 と言うくらいなので、内容は、かなりと言っていいほど、期待はずれだったのでしょうか?

 

ちなみに、(料理の)プロは、参考するにしても、「柴田書店」 が出版する本くらいです。

主婦の方が、ちょっと参考にする程度なら、NHK の 「きょうの料理」 くらいで十分です。

 

性欲と食欲

 

「食欲を我慢できない人は、性欲も我慢できないか?」

 

食欲を満たすことで、性欲を極小化している可能性もありますので、食べている限りにおいては、性欲は我慢できるでしょう。

 

30代の頃、既に結婚はしていましたが、摂食障害(拒食症)の子とお付き合いしたことがあります。

彼女の症状は、普段は拒食症を示しますが、発作的に過食に走るというものです。そして過食の結果、自分で吐くことを繰り返すようです。

当時 CM に良く出ていた 「加○あい」 似を自称していましたが、自称でこれだけ似てる子は今まで見たことない、と思わせたカワイイ子でした。

普段は、拒食でストイックなのでしょう。しかし、極度の空腹感を覚えると過食してしまう。過食すると吐くの繰り返しです。そのストレスに耐え切れなくなってくると、性欲で食欲を埋めようとするのしょう。自分が呼ばれるのは、かなり精神的にもきつくなってきたときです。

彼女は本当に、まるで過食する勢いで、大胆かつストレートにセ☆クスを求めてきました。

 

しかし、同じ摂食障害でも過食傾向が強い人の場合はどうでしょう?

拒食の子の場合は、食で満たされない欲求を、性で満たそうとしましたが、過食傾向が強い子の場合は、ストレスもそうですが、過食で性欲を満たそうとしている可能性があります。

 

そもそも、性欲が強いからと言って、その性欲をどう発散させるか、どう満たすかは、経験にもよりますし、人によって異なります。

 

ですので、ナンパ厨の男性の目の色が変わるような、面白い答えにはなっておりませんが、「食欲を我慢できないからと言って、必ずしも、その人が性欲も我慢できないわけではない」 というのが、自分の回答です。

体調が悪いときは、食欲もなければ、性欲もなくなりますし、鬱(うつ)などの状態でも、性欲はなくなります。

 

男性の場合は、瀕死(ひんし)の状態であっても、最後に ”子孫を残す” という手段を取れなくはありませんが、女性の場合は、子孫を残すということは即(すなわ)ち、自分も生き延びることが前提となるわけです。そこには、やはり男女の性差みたいなものがあるのでしょうか?

 

若い女性は満腹でより性欲を感じる

 

ちょっと古い記事ですが、こんな記事があります。

 

「セ☆クスよりチョコレート? 女性の食欲は性欲に勝るのか」

 

これは、2015年に米ドレクセル大学の研究チームが 「Appetite」 誌に発表した報告に基づいた記事ですが、「女性は食欲が満たされているときの方が、性欲を感じやすい」 とのことです。

また、ダイエット経験のある女性の場合は、満腹時に(セ☆クスやドラ☆グといった)報酬系に対する脳の反応がより強くなるそうです。

 

この実験は、「男女が抱き合った写真」 を見せることで、性欲を出現させているようですので、あくまでも一般的な性欲であり、既に性的な関係にある異性の場合に、どちらが優先されるかまでは、分かりません。

しかし、女性の場合、性欲の発現においては、食欲を満たされている方が、より強く出るとのことです。

 

セ☆クスが先か?食事が先か?

 

自分の場合は、あまり満腹状態にあると、性欲も落ち着いてしまい、眠くなってしまったりします。逆に、性欲が高まっているときには、空腹感はあまり感じません。

もしかしたら、このパターンは、男性脳的な反応で、女性の場合は異なるのかな?とも思いましたが、一番最初にご紹介した桃子さんの記事によりますと、冒頭にこんな記述があります:

 

私はかねてから、食事→ホテルという流れに疑問をもっております。デートでは鉄板のパターンですよね。お腹いっぱい&ほろ酔いになれば、今度はもうひとつの欲である睡眠への誘惑に抗うことができなくなるのです。だったら腹8分目を心がければいいのですが、そこはホラ、目の前にあるものを我慢できなくて。だから、ホテルでがっつり満たされた後にご飯……というのが私にとってはベストです。まあ、かなり慣れ親しんでからでないと提案しにくいですけどね。

 

セ☆クスも好きですが、食べるのも好きなら、飲むのも好き。

この感覚は、自分も全く同感です。

自分も、食べて飲みだすと、「野獣モード」 から 「おっさんモード」 に変わり、「おいっ、次行くぞっ!」 とばかりに、二軒目三軒目と梯子(はしご)してしまいそうです。(苦笑)

 

米ドレクセル大の研究により実証もしくは立証された結論に基づけば、女性は、満腹である方が性欲を感じる・・・とのことですが、しかし、そこで目もぱっちり冴(さ)えていないと、満足なセ☆クスには至りません。


しかし、「初めて会った異性と恋に落ちる」 とか、「男女のカップルがデートする」 ような場合は、女性の気持ちを高揚させるためにも、ウキウキと浮かれるような甘い 「デート」 と並んで 「(女性の好きな)食事」 が ”欠かすことの出来ないイベント” であることが、科学的にも立証されたと言えそうです。

 

セ☆クスが先か?食事が先か?

 

では、既に肉体的な関係にある場合はどうか?

 

常に不安が頭を過(よ)ぎる若い女性の場合は、やはり、「いつもラブホばかりではなくて、デートを楽しみたい・・・」 とか、そういう思いが強いと思います。

 

しかし、ある程度、女性も熟してくると、食い気よりも色気になってくるのでしょうか?笑

そもそも、好きな人とのデートともなれば、会う前から、恋愛ホルモンが出まくっているでしょうし、この実験は、「若い女性」 を被験者としたものですし、実験とは自ずと条件が異なってきますので、「ホテルでがっつり満たされた後に食事」 というのが正解でしょう。

 

自分はガッツリと、肉系が食べたくなります。(笑)

 

昭和の時代には、「焼肉屋で突付きあってるカップルは、既に出来てる(=エ☆チしてる)」 みたいなトリビアがありました。昔は、遅くまで開いていて、がっつり食べれる繁華街の 「ごはん処」 と言えば、「焼肉屋」 でしたから、このトリビアは、ホテルでがっつり満たされた後のカップルを焼肉屋で良く見かけたことから出た話かも知れません。(笑)

まとめ

 

1. 既に出来てるカップル(但し、若者は除く)の場合

    経験則的には、「ホテル→食事」 がベター。
(1) 前日には、きちんと睡眠を取っておく。
(2) 会う前に、きちんと前以(まえも)ってご飯を食べ、空腹状態にしない。

(3) 会っている間の空腹を避けるために、軽い食べ物を持ち込む。

(4) 女性をがっつりイカせる。

(5) 時間がある場合は、お食事に行く。(主婦の場合は早く帰す)

 

2. 若いカップルの場合

    (デート→)お食事→ホテル

(1) (楽しく怒らず)デートして、いっぱい話を聞いてあげる。

(2) 女性が好きな食事をする。

(3) ホテルで(きちんと前☆戯をサボらず、女性が気持ち良くなるように)頑張る。

2017/11/19

今日は緑のおばさんの日

緑のおばさん、見たことある?

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう

あなたもスタンプをGETしよう

宮土理のおばさん?

① うつみ宮土理


みどりのおばさん?

② 五月みどり


みどりのおばさん・・・

竹井みどり


も、良かったけど・・・

みどりのおばさん・・・

山本みどり


も良かったね♪
2017/11/18

「主従関係」 と 「SM」

最近、彼氏と 「主従関係」 にある・・・という女性の方から良く相談を受けます。

一方で、SM で責めて貰いたいけど、「主従関係」 は無理・・・という女性の方もいます。

 

「主従関係(DS)」 と 「SM」 は違うものなのか?

 

まず言葉と用語の問題について説明しておきます。

 

日本では、「あなたは、S?それともM?」 みたいに単なる 「我の強さ」 を、S だの Mだの品評する 「おかしな慣習」 が流行してしまいましたが、「サディスト(Sadist)」 や 「マゾヒスト(Masochist)」 という言葉は、その人が元来持ち合わせる性的趣向を表す意味もありますが、精神疾患とされる性的サディズム・性的マゾヒズム患者と混同を避ける意味もあって、現在では(特に海外では)あまり使用されていません。

これを補完する言葉として、以前は、日本語における 「責め手」 と 「受け手」 と同じ意味で、「ドミナント(dominant)」 と 「サブミッシブ(submissive)」 という言葉が使われていましたが、それでも、先ほどの 「主従関係は無理!」 ではありませんが、「主従(従属)プレイ」 と混同されやすいためか、最近では、「トップ(top)」 と 「ボトム(bottom)」 という、より曖昧(あいまい)で抽象的な言葉が使われています。

呼び方も時代と共に、変遷しているわけです。

 

日本で言われる 「SM」 は、海外では 「BDSM (Bondage, Discipline, Sadism Masochism)」 あるいは、支配と従属の意味の 「DS(Dominance and Submission)」 を加えてBDSM&DS とも呼ばれたりしますが、DS は新しいものでも何でもなく、そもそも、SM カテゴリーの一部です。

 

呼び方や分類が整理されることはあっても、本質は何も変わらないということ。

 

SM も DS も根は同じ

 

SM と言うと、どちらかと言うと肉体的な苦痛や刺激を与えるという印象が強いのかも知れません。しかし、心理的な軋轢(あつれき)を加える場合もあれば、必ずしも、苦しみや痛みが伴うばかりではありません。「痛いのは嫌っ!」 という人も、決して少なくありません。

 

一方、DS にこだわる人は、その逆で、支配と服従における心理的なものを重視しているのかも知れません。従者を机にして、例えば足であったり、モノを机に乗せる。

とても静かな光景ではありますが、従者は既にその時点で支配されており、足なりモノが退(ど)かされない限りは、ずっとその従属行為が続くわけです。

ご褒美は、足を舐めさせることであったり、性的に奉仕させることもあるかも知れません。

 

従者は、粗相(そそう)なく務めようとし、支配者はそれを気分によっては邪魔しようとします。

粗相すれば、当然お仕置きが待っています。

 

主従関係に基づく 「SM調教」 は、そもそも精神的には支配従属(DS)の関係にあり、そして、そこに 「躾け(Discipline)」 的な要素が加わり、肉体的精神的な 「責め(SM)」 という行為が行われる世界です。

当然、責めの中には、「動」 もあれば 「静」 もあります。

自分的には、SM 的要素も DS 的要素も相互に不可分で、「一連の流れ」 というか 「関係性」  があるものなのですが、どうやら、そういう人ばかりではなく、肉体的な刺激あるいは衝撃としての SM を欲する人と、「支配されたい」 という精神的充足や忍耐を欲する人も居るようです。

 

縄の世界にも、縄に傾倒するがあまりに、「緊縛は SM ではない」 と言いだす人もいます。

そういう人は、多分 SM というものを理解していないか、理解出来ていないだけなんだろうと思いますが、縛られて酔う人もいれば、叩かれて酔う人もいるのです。

 

自分の好みを、きちんと相方に伝えることは大事ですし、「痛いのは嫌っ!」 と言う人に対して無理やり、痛いことはしたりしないのが鉄則の世界ではありますが、しかし、脳内麻☆薬が頭の中に溢(あふ)れているときは、痛みを痛みとして認知されるのと同時に、快感に変換されることも知らない 「喰わず嫌い」 の人に言われたくはありません。

まあ、「ウニや蟹ミソなんて、人間の食べ物じゃないっ!」 程度ならば、多くの人がその味を知っているだけに誤解を招かないのですが、SM などは、マイノリティの世界であるだけに、言葉を慎んで 選んで 貰いたいもんです。(苦笑)

 

偏向している人達

 

それぞれは、その人の好みですし、その人の 「性癖」 と言ってしまえば、それまでですし、そもそも、性的に偏向している自分が、他人のことをとやかく言えたものではないのですが、しかし、自分的には、「支配従属」 の精神を受け容れられずにノコノコ?と 「SM 調教」 を希望してくるタイプの人達の感覚が、未だに良く理解出来ずにいます。

 

「SM 倶楽部に行って、肉体的な責めを受けて喜んで帰ってくる・・・」 ような感覚なのでしょうか?

 

SM 倶楽部に顔を出す客の中にも、肉体的な刺激だけを求めてくる人と、精神的なものも含めて委ねたい・・・という願望を持って訪れる人がいると思います。

「SM バー」 や 「縄会」 などで、特定の縄師に 「縛られたい(委ねてみたい)」 という感覚を持って縛られるのであれば、それは一種の 「支配従属」 の ”空気” だと思っていますが、決して、そういう人ばかりではないでしょうし、中には、自分が何を求めているのかさえも、自覚出来ていない人も、少なからずいることでしょう。

 

単に刹那的に、肉体的な刺激を求めて来るのか、それとも、女心のスイッチが入ったときの甘すぎる ”苦しみ” を 「イヤッ!」 と言うほど過去に味わっているから 「やばいっ」 と直感しているから去っていくのか?

自分的には、前者のような印象が強かったので、

 

        「それなら、きちんとお金払って SM 倶楽部にでも行って

        女王様に責められて来なよ」

 

と思ったりもしましたが、まあ、「縁」 がないものは仕方がありません。(苦笑)

まずお話をして、お互いに信頼を醸成した上で、実際に会ってみているわけですし、会ってみて、それで、「これじゃないっ!」 と思うならば、正直に言ってくれたほうが、こちらの勉強にもなると言うものです。

 

いずれも、離婚経験のある、ちょっとキャリアを積んでます系女性だったので、過去にいろいろと男性と面倒なことがあったかも知れませんし、もしかしたら、そこで 「支配と従属」 のような ”言葉” に嫌悪感を抱いてしまっているのかも知れません。あるいは、怖いもの見たさであったのか、それとも、お試しに過ぎなかったのか。

 

いずれにしても、自分が未熟であったからに相違はないのですが、今でも戦闘服を脱げずに彷徨(さまよ)っているのかと思うと、可哀想でなりません。

 

***

 

SM における ”支配と従属” とは 「本能」 の叫びです。そして、それはガスを抜くために、人間が ”壊れる” ひとつの仕掛けであり、SM とは、お互いが壊れて、ガスを抜き合う行為なのです。
そして、それは、単に肉体的な刺激ではなく、相手に対する信頼と、後付けでもいいので、心が伴う必要があるということ。壊れてガスを抜いた後で、また戦闘服を身に纏(まと)えば良いのです。

2017/11/16

エロ縄

 

たまにふと 「自分の縄は何か?」 と考えるときがあります。

 

ある縄師は、緊縛に 「道」 を見出しますし、また、ある縄師は、縄が魅せる 「美」 を追求しています。

ひとつの行動を純化させて、そこに何かを見出そうとするのも、美しいですし、自分の中で渦巻く 「美」 のイメージを縄で表現するのも、技術と鍛錬と試行錯誤があっての賜物であり、美しいと思います。

 

しかし、自分にとっての 「縄」 は、やはり四畳半における秘め事的行為であって、「受け手」 に対する 「愛欲表現」 なのです。

高尚を気取るものでもなければ、それ以下でもないし、エロとは、絶対に不可分な存在であり、やはり主体は 「受け手」 たる女性であって、「縄」 ではありません。

縛る行為は、自分の 「受け手」 に対する 「感情表現」 であり 「愛情表現」。自分の手の延長・・・の感覚。

 

「受け手」 となる人も、縛れれば誰でも良い・・・というわけではなく、やはり、自分に身も心も許した 「奴隷」 でないと、全然、身体から込み上がってくるものがなく、萌えませんし、「受け手」 が、主に全てを支配され、自分を捨て、主だけに集中し、主だけに痴態を見せ、そして、その状況に酔う縄・・・でないと満足できないのです。

 

観客(オブザーバー)が居ようと居まいと、「受け手」 と 「縛り手」 は、縛っているときは、一体です。「受け手」 は 「縛り手」 だけを感じ、「縛り手」 は 「受け手」 に100%集中する世界です。

「縛り手」 が 「受け手」 を観客に対して 「キレイに見せよう」 とか、「受け手」 が観客に対して 「キレイに見られよう」 という 「見られる意識」 は、プロの人に取っては、大変重要な部分かも知れません。

 

審査員や観客の目を意識し、あからさまにアピールする手の 「ペアダンス」 は好きじゃありませんし、空手も真骨頂は、「型」 ではなく 「組み手」 です。

 

***

 

ツイッターなどで、プロの縛りを見て、「改めて縄会に参加するのもいいかな?」 などと思う自分もいるのですが、「SM バー」 にしても 「縄会」 にしても、基本は、人と人との 「コミュニティー」 です。

一時は、自然発生的に出来た 「コミュニティ」 にて、いろいろと先輩からご指導された身ではありますが、今はそういった 「コミュニティ」 で 「楽」 をしたくないというのもありますし、自分自身もありますが、「愛奴」 をしっかりと見つめたい。

 

「縄」 の事故があるとするならば、それは、「身の程知らず」 か、「慢心」 か、あるいは、「気の緩(ゆる)み」 でしょう。

自分は、お酒を飲んだ余興(よきょう)で縛る・・・なんてことはしません。
ましてや、自分の大切な 「愛奴」 に、そんな浮ついたことが出来るほど、「技術」 も 「勇気」 もありません。

某 NHK のプロデューサが 「緊縛事故」 を起こしたのは、いつでしたっけ?

「NHKまた不祥事! 自転車泥棒の次はSMプロデューサー、過激プレイで女性一時左半身マヒ」

 

***

 

自分の場合、ガキの頃に 「SM雑誌」 を見て全身に受けた 「衝撃」 が、ずっと今に至るまで 「性癖」 として残っているのかも知れません。

しかし、今でも 「強烈な印象」 として記憶に残っているのは、「緊縛写真」 でもなく、巻頭にある、責めを受けている 「女性のヌード写真」 でもなく、伊藤晴雨が書いたような 「地獄絵」 とも言える、鬼畜的な 「責め絵」 です。当時は、一番魅力を感じるところか、「こんなの無ければいいのに・・・」 と一番嫌っていました。

 

 

多分、人の生死が関わる 「エロ」 にこそ、究極の 「エロ」 がある反面、それは 「グロ」。しかし、それは自分の願望ではありません。 むしろ、自分の意識における 「ストッパー」 あるいは 「畏怖(いふ)」 として君臨しているんだと思います。

 

「鬼」 と化す人と、「人」 で留まる人との境界線。

 

しかし何故、「伊藤晴雨」 がそんな絵を書いていたのでしょうか?

「マルキ・ド・サド」 しかり、「ジョルジュ・バタイユ」 しかりです。

 

最近思うようになったのは、やはり 「その先に何があるのか?」 という 「エロティシズム」 に対する探究心のような気がします。

「生きているものが、それだけで美しく・・・」 、そして、女性の 「オーガズム」 は 「小さな死」 とも呼ばれていますが、死を意識した後の 「イキまくる女性」 があまりにもエロティックで、美しかったから、なのではないでしょうか。

 

昔も今も、女性は自分の身体で 「オーガズム」 を体現し、そして、男性はそれを観察するのみなのです。

 

***

 

自分の 「縄」 は、やはり 「エロ」 とは切り離すことは出来ません。

葛飾北斎の 「タコ画」 ではありませんが、自分の 「縄」 に名前を付けるのであれば 「エロ縄」 です。

 

 

やはり、自分が求めているものは、「究極の縛り」 でも 「究極の美」 でもなく、「究極の至福」 であり 「究極のエロ」 なのです。

2017/11/15

「オ☆ナ」 で気をつけること

面の皮も厚くなれば、そんなこともなくなりますが、若ければ若いほど、こっ恥ずかしいのが 「オ☆ナ」 です。

「見つかると怒られるけど、気持ちがいい・・・」。あの、”性的なもの” に対する 「罪悪感」 というのか 「背徳感」 みたいな感覚は、本当に何処から出て来るのでしょう?不思議です。

 

実は最近、愛奴と話をしていたところ、かなり長期に渡って 「やってはいけないオ☆ナ」 をしていたことが分かりました。(><)

今は既に、「中イキ」 で20回30回とイケるようになり、指の股を触られてもイケてしまう 「脳イキ」 体質になっていますので、特に問題はないのですが、やはり、「やってはいけないオ☆ナ」 は、「オーガズム」 の阻害要因となる可能性がありますので、今回は、エロ真面目に、女性の 「オ☆ナ」 における注意点について書いてみたいと思います。

 

「オナ」 は身体に悪いか?

 

いまどきの学校の 「性教育」 は存じませんが、まあ 「オ☆ナ」 なんてものは、清潔を心掛けることと、人に見せたり見られたり、人前で話すことではない・・・という基本さえ、押さえておけば、「してはいけないこと」 ではないと認識しています。


「猿のマ☆ス掻(か)き」 とか言いますが、確かに、そればかりにうつつを抜かすようでは困ります。しかし、それさえ克服出来れば、子供だって、オトナと同じように気持ち良くなりたい訳ですし、男性ばかりでなく、女性だって気持ち良くなりたい訳です。

 

男子の場合は、女性で言うと、ちょうど授乳期のお乳のようなもの。授乳期の女性の場合、お乳を出さないと胸が張りますが、男子もし☆こらないと張るのです。(苦笑)

男子の場合は、放って置くと最後は夢精したりします。しかし、それまでの間、悶々(もんもん)とした、生殺しのような時間は、過ごしたくないのです。

女性の場合、そもそも、自分のアソコをしっかり見たことがないという女性も少なくありませんし、アソコの知覚神経を発達させるという意味においては、刺激を与えることは悪いことと思えません。

 

ただ、推奨するものでもありませんので、家で子供にどのように教えるかは微妙です。

女子で早い子などは、小学校低学年くらいから、その気持ち良さに気付く子もいます。このような場合、行為を叱(しか)るというのも 「罪悪感」 を助長させそうで、あまり適切とは思えません。やはり、親がきちんと説明するべきでしょう。


やってはいけない 「オナ」

但し、やってはいけない 「オ☆ナ」 というのもいくつかあります。女性の場合、一番良くないのは 「寸止め」 と言われる行為で、イク直前に止めてしまう行為を言います。
発射するまでの時間が短い、通称 「早☆漏」 と呼ばれる男性の場合、「寸止め」 は、持続時間を持たせるためのトレーニングになりますが、女性の場合、「オ☆ナ」 で 「寸止め」 ばかりをしていると、実際に 「セ☆クス」 しているときも無意識にイク前に止めてしまう癖、通称 「止め癖」 が付いてしまうためです。

また、男女共に、”強い刺激” による 「オ☆ナ」 に慣れてしまうと、その刺激でないと気持ち良くなれなかったりする場合がありますので、注意が必要です。

 

女性の場合の 「悪い例」 としては、吹奏楽部の女子が膝あるいは腿の上に抱えるタイプの管楽器の振動で気持ち良くなったり、シャワーをアソコに当てるというものです。

通称 「電マ」 と呼ばれる 「電子マッサージ器」 も刺激が強いので、「オ☆ナ」 には適していません。メカニズムはまだはっきりと分かっていませんが、強い刺激を与え過ぎると、感覚がどんどんと鈍りますので、注意が必要です。

 

机の角や布団あるいは床にアソコを押し付けるタイプも、同様の強い刺激がないとイケなくなるので良くないと言われていますし、脚をピンと伸ばすことでアソコにチカラを入れて気持ち良くなる、通称 「足ピンオ☆ナ」 も、脚を伸ばせない状況ではイケなくなるので、良くないと言われています。

これらは確かに、「セ☆クス」 の際の刺激とは異なりますし、「セ☆クス」 において同じ状況を作りづらいものですので、このような 「オ☆ナ」 に慣れてしまうと 「セ☆クス」 で気持ちいいと感じられなくなる場合もあります。しかし、矯正も可能な範囲ではありますし、チカラを入れて緊張を作り出すこと自体は問題ではありませんので、最初は多少イキづらく感じても、普通の体勢ですることをお薦めします。

2017/11/14

自分の 「セ☆クスライフ」 を考える (5)

前記事 「自分の 『セ☆クスライフ』 を考える (4)」 の続きです。

 

性に関することは、他人に相談しづらいだけに、悩ましいもの。それゆえに、まず自分がどうしたいのかをきちんと認識することの重要性について説明してきました。

単に恋愛気分に浸れる相手が居れば十分なのか、肉体的精神的にも満足したいのか、あるいは、しっかりとセ☆クスでイケるようになりたいのか?

それをはっきりするだけでも、かなり探し方がはっきりしてくるということです。

都合良く、全てを満足してくれるお相手なんて、世の中には居ないのです。(苦笑)

 

狙いを絞った後は、お相手を見つけて、お相手とお話をするだけ。

しかし、それから後は 「社交」 の世界です。自分だけではなく、常にそこにはお相手が存在します。

自分のことだけ、自分の願望や欲求ばかりを考えていてはいけませんし、お互いのコミュニケーションはとても大切です。

 

辛口の人に言わせれば、「不倫は現実からの単なる逃避だ」 と言われてしまいそうですが、自分的には、一種の 「人生のやり直し」 みたいなものだと思っています。

離婚して、自分の新たな人生を一からやり直す人もいれば、満ちたりない一部分だけを上書きし直そうとする人もいます。

 

しかし、「やり直し」 である以上、また同じこと同じ 「過(あやま)ち」?を繰り返しても意味ないわけです。

 

そんなことは一切お構いなく、全てはフィーリング(ふ、古いか?((((;゚Д゚))))))))・・・という人も少なくないかも知れませんが。(苦笑)

 

***

 

魅力溢(あふ)れる異性に対する 「好奇心」 は否定しません。

 

不倫は不倫。不倫に、「正しい不倫」 も、「間違った不倫」 もありません。

 

しかし、一応、「不倫」 を ”分別あるオトナの恋” とするならば、お互いが、しっかりと相手を受け止め、尊重しあう関係にないと、単なるやりたい者同士が、お互いを利用しあってる、あるいは、単にお互いが相手の傷を舐めあう関係に終わってしまうように思います。

 

最近は、歳の差不倫なんかも良くあるようで、若い女性が、年配の男性を好む 「おじさま好き」 ばかりでなく、熟女を好む若い男子なんかもいるようです。

単に 「セ☆クスがタダで出来るから・・・」 と女性が男子に利用されている分には、まだ良いのですが、主婦がドップリと恋愛に浸ってしまい、分かれるのが辛いという女性には、「おいおいっ」 と突っ込みたくなります。

 

人には、それぞれ 「時期」 というものがあります。歳の差系ならば、年上がしっかりとコントロールして、若者を育ててあげなければ意味ありません。ましてや、自分ばかりが 「良い思い」 をするばかりか、結婚を餌にちらつかせて、適齢期の女子を騙そうなんて輩(やから)は、ゲスの中でも、下(げ)の下(げ)としか言いようがありません。

可能性はこれからの、まだ若い子なら、自分は止まり木にでもなって、ゆっくり休ませてあげて、それで大海原を渡れ切れるのなら、それでいいんです。

本音を隠さず、お下劣な関係にあるからこそ、そこに誠意と真心がなければ、意味がありません。

 

***

 

縁を大事にし、相手の気持ちを正面からしっかりと受け止める。それでも、関係が壊れるときには壊れます。

例え、いつかは壊れるにせよ、相手に感謝の気持ちを持ち続けることが出来る関係が構築でなければ、自分が通ってきた道には、食い散らかした屍(しかばね)ばかり。

過ぎた人の数ばかりを数えたところで、全く意味ありません。

 

縁を大事にしていれば、また、何処かですれ違うことがあるかも知れませんし、また、繋がる可能性も無いわけではありません。

そのときにまた、笑顔で会える関係にあるかないか。

 

自分の思う通りに行かないと、最後に 「捨て台詞(ぜりふ)」 を残さないと気の済まないタイプの人がいますが、はっきり言って、これは人生、損だと思います。

言いたいことがあったとしても、人生、堪(こら)えることも大切です。

2017/11/13

自分の 「セ☆クスライフ」 を考える (4)

相変わらず、前記事 「自分の 『セ☆クスライフ』 を考える(3)」 に続く、シリーズの続編です。

そのひとつ前の記事 「自分の 『セ☆クスライフ』 を考える(2)」 は、結構な盛況を戴きましたが、その反応の多くは、「コメントでは恥ずかしくて書けないけども・・・」 という読者からのメッセージ。

        「うちの元旦那は、モラハラではなかったですけど、

        ほぼ、お話の男性と同じでした・・・」

とか、

        「いろいろな意味で、あの記事にはコメントしたいと

        思い、お便りしました・・・」

とか、

        「うちは、短いゼン☆ギは一応ありですが・・・

        朝から襲われるを繰り返してきました・・・」

とか。
 

どうしても、顔出しコメントが難しい場合は、メッセージを戴ければ、この記事のようにオブラートに包んでご紹介致しますので、どんどんご意見ご感想をお寄せ下さい。(^^)/

 

***

 

前回の記事では、敢(あ)えて、何処にでもある家庭の 「日常的な光景」 と 「日常的な苦悩」 を書いてみました。その苦悩にどう立ち向かうかは、その人個人の判断、個人の価値観によります。正解はありません。

 

まず自分が、「セ☆クス」 を諦(あきら)められるかどうか、です。

そして、諦めきれなければ、家にあるものを食べるか、あるいは、中食か外食です。

あとは、何処で何を買うかだけです。

女性雑誌に出ていて話題になってるレストランなんか、大抵は、見栄えは良くても、大して美味しくなかったりするもの。お店は、自分の鼻で嗅ぎ分けて選ぶか、それが無理なら、舌の肥えている先輩や食べ物の好みや味覚の近い友人などに相談するほうが確実です。

横浜の中華街をふらついたって、美味しい店は限られています。

中華料理世界チャンピオンののぼり旗が立ってる某黄色いお店だって、不味いでしょ?あれが美味しいという人も居るようですが。(苦笑)

自分なんかは、わざわざ中華街まで来て食べるもんではないと思いますけど、まあ、予算の都合もあるでしょうし、蓼(たで)食う虫も好き好き。食も性も、好みはそれぞれです。(笑)

 

外食するにしても、単に好みばかりでなく、懐(ふところ)事情とか、ハレなのかケなのか。場に応じてお店を選ぶように、お相手も、自分の目的や目標に沿った人を選ばないと、ガッカリすることになります。

 

***

 

「セ☆クス」 を諦めたくない・・・

 

結婚している女性の場合、それまでの貧しかった 「家庭内での性生活」 を振り返って、「今からでも充実させたい」 という一心で 「外食」 に励(はげ)んでいる女性もいますし、一度はセ☆クスでイケるようになりたくて、いろいろと模索している女性もいます。

以下の紹介記事は、少し特殊な例かも知れませんが、しかし、「セ☆クスを諦めたくない・・・」 という気持ちは同じです。

 

「『性的虐待、DV被害者だけど、セ☆クスをあきらめたくない!』 サバイバーはる香の挑戦」

 

自分の人生は、他人が決めるものでもありませんし、人の顔色を見て決めるものでもありません。

何を食べても、美味しいでもなければ不味いでもない・・・。食に 「拘(こだわ)り」 のない人もいれば、「性」 に無関心な人もいます。

 

しかし、若い頃は全く 「性欲」 もなく、「性」 に興味すらなかった女性が、三十路を迎えて、だんだん性欲を感じてくるようになったという人もいるように、人の欲求は常に固定化されているわけではないのです。

 

***

 

だからと言って、すぐに自分のお相手が見つかるかどうかは別の話。自分が自分を知ることと、実際にそのお相手を見つけることが出来るかどうかは、全く次元の違う話です。

 

イケメンで若くて、セ☆クスも上手くて、お金持ちで、家も近い人を、某SNS で見つけようとしても、「可能性は0ではない!」 かも知れませんけど、そういう、如何にもリアルが充実してそうな人に辿(たど)り着ける確率は、ナンパ厨に声を掛けられる確率に反比例して、極めて少ないと言わざるを得ません。(苦笑)

言うだけなら、タダですが、そういう人を狙うのであれば、そういう人が集まる所に行かないと。(苦笑)

 

2017/11/12

自分の 「セ☆クスライフ」 を考える (3)

前記事 「自分の 『セ☆クスライフ』 を考える」、および、「自分の 『セ☆クスライフ』 を考える (2)」 の続編です。

 

大好きな相手に対して、「良かれ」 と思ってついた小さな嘘が、予期していなかった大きさのシコリになったりします。

しかしそれでも、多くの家庭では、「恋愛」 の熱は冷め、マンネリに陥(おちい)って、「セ☆クスレス」 であったとしても、正確に言えば 「情」 なのでしょうが、家族としての 「愛」 は残っていたりします。

 

        「旦那には、感謝はしているし、家族としては愛しているけど、

        もうときめかない・・・」

 

それが、ある程度長年暮らしてきた女性の 「本音」 なのでしょう。

女性はやはり、常に好きな人に見られていたくて、気にして貰いたくて、常に 「ときめいていたい」 動物なのです。

もしかしたら、夫婦も、男と女の側面と、友達としての側面が強ければ、関係ももっと長続きするのかも知れません。しかし多くの場合、男性は女性にとって一番厄介な 「大きな息子」 となり、女性は男性にとって母親の代理的存在となってしまい、「オンナ」 が封印されてしまうのでしょうか。

残念ながら、自分も家内に対しては、全然ときめきません。(苦笑)

 

だからと言って 「不倫」 したり、「浮気」 をして良い理由とはなりません。
しかし、現在の性生活に不満があったとしても、性生活のためだけに 「現在の生活」 を壊すほど、家庭が荒れているわけでもなく、大人げないと考える人も多いでしょう。
子供もまだ成人していないとなれば、当然、離婚は子供の心も傷付けることになります。

 

個人主義の性格が強い社会では、自分が 「好き」 でなくなれば、「離婚」 というアプローチを取るでしょう。日本においても今や、「これ以上、結婚生活を続けるのが無理!」 という状態であれば、躊躇(ちゅうちょ)なく離婚を選択する時代です。

しかし、多くの場合、不満はあっても、そこまで拗(こじ)れてはいなかったりします。そういう家庭では、あまり大事(おおごと)にはしたくないわけです。出来れば、パートナーに知られず、パートナーを不要に傷付けることなく、自分の欲求を満たしたいわけです。

 

既に家庭において、性生活が忘れられた存在となっていれば、尚更でしょう。

 

自分さえ我慢すればいい・・・みたいな、自分を家庭の犠牲にするような考え方は、お薦めできません。

法律では、配偶者には貞操義務が生じますが、性的に相手を満足させる義務は残念ながらありません。法律とは紛争を解決するための枠組みであって、各自の幸せを保証するものではないのです。

性の満足や悦(よろこ)びは、他人から与えられるものではなく、自分から得ようとするものであり、本来であれば、パートナーと一緒に築きあげるものです。

大事なのは、自分が自分の人生をどう生きたいか・・・。

「鳥かご」 の扉は、開いているのです。「鳥かご」 の扉から出るのも出ないのも、あなたの自由なのです。

 

本当は、そういう話をきちんと自分のパートナーと出来るのが、一番望ましいのです。

しかし、話し合いが出来ないのであれば、あとは、自分で決めるしかありません。

ある意味それは、誰にも相談出来ない、あるいは、相談出来る人の居ない、自分ひとりでの 「人生の決断」 かも知れません。

 

旦那が浮気をした仕返しに、自分も浮気をしてみた・・・みたいな女性もいますし、現実から逃避するために不倫しているような人もいれば、既に事実上夫婦生活が破綻している状況で、自由に不倫を楽しんでいる人もいます。

相手を誑(たぶら)かしている人もいれば、真摯かつ誠実に相手と向き合っている人達もいます。

 

それぞれの家庭によって、問題も状況も異なります。

浮気や不倫相手を騙(だま)したりすることは、良くありませんし、あまりにも、自分に都合の良過ぎる関係も長くは続きません。

しかし、どういう状況なら良くて、どういう状況ならダメみたいなことは、そうそう簡単には言えません。

 

走り出したら止りません。だからこそ、走り出す前に、あるいは、立ち止まったときに 「自分は何を求めているのか?」 を少しじっくりと考えてみても良いように思います。

 

 

今までの恋人、何人?

「恋人がひとり、恋人がふたり、恋人が三人、恋人が四人・・・・ zzzzzz」

 

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう

2017/11/11

自分の 「セ☆クスライフ」 を考える (2)

前記事 「自分の 『セ☆クスライフ』 を考える」 の続編です。

 

考える必要があるのは、自分がこれからどうするか、自分がどうしたいかです。

自分の性癖や恋愛の傾向を見つめるのもいいでしょう。

そもそも 「セ☆クス」 は人に言われてする行為でもなければ、無理強いされて、嫌々する行為でもありません。

 

セ☆クスの無理強いはダメ

 

結婚されているご家庭で、旦那とは数ヶ月に1回程度なのですが、いきなり襲われるから怖いという主婦さんがいました。本人は、いつものことなので、当たり前のことだと気にしていないのでしょうが、その旦那は、襲うように抱きつくと、愛撫も何もないので、濡れてなくて当たり前ですが、息子に唾(つば)をつけて、すぐ挿れてくるようです。

 

その主婦さんは、早く終わって欲しいので、喘(あえ)ぎ声を出したり、イッた振りをしているようなのですが、実際のところは、そんな自分が惨(みじ)めで、涙してると言っていましたし、自分はもう年齢的に濡れなくなっているんだと思っていたようです。

 

このご家庭の場合は、旦那がモラハラなので、言いたいことも言えない状況にあるようです。

「そんな旦那を選んだのは貴女でしょ?」 と言われると何も言えなくなってしまいますが、しかし、悪いのはこの主婦ではなく、旦那にあります。

 

「セ☆クス」 は、「セ☆クスレス」 であるかないかだけではなく、「質」 の面でも、いろいろと問題がある、というお話ですが、ここまで酷(ひど)くはないものの、決して気持ち良いわけでもない旦那との 「セ☆クス」 に、嫌々ながらも、お付き合いしているという主婦の方は、少なくないでしょう。

 

「嘘イキ」 の弊害

 

家庭でのマンネリ化した 「セ☆クス」 に辟易(へきえき)としつつも、なかなか相手にはその事実を伝えられない。女性は三十路(みそじ)も半ばを過ぎ、四十路(よそじ)にかけて、性欲も次第に強くなってきます。多くの女性は、性欲が強くなってくるのに、性的に満たされない期間をずっと耐え続けているわけです。

本来であれば、「セ☆クス」 についても二人でしっかりと、正直に誠意を以って話し合うべきなのです。

 

しかし多くの女性は、早く終わって欲しかったり、あるいは、相手を楽しませてあげようと、「嘘イキ」 をしてしまったりします。
結婚当初は、相手を喜ばせたくて付いていた 「嘘イキ」 も、もうここまで来ると、「あれは嘘でした」 とは言い出しづらくなり、女性から男性に改善をお願いすることも出来なくなるわけです。

 

結果、増えるのは、自分の女房はイけてると勘違いしている男と、イケない女ばかり。

 

「嘘イキ」 はしてはいけない

 

「夜の秘め事」 であるがゆえに、この実情はなかなか表面化しないのです。

 

考えてみれば、義務教育における 「性教育」 では、こういうことは教えてくれません。

人体解剖図で説明する性教育をナンセンスとする産婦人科医が、「男女の感情」 に基づいた性教育の必要性を説いていたのを読んだことがありますが、まさしくそのとおりです。

こういったことを、誰も教えてくれないのです。

 

これを読んでる若い読者には、女性であれば、「嘘イキ」 はしないこと。男性であれば、前以って女性に 「嘘イキはなし」 と伝えておくことをお薦めします。

嘘を付いて、まだ短い場合は、相手に素直に話すことをお薦めしますが、既に嘘を付いて長い読者の場合は、もう今更どうしようもありません。諦(あきら)めて、外でお相手を見つけて下さい。但し、そのお相手には嘘を付かないように。(苦笑)

2017/11/10

自分の 「セ☆クスライフ」 を考える

自分が求めている 「セ☆クス」 は何なのか?

 

自分が求めているものを知る

 

今現在の 「セ☆クス」 に不満を感じている人は多いかも知れませんが、しかし、自分が求めているものを具体的に意識している人は少ないと思います。

満たされていない人の多くは、「どうしたら良いのか分からない・・・」 というのが本音かも知れませんが、ただ漫然(まんぜん)とハプニングが起こるのを期待しているだけ。

しかし、自分は何が満たされたいのか。それをはっきりさせずに、ただ待っているだけでは、自分で何がしらの行動を起こさない限りは、何も変わりません。

 

自分が求める 「セ☆クス」 を考える

 

単に心の隙間を埋めたいだけなのか。

濃厚なセ☆クスを楽しみたいのか。

それとも、セ☆クスでイケるようになりたいのか。

 

探し求めるものも、探し方も人それぞれです。そして最終的には、セ☆クスを続けるのも、セ☆クスを諦(あきら)め卒業するのも、その人次第です。「現役」 か 「リタイア」 かを決めるのは自分自身なのです。

 

四十路も半ば、あるいは、五十路を迎えて、自ら 「もう、お婆ちゃんだ」 という気持ちが強くなってしまったのか、それとも、世間の 「いい歳して・・・」 みたいな声を聞いてしまったのか。

セ☆クスを卒業し、歌を詠(よ)み、寺社を巡(めぐ)り、自らを老人の座に置いてしまう女性もいれば、五十路を過ぎても、セ☆クスでイクことで 「女の悦(よろこ)び」 を感じるまでは、死んでも死にきれないとばかりに励(はげ)む女性もいます。

 

自分などは、「セ☆クス」 出来なくなってから、そういう生活を送ればいいのに・・・と考えてしまいます。出来るときに、出来ることをする。出来なくなってから、「そのときに、しておけば良かった・・・」 と後悔したところで始まりません。

「婚外恋愛」 などの 「プラトニック」 な恋愛は、極端なことを言えば、ジジイやババアになってからでも遅くありません。

 

中には、性欲を感じなかったり、「セ☆クス」 という行為自体が好きでない人もいるかも知れません。そういう人の場合は、それまでに経験している 「セ☆クス」 という行為自体が貧しかったりする場合もありますが、もう 「懲り懲り(こりごり)」 という人に対して、無理強(むりじ)いしても仕方ありません。

「セ☆クス」 ばかりが人生ではありませんので、どういうライフスタイルを選ぼうが、その人の自由。その人がイキイキしていれば、それでいいんです。

 

たかがセ☆クス、されどセ☆クス

 

しかし、性欲は、食欲と睡眠欲に並ぶ、人の生理的な欲求のひとつですので、人生の中で性生活を重要視する人がいても、何も不思議なことではありません。

 

あるとき二十代の女性から、「セ☆クスではまだイケないけど、セ☆クスは気持ち良いから、いつかイケるようになるよね?」 と問われたことがあります。そのときは 「そうだねっ」 としか答えられませんでしたが、そのくらいの年代のときに、同じような経験を持つ女性は少なくないでしょう。

 

しかし、多くの女性がいつかイケる将来に希望を抱(いだ)きつつも、なかなか叶えられていないというのが現実です。

 

「セ☆クス」 でイクばかりが人生ではありません。

 

いろいろと彷徨(さまよ)って、多くの男性と経験したからと言って、イケるようになるわけではありませんし、相手の男性に気持ちがガッツリと入ってるからといって、イケるわけでもありません。

清水の舞台から飛び降りたくらいのつもりで冒険したからと言って、ハズレくじを引く場合も少なくありません。

 

何かを求める旅

 

しかし、何故彷徨うかと言えば、行動を起こさない限りは、何も現実は変わらないからです。

「セ☆クス」 に限った話ではありませんが、人生は、上手く行くかも分かりませんし、上手く行く保証もありません。

しかし、未来は現在の延長線上にしかありません。

 

人生は、「関心」 があってこそ初めて 「見逃し(みのがし)」 が生じるのです。関心がない場合は、「見逃し」 ではなく、単なる 「素通り」 です。(苦笑)

自分で意識出来ていないと、「機会」 を 「見逃し」 てしまうのではなく、「素通り」 してしまうのです。

そもそも、探しているものが漠然(ばくぜん)としており、それをただ漫然(まんぜん)と探しても、見つかるはずもありません。

 

***

 

女性もいろいろです。不倫や肉体関係には至らないように、男性と距離感を保ちながらも、自分は、デートのときのワクワク感だけを楽しもうとする自分本位な女性もいれば、事前に1回きりと決めているようなアバンチュール型の女性や、次から次へと流れて行く女性もいます。

いろいろな女性がいます。しかし、個々の人を見ると、ずっと同じことを繰り返しています。

 

単に心の隙間を埋めたいだけなら、男を弄(もてあそ)んでワクワクしていれば良いですし、どうしても抑え切れない衝動を一時的に満足させるだけなら、一夜限りのアバンチュールでも十分でしょうし、誰かが隣にいるだけで満足ならば、乗り換えればいいだけです。

自分の場合は、と言えば、こういった女性はお断りですけど、しかし、それが本当に自分の欲しいものとは違う場合には、アプローチを変えてみても、いいんではないでしょうか?

 

自分の思い込みに凝り固まって、同じような人にばかり、思いを寄せていませんか?

 

もしくは、その頑(かたく)なな自分の心が、自分自身を縛りつけていませんか?

 

自分は何の努力も払わないで、嘆(なげ)いてばかりいませんか?

 

自分に対する有意義な助言を、聞き流してしまったり、自ら排除してしまっていませんか?

 

そんな人は、ふと立ち止まってみて、肩の力を抜いてみるのも良いかも知れません。

 

「旅は道連れ、世は情け」 ではありませんが、自分のことばかりを考えるのではなく、相手の気持ちを理解してあげることも重要です。何かの縁を感じるのであれば、遠回りだと思っても、敢(あ)えて 「偶然の悪戯(イタズラ)」 に身を委ねてみたりするのも良いかも知れません。