2ntブログ
2017/11/16

エロ縄

 

たまにふと 「自分の縄は何か?」 と考えるときがあります。

 

ある縄師は、緊縛に 「道」 を見出しますし、また、ある縄師は、縄が魅せる 「美」 を追求しています。

ひとつの行動を純化させて、そこに何かを見出そうとするのも、美しいですし、自分の中で渦巻く 「美」 のイメージを縄で表現するのも、技術と鍛錬と試行錯誤があっての賜物であり、美しいと思います。

 

しかし、自分にとっての 「縄」 は、やはり四畳半における秘め事的行為であって、「受け手」 に対する 「愛欲表現」 なのです。

高尚を気取るものでもなければ、それ以下でもないし、エロとは、絶対に不可分な存在であり、やはり主体は 「受け手」 たる女性であって、「縄」 ではありません。

縛る行為は、自分の 「受け手」 に対する 「感情表現」 であり 「愛情表現」。自分の手の延長・・・の感覚。

 

「受け手」 となる人も、縛れれば誰でも良い・・・というわけではなく、やはり、自分に身も心も許した 「奴隷」 でないと、全然、身体から込み上がってくるものがなく、萌えませんし、「受け手」 が、主に全てを支配され、自分を捨て、主だけに集中し、主だけに痴態を見せ、そして、その状況に酔う縄・・・でないと満足できないのです。

 

観客(オブザーバー)が居ようと居まいと、「受け手」 と 「縛り手」 は、縛っているときは、一体です。「受け手」 は 「縛り手」 だけを感じ、「縛り手」 は 「受け手」 に100%集中する世界です。

「縛り手」 が 「受け手」 を観客に対して 「キレイに見せよう」 とか、「受け手」 が観客に対して 「キレイに見られよう」 という 「見られる意識」 は、プロの人に取っては、大変重要な部分かも知れません。

 

審査員や観客の目を意識し、あからさまにアピールする手の 「ペアダンス」 は好きじゃありませんし、空手も真骨頂は、「型」 ではなく 「組み手」 です。

 

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ツイッターなどで、プロの縛りを見て、「改めて縄会に参加するのもいいかな?」 などと思う自分もいるのですが、「SM バー」 にしても 「縄会」 にしても、基本は、人と人との 「コミュニティー」 です。

一時は、自然発生的に出来た 「コミュニティ」 にて、いろいろと先輩からご指導された身ではありますが、今はそういった 「コミュニティ」 で 「楽」 をしたくないというのもありますし、自分自身もありますが、「愛奴」 をしっかりと見つめたい。

 

「縄」 の事故があるとするならば、それは、「身の程知らず」 か、「慢心」 か、あるいは、「気の緩(ゆる)み」 でしょう。

自分は、お酒を飲んだ余興(よきょう)で縛る・・・なんてことはしません。
ましてや、自分の大切な 「愛奴」 に、そんな浮ついたことが出来るほど、「技術」 も 「勇気」 もありません。

某 NHK のプロデューサが 「緊縛事故」 を起こしたのは、いつでしたっけ?

「NHKまた不祥事! 自転車泥棒の次はSMプロデューサー、過激プレイで女性一時左半身マヒ」

 

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自分の場合、ガキの頃に 「SM雑誌」 を見て全身に受けた 「衝撃」 が、ずっと今に至るまで 「性癖」 として残っているのかも知れません。

しかし、今でも 「強烈な印象」 として記憶に残っているのは、「緊縛写真」 でもなく、巻頭にある、責めを受けている 「女性のヌード写真」 でもなく、伊藤晴雨が書いたような 「地獄絵」 とも言える、鬼畜的な 「責め絵」 です。当時は、一番魅力を感じるところか、「こんなの無ければいいのに・・・」 と一番嫌っていました。

 

 

多分、人の生死が関わる 「エロ」 にこそ、究極の 「エロ」 がある反面、それは 「グロ」。しかし、それは自分の願望ではありません。 むしろ、自分の意識における 「ストッパー」 あるいは 「畏怖(いふ)」 として君臨しているんだと思います。

 

「鬼」 と化す人と、「人」 で留まる人との境界線。

 

しかし何故、「伊藤晴雨」 がそんな絵を書いていたのでしょうか?

「マルキ・ド・サド」 しかり、「ジョルジュ・バタイユ」 しかりです。

 

最近思うようになったのは、やはり 「その先に何があるのか?」 という 「エロティシズム」 に対する探究心のような気がします。

「生きているものが、それだけで美しく・・・」 、そして、女性の 「オーガズム」 は 「小さな死」 とも呼ばれていますが、死を意識した後の 「イキまくる女性」 があまりにもエロティックで、美しかったから、なのではないでしょうか。

 

昔も今も、女性は自分の身体で 「オーガズム」 を体現し、そして、男性はそれを観察するのみなのです。

 

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自分の 「縄」 は、やはり 「エロ」 とは切り離すことは出来ません。

葛飾北斎の 「タコ画」 ではありませんが、自分の 「縄」 に名前を付けるのであれば 「エロ縄」 です。

 

 

やはり、自分が求めているものは、「究極の縛り」 でも 「究極の美」 でもなく、「究極の至福」 であり 「究極のエロ」 なのです。

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