死の意味(2)
過去に書いた記事 「死の意味」 の続きです。
SM を考える上で、避けられないのは 「死」 に対する認識です。
これは、愛奴を危険な目に合わせるとか、あるいは、そうさせたいと思う 「サディスティック」 な心理とか、そういうことではなくて、SM が併せ持つ、ある意味 「純粋」 な 「エロ」 を探求する上で、どうしても、密接に関連してくるのです。
やはり、それを考える上で、一番参考になるのが、「ジョルジュ・バタイユ」 の作品です。
|
|
人でも動物でも良いのですが、生き物の死を考えることは、「生」 に対する理解を深めます。
連続性に対する不連続性というのも、実に面白いものです。
人の心や身体は連続であるようでいて、実は、それを構成している物質は、常に新陳代謝を繰り返して、入れ替わっているのです。
生き物を物質から見れば、生きている状態は不連続であり、死んで物体となっている状態が連続なのです。
***
人の身体は、生命というエネルギーを帯びており、心はそこで波打つ波動のようなもの。
そして、人と人でも、人と動物でも良いのですが、これらが出会い、一緒に暮らしたりすることは、そこに何らかの 「縁」 があるということです。
縁とは、目に見えない細い糸のようなもの。
強く引っ張り過ぎれば、切れてしまいますし、だからと言って、弛(たる)ませておくと、糸が絡んでしまいます。
絡んだ糸は無理やり解こうとすると、玉のような結び目が出来て、余計に解けなくなってしまいます。絡んでしまった以上は、根気よく、ひとつひとつ解していく以外ありません。
人と人、人と動物も同じです。
***
生きし、生かされるものは全て、いつか死を迎えます。
世の中には、「別れられてせいせいした・・・」 という 「別れ」 もありますが、基本、「別れ」 は悲しいものです。
違う価値観をもった生き物が、一緒に暮らしているわけですから、全てが自分の思い通りに行くはずもありません。
「縁」 とは、異なる生き物同士がエネルギーと波動を交換する 「繋がり」 のようなもの。
しかし、全ての波動が和音を構成するのであれば誰も苦労しません。
不協和音は、相手が出すのを止めようとするのではなく、自分が音を上手く合わせれば良いだけの話。
「もう、心の繋がりはない」 みたいな冷めた関係であっても、しかし、それでもまだ 「縁」 は続いているのです。
であるからには、せめて深い 「縁」 のある人同士は、最終的には、全ての執着を捨て、「感謝」 の気持ちに、それが出来ない場合でも、せめて 「許容」 の気持ちに還元したいもの。
***
クリスチャンの世界では、
「人が生まれてくるときは、周りの人は笑顔なのに、本人は一人泣いていて、
人が死/ぬときは、逆に、周りの人は泣いているのに、本人は笑顔でいる」
みたいな話があります。
フランス語では、オーガズムのことを 「la petite mort(小さな死)」 と呼ぶそうですが、これは、「ジョルジュ・バタイユ」 が起源のようです。
自我(エゴ)を超越し、恐怖を乗り越えて到達する状態が、「オーガズム」 であることは、オーガズム状態にある女性の脳内の血液流量を MRI で画像解析する 「fMRI」 という分析手法により、実証されています。
そして、思い出してくれる人や動物がいる限りは、その 「縁」 という名の 「チャネル」 は、良くも悪くも、多分、切れることはないのだと思ってます。
***
亡くなられたお母さんも、亡くなったワンコも、生きている時間を競っていたわけではありません。
痛かったり、苦しかったりしたかも知れませんが、やはり 愛する者と ”一緒にいる時間” こそが大事だったはずです。
パートナーを失った悲しみや、「もっと出来ることがあったはずなのに・・・」 と自分を責める気持ちは、相手に対するハナムケの気持ちです。
その方が悲しんだ分、相方には、それは喜びとなって伝えられているはずです。
大事なことは、ポジティブな関係性においては、全てを感謝の気持ちに昇華すること。
人と比べるとワンコの寿命は短いですが、短いなりにも濃厚に、人生?を享受しています。
ワンコから学べることは、今を大切にして、そして今を楽しく過ごすこと。
「今」 を楽しめない人は、「明日」 も楽しめません。
他人のネガティブなところをいくら粗探しして、噂話でもして、憂さを晴らしたところで、そんなのは全然楽しくありません。
楽しい 「今」 を過ごすためには、自分が好もうと好まざるとも、「今」 を精一杯楽しみながら、「明日」 に繋げること。
***
ワンコのクロちゃんの冥福を、お祈りいたします。
コメント