「食」 と 「セ☆クス」 の話 (4)
ひとつ前の記事 「『食』 と 『セ☆クス』 の話(3)」 の続きです。
「食」 と 「セ☆クス」 の共通点。
それは、どちらも、人の 内側の 「粘膜」 に関わる感覚であり、
その粘膜が奏(かな)でる、「快楽」 であることです。
子は、母胎(ぼたい)という 「粘膜」 の中で命を宿し、内で育ち、
そして、子は 内側の 「粘膜」 から外界に、産み出されます。
産み出された子は、モノを口に入れ、不要なモノを外に出し、大きくなり
やがて、「粘膜」 同士を、擦(こす)り合わせるに、至るわけです。
粘膜と粘液に塗(まみ)れ、粘膜で外界を感じるのが、
「官能」 として 「エロ」 の原点に思えてなりません。
外皮で保護されていない粘膜ゆえに、脆弱(ぜいじゃく)だけど
刺激に敏感で繊細。
保護されていない刺激であるゆえに、「生」 と 「性」 に肉体は
歓喜に咽(むせ)び、打ち震え、痺れ、戦慄(わなな)くわけです。
鼻糞を、ほじくるのも、快感なら、
耳垢を掻(か)くのも 糞を垂れるのも 快感ですし、
鼻がむずむずして、くしゃみが出るのも快感です。
粘膜から出すことや、粘膜に入れることは、多くの場合、快感なのです。
陣痛など、多大な痛みを伴う出産であれ、もしかしたら、快感なのです。
何故なら、快感もしくはそれを超越した喜びなしに、
自分の身を危険に晒してまで、何故女性は子供を産むのでしょうか?
痒(かゆ)いところを、掻(か)くのは快感です。
喉が渇(かわ)けば、喉が潤(うるお)されれば快感。
お腹を空かしていれば、お腹が満たされれば快感。
無性に食べたいものがあるときには、
その食べたいものを、食べれたときに、快感を感じるのです。
誰しも、「理性」 など、かなぐり捨てて、
貪(むさぼ)り食いたいときもあります。
どうしても自分では、痒いところに、手が届かないときは
「ネコの手」 ならぬ 「孫の手」 でも借りたくなるのが、人心というもの。
痒(かゆ)いからこそ、掻きたいのです。
ちなみに、痒いところを掻く 「孫の手」 は、
仏教用語では 「如意(にょい)」 と言い
西遊記の孫悟空やドラゴンボールでお馴染みの 「如意棒」 は、
「痒いところに手が届く」 存在。
「孫の手」 という説も、「持ち主の意によりサイズも自由自在」 ということで
「男性器」 を表す、という説もあるようです。(笑)
痒いのに掻けない人は、
案外と、皆で、美味しい物でも持ち寄って、
痒いところを、お互いに、掻きあってみるというのも
また、「乙(おつ)」 かも知れません。(笑)
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