2ntブログ
2016/03/22

言葉責め(2)

「言葉責め」 で書き始めて、随分と前置きが長くなってしまいました。苦笑

SM における 「言葉責め」。しかし、イザこうやって記事にしようとすると、自分の中で ”体系化” されたノウハウがあるわけでもないので、なかなか難しいものです。苦笑

 

「言葉責め」 で、まず言えること。それは、「言葉責め」 とは、”言葉” を介した 「心理戦」 であるということ。

言葉による応報は何も 「SM が御本家」 というわけではありません。口喧嘩しかり。ヤクザやチンピラなんかの脅迫(きょうはく)・脅し・恫喝(どうかつ)しかり。学校での言葉による ”イジメ” も本質は同じです。

 

言葉でまず優位性を確保し、続いて言葉で攻撃します。

 

しかし、どんなに ”汚い言葉” で相手を罵(ののし)って、自分が ”スッキリ” したところで、相手に十分な ”インパクト” を与えられなければ、”責め” としては意味ありません。

 

オラオラ系の人は、兎角そのような妄想に取り憑かれやすいのですが、責めるからと言って、大声を張り上げれば良いという訳でもありません。また、相手を罵倒したり、卑下するばかりが 「言葉責め」 ではありません。

自分の感情を言葉に出し切って ”スッキリ” するのかも知れませんが、SM でそれをやってしまっては、あまりにも ”独(ひと)り善(よ)がり”。そこまでくるともう、単なる欲求不満の極み。”マスターベーション” 以外のナニモノでもありません。(苦笑)

 

せめて、「責め手」 を謳う以上は、”責め方” をある程度は熟知し、言葉を発するのは沈着冷静に。責めたときの ”責めの効果” や ”相手の反応” を想定しつつ発しないと、様(さま)になりません。

ペテン師が、自ら用意した架空の世界に ”鴨” をうまく乗せるように、まずは、”受け手” を旨く、”自分の世界” に誘い込む。そして、受け手から想定通り、もしくは、想定以上の反応が返ってきたときに、はじめて、ほくそ笑むわけです。

そして、「言葉」 で相手の 「心」 を縛り、「言葉」 を手綱(たづな)のように扱い、相手をコントロールする ことこそが、「言葉責め」 の醍醐味であり、真骨頂なのです。

 

 

「言葉責め」 は、「言葉」 を使う以上、”責め手” と ”受け手” の間で ”言葉” が通じないと始まりません。ですので、人の話を聞いてない人、聞けない人は、”言葉責め” はあまり向いていません。また、自分のことにしか関心がなく、相手の状況を慮(おもんぱか)ったり、相手の反応を観察出来ない ”自己中” の人には、”言葉責め” は出来ません。

 

SM における 「言葉責め」 は、お互いの雰囲気を高めるための ”相互のコミュニケーション” であり、”言葉のキャッチボール” であるということ。

 

 

では、「言葉責め」 では、どんな言葉を用いられるのか?

 

「言葉責め」 の基本は、「毀誉褒貶(きよほうへん)」。誉(ほ)めて貶(けな)す。そして批評批判が基本となります。

「言葉を発する」 という意味を表わす ”表現” も、その人の持つ感情や、その言葉の持つ性格、あるいは、言葉の作用や、受け手の捉え方などニュアンスの違いによって、様々な呼び名があります。ちょっと分類しただけでも、これだけある。

 

1. ネガティブに作用する言葉 (ダウナー)

      叱(しか)る・貶(けな)す・罵(ののし)る・謗(そし)る・嘲(あざわら)う・

      論(あげつら)う・冷(ひ)やかす・見下(みくだ)す・茶化(ちゃか)す

2. ポジティブに作用する言葉 (アッパー)

      誉(ほ)める・労(ねぎら)う・宥(なだ)める・賺(すか)す

3. 相手の心理的状況を表わす、あるいは、相手の心理に影響を与える言葉 (トランス)

      辱(はずかし)める・唆(そそのか)す・弄(もてあそ)ぶ・揶揄(からか)う・

      誑(たぶら)かす・脅(おど)す・欺(あざむ)く

 

「言葉責め」 では、言葉のニュアンスだけでも、少なくとも、これに 「無言」 を加えた分の 「バリエーション」 が存在することになります。

重要なのは、「言葉責め」 に使われる言葉は、「貶(けな)し言葉」 ばかりではないということ。

「言葉責め」 のポイントは、「揺さぶり」 です。”飴” と ”鞭” ではありませんが、「誉め言葉」 と 「貶し言葉」 その他を上手に使い分けて、相手の心を 「揺さぶる」 ところにあります。

 

そして、「言葉責め」 のゴール。ここをしっかり認識されていない方が意外と多いのですが、ただ単に優位性を確保しただけでは駄目。「言葉責め」 のゴールは、相手の理性を全部言葉で封じ込める。そして、「言葉」 で相手を制圧し、最終的に相手を完全に承伏し、掌握すること です。

理性を麻痺させて、快感に集中させることこそが目的 なのです。

 

 

では、どの 「言葉」 が、その子に一番影響を与える言葉か?

それは、相手の M 性にもよります。羞恥に敏感な女性であれば、羞恥心を責めるのが定石です。羞恥に悶(もだ)えつつも、命令を優先させることで追い詰める。被虐志向の高い子の場合は、罵声によって、惨(みじ)めで絶望的な状況あるいは精神状態に追い詰める。

言ってしまえば、どちらもその M 性が、性的に高ぶる方向への 「追い込み」 なのです。

なので、言葉そのものも重要ですが、それ以上に大切なのは雰囲気づくりです。言葉の抑揚や、声の質もあります。話す速度もある。

確かに、女性が惹かれやすい 「声の質」 というものもあります。しかし、自分が ”天性の声色” でなかったとしても、諦める必要はありません。

 

「受け手」 からして見れば、「言葉」 の内容もさることながら、”その人” が発しているからこそ良い訳です。

M 女は、誰に対しても M ではないということ。信用と信頼が確立しており、自分が 「主」 と認めたひとに対してだけ M 性を発揮するものです。

「言葉責め」 は、ある意味、そんな M 女に 「主」 を ”再確認” させ、そして、「性の高まり」 に追い込んで行く作業です。

 

「言葉責め」 で一番大事なのは、相手をしっかり見つめて、二人だけの世界を確立してあげること。そしてその世界で、”愛” を込めて、自分の ”言葉” で追い込んであげることです。

2016/03/19

言葉責め(1)

身体は 「縄」 で縛れますが、心を縛るのは 「縄」 ではなく 「言葉」。

特に、SM において、「言葉」 は大変重要な道具です。

 

SM で使われる一般的な道具の類(たぐい)。

赤いロウソクもそうだし、バラ鞭なんかもそうですけど、言わば、催眠術で使われる ”糸で吊り下げられたコイン” のようなもの。キッカケを与えるためには重要かも知れませんが、一番大事なのは、責めと同時に発せられる ”言葉” なのです。

 

SM の真骨頂は 「心理戦」。 心に揺さぶりを掛けるのは、すべて 「言葉」 です。

 

 

諺(ことわざ)では、「苦言(くげん)は薬なり、甘言(かんげん)は疾(やまい)なり。」 なんて言葉があります。苦言とは、忠言(ちゅうげん)を意味します。忠言とは、真心の込もった忠告や諌(いさ)める言葉のこと。

 

「良薬は口に苦けれど病に利あり。忠言は耳に逆らえど行いに利あり。」

 

先の諺は、「苦言」 を聞くのは確かに耳の痛いもの。しかしそれは良薬と同じで、確かに 「苦い」 けれども、しかし 「薬」 のような効果があるのに対して、「甘言」 は、耳には大変心地良いけれども、しかし、それは病気のように身体を蝕(むしば)んでいく・・・という意味です。

 

 

「言葉は諸刃(もろば)の剣(つるぎ)」

 

という諺もあります。キリスト教の新約聖書にもある言葉。

人の口(舌)は、きれいなもの・・・神を ”讃(たた)える” 言葉も出てくれば、汚いもの・・・人を罵(ののし)り、貶(おとし)め、傷つける ”汚い言葉” も出てくる特殊なところ。

言葉は、人を生かし癒(いや)す道具にもなれば、人を殺し傷付ける道具にもなる。そして、それは自分の身にも、跳ね返ってくる。

だから、「使い方には、気を付けなさい」 という意味です。

 

刃物は肉を切りますが、言葉は人の心を切ります。

 

 

「言葉責め」 などと言うと、何か ”軟弱” な響きがあるように受け取る方もいるかも知れません。しかし、例えば、スパイに対する拷問や尋問、二重スパイへの懐柔。そして、ヤクザやチンピラの ”脅し文句” の類(たぐい)もそう。

これらの最後は、全て ”言葉” で締め括るもの。”鶏の水炊き” のあとの〆。雑炊のようなものです。そこできちんと〆られるかどうかがポイント。

 

言葉が通じる相手にしか ”効力” はありませんが、最終的に、相手の心に揺さぶりをかけれるのは全て ”言葉” なのです。

なので、言葉が通じない相手はマジで厄介。”力(ちから)” が関与する世界では、実力行使や抗争に突入しちゃうわけです。

 

ですので、言葉の威力は絶大。

 

 

”暴力” で引っ叩(ぱた)かれて出来た ”傷” は、くっつきますし、時間が経てば、その傷の色も褪(あ)せます。一番長引くのは、むしろ、それによって受けた ”心の傷” の方でしょう。

しかし厄介なのは、”心の傷” は、暴力によらず ”言葉” だけでも、相手に傷を負わせることが出来る点です。

 

夫婦仲が険悪な家庭では、言葉による応報は日常茶飯事(にちじょうさはんじ)です。

暴力を振るう夫に対しては、鋭い ”言葉” で対抗している主婦の方も少なくないかも知れません。

暴力はいかん。それは 100% 正しい。

しかし、心の傷のレベルでは、もしかしたら相手も ”ボロボロ” になるほど傷付いてるのかも知れないし、もしかしたら、あなた自身、言葉で相手を挑発しているかも知れない。

 

言葉だから、何を言ってもいい・・・とは思わないようにして下さい。

 

「言論の自由」 の意味を理解していない人も大勢います。「言論の自由」 とは、「言葉でならば、誰に何を言っても構わない」 という意味ではありません。

「言論の自由」 の対極には、そのような批評や批判を弾圧し、封じ込めようとする 「国家権力」 その他の既得権者を意識した上での、”自由に発言する権利” を言っているのです。

 

お互いに極限まで疲弊し、もしくは疲弊させたいのであれば別ですが、それは、そのまま ”家庭の崩壊” を意味します。

そのような家庭は、まず、冷静にお互いの話し合いができる環境づくり。そして、「言いたいことを言う」 場合にも、お互いの思いやりを醸成することが重要です。

 

「口喧嘩」 が耐えない ”仲の悪い夫婦” にお薦めなのは、プロレス風の ”マイクパフォーマンス”。笑

”プロレス” では一時期流行りましたが、そもそも、プロレスは ”ショー” 的な要素満載。観客に訴えるという ”他人の視線” を意識した会話のリズムを、二人の会話に導入することをお勧めします。笑

このマイクパフォーマンスの ”味噌” は、一方の話す時間に一定の時間制限を設けることと、もうひとつは、片方が話をしているときは、もう一方は聞き役に徹すると言うことです。

 

やる場合は、二人で 防音設備の整った ”カラオケ” にでも行って、自分のお気に入りの曲を 「リングへの入場曲」 にして、マイクは二人で ”1本” で。(笑)

 

でも、目的はその ”滑稽(こっけい)さ” を自分達で認識して、「楽しい時間」 を共有するためです。

なので、本気でマイクを壊して、お店から損害分を賠償請求されたからと言って、こちらに請求を廻すのは辞めて下さい。笑

あと、マイクのコードで女房(もしくは旦那)の首を締めるのは ”反則” ですので、絶対に辞めて下さい。正直笑えませんで。苦笑

 

SM の ”言葉責め” については、次回のコラムにて、いろいろ説明したいと思います。

 

(つづく)

2016/03/12

M 女の作法(2) - 「イク禁」 と 「ほう・れん・そう」[再]

前回投稿した記事は、”卑猥、猥褻な表現を投稿、送信している” と Ameba に判断され、削除されました。

 

内容は、自分的にはさほどの猥雑性もない程度の猥談。苦笑

自分自身全く、”そんな内容” とは認識していなかっただけに、「泣きっ面に蜂・・・」 ではなくて、「晴天の霹靂」

特に冒頭の、「ほう・れん・そう」 の部分は、解かりやすいように、噛み砕いて説明しようとしてたので、結構時間をかけただけに、大変残念。

確信犯であるなら、原稿のバックアップもとっておくでしょうけど、とっていませんし、ましてや、アメブロの場合は、意図的にかどうかは知りませんが、バックアップ機能がない。

 

せめて、悪質でない場合には、警告を出すのは良いとしても、記事については、下書きに戻すとか、出来ないもんですかね?

別に使用許諾契約で 「削除できる」 ことを担保しているからといって、何もそれをそのまま愚直に実行しなければならない・・・というわけでもないのですから。(苦笑)

 

まあ、今回は、かなり凹んだので、真面目に 「他のブログ」 へ引越しすることも、考えています。

 

でも、何が、原因だったのでしょう?

 

「イク禁」 の 説明文ですかね?

 

欲しくなったら、「(入れて)ください!」 と言いなさい。

気持ちよかったら、「気持ちいい!」 と言いなさい。

だんだん高まってきて、そろそろいきそうになったら、「いきそう!」 と言いなさい。

しかし、主の許しなく、勝手にいってはいけません。

そして、イクときは、「いく~!」 といいなさい。

 

これですかね?

 

また、削除されたら、これが 「卑猥」 だということになるのですが。

 

上記は、2016-03-12 18:49:44 に投稿したものです。

上記以外に思い当たるとすれば、あるのは、「イク禁」 に関連した会話例くらいのもの。

 

「あっ、あっ、いきそう!」

 

「いっちゃダメだよ!イクときは、ちゃんと許可を得ないとっ!」

 

みたいな程度のものです。

 

記事では、最初にビジネスにおける 「ほう・れん・そう」 について説明し、その後、SM における 「ほう・れん・そう」 も大事であると説明しています。何故ならこれが 「言葉責め」 の核心部分だから。

ビジュアルであれば、鏡に写った自分であったり、自分が映った映像みたいな感覚。言葉は受け手と責め手のキャッチボールが可能な、数少ない代表的なコミュニケーション手段だからです。

そして、代表例として、イクときの許可制である 「イク禁」 と報告義務 「ほう・れん・そう」 について説明する。それが、上記の記述です。

 

そして、これが実は、受け手の羞恥をあおりつつ、焦らす上で大変効果的であること。

書いた内容と言えば、そんな感じだったと思うんですけどね。

もし、運営の記録(エビデンス) として、記事の写しがあるのであれば、せめて、それをメッセージで送ってもらいたいくらいです。

 

って言うか、削除されてしまうと、以前の内容が確認できないので、いつまでたっても 「いたちごっこ」 です。

運営の業務を妨害するために、明らかに ”卑猥な言葉” をブログ中に書き殴っているわけでもありませんし。

 

2016/03/08

M 女の作法(1) - あいさつ [改]

とある SNS で、仲間と話をしていて、「あいさつ」 の話になりました。

 

ご主人様に対する 「ご挨拶」 から始まって・・・と言うのが、SM 調教の一般的なアプローチ。

 

しかし、自分の場合は、「挨拶」 の時間を確保するのは仕上げの段階を意味します。

挨拶のしかたは、当然ながら、初期の段階に教えます。しかし、それ以降は、特別に挨拶の時間は確保しません。それは、本人の自発的な言葉を待っているからです。

そもそも、挨拶は、奴隷以前?に社会人としての基本。本当に感謝の心、従属の気持ちがあるのであれば、本人の口から自然と出るものです。言われてすることではありません。

 

多分、責め手と受け手の出会い方によっても、その辺りの進行は変わってくると思います。

プライベートである場合、やはり、その辺は相手の素養や経験の度合いにもよりますし、どこまで二人の ”関係” が醸成されているかによっても大きく変わります。

 

一方、自分はあまり詳しくはありませんが、SM 倶楽部的なものとなると、多分事情は若干異なってくるでしょう。

 

SM 倶楽部のような場合は、下手をすると、お互いは全く知らない者同士。店と客の距離があるところに、S と M の距離が重なるわけですから、なおさら 「あいさつ」 は重要でしょう。

何回も通っていて、顔見知りになったからと言って、タメ口ついたり、あいさつ抜きでいい筈もありません。(苦笑)

自分は、SM 倶楽部に出入りしているわけではありませんので、実態を良く知っている訳ではありません。しかし、

 

「仕事としてやってるから。」

「客として来てやってるんだ。」

 

そんな雰囲気がちょっとでも出ようものなら、自分なら、塩を撒かないまでも、小手先の仕事だけして、追い返すかも知れません。(苦笑)

まあ、商売として看板を背負っている以上は、店の信用もありますから、実際には、店の看板を汚すような真似は一切しないでしょう。しかし、そういう客は、お客としては最低。同じ料金を払うにしても、もう、その時点で終わっています。(苦笑)

 

「親しき仲にも礼儀あり」

 

ってやつです。

 

お店に可愛がられる客 「上客」 は、店に対して敬意を払います。だから丁寧語で話す。

店側は、その敬意を感じとれるからこそ、「本当に楽しんでいって貰おう!」 と本気で誠意を見せる。

 

自分は料理人なので、どうしても、カウンター越しの 「お店視線」 的になってしまいますが、客商売に限らず人間関係の基本はみんな一緒だと思います。

 

 

SM 調教においても、基本は 「躾(しつ)け」 から始まります。

今日から 「奴隷ちゃん」 として接するというときには、まず、挨拶のしかたを教えます。

作法やルールもきちんと教える。

挨拶のしかたは、主によってそれぞれ異なります。自分の場合は、脚をキスで濡らし、それを自分の髪で拭(ぬぐ)わせるのが基本です。 【ルカ7 36-50】

主従の違いをはっきりと認識させるために、床に這(は)い蹲(つくば)らせ、足蹴(あしげ)にもします。

しかし、そこに本人の 「気持ち」 がどれだけ入るかは、本人の問題。

 

SM プレイだから、”ご挨拶” するわけじゃないんです。笑

調教やプレイで、その機会が与えられなかったとしても、あいさつの機会はたくさんあります。

「待ち合わせ」 のときの 「出会いの挨拶」 もそうなら、帰る前の 「お別れの挨拶」 もそう。

 

形式的なことは、覚えさえすれば 「振舞う」 ことはできます。

しかし、それを調教で教え込んだところで、今はもう暖簾(のれん)を下ろしてしまった 「日光猿軍団」 とさほど変わりはありません。

気持ちから湧(わ)き出てくるものでなければ、カタチだけの挨拶が出来ても、全く意味がありません。

なので、「こいつは、いつ気がつくかな?」 と思いつつ、いつも自分的には 「模範」 を見せてるつもりでいます。

 

そして、醸成されていくのを、ただひたすら待ちます。

木が熟したときに、心からきちんとした挨拶ができるかどうか。

心のないものは、ここで篩(ふるい)に落とされます。 【ルカ12 35-48】

 

儀礼ではあっても、一番重要なのはハートです。本当の愛奴となり得るか否か・・・。自分の場合は、その見極めを、挨拶でしているのかも知れません。

 

感情表現が上手くないひとは確かにいます。しかし、ある程度の期間、調教していても、主に対して、感謝の気持ちや愛情を表現できない子に、礼節を教え込んであげるほどのボランティア精神は、自分は持ち合わせていません。

なので、足蹴(あしげ)にして、狂(くる)おしい状態にまで、のた打ち廻らせてあげるのは、本当に心が通じた相手だけ。

 

何故ならば、主にいつでも挨拶できるポジションが、まず、その人にとって一番心地よい場所でなければ、全く意味がないからです。

 

そんな感じなので、必然的に、一番最後になっちゃうわけです。苦笑

2015/12/31

S と M は 医者と患者の関係

S は、SM のことを熟知しており、M を快楽の道に導くところから、S と M の関係は、医者と患者の関係に近いと感じてます。しかし、外形以外にも実に面白い類似点があります。

医者は、基本、患者の痛みを知りません。
教科書で学び訓練を通して、その痛みを理解してはいますが、その病気になって、実際にその症状を経験しているわけではありません。

これと同じことが、SM にも言えます。
S は、M の反応や M から発せられた言葉によって、M が感じてる苦痛と快感を理解はしますが、S 自体はその快感を経験してるわけではないのです。

医者は、患者の話を聞いたり身体を診たりして、その苦痛の程度を知り、原因を考え、そして治療を施しますが、SM もこれとまったく同じです。
はじめての相手の場合は、相手に不安や恐怖心を与えないように注意しながら、何処にそのひとの M のスイッチがあるかを丹念に調べます。
スイッチの入り方や感じ方も快感の度合いも、人によってさまざまなので、この辺は、もう経験則としか言いようがありませんが、そこから、責める順序や責め方を組み立てていきます。
相手の熟練度や期待度によっても責め方は変わりますし、M の裏に隠れているものが何かや、SM に求めているものが何かによっても異なってきます。

M には、「痛い系」 や 「苦しい系(我慢系)」 そして 「恥ずかしい系」 がありますが、それに加えて、スイッチのある・なしもありますし、スイッチがあっても壊れてて、上手く作動しないみたいなものもあります。
こういう部分は通常は、実際に刺激を与えてみて、本人の反応を診たりしますが、その場でプレイの最中に本人に確認したりする場合もありますし、一服して普通の会話をしているときに、話を聞き出したりする場合もあります。
また、プレイの内容を 「調教日誌」 みたいな形で、調教相手に書かせたりするのも、ひとつには、本人が受けたインパクトや感じ方といった感覚を知りたい・・・という理由があるためです。

M の内容や程度は、人によってさまざまです。
しかし、スイッチのある・なしは、本人には如何ともし難いもの。それに対して、個人的な 「好み」 はそれぞれですが、S の場合は経験によって、扱えるキャパや範囲を広げることは十分可能です。
大事なのは、「患者を治してあげたい」 という医者の気持ちと同じように、「M をとことん気持ち良くさせたい」 という気持ち。

世の中には、いろいろな医者がいますが、「良い医者」 と呼ばれるためには、適切かつ的確に病気を治す実績もさることながら、適切かつ良好な患者との接し方が求められます。
口数は少ないものの、ちょっとした兆候を見落とさない医者もいますし、患者との会話の中で信頼感を醸成していく医者もいます。
かと思えば、患者を人とも思ってないような医者や高慢なだけの医者、手抜きで誤魔化してしまうような医者などもいます。

SM と 「医者と患者の関係」。
やっぱり似ています。