2ntブログ
2019/02/27

他人と比べないこと(2)

過去記事 「他人と比べないこと」 の続きです。

 

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では、何故、他人と比べてはいかないのか?

 

小さな子供が、お隣のみっちゃんの家と、自分の家を比べることは、全然構いません。

子供の仕事は、モノの違いを認識して、区別するところから、始まるからです。

 

しかし、得てして多くの 「お母さん」 は、こう言います。

 

   「ウチはウチ、お隣さんはお隣さん・・・」

 

頭では分かっていても、説明できないことは、山のようにあるのです。

 

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自分と他人を比べることで、自分が優越感を感じたり、危機感を感じたり、群れの中での自分の位置を確認できることは、分かります。ルールも何もないような時代から、ヒトはそうやって群れて、外敵から身を守り、生き延びてきました。

他人と自分を比較して、群れの中でも地位を競って、派閥同士で抗争を繰り返してきました。

それは、ある意味 「嫉妬」 と同様、既にヒトの 「遺伝子」 に刻まれている、本能的なものなのかも知れません。

 

しかし、「嫉妬」 を引き起こすものは、ネガティブな気持ちであり、個体としての防衛本能の発露に他なりません。

そして、比較からは、慢心あるいは劣等感といった、負の感情しか生みません。

優れた人の優れた点、良い点を褒め、そしてそれを素直に認めることは、実にポジティブな感情だと思います。

しかし、受け留めきれないと、自分に対する当て付けなんではないかと疑ったり、自分は劣っていると思い込んだりして、拗(す)ねたり、僻(ひが)んだり。

これは、その言葉を受け留める方が、自分とその人を比較しているために、起こります。

 

「比較」 は、知的な活動のひとつです。

「比較」 すること自体は、悪くはないのです。

問題は、その 「比較」 の結果生じる負の感情です。

 

何故問題なのかと言うと、自分と他人を比較し、負の感情ばかりに目を向けてしまうと、自分が幸せになれないばかりか、いつの間にか、その負の感情が、自分の周囲の人を巻き込む可能性があるためです。

 

この記事は、「東洋経済」 にあった記事ですが、読んでみて 「なるほど」 と思ってしまいました。

 

   「他人と『比べる病』が親子にもたらす深刻な影」

 

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旧約聖書の創世記では、人類の祖先は 「アダムとイブ」 から始まります。アダムとイブは、神との約束(契約)を破ったことで、「エデンの園」 を追われ、そして、その二人の子供である 「カインとアベル」 では、神から祝福されるアベルに嫉妬をする兄のカインは弟のアベルを殺してしまう。これが人類初の殺人ということになっています。

 

本来は、主と自分の一対一の関係です。常に、自分が主を意識し、感じていれば良いものを、主の周りにいる人と主の関係を自分と見比べたことによって、嫉妬しまうわけです。

 

むしろ、カインは自分の主を見ずに、弟のアベルの存在ばかりを気にしていたのではないでしょうか?

 

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大事なことは、常に主を身近に感じ、主を見つめることであり、そして、自分が主に、どれだけ愛されているのかを、きちんと理解することだと思います。

他人ばかりが気になる人は、主を見ず、他人ばかりを見ており、そして、他人が主に愛されていることばかりが気になってしまい、自分が主にどれだけ愛されているのかが、わからないのです。

 

   「自分は自分、他人は他人」

 

なのです。

 

しっかりと自分を見つめ、自分が愛されていることが実感出来て、自分に自信が出来た人は、他人のことなど目に入らなくなるはずです。目に入ったとしても、少なくとも、気に障ることはなくなるでしょう。

 

隣の芝生は青いものです。

それは、自分のお隣の家から、自分の家の芝生を見ても、青く見えるのです。

大事なことは、自分の家の庭の青さに気が付くことです。

気持ちひとつ、視点がひとつ、心の持ち方がひとつ変わるだけで、同じ日常の景色でも、色が全然変わって見えます。

 

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   「自分が、主を独占したい!」

 

と思うのではなく、

 

   「幸せになりたい!」

 

と願うことです。

自分も幸せになりたいし、出来れば、他の人にも、幸せになって貰いたい。

 

以前に記事にも書いた 「幸せのお裾分け」 です。

 

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