2ntブログ
2019/02/02

執着を捨てる

執着を捨てるのは、なかなか難しいことですが。

結局、行きつくところは、其処であります。

 

どんなに年老いて、自分の命に執着しても、時期が来れば逝く。

 

世の中が平等か公平かは別として、こればかりは、全ての人に全ての生物に公平です。

 

お金に対する執着も同じ。幾ら貯めても貯まっても、使わなければ、硬貨は鉱物資源に過ぎず、紙幣は紙切れ。銀行の預金口座のゼロは、ピグのポイントと大して変わりません。

 

人の心も移ろいやすいもの。

 

しかし、そもそも肉体にすら永遠はないわけですから、心が移ろいやすいのは致し方ないこと。

 

***

 

自分は、既に半世紀を生きて参りましたが、肉体的には熟していても、精神的にはまだまだ未熟者。

 

未熟者なりに自分の言葉で表現してみると、例のユダヤの格言にもあるように、お金が悪いのではなくて、お金の使い方が悪い・・・みたいなのと同じように、多分、「執着」 自体は悪くないのですが、如何に執着するかが大事なんだろうと。

 

要は、人生限りあるものならば、思いっきり執着してもええやろ?と思うわけです。(笑)

 

ただし、執着があると、あるときはまだ良いのですが、不足したときに自分が苦しいのです。

 

此処に、とても美味しいご馳走があるとします。

一度その味を味わうと、もう忘れられなくなります。しかし、次にいつ食べれるかも分かりません。

アナタは、そのとき、そのご馳走を食べますか?

 

自分にとって、そのご馳走のひとつは、やはり、東京湾羽田沖の煮穴子。

梅雨どきのが、一番美味しいという話ですが、その穴子にきちんと江戸前の仕事をして、煮上げた穴子を炙ったやつ。

もう身はホロホロで、皿に盛るにも崩れる一歩手前だったりしますが、そんな炙りたてにツメを塗ったやつを口の中に入れると、身は一瞬にして口の中で解けてなくなります。

 

儚いからこその、至極の逸品。

 

勿論、お味の方は、仕入れと仕事によって全然変わります。

 

今は出来合いを仕入れて手を抜く店も少なくありませんが、煮穴子も田麩(でんぶ)も元は全て江戸前の仕事です。

 

そんな美味しい穴子を味わってしまうと、いわゆる普通のところで食べる穴子は、偽物の穴子。

新しい店に期待して入ってはガッカリの繰り返し。残念さばかりが募ります。

 

***

 

美味しいご馳走を食べて、その味が忘れられない。

 

それは、幸か不幸か?

 

しかし、それはその人次第。その人の考え方次第ということです。

 

普段食べれないことばかりを気にして、残念がっている自分は、不幸な自分だったわけであり、

いつ同じような逸品に出会えるかは分かりませんが、その機会を楽しみにしている自分は、幸せな自分だったりするわけです。

 

味の記憶も、食への執着も、それは、人に対する執着も、何処か似たところがあります。

 

煮穴子が悪いわけでも、執着が悪いわけでもない。

美味しいものは、美味しいんです。(笑)

 

悪いのは、自分の考え方。

 

***

 

時は流れ、全ては移ろい、儚いからこそ、その全ての瞬間が貴重で美しい。

 

だからこそ、今を一生懸命に生きるわけですし、今を一生懸命楽しむわけです。

 

そして、掴もうとすると弾け、掴みたいけど掴めないものと戯れる。

その移ろいやすく、儚いものをどれだけ長く楽しむか。

 

昔、子供の頃にやったシャボン玉遊びではありませんが、しかし、今やっていることは、シャボン玉が女性に置き換わっただけで、実は、同じようなことなのかも知れません。(笑)

 

***

 

常に 「自分!自分!」 と、自分を守って着こんでばかりいると、

 

さわやかな春風に触れることは出来ません。

 

少しばかり薄着になると、寒いときは寒いですが、しかし、本当に心地の良い日には、さわやかな風を自分の肌で感じることが出来ます。(笑)

 

もう、梅の花が咲き始めたところもあるようですし、

 

春ももう其処まで来ています。

 

【追伸】

 

読者の方より、こんな歌を紹介されました。(笑)

 

モロやん・・・(^^;)

 

 

赤道小町しか知らなかった・・・汗;

 

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