白系ロシアにまつわる話
もしかしたら、lionman さんなんかは、場所が場所だけに面識があるのかも・・・
と思い、黙っていたわけではないのですが。
横浜中華街にあった 「チェッカーズクラブ(Checker's Club)」。
自分は其処の常連でした。
ママさんは、終戦後上海から引き揚げて来て、パパさんは、ハワイの日系二世で、米陸軍に入隊し、大戦中はドイツに派兵。終戦後に日本のGHQに召喚されました。
二人が出会ったのは、終戦後の闇市があった大森。
引き上げ時のママの武勇伝も、結構聞きましたけど、パパは其処でママと出会い、結婚したようです。
パパは、当時 「品川」 で働いていたと言っていましたから、多分、「QM Depot」 と呼ばれていた配給品その他の物資の倉庫です。
自分の母方は、戦時中に外地(大連)から引き揚げて来て、青山に住んでいましたが、終戦後は、まだ早稲田の学生だった自分の叔父が、家計を支えるために、そこでアルバイトをしていたと言っていました。
お陰で、配給品はかなり容易に調達出来たそうですが、そんな自分の祖母が作った料理が、キャベツを炒め、そこにコンビーフをほぐして、マヨネーズで和える料理。
まあ、料理の話は、置いておきます・・・(苦笑)
しかし、そのときパパさんは軍曹ですから、まあ、いろいろとこき使われたのでしょうか。
あまり、その当時の仕事のことは話ませんでした。
パパさんの人生が変わったのは、多分、ママと結婚してからなのでしょう。
ママの武勇伝のひとつに、上海から引き揚げてきて、自分の実家がある岐阜に帰るときに、米兵のジープで送らせたということ。
何かと言うと直ぐに、「アメ公が!」 と言う話になるので、そういう話になると、パパさんは、すごすごとBARの裏手に引き込んでいきます。(^^;)
まあ、とにかく、商才があったのでしょう。
大森の闇市で、自分が持ち帰ったものを売り、そのお金を元手に、今度は、米軍の将校相手に不動産商売を始めます。
そして、そういった蓄えを元手に横浜の中華街で、船の船長とか、そういう 「オフィサー」 相手のBARを開いた。
今は 「みなとみらい」 がありますが、当時の横浜港では、やはり、キャプテンが泊まる最高級のホテルと言えば、「ホテル・ニューグランド」 です。
今でも、大変に格式高いホテルです。
そんなとこに泊まるオフィサー相手に商売をしていたので、パパさんは左団扇。
パパさんは、それから講道館通いを始めます。
横浜市中区のBARのライセンス第一号というのが、パパさんの自慢話でしたが、今は、風営法上許認可がどうなっているのか解りませんが、「スナック」 の方が自由度が高いので、わざわざBARのライセンスを取る人は居ないようです。
ちなみに、当時の講道館は、日本人だけの部と、外国人と練習を分けていたようです。
パパさんは、両親共に日本人ですが、ハワイ生まれなので、外国人の部。
そこで知り合ったのか、オランダ人の柔道家である 「へーシンク」 をバーテンとして、お店を手伝わせることになります。(苦笑)
ちなみに、「へーシンク」 は、東京オリンピックの柔道の 「金メダリスト」 だそうですww
そんなお店で、ママから上海時代の話を聞いたときに、白系ロシアの女の子の話が出てきました。ちなみに、上海の疎開とは、上海の 「外国人居留地」 のことです。
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このお店のことは、出来たら、少しずつ、思い出話を書いていきたいと思います。
lionman さんのお店にも、機会を見つけてお伺いしたいものです。
やはり、自分にとってのお店は、「みなとみらい」 の表ではなくて 「裏」。
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