「都市伝説」という言葉で片づけない(3)- SM 篇
前記事 「『都市伝説』という言葉で片づけない(2)」 の続きです。
今回は、SM に絡めた話 です。
SM なんて代物も、理解出来ない人には、さっぱり理解出来ない世界でしょう。
イメージとしては、おどろおどろしく、縛られたり拘束されたりすることで自由を奪われた上、命令に従わさせられたり、「辱(はずかし)め」 を受けたり、あるいは、痛みとか苦しみを与えられたり、性の道具として扱われたり。
残酷や残忍なイメージしか残らないものも、あったりします。
代表的なものとしては、自分の経験では、伊藤晴雨が描いた 「江戸地獄絵」 のようなものがあります。
子供のとき、SM雑誌をめくってはドキドキし、アソコを硬くしていましたが、さすがにこの 「伊藤晴雨」 の絵だけは嫌いでした。
正義の味方に萌えている子供心に、この世界だけは受け入れ難かったのでしょう。
今見ると、さすが竹久夢二とお葉を取り合った伊藤晴雨だけあって、人の醜いところも快楽も、人の生と死と苦しみも含めて、全てが描かれている。不条理な現実を生きる人のエロティシズムが、性が見事に表現されているのです。
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「SM 感」 と言うものは、多分、人それぞれなのだと思っています。
ひとつ前の 「『都市伝説』という言葉で片づけない(2)」 のところでは、"セ/ックスに常識はない" 的なことを書きましたが、SM にもスタンダード的な手法、伝統的な手法はあるものの、「これこそが 正しい」 という正解は、存在しません。
しかし、自分の 「SM 感」 からあまりにも乖離する行為を、自分が 「SM」 として認識するかはまた別の問題です。
SM においては、セ/ックスの介在の有無は関係ありません。
しかし一方的に自分の価値観を相手に押し付ける行為は、自分的には 「SM」 ではなく、一方的な 「虐待」 行為でしかなく、「SM」 と似てはいても、全く次元が異なる行為であると認識しています。
”SM とはこうあるべき” みたいな暗黙の不文律的な空気は存在するんだけれども、SM に標準というものはありませんし、相互に納得ずくの行為をその人達が 「SM」 と呼んでいたとしても、セ/ックスと同じで、自分はその行為を否定する立場にはない。
ただ自分は、其れを 「SM とは見なさない」 と言うことなのです。
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そういう意味で、「SM」 には絶対的な基準はありませんので、自分が捉えている世界、自分の価値観の中で、説明するしかないのですが、
SM には、少なくとも 「客観の視線」 と 「主観の視線」 があるのです。
そして、同じ 「客観の視線」 であっても、それに 「共感する視線」 と 「傍観する視線」 は違うということ。
実に不思議なのですが、この 「共感」 から離れて 「傍観」 の側に移動すると、それこそ自分が小さい時分に見た伊藤晴雨の絵のように、SM はときとして、実に怖い存在に見えたりするのです。
それは、何故か?
当事者はお互いに、其処に信用や信頼、あるいは、愛があることを確信しているのです。
それを前提に見れば、SM とは、愛を奏でる行為以外の何者でもないことは、実感出来るのです。これが 「共感」 の視点です。
しかし、その愛や信頼が見えないと、時として、その構図は大変怖い世界に見えてしまうのです。
これが 「傍観」 の視点です。
自分は良く 「愛奴」 に調教日誌を書かせるのですが、其処に愛のあることが見えている読者にとっては、ラブストーリーにしか読めない筈の文章であっても、其処に愛を読めない読者にとっては、それは単なる 「恐怖の虐待絵巻」 にしか写らないのです。
プロが演じるドラマや劇などのショーであれば、多少はおどろおどろしく、演出するような場合もあるでしょう。しかし、SM 自体に既にその二面性が、内在しているのです。
其処には、「痛みや苦痛に対する歓喜」 という、常識的には一体であると信じたくない不条理。ある意味、SM が持つ 「エロティシズム」 の向こうに、「生と死」 が写るのかも知れません。
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しかし、当事者的な視点で言えば、
「鞭(むち)」 にもいろいろありますが、バラ鞭なんかは、さほど痛くはありませんし、ロウソクは、「熱い!」 とは言っても、火傷しない程度の 「低温ロウソク」 ですから、仏壇やケーキのロウソクのように、水ぶくれが出来るほど、熱いものでもありません。
また緊縛に用いられる 「麻縄」 は、小学校の運動会で使う綱引きの 「綱(つな)」 にカタチは似てはいますが、しかし縄は縄。
しかも 「ジュート」 ですので、実に柔らかく、ヤスリを素手で掴んだように手がヒリヒリする 「綱」 とは全くの代物です。
実際に SM に興じている当事者であっても、
多くの人は 「痛いのは嫌!」 と言います。
そして、自分は絶対に 「痛いのは無理」 であり、「鞭なんかで叩かれたら、絶対に蹴りが出る」 と思っていた人が、叩かれてみて思わず言ったのは、
「鞭が、こんなに気持ち良いとは、知らなかった・・・」
というセリフでした。
中には、「青アザ」 が出来るまで鞭で叩かれることを好むツワモノの女性も居たりしますが、これは、キスマークと同じ原理です。
キスマークもそうですし、緊縛で付けられた 「縄目の痕」 も同じです。
何かの証(あかし)を欲しがる女性は少なくありませんが、それと同じで、その痕が残っている間は、ずっとそのプレイの時に、自分の時間を戻すことが出来、その余韻に浸ることが出来るのです。
では、何で痛みを快感に感じるのか?
それはいみじくも、上述の女性が言ったように、冷静な状態では 「思わず蹴り」 を出してしまうような、気丈な女性であっても、誰でもそうなのですが、興奮状態にあるときは、痛覚が鈍るようです。
正確な数値は忘れてしまいましたが、以前読んだ英語の論文では、127% あたりだったように記憶しています。
ひとつは、セ/ックスの快感も、神経的には痛覚で繋がっているそうです。
5つの感覚器のうち、ひとつが快感の伝達に使われたとしたら、痛みは残る4つで検出することになります。そうすると、冷静なときは100の刺激も、性的に高まっているときは、80にしか感じないことになります。脳が100と認識するのは、計算では、実際の刺激が125 の場合となります。
この仮説が正しいかどうかは、医学的に検証されない限り分かりません。しかし、経験則的に言えることは、性的に高まってくると、カラダは、性の快感と痛みを混同しやすくなると言うこと。
特に女性が、「脳イキ」 や 「中イキ」 といった 「オーガズム」 を経験する前は、女性の脳の前頭前野と呼ばれる部分が機能しなくなり、本人の記憶はうろ覚えとなり、理性的な判断が出来なくなるのです。
だからこそ、自分が理解する SM においては、女性をきちんと保護し、サポートするだけの気力も精神力も体力もですが、それ以上に誠意が求められるということです。
女性の立場から言えば、何かトラブルや事故があって、さっさと自分を置いて一人で居なくなってしまうような男には怖くて、自分を委ねることは出来ませんし、いくら命があっても足りません。(苦笑)
男性に求められるのは、冷静に女性を観察し、あるときは女性をリードし、あるときは女性をエスコートしながら、女性を極限の状態にまで追い込めることの出来る能力なのです。
ですので、SM において、女性のことなどは一切関知せず、自分の世界に浸り、単に自分のしたいことばかりをやっている男は、どんなに上手く縛れたとしても、製品や商品の出荷時に段ボール箱を縛る梱包機のようなもの。
「SM」 とは、心と身体の双方で取る、S と M との 「コミュニケーション」。
「SM」 においては、常にパートナーが居てナンボ。
「夫婦」 もそうですが、「SM」 は、「S」 と 「M」 が居て、コミュニケーションが成り立つからこそ、はじめて 「SM」 が成立するということです。
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一見猟奇的に見える 「SM」 も、そのような 「愛」 の側面から理解して貰えると、まだ未経験の人であっても、「どういう世界」 であるのかが、理解しやすくなると思います。
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