飴(あめ)と鞭(むち)
何故、愛奴が出来ないか?
多くの人がイメージする 「ドM」 と言うのは、苛(いじ)められるのが好きで、人から強く迫られたりすると、性的に刺激されてしまい、もう居た堪れなくなってしまうような人を想像するのでしょうか。
確かに、好きな人から苛められたいと言う人は居ますし、強く迫られると 「NO」 と言えない人も居ます。
しかし、共通して言えることは、それは、自分が好意を寄せていたり、自分が信頼を置いている、自分が 「パートナー」 と認めた相手に対してだけなのです。
奴隷ちゃんを飼いたくても飼えない、多くの 「似非ドS」 の人は、ここを間違えているのです。
まずは、相手の信用と信頼を勝ち取り、それから、しっかりと相手の目を見詰めて、相手の全てを受け容れてあげることです。
自分の全てが許容されているから、その安心感があるからこそ、「M女」 は、「性☆癖」 も含めて自分の恥ずかしい部分全てを自分の 「パートナー」 に晒すのです。
そして、自分の手の平から、餌なり飴を食べるようになったら、懐(なつ)いた証拠。もう大丈夫です。(笑)
飴と鞭の重要性
傍(はた)から見ると、単に 「責め手」 が 「受け手」 を苛めているだけのように見える場合も少なくないかも知れませんが、常に 「責め手」 が 「受け手」 を責めることが、「SM」 ではありません。一方的な行為は、単なる 「マ☆ス☆タ☆ベーション」、もしくは、「イジメ」 です。
「SMクラブ」 に 「S」 の客が行ったとします。この場合、客は単に一方的に自分が 「責め」 ているように感じますが、実は客が 「M嬢」 に支払うお金が 「飴」 であり、お客の責めは 「鞭」 なわけです。そして、「S嬢」 に対しては、お客が支払うお金がお客にとっての 「鞭」 であり、そして 「S嬢」 は、お客に対して 「飴」 として 「責め」 を与えているわけです。
「SMクラブ」 などの場合は、もう既に 「ビジネスモデル」 として、このような図式が出来上がっていますが、プライベートな関係においては、「責め手」 は、常に 「受け手」 の 「飴と鞭」 を意識しなければなりません。
相手にとっての 「飴と鞭」 が何かを、きちんと認識出来ていなければなりませんし、それが自分の 「飴と鞭」 と上手く組み合わさっていないと、長続きしません。
「飴と鞭」 は、当然、「責め」 が 「飴」 になる場合もあれば、「鞭」 になる場合もありますし、「責め」 とは別に 「飴」 を用意する必要がある場合もあります。
理解する上で大事なことは、「SM調教」 とは、単に一方的に 「責め苦」 を与える行為なのではなく、「飴と鞭」 を上手く使って、揺さ振りながら 「飼い慣らす」 行為であるということです。
一例
これは、「飴と鞭」 の認識が貧しかった一例ですが、以前、相談を受けた女性は、当時の彼氏とのプレイで、「お説教」 ではありませんが、「お前はだから駄目なんだ・・・」 とばかりに、いつもディスられていたそうです。
若いカップルでしたので、もしかしたら、それは愛情の裏返しだったのかも知れませんが、人間、短所は長所でもあり、また、長所は短所なのですし、「駄目出し」 ばかりで、人間変わることが出来るのであれば、人生苦労しません。(苦笑)
結局、最後は、双方の感情も高ぶってきて、そこに責めも加わって、泣いたり叫んだり。「責め手」 の方は、自分がまるで優秀な人間であるかのような錯覚に陥(おちい)って、優越感に浸り、「自己顕示欲」 と 「性☆欲」 の双方を満たしていたみたいですが、彼女にとっては、「承認欲求」 も満たされず、「飴」 も何もなかったからなのか、関係は彼女の方から解消されたようでした。
SM のようでいて SM ではないもの
「飴と鞭」 なんて甘い・・・と。俺は、ガチの 「ドS」 だから、「鞭」 しかやらねーみたいのは、結局のところは、自己満足的な 「イジメ」 と変わりありませんから、マトモな 「調教」 すら出来ず、逃げられるのがオチ。
そんなのは、逃げられてばかりいるので、お腹を空かせて、餌に困って飢えている蜘蛛のようなもの。「餌」 に困ってるから飢えてるだけで、ガチの 「ドS」 だから、飢えてるわけでも、食欲(性☆欲)が溢れているわけでもありません。
自己顕示欲の強い 「勘違いのドS」 の 「責め」 は、「自己の正当化」 による保身と 「ストレスの発散」 に過ぎませんので、一種の 「DV」 みたいなもの。
「イジメ」 の根源は、「自己保身」 であり、そのために 「生贄(いけにえ)」 を求めているに過ぎません。
「イジメ」 の場合は、苛める方と、苛められる方の間に、コミュニケーションは成り立っていないのに対して、「SM」 の場合は、責める方と、責められる方の間のコミュニケーションこそ、大事なものなのです。また、「イジメ」 の場合の中核は 「自己愛」。一方の 「SM」 の場合は、相手に対する 「愛」 が中核です。
様式は 「SM」 であっても、このような違和感を感じたら、それは 「SM」 ではなく、単なる 「DV」 である場合もありますので、参考にしてみて下さい。
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