2ntブログ
2017/12/14

「出戻り」 はアリか?

SM を興じている方から、自分は 「出戻り」 を許容しているか否かを、聞かれたことがあります。

「出戻り」 とは言っても、「離婚」 や 「家出」 の出戻りではなく、あくまでも、SM の 「主従関係」 における 「出戻り」 の話です。(^^;)

 

「出戻り」はアリ?

 

答えとしては、「出戻りはアリ」 だけれども、「出戻った人はかなり少ない」 というものです。

今までの経験において、ほんとに数人居たか居ないかみたいな感覚です。結果としては、「出戻ったものの、また出ていった・・・」 みたいな感覚でしょうか。(苦笑)

 

まあ、何かのトラブルが原因で、衝動的に離れたのであれば、出戻りも意味があるかも知れません。しかし、それでも、また同様のトラブルが発生しないとは、誰にも言えません。

出る前は、序列上位にあっても、出戻ったら、一からのやり直しになります。

 

しかし、それでも、自分の行動を反省し、本気でやる気があるのであれば、自分は 「出戻り」 は否定しません。むしろ、

 

        「奴隷は、自分からは抜けられないって言ったでしょ?」

 

と言って、受け容れることでしょう。

 

幸せな 「出戻り」 と 不幸せな 「出戻り」

 

しかし、出戻ってみて、そこが 「過去」 と同じと思ったら、きっとまた失敗するでしょう。

「過去」 を振り返ってみて、「良き日々」 だったとしても、それはもう 「過去」 なのです。人の心も身体も、「現在」 を生きているのです。

戻ったところで、そこに過去の 「良き日々」 はないのです。

そして、そこで落胆し、また、「出戻り」 した人は、出ていったりします。

 

そういう人は、自分が過去に 「現実から逃げたこと」 を、分かっていないのです。

そして、そういう人はまた、同じ過(あやま)ちを繰り返します。

 

しかし、自分は、「セカンドチャンス」 を与えると思いますし、何回も去られて、正直自分も凹みますがそれでも、それ以降も門戸は開いていると思います。

 

自分を捨てることが出来るか?

 

大切なことは、自分を捨てるということです。

 

「自暴自棄になれ」 と言っているわけではありません。自分を大切にし、自分を労(いた)わり、そして、それにも増して、自分よりも他人を優先する。「他人を愛せ」 ということです。

 

自己や自分。我に捉われている限りにおいては、幸せもありませんし、M の喜びもありません。

日常の生活では、自分のことに精一杯かも知れません。

しかし、だからこそ、非日常である SM においては、自分を捨てないといけないのです。

 

「SM」 は、「ハレ」 の行事であり、「お祭り」 なのです。

 

だからこそ、八百万(やおよろず)の神とか、全知全能の神とか、まあ、ユング的には、深層心理に横たわる 「集合的無意識」 みたいな存在を意識して 「トランス状態」 になって、楽しむのです。

 

縄でイクのもよし。

「セ☆クス」 でイクのもよし。

 

といったところです。

 

自分の我、自分のイメージ、自分の欲に捉われている限りにおいては、「M女」 の場合は、何処に行っても 「コレジャナイ!」 となります。

そして、「野良」 も板に付くようになってくると、これこそ所謂(いわゆる) 「無限地獄」。どんどん、再現なく、エンドレスに 「ホップ」 しだします。

 

***

 

しかし、まあ若い独身者であれば、きっと誰か 「伴侶(はんりょ)」 となるべき人が、「野良」 を止めてくれるでしょう。(笑)

 

***

 

「自分の過(あやま)ち」 に気が付いたのであれば、早いうちに戻るべきですし、現実を受け容れることが出来ず、それが単なる 「過去の幻影」 なのであれば、「現実」 に戻るべきでしょう。

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