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2017/12/13

多頭問題

多頭問題

 

「多頭飼い問題」 は、SM においても、なかなか意見の分かれるトピックです。

「モテナイ単頭飼いよりも、モテル多頭飼いの方が全然イイ・・・」 みたいなレトリックは可能ですが、そもそも、女性に限らず、「単頭飼い」 よりも 「多頭飼い」 の方が良いなんて言う人は、この世に居ないはずです。(苦笑)

 

多頭飼いに隠れている問題点

 

「多頭飼い問題」 の背後に隠れているのは、ひとつは 「女性の独占欲」 の問題。そしてもうひとつは、「男性の虚言」 問題があります。

 

(1) 女性の独占欲

 

まずは、「単頭飼い」 だとした場合、女性の独占欲は満たされ、安心できるのは理解出来ます。

しかし、「奴隷」 が独身者であり、「主」 も独身者であるなら、まだ理解できますが、「主」 が既婚者などの場合、それ自体は気にならないのか? ということです。

婚姻の部分については、既にその 「主」 が 「不倫」 をしているという時点において、配偶者の負けは確定しており、婚姻関係は全く無視をして、「不倫」 というフィールドにおいて独占したい・・・と言うのであれば、その意味は、「自分が勝ちたい!」 あるいは 「一番になりたい!」 という 「敵対心」 に他なりません。

 

しかし、いろいろな人が言うように、そもそも、配偶者が居(お)りながら 「不倫」 をしているという 「時点」 において、既にその人は 「ゲス」 なわけです。 そんな 「ゲス野郎」 が、「不倫」 というフィールドにおいて 「純真」 になれるのでしょうか?

「ゲス」 であるのに、「センテンススプリング」 にさえ相手にされない 「オヤジ」 的には、「ゲス」 は 「ゲス」 でしょ!? ということです。(苦笑)

 

(2) 男性の虚言

 

しかし、もうひとつの虚言問題があります。それは、果たして、その男性が 「単頭飼い」 だと言ったことは、嘘ではないのか、ということです。

 

正直者の 「単頭飼い」 も居るでしょうが、確認出来ないのだとすれば、正直者の 「多頭飼い」 と虚言癖のある 「単頭飼い」 のどちらを選ぶかという問題です。

 

偽装問題

 

「和牛」 を 「和牛」 として売っている肉は別として、「アメリカ産の牛肉」 を 「アメリカ産の牛肉」 として売っているものと、「アメリカ産の牛肉」 を 「和牛」 として売っているものの、どちらを選ぶのか。

「肉」 の目利きが出来、きちんと肉の質をみて選べる人なら、問題ありません。

 

この世の中、「食品偽装」 と同じく、人も結構 「偽装」 されていたりするものです。(笑)

 

「多頭飼いである」 と宣言した場合、当然、多頭飼いを好まない女性からは排除される可能性が高くなります。しかし、敢えてそれを宣言している意味は何か。

それは、相手の女性を騙(だま)してまで、手に入れようとは思っていない、ということです。

これをその人間の示す 「誠意」 として受け取るのか否か。その辺は、受け取り方次第だと思います。

 

現実は?

 

初心者に、いきなり 「多頭飼い」 など出来るはずもなく、また、ひとりもお相手がいないようであれば、「まあ、いいや」 みたいな感覚で、とりあえず、「単頭飼い」 は名乗れます。(笑)

しかし、「単頭飼い」 であると信じて、付き合ってみたところ、実は他にも手を出していた、あるいは、出そうとしていたみたいなことが、現実にないわけではありません。(苦笑)

 

実際にお付き合いしている人がいて、ある程度の期間、お付き合いがあるということは、少なくとも、その相手の女性は、お付き合いするお相手として受け容れているわけです。

少なくとも、出会ってみて、「1回会えば十分」 とか 「もう、これっきりで」 という状況にはないわけです。

 

***

 

もし、「結婚」 を意識してアプローチしているのであれば、「多頭飼い」 は問題が多いかも知れません。(苦笑)

しかし、そうでなければ、「独占できる可能性」 というのが必要とされるのは、あくまでも、相手が自分のお相手として満足できる場合に限定されるわけです。

「可もなく不可もなし」 みたいなお相手であったなら、そもそも、そういうお相手を独占したいと思うのでしょうか?

 

SM における多頭飼い環境は、大勢を相手に立ち回って相手を蹴落とすのではなく、ただ傍を離れたくないがゆえに忍ぶものであり、そして、いつの間にか、自分が筆頭となったときには、自分の立ち位置を理解し、振舞うものです。

そして、何よりも大切なことは、SM とは、自分の理想やイメージを追い求める道ではなく、むしろ、自分の我を捨て、耐え忍び、涙を流し、悲鳴をあげ、笑い喜び合う。そして、それを通じて人間の喜怒哀楽や愛、人の儚(はかな)さを理解し、人生を学ぶ道であるということです。

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