2ntブログ
2016/03/05

S は何故 「調教日誌」 を書かせるのか?

SM では良く、自分の愛奴に、「調教日誌」 あるいは 「調教日記」 といったものを書かせたりします。それが一般的かと問われると微妙ではありますが、昔からある、ひとつの楽しみ方。

ただ、昔は、主たる媒体(メディア)と言えば新聞か雑誌くらいしかありませんので、雑誌への手記の投稿という形で行われていました。当時の雑誌投稿は、それこそ、便箋(びんせん)に手書きでしたため、写真などを同封して編集部宛に送付するわけです。

今よりも、何倍も時間も手間が掛かりましたので、大変敷居(しきい)が高かった。
それゆえに、その書き手の思いは、さぞかし複雑であったろうと推測します。書いているときの書き手に圧(の)し掛かる重圧もかなりのもの。しかし、原稿を完成させて投稿し、採用されたときの喜びは、一入(ひとしお)でしょう。今とは比べ物にならない筈です。(笑)

最近でこそ、ブログという形で、個人単位での情報発信も簡単になり、大変便利になってきてますが、「調教日誌」 自体は特に、ネットが発達したがゆえの 「最近の風潮」 というものではありません。しかし、ネットの発達によって、「調教日誌」 の敷居が低くなり、大変身近な存在になったのは事実でしょう。


では、今も昔も、S は何故、愛奴に 「調教日誌」 を書かせたがるのか?

「調教日誌」 には、いろいろな思いが錯綜(さくそう)しています。笑

ひとつには、日記を付けさせる行為自体が、愛奴に常にプレイを想い起こさせるキッカケとなり得ること。
彼氏にキスマークを付けてもらいたい女性や、緊縛で敢えて肌に縄目を残してもらいたい女性と一緒です。
彼女たちが何故 「痕(あと)」 の残して貰いたいのか?それは、後日にその余韻を楽しむためです。彼女等は、次の日に、キスマークを見たり、縄目の痕(あと)を見ては、その日のプレイを思い起こしているのです。

日記も、その日の出来事をそうそう簡単に記述できるものではありません。結果、愛奴は、調教日誌を執筆するために、1日何時間も、その日の調教を思い起こし、それをしたためます。
日誌とは言え、どんな行為をしたかが重要なのではありません。
相方の言動を、どのように解釈し、そして自分がどう反応したか。身体はもちろんのこと、心の叫びもきちんと思い起こさなければならないわけです。

感じまくっていれば、それこそ前後関係すら、記憶は 「おぼろげ」 だったりするもの。しかし、「やりっぱなし」 ではなく、その時間を相方に思い返させることも重要なのです。
後日、愛奴にプレイの内容を何度も思い起こさせる。そのひとつのやりかたが 「調教日誌」 を書かせること・・・であるわけです。
翌日とかに、それを眺(なが)めては、思いに浸(ひた)る感覚。「調教日誌」 を書かせることで、それを強制的に味あわせている訳です。


では、それでおわりか? とんでもありません。(苦笑)

次は、「調教日誌」 の公開です。笑

M 女に 「露出願望」 があるかないかによっても、アプローチは微妙に変わってきます。
交換日記のように、主に見せることを前提に、一種のラブレターのような感じで作成させる場合もありますし、「調教日誌」 の公開を前提として作成させる場合もあります。
いずれにしても、実際には公開にまでは至らなかったにせよ、その 「体験」 を告白させたり、あるいは、投稿用の 「写真」 を用意させたりする行為自体が、ある意味、羞恥をくすぐる 「責め」 や 「焦(じ)らし」 と言った 「プレイ」 となるわけです。(笑)

SM は貪欲です。

ドS は何も、普通のエッチができないから、あるいは、エッチに自信がないから、道具を多用しているわけではありません。苦笑
電動おもちゃも、縄もロウソクも、使えるものなら何でも使う。
九尾のバラ鞭(むち)も麻縄も必須ではありません。バラ鞭がなければ、その辺の靴べらで十分。
道具が主役なのではなく、主役はあくまでも 「俺様」 であり、可愛い愛奴なわけです。笑
そういう意味では、「調教日誌」 も、二人の SM プレイのための 「ひとつの道具」 に過ぎません。

愛奴に 「調教日誌」 を書かせ、主はそれを査読し、朱(しゅ)を入れます。
「調教日誌」 を仕上げるという行為が、二人が戯(たわむ)れる遊び場となり、二人の作品となっていくわけです。笑
「調教日誌」 の完成のみが目的なのではなく、そのプロセス自体を 「SM プレイ」 として楽しんでいる訳です。笑


しかし、SM 的には、これでもまだ十分な解答とは言えません。

自分が、愛奴に 「調教日誌」 を書かせる意味。

それは、まず、自分とのプレイにおいて、受け手が自分の責めをどのように認識し、どのように感じていたのか、それを知りたい。
プレイでは、常に愛奴の声を聴き、表情も観察はしています。
背後から、硬くなった 「いちもつ」 を蜜壺の奥まで差込み、言葉で責め、触れるか触れないかぐらいの感覚で、背中に舌を這わせては、そのときに発する声を聴き、蜜壺の収縮具合も含めて、愛奴の反応を確認してはいます。

しかし、実際に感じている感覚には、「相違」 があって当たり前。
M のスイッチが人によって異なるように、本人が何に反応しているかは、人それぞれな訳です。
自分の認識とは異なり、自分が無意識に発している 「女性をおもちゃ」 にしてる感覚や、ちょっとした 「薄ら笑い」 に対して、強く反応していたりする場合も多々あります。(苦笑)

個としての相手を知る。知りたい。だから、調教日誌を書かせるわけです。

他の人達が、自分と同じかどうかは解かりません。しかし自分の場合は、出来るだけ 「受け手」 からのフィードバックを得ることで、PDCA サイクルではありませんが、相方と同期を取ろうとしている。
そのための 「手段」 が、自分にとっては 「調教日誌」 な訳です。


S は、SM プレイにおいては、愛奴を護る 「ボディガード役」 でもあり、そして、SM の世界における 「ガイド役」 でもあります。
肉体的な快楽に終始するか、それとも、その快楽を、精神的なレベルにまで昇華(しょうか)するか。それは全て S の手に委(ゆだ)ねられているものです。
そして二人の快感を高めるためには、当然ではあるけれども、相手をより深く知る必要がある。
SM では、そうやってお互いのコミュニケーションを高め、深い精神性な繋がりを築いていく訳です。言わば 「心理戦」。

しかし、SM を愛好している人であっても、自分の嗜好趣向を求めてばかりいて、「飢えた狼」、あるいは、「お腹を空かせた豚」 の如(ごと)く、彷徨(さまよ)っている人も少なくありません。
多くの場合、そういう人達は、道具や責めを真似てるに過ぎません。自分も振り返ってみれば、そういう時期はありました。
かなり昔の話ではありますが、「わかってないなっ」 と言われて、困惑した記憶もなくはありません。苦笑

縄で綺麗に縛れると、確かに格好良い。笑
緊縛は芸術性があるし、吊りは職人技とも言える技術です。しかし、縄で身体は縛れますが、心を縛るのは、実は縄ではなく言葉であり心。
縄に限りませんが、SM の道具は、催眠術師の使う懐中時計とか穴に糸を通した5円玉みたいなもの。
縄がなくても、縛れるようになりますが、それは、ソロバンの有段者がソロバンなしに暗算できたり、あるいは、剣道の有段者が竹刀なしに立ち回りができるのと同じこと。
いきなりやろうとしても、出来るものではありません。

「調教日誌」 なんて・・・とお思いの人もいるかも知れませんが、お互いに快楽を貪(むさぼ)りつつも、愛奴の心を理解し、愛奴の心をほじくって、悪い病巣を取り除き、より良い人生に導いてあげること。綺麗事かもしれませんが、これこそが ドS の醍醐味(だいごみ)。
多分、「エゴマゾ」 や 「なんちゃってドS」 にはわからないかとは思いますが、主従愛によらず、対等な感覚で単に肉体を貪りあっているにすぎない SM や、心が通いあっていない SM は、愛のないセックスとあまり変わりません。

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