2ntブログ
2017/10/29

いつかはセ☆クスでイケるようになる?(7)

前回、「いつかはセ☆クスでイケるようになる?(6)」 に続き、「いつかはセ☆クスでイケるようになる?(番外編)」 を書いて完結したつもりでおりましたが、甘かったようです。(^^;)

 

読者の方から、いろいろとご質問等を戴きました。

読者の方からのご意見や質問は、記事の書き手としては、大変励(はげ)みにもなりますが、そればかりではなく、多くの方々の実情を知る上でも大変有意義に感じております。

今後も、ご意見やご質問で感じた点などを、どんどん記事として補足説明していきたいと思います。

 

やはり、実感することは、多くの女性が 「セ☆クス」 で 「オーガズム」 を経験していないこともありますが、相談する人がいないことや、正しい情報が解らないといったご意見も伺いました。

友人から最近、実際に話を聞くまで 「中イキ」 の存在を知らなかったという女性もいますし、「中イキ」 なんて嘘だと思ってたという人もおります。

 

今回は、実際に戴いた幾つかの質問に答えるかたちで書いていきたいと思います。

 

***

 

Q1 中イキするには、物理的な刺激は重要ですか?

 

「脳イキ」 の場合と違い、「中イキ」 の場合は、心理的な要素や精神的な要素も重要ですが、物理的な刺激もとても重要です。特に最初、イケるようになるまでは、大変重要です。

そのためには、少なくとも、子宮口に当たり、押せる程度の長さが男性自身に求められます。

細いよりは、適度に太い方が当たりは強いでしょう。先が細い場合は、接触部分が小さいので、女性は痛く感じる場合があります。特に、長くて細い場合は、男性が女性を勢い良く突いたりすると、女性は痛みしか感じなかったりする場合もあるので、配慮が必要になります。

 

また、女性の中で、男性自身が何処に当たっているかもとても重要です。

男性自身が 「上反(うわぞ)り」 の場合は問題ありませんが、下側に反っている 「下反(したぞ)り」 の場合は、奥(ポル☆チオ)には当てづらいかも知れません。

女性の気持ち良いところが、稀に膣の下側(直腸側)にある女性もいますので、そういう女性であれば、「下反り」 の男性と合うかも知れません。

あと、短い男性の場合は、特定の体位でアングルが合うと、女性の 「Gス☆ポット」 に当たるケースもあるようです。

 

子宮口に当てる場合は、女性は 「騎乗☆位」 の体位で探すと探しやすいと思います。

多くの場合、女性は、「騎乗☆位」 になって少し後ろに後傾させた姿勢を好みます。

 

Q2 一度イケるようになるとイキやすくなりますか?

 

補助輪なし自転車の練習と一緒で、一度しっかり 「中イキ」 を経験すると、女性はイキやすくなり、多少の雑念があっても、イケるようになります。

また、イケた相手以外の人であってもイケるようになりますし、イクまでに要する時間も、自分の経験では、1分掛からなかったり、長くても数分だったりしますので、1ラウンドでそれこそ20回も30回もイクという状況が、当たり前になってきます。

昔は、このため、夫婦やカップルの男性が、女性の開発や調教をお願いしてくるようなケースも見られました。

 

Q3 スピリチュアルな要素はありますか?

 

心理的精神的な要素はありますが、超常現象ではありませんので、スピリチュアルなものは全く関係しません。

逆に、なんでもかんでもスピリチュアルなものに傾倒するきらいのある人は、現実の壁や課題に対峙(たいじ)出来ずに、逃げてしまう人も少なくありません。スピリチュアル自体は、人の好き好き(すきずき)ですが、それとは切り離して考えて下さい。

むしろ、身体をリラックスさせたり、無の境地に慣れるように、座禅やヨガあるいは瞑想(めいそう)や呼吸法といったものは有効かも知れません。

 

Q4 羞恥心は重要ですか?

 

セックスは、エクササイズではありません。また、バレエみたいにストイックな状態では、イケる筈もありません。

フランスの小説家、思想家であり哲学者の 「ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille、1897-1962)」 は、「エロティシズムとは、死に至るまで生を称(たた)えることである」 とし、エクスタシーを 「小さな死」 と表現しました。また、「エロティシズム」 の本質は 「禁止」 の 「侵犯」 にあると説(と)いています。

俗なる一般社会では、「禁止」 されていることを、一時的に解除して 「侵犯」 することで祝祭など聖なる行為が行われる。それが 「セ☆クス」 だと言っているのです。

羞恥心は、俗なる社会で 「禁止」 を犯しそうになることで 「恥ずかしい」 と感じる気持ちですが、これは、聖なる行為では、解放されなければならないものです。

「ジョルジュ・バタイユ」 も、サディズムの語源ともなった 「マルキ・ド・サド」 の影響を強く受けていますが、SM における 「羞恥責め」 などは、まさしく、祝祭において羞恥心を高め、解放させる行為と言えます。

 

江戸時代は、女性の乳房は見慣れたものであったため、男性は乳では性欲を感じなかったと言います。

昭和の時代も、粉ミルクの登場で徐々に少なくはなるものの、公衆の面前で乳房を出して赤ちゃんに授乳するお母さんは普通に見掛けました。子供に母乳を与えることは当然のことだから、恥ずかしくも何ともなかったわけです。

 

話がちょっと逸(そ)れますが、「不倫は文化」 と言ったとか言わなかったとかで有名な 「石田純一」 が昔、「女房の前ではオナラはしない」 とか、「だらしない格好をしない」 みたいなことを言ってるのを聞いて、そのときは、

 

        「この気障(きざ)野郎っ!」

 

などと思ったりしたものですが、今にして思うと、これは正論だったのではないか。

たとえ、女房であっても、祝祭である 「ハレ」 と 日常の 「ケ」 をきちんと使い分けるのが、ある意味、夫婦の新鮮味を保つ秘訣。「セックスレス」 にならない秘訣(ひけつ)なのでは・・・などと考えたことがあります。

 

性的な羞恥は、エロティシズムの表れであり、性欲を掻き立てる要素のひとつなのですから、とても大切なものだと思っています。

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