盆栽と緊縛
とある方から、
「この記事は、読まれたことがありますか?」
というメッセージが送られてきました。その記事をご紹介します。
「盆栽」 と 「緊縛」 の類似性については、以前、自分の記事でも言及した記憶があります。
とは言っても、百均にお店に入った途端に何を買いに来たのか忘れてしまうと言う、「3歩」 歩くと忘れてしまうタチなので、検索してみたところ、3本の記事が。
しかし、目を通してみると、どの記事も、「盆栽」 との類似点をちょこっと書いてるだけで、この記事のように 「盆栽」 と 「緊縛」 を対比させて、その意味を追求するものにはなっておりません。
”他の人の書いた記事を読む” ということは、自分と異なる視線(視点・角度)からモノを見ることになります。
昨今、いくつかの電波望遠鏡を連動させて、目には見えないはずの 「ブラックホール」 の存在が視覚的に確認されましたが、今回この記事を読んでみて、これと同じように、抽象的だったり、目には見えないモノゴトを見るためには、複数の視点を介することが大変有効なんだなと、つくづく思わされました。
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やはり、「盆栽」 と 「緊縛」 の共通点という意味では、この記事にあるこの記述の部分です。
盆栽の基本は、樹を育て、仕立て、美しさや生命力を最大限に引き出すことにある。木の性質や癖を知り、より美しい形を探り出し、その美しさを維持し続ける。目指す美のために、不要な枝を落とし、姿を整えるために、走り根や底根を切り詰め、針金で枝を引き絞り、葉の勢いを剪定で揃え、様々な技巧を凝らす。
盆栽を良い形にするには、その木が持つ性質や個性をよく知らなければならず、人間が施す技巧を木自身が内側に浸透させていなければならない。そして、木は自ずと育っていくものゆえ、盆栽とは、人間と木の共同作業なのだ。個性を無視し、不自然に枝を曲げ、恣意的に仕立てても、美しい形にはならない。まず木の存在がなくては始まらない。木という存在と人間の意識が溶け合う行為なのだ。
だから手入れをしなくなった盆栽は、その姿を維持することができず、樹形が乱れていく。乱れた樹形を見て、周りの人間は、盆栽は育てたその人自身であり、作品だったことを知るのだ。また盆栽は、景色を表す盆景とは違い、もっと大きく自然を連想させる。行間から溢れる情緒、イマジネーション、余韻を感じさせる文学に近い性質を持っている。
「木」 という単語を 「受け手」 あるいは 「女性」 に、「針金」 という単語を 「縄」 に置き換えれば、「緊縛」 そのものです。
この著者は、「盆栽」 と 「緊縛」 の 精神性 と呼んでいます。
緊縛を習いたての人は、綺麗に縛れるようになるために、正しく縛ろうとします。
技術をきちんと学ぶことは大切です。しかし、いつも感じるのは、自分とは 「見ているもの」 が違うように感じるのです。
多くの人は、緊縛写真ではありませんが 「見た目」 を重要視しているのです。まあ、その道、そのアプローチを目指す人がいることを、否定するわけではありません。
しかし、自分の場合は、相手の表情や反応に垣間見る、痛みや苦しみであったり、快楽を見ています。そうして、何処を伸ばし、何処を剪定するのか、その木の未来像をイメージしているのです。
この世界にも、いろいろな人がいて、「緊縛」 と 「SM」 を違うものと認識している人もいますし、同じものと認識している人もいます。また、「SM」 と 「主従関係」 を併せて考える人もいれば、別物だと考える人もいます。
しかし、その人がどう認識するかは、人それぞれです。
突き詰めて考えることは大事ですが、どれが正解で、どれが不正解かを議論しても、論理的な世界ではありませんので、単に 「道」 が違うということであって、あまり意味はありません。
縛る・縛られる行為だけを見ている人にとっては、それは 「SM」 という要素の絡まない、「緊縛」 なのかも知れませんし、「人」 を中心に見て、「剪定」 を意識している人にとっては、「緊縛」 は 「SM」 という 「盆栽」 作業の一手段として写るわけです。
そして、この著者が言う 「人間と木の共同作業」 という観点から見れば、そこには 「師匠」 と 「子弟」 といった 「子弟関係」 と似た、「主」 と 「奴隷」 という 「主従関係」 を垣間見るわけです。
ですので、「緊縛」 が 「SM」 行為として扱われることに違和感を感じる人がいたとしても、自分は、そういった 「着衣緊縛」 の世界もありますので、個々の意見を否定するつもりはありません。
単に自分は、常に縛られる 「そのひと」 を意識しているので、「緊縛」 は、「SM」 の一手段に過ぎず、そして 「主従関係」 を伴うものと、認識しているだけなのです。
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しかし、この 「盆栽」 の記述は、実に奥深いです。(笑)
盆栽の基本は、樹を育て、仕立て、美しさや生命力を最大限に引き出すことにある。
まさしくその通りです。ネガティブな人はポジティブに、ポジティブな人はネガティブに。わがままな人は抑えつけ、我を抑えている人には、我を出させます。
そして、それはその人を育て、生命力を最大限に引き出すためであり、何かを搾取すようとか、セ/ックス目的で利用しているわけではありません。
木の性質や癖を知り、より美しい形を探り出し、その美しさを維持し続ける。目指す美のために、不要な枝を落とし、姿を整えるために、走り根や底根を切り詰め、針金で枝を引き絞り、葉の勢いを剪定で揃え、様々な技巧を凝らす。
人それぞれ、「気質」 も 「性格」 も 「価値観」 も異なりますから、各人を診て、それぞれに合った 「やり方」 で接しているわけです。
盆栽を良い形にするには、その木が持つ性質や個性をよく知らなければならず、人間が施す技巧を木自身が内側に浸透させていなければならない。
結局は、単に縛った・縛られたという刹那的な関係ではなく、これらの技巧が、相手の内側に浸透しなければ意味がないということ。単に上辺だけを飾るのではなく、それが精神レベルに昇華出来てはじめて技巧が生きたものになるということ。
木は自ずと育っていくものゆえ、盆栽とは、人間と木の共同作業なのだ。個性を無視し、不自然に枝を曲げ、恣意的に仕立てても、美しい形にはならない。まず木の存在がなくては始まらない。木という存在と人間の意識が溶け合う行為なのだ。
木が自ずと育つように、「伸びたい!伸びたい!」 と伸びようとする気持ちを捻じ曲げようとするのが 「SM」 であり、それは、その人の性質や癖を知り、より美しい形を探り出し、其処に 「目指す美」 があるからであり、個性を無視し、不自然に枝を曲げ、恣意的に仕立てても、美しい形にはならないので、折れそうになる人に無理強いはしないわけです。
まず木の存在がなくては 「盆栽」 が始まらないのと同様、相手がいなければ、そこに 「SM」 は存在しないというのは、ある意味笑えます。自分のことばかりを考えている人には、いつまでたってもパートナーは現れません。(笑)
「受け手」 という存在と 「縛り手」 の意識が溶け合う行為が 「緊縛」 であり、「緊縛」 などの手段を通じて、「M」 と言う存在と 「S」 の意識が溶け合う行為が 「SM」 であり、その結果として、「奴隷」 という存在と 「主」 の意識と時間が溶け合う行為が 「主従関係」 であるということ。
「主従関係」 を伴う 「SM」 は、「精神性」 をも共有する ということなのです。
そして、手入れをしなくなった盆栽は、その姿を維持することができず、樹形が乱れていく。乱れた樹形を見て、周りの人間は、盆栽は育てたその人自身であり、作品だったことを知る。
目からウロコ、実に深イイです。(笑)
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そして続いて、「盆栽」 の章より、今度は 「緊縛」 の話に移ります。
「緊縛」 の章では、「ジョルジュ・バタイユ」 を持ち出し、「禁止の侵犯」 による 「エロティシズム」 について言及し、江戸時代の 「捕縛術」 について語ったかと思うと、「月岡芳年」 や 「歌川国貞」 といった浮世絵や 「伊藤晴雨」 の責め絵から、最後は 「団鬼六」 に至るなど、「SM」 や 「緊縛」 の本質を実に簡潔かつ的確に説明されています。
そして、「緊縛」 については、さまざまな書籍からの引用を含め、「緊縛」 について語り始めます。
ただ一方的に縛る者が縛られる者を痛めつける行為ではない。
「緊縛は、SM行為のなかでも最も情愛深く最も官能的な体験であり得るし、そうあるべき行為だ」と記す。さらに、同書の中で、緊縛師の雪村春樹は、「縛ることは女性に奉仕することだ」という。縄で愛や感情を表現するのだ。
盆栽が植物の性質や癖を知り尽くさなくてはいけないのと同様に、緊縛は相手の性質をよく知ったうえで、肉体、そして精神をも縛らなければならない行為だ。相手の美しさを最大限に引き出し、美しい姿形にしてこその緊縛である。そして、盆栽が植物の自立性を阻んでいるのと同様に、緊縛もまた、身体の自由を奪い、拘束することで、意志を剝奪し、身体を道具化している。
緊縛は、身体を道具化する虐待行為だと非難されることもあるが、そうではない。本来、道具化するべきではない愛すべき対象の自由を奪うこと、奪われることに喜びと官能が生まれるのである。縛る者―縛られる者に精神の繋がりがなければ、緊縛からは何の意味も生じない。逆説的に、するべきでない相手にするからこそ、禁止の侵犯―官能が生まれるのだ。
緊縛師に縛られる時に、拘束されているという気持ちよりも、縄に抱かれている感覚が呼び覚まされ、心が安らぐ。抱くこと・愛することと、縛ることの差異は、紙一重なのだと思う。愛と支配と暴力が兄弟であるように。
これは著者の実感なのでしょうか。(笑)
この記事、確かに 「緊縛談義」 としては的確なのですが、何故に、このような 「エロ真面目」 な記事が 「東洋経済」 に? (^^;
「東洋経済」 は、国際情勢などの時事も的確に書かれており、記事もしっかりしているので、サラリーマン時代に良く愛読はしてはいましたが、しかし、「盆栽と緊縛」 と経済にどのような関係が?
この記事の著者である 「木谷美咲」 さんは、「食虫植物の奴隷」 を自認なさっており、なかなかお綺麗な方でもありますが、この記事で、「SM 好き」 であることをカミングアウトなさりたかったのでしょうか?
それとも、経済に関心ある独身男性の読者を対象にした新手の 「婚活」?
ここ アメブロでもブログを書かれているようですが、そこだけが、大きな疑問です。
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