感謝すること
最近、「婚活系」 のブログとかを良く見掛けます。
読んでみると、大半は、相手の粗探しや駄目出しばかり。
ブログで愚痴るのは構いませんし、その人の自由だとは思います。
しかしまだ、二股や三股を掛けて、「どっちにしよう!」 と迷っているような女子の方が、洋服選びをしてるみたいで好感が持てたりします。
こういう毒吐きブログを読むたびに思うこと。
自分にとって最良の人を選びたいという気持ちや思いは分かりますし、それは悪くはないのですが、しかしそのためか、人の悪いところばかりに、目が向いてしまっているような気がするのです。
大切なことは、その人の悪いところではなく、良いところを見るようにすること。
完全な人、完璧な人なんて、この世には居ないのですから、悪いところを探し始めたら、もうキリがありません。
逆の視点を身に着ければ、それこそ、どの人もその人なりの良いところはあるものなのです。
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それは自分の愛奴にしても同じ。
愛奴はキョロキョロと周りを見渡しては、私よりも若いとか、私よりも美人だとか、私よりもスタイルが良いとか、その愛奴なりの価値観で、いろいろと比較をしては、「勝ったとか負けたとか」、一喜一憂でもしているのでしょうか。
しかし、自分にとっては、年齢も、容姿も、センスの良し悪しも、単なるその人の特徴としてしか認識していません。
自分が見ているものは、その愛奴の心です。
では、心のキレイなものを選んでいるのか?
そうでもありません。
そもそも、ドSですから、涙を流し、そして、「もがき苦しむ」 様を見ては喜び、そして楽しんでいるのです。(笑)
単なる 「自称ドS」 の連中は、全ての枝をへし折り、全ての葉や花を刈り取りって、自分だけが快感に浸ろうとしますが、自分の場合は、どちらかというと、「盆栽」 に近い感覚。
幹に傷を付けたり、大胆にも刈り取るものは刈り取りますが、それは、そこに大きなコブを作るため。大事な芽は、折れないように気を付けながらも、徐々に力を掛けては、曲げて行きます。
何処をどういじるかは、素材ごとに異なります。
なので、自分が手塩に掛ける以上、どんな盆栽も愛しいのです。
主は、少なくとも自分の場合は、会っているときは、その愛奴のことしか見ていないのにもかかわらず、愛奴の方は、常に周囲を見回しては、怯えているのです。
今までは日の光を浴びることが出来なかった枝が、自分の言いつけをきちんと守り、無用な恐怖心から解放され、そしてスクスクと伸びると、こちらも喜びを感じます。
何故なら、その瞬間に、自分は愛奴にとっての真の主 「光」 となるからです。
自分にとって SM とは、愛奴の心に軌跡を描く 「盆栽」 です。
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人は、「幸せになりたい」 と思ったら、常に自分の気持ちを 「感謝」 に転化することを覚えること。
「幸せ」 というのは、その人の心の 「貸借対照表(バランスシート)」。
「執着」 や 「怨恨(えんこん)」 は、「負債」 です。
そして、「感謝」 は 「純資産」。
「借方」 からは、同じ 「資産」 として、全く同じように見えたとしても、
「貸方」 の中では、付ける項目の意味は、全然正反対なのです。
それが、「幸福」 と 「不幸」 の境目。
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人が死ぬとき、それは、その人の人生の 「総決算」 のときなのです。
人が死ぬときは、生物としての肉体の力は衰えますが、それは、魂が 「総決算」 作業を通して、負債を売却し、何とか純資産に繰り上げようとするから。
要は、その人の 「執着」 と 「怨恨」 を全て消化しようとしているのです。
そして、消化した結果が、「感謝」 に転化されるのです。
出来るだけ多く 「感謝」 に転化するためには、出来るだけ多く、「執着」 を捨て、「怨恨」 を 赦さなければならないのです。
人の 「総決算」 の 「単位」 は、自分でも良く理解出来ていません。
しかしそれが、残した 「お金」 の額でもありませんし、賞状や感謝状の枚数とか勲章の有り無しでないことは確かです。どれだけ、裕福な生活をしたかでもありませんし、どれだけ美味しい思いをしたかでもありません。
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多分、どれだけ 「感動」 し、どれだけ 「痺れたか・・・」 なのだと思います。
音楽もそうですし、サーフィンもそうですし、料理もセックスもそうなのですが、どれだけ心地良い波に乗ったか。
人間の 「喜怒哀楽」 が、人と人との魂が、如何に共鳴するか。
ワンコが、広い所で走り回って興奮して、ワクワクが止められなくなる、まさしく、その感覚です。
ワンコの尻尾は、男のチソチソと同じです。
振り出したら、もう、ヨダレも尻尾のフリフリも、止まりません。www
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